藤代裕之のレビュー一覧
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認知戦について掘り下げたく、本書を手に取った。
最も鋭いなと思ったのは、国民に更なるデジタル影響工作などに対するリテラシーを求めてはいけない、という主張だ。
一田樹氏と藤代裕之氏の二人が共通して主張している。
一般的には、リテラシーを高めることが重要だと言われる。
本書内にもリテラシー向上を推す人も居る。私も、少なくとも「情報リテラシー」に関しては非常に重要だと考えている。
しかし一田氏、藤代氏の言う通り、リテラシー向上より先に出来ること、すべきことは充分にある。
国家でもコミュニティでも企業でも、構成員が一丸になると強い力を発揮する。
それを裏返すと、構成員同士を仲違いさせ、分断させられれば、相対的に優位を勝ち取れるということだ。
この手法は今に始まったことではなく、例えば帝国主義の時代に列強国がアフリカ、中東などあらゆる国で仕掛けてきた古典的な方法である。
デジタル影響工作や認知戦などによる目標の一つが、敵対国の分断だ。
分断させる攻撃の恐ろしい部分は、いくつかある。
例えば、物理的攻撃で打ち負かすよりはるかに低コストで行えるので難易度が低いこと。
また、相手に、自分が操作されていることを気付かせずに攻撃を成し遂げることが可能なのも嫌らしい。
さらに言えば、仮に介入が判明したとしても、実際に分断するような行動を起こしたのは分断した国・組織の構成員自身であるから、攻撃者は否定しやすいのも悩みの種になる。
そして行動を起こした人たちは認知的不協和によって、自分たちが操作されたことを認めたがらない。あくまで悪いのは相手であって、自分は主体的な意志で以て正しいことをしていると思いたがる傾向があるのも、厄介さに輪をかける。
資本主義はその構造上、格差を生む。必ず資本の多寡によって上下の区別がついてしまう。
そこから自己責任という号令から生まれるメリトクラシー、優越感、見下す気持ちと、卑下、僻み、劣等感、などが生まれる。
攻撃者はほんの1本のマッチを投げ入れればよいだけだ。分断の野火が広がっていく。
だからこそ、リテラシーを声高に歌うのは諸刃の剣なのである。
ではどうしたらよいか、と思考を馳せると、見通しの良い道筋は、幾分エリート主義的な手法になる。
即ち、有識者、責任者、為政者など、力(権力、暴力、技術力など)を持つ担当者が代表して敵対行為に対する対処をし、それ以外の大衆は政治など余計なことを考えず、目の前の仕事に集中する、という道だ。
要はポピュリズム、衆愚政治などに陥らないようにする方法と同じ。リテラシーを持たない人たちを分相応の立ち位置に据え置き、世を二分するような大波を生まないような構造にする。
歴史はこのエリート主義とポピュリズムの往還という流れをグルグルと繰り返しているが、対デジタル影響工作という意味では、再度この方向にもっていくのは試す価値がありそうだ。
ただ、グローバル化、SNSなどが大衆個々人と敵対国の間の攻撃面となり、草の根が見えないところで根腐れさせられている可能性を考えると、リテラシー向上は、それはそれとして必要なのではと思う。
敵の攻撃にこんなものがある、ということを知っておくだけでも、メタに立てる免疫となる。いわば認知戦に対するワクチンだ。
リテラシー向上を求めない、というのは、放任ではなく、リテラシーを伝えた上で、望む閾値に届かない者を見下さないという愛の問題に置き換えられよう。
この構図はほぼ教育と同じなので、応用が利く手法でもある。
人生100年時代なのだから、生涯学習として、認知戦やデジタル影響工作という攻撃についての事実と対処法を、皆が触れられる形で備えたいところだ。 -
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読み終えた直後の、さらりとしたまとめ。
増えつづけるフェイクニュースに対して、私たちはどうすればいいのか。
嘘を見抜く、と個人スキルだけでは、もう既にどうにもならなくなっており、ニュースそれ自体の「生態系」を見直さなければならない、と著者は述べている。
騙された方が悪いだとか、見破るスキルを身につけるべきだ、といった、「自己責任論」で片付けていない点は、あまり類を見ないような気がします。
また、「疑ってかかる」ことを盲信的に取り組むのが、なぜいけないかについても言及されている。
インターネットで見るような、「メディアリテラシーの身につけ方」に留まらないような内容の深さがあって、その点においても、おもしろい本だ、と思いました。
ニュースそのものを見るべきではない、と主張している、『News Diet』 (ロルフ・ドベリ著)も正しい。
しかしながら、ソーシャルメディアがあまりに浸透している現代に、それをやってのけるには、段階的でないと難しい。
フェイクニュースとどう向き合うか。
私にとっては、第6章で取り上げられた、『ニュースを「景色」として見る(P210)』、という考えが、受動的でありながらも選択的な考え方であって、ものすごくしっくりくるな、と感じました。 -
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ネタバレすごくよくまとまっていて、面白い。
「偽ニュースはなぜ生まれたか」というサブタイトルが象徴するように、WELQ事件などといったフェイクニュースへつながる、ネットメディアの歴史が描かれている。
当初、2016年夏ぐらいに原稿はあらかた出来上がっていたそうだが、問題意識がうまく表現できていなかったところに、まさかのトランプ大統領当選。その裏にフェイクニュースがあり、ネットの信頼性が疑われたことをきっかけに、藤代先生は一気呵成に原稿を再整理されたようだ。
私個人の感覚としては、そもそもインターネットが普及して間もなくは、2ちゃんねるなどの存在や、相手の顔が見えない怖さがあって、ネット上の言論は信用しがたく独特だなと思っていたところがある。
が、2000年代中盤になると、新聞社や通信社も大量の情報を流しているので、早くて正確な情報を得るための拠り所としてきた。
方や、twitterでは市井の人がどんどん発言するので、訓練された専門家による一次情報を探すのが難しくなってきており、情報の質の低さ、感情的かつ扇動的な流れに辟易としてしまう面も多分にある。そんな意識から、本著を手に取り、読み進めると、2ちゃんねるの話は差し置くが、それ以降の私個人の感覚は当を得ているかもしれないと感じた。
いちばん面白かったのは、偽ニュースが出回る経緯を辿ると、ライブドア事件が大きく関係しているのではないかということだ。ライブドアは2003年よりポータルサイト運営を開始したが、2006年のライブドア事件を機に、記事提供者である新聞社や通信社が配信を停止。これを受けてライブドアはトップページにブログコーナーを設置し、積極的にブロガーを支援していく。ニュースを作れるのはマスメディアだけという驕りがライブドアへの記事配信停止を促し、結果的にマスメディア以外のニュース発信者を生み出したということだ。
また、あくまでプラットフォーム提供者として「新聞少年」を標榜していたヤフーが、2012年に「ヤフー個人」というサービスを始めたことにより、一層記事の信憑性を担保するのが難しい時代へと移る。
運営者も利用者も自らがメディアであるという自覚に乏しい、ソーシャルメディアの存在もフェイクニュースを媒介する温床となっている。メディアとプラットフォームの境界が曖昧で、誰もニュースに責任を持たないからこそ、その空隙からフェイクニュースが生まれているというのだ。
最初の第1章が特に面白かったが、第2章以降の「ヤフー」「LINE」「スマニュー」「日経」「NewsPicks」それぞれの成り立ちについても、勉強になることがたくさん詰まっていた。とにかくきめ細やかな情報収集力と卓越した情報整理力で、感心しっぱなしだった。
最終章の「猫とジャーナリズム」では、バイラルメディアが「質の高いオリジナル記事」「情報検索」「猫コンテンツ」といった3つの頭を持つキメラ構造であることが、ニュースの真偽を見分けにくくしているとする。
クラウドソーシングサイトが「偽ニュース絶望工場」であること、ステマの存在(広告主の責任)、炎上がマスメディアとソーシャルメディアの共振によって生み出された虚像の可能性があること、アメリカの中学生の8割が本物のニュースと偽ニュースの見分けがつかないことなど、どれもへぇというものばかりだった。
藤代先生の授業が受けてみたい。 -
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終章で書かれていて初めて気がついたのだけども、著者は内閣官房防災ボランティア連携室の政策参与の方(非常勤で無給らしい)。
ソーシャルメディアというものの紹介や、このメディアを使用するにあたっての注意点や活用法が丁寧に解説されている。また、他書からの引用なども豊富であることや、文章の書き方についても言及されていて勉強になった。
ソーシャルメディアに限らず、メディアに対してどういう姿勢で向き合うかという、広い視野で解説されている。曰く「時にはソーシャルメディアから離れてみることも必要です」と。
ビジネスパーソンの立場、イベントなどの運営者の立場、そこに参加する人の立場など、それぞれの立場における留意点が書かれていて、なるほど、立場に寄って様々な思いや役割があるんだなと、再発見することができた。
この本を読むことで、柔軟にメディア活用が出来るようになるのではなかろうか。
そして、書かれてあるようなことを心構えとして知っていれば、潜在的にでもソーシャルメディア上での行動や注意行動として変化が現れるような気がする。
ちなみに、この本の発行は2011年10月4日。終章の一番最後にはスティーブ・ジョブズのスピーチが引用されているが、まるでジョブズに対するオマージュのようだ。スティーブ・ジョブズ、2011年10月5日永逝。 -
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ブログを書いている身として大いに参考になりました。ブログやツイッター等のソーシャルメディアの発信力を高めるヒントが満載です。誰のためのブログやツイッターなのか、改めて考えさせられました。
著書を読んで、早速自分のブログにもエッセンスを取り入れました。まずは、ブログのタイトルを変更しました。やはり何事も先人の知恵をどんどん利用するべきですね。
目次
第1章 なぜソーシャルメディアに取り組みのか
第2章 発信力は自分力
第3章 はじめてみよう発信の第一歩
第4章 差がつく情報活用術
第5章 「伝わる」技術
第6章 トラブルに対処する
終章 人とつながる
著者は元新聞社であり、現在は大学の非常勤講師を勤めている傍ら、ジャーナリストとして活躍しています。プロのジャーナリストとして、世の中に何をどのように発信すべきかを具体例を交えながら分かりやすく教えてくれます。
まず第一に、ソーシャルメディアの重要性を指摘しています。これからの時代、会社の肩書きだけでは通用しなくなり、ますます個人としてのチカラが試されると主張しています。
著書より抜粋
「まずは、会社の名刺がなかったら自己紹介すらできない、という会社依存の高い状態から抜け出すのが第一歩です」
言うのは簡単ですが、いざ実行しようとしてもなかなか難しいです。そのため、まずはスタートとしてソーシャルメディアを使ってみようと著者は勧めています。ソーシャルメディアで個人としてのネットワークを切り開くことで、その先の転職や独立が見えてくるのではと教えてくれています。
第3章からは、実際にソーシャルメディアを使って発信するスキルを解説してくれています。個人的には、この章から非常に参考になりました。グーグルリーダーやツイナビなどは早速使ってみようと思いました。ブログは発信する情報が命であり、その情報をできるだけ早く収集する重要性を教えてくれています。
ブログとは発信するだけでなく、発信した情報を相手に読んでもらって初めて意味を成すものです。これまでの自分のブログは、その根本的な部分を軽視していた部分がありました。自分からの一方通行であれば、テレビに代表されるマスメディアと変わりません。双方向的にインタラクティブになって初めてソーシャルメディアの意味が生まれます。そのためには、意味のある、相手に気付いて読んでもらえる情報を発信しないと意味が無いと。著書を読んで、改めてその基本を学びました。
結局、意味のある発信ができるかどうかは自分次第です。自分の考えを発信することで、それが最終的には自分の成長に繋がると信じて発信し続けていこうと思います。
ブログやツイッターで既に発信している人もこれからソーシャルメディアを使おうと思っている人も著書を読む価値はあると思います。ぜひ読んでみてください。 -
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本書は気鋭の学者達による大学生向けの教科書として使用されることを念頭に書かれたソーシャルメディアの過去・現在・未来です。体系立てて記されており、少し難しいですが読んで損はないのかなと。
僕が本書を手に取ったのは本屋の棚で横向きに置かれていたからでした。執筆陣は僕と同年代か少し上の世代で、現役の教員やメディア関係者が大半を占め、彼・彼女たちは教壇や職場における「最前線」に立っていらっしゃる方々なので、教科書として書かれている色合いが強いです。
過去・現在・未来…。ここに書かれているのはソーシャルメディアを使いこなし、よりよい社会をつくっていくためのことが15章にわたって描かれ、読むには相当骨が折れますが、中高年にとっては「今」を知るためのツールであり、メインの読者として想定されているであろう大学生には自分たちの「日常」を言語化されたものであり、中高生にとっては「来るべき世界」といった内容であるのかも知れません。
僕は正直、本書を理解しきった上でこの文章を書いているのではないのかもしれませんが、多かれ少なかれ今後生きていく上で関っていくであろう(あるいは全くそうでない方もいるのかもしれませんが…。)ソーシャルメディアについて思いをめぐらせるいい切っ掛けになった一冊でした。
※追記
本書は2019年2月27日、青弓社より『ソーシャルメディア論・改訂版 つながりを再設計する』として再販されました。 -
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「フェイクニュース」は、今の時代、何らかの形で見聞きする。
著者は、フェイクニュースは情報汚染であり、生態系の問題と指摘している。個人で見抜けるレベルを超えているからだ。
テレビやラジオのような既存メディアがフェイクニュースを広める役割を果して、更にはYahoo!のようなポータルサイトも拡散するツールとなっている。
最後でメディアリテラシーに欠けている視点について次のように述べている。批判的に情報を読み解くことは、自らの考えの正しさを求める姿勢と表裏一体である。そもそも情報はあいまいなものであり、社会には正解がないことが多い。
試験問題のように模範正解を追い求めても人生には模範解答はないのだから、清く正しいが正義から抜け出さないとフェイクニュースの思うツボかな。 -
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ロシアがウクライナに仕掛けた戦争。ロシアの方からのプロパガンダがすごいのですが,それに気づかないロシア国民もたくさんいるようです。今日(2022/03/22)のテレビにも,ロシアの若者が出てきていて,「軍事施設しか攻撃していないと思う」「ほかの国で流されているのは,以前の戦争の映像だ」などと言っていました。自分が信じてしまうと,本当の映像もフェイクニュースになってしまうんですね。だから,このフェイクニュースというのは扱いづらいのです。
本書は,その扱いづらさがどこから来ているのか,ということを明らかにしてくれます。わたしたちは,もう,いつもフェイクニュースに囲まれて生きています。先のロシア人のように,本当のフェイクをフェイクと思わずに,ちゃんとした映像の方をフェイクと判断することだってあるのです。こうなってくると,どうすればいいのかわかんなくなります。
著者は,なんでも疑ってかかるという態度も危ないといいます。それこそ,フェイクに突き入られることもある。確かに,正しい情報には正しく付き合うのがいいんですからね。なんでも疑うことで,正常な判断ができなくなります。
その一方で,情報にだまされたくないからと,情報に対して常に受動的になろうとする若者が増えているのではないかという指摘もあります。
ニュースに対して受動的であろうとするのは,能動的に読み解くと,考え方が固定化したり,極端な言説に近づいたりしてしまう危険性が高まるため,一歩引いておくためである。景色とバイキングという言葉で表現される若者の態度は汚染されたニュース生態系で生きていくために経験的に獲得したサバイバルの知恵と言える。(本書212ペ)
だから「新聞の社説は読まない」と言っている若者もいるそうです。これって,昔々のノンポリの態度なのかな。このところ「支持政党なし」という国民が多くなっているようですが,もしかしたら,どんな政党からも騙されたくない,だから,わたしの立ち位置は自分だけの立ち位置でいたい,ということの現れかも知れません。がしかし,それでいいのかと心配になります。何事も中立でいたい,と思うのは勝手ですが,そんなことはできない。中立というのは結果的には多数派を助けるだけですからね。ということは,いつも多数派に流される生き方をしていることにもなる。
本書から離れてしまいそうです。
本書の特徴は,フェイクニュースを見破ろうと呼びかけるのではありません。それはすでに無理がある。それほどまでに,わたしたちはフェイクニュースの生態系の中に住んでしまっている。生態系ですから,自分だけでどうにかなるものではない。フェイクニュースは作る人がいるけれども,それを拡散する人もいる。わたしたちは,そういう人たちの生態系の中に一緒に住んでいる以上,そのフェイクニュースとは付き合っていかなければならない。
わたしとしては,自分にはフェイクニュースを見破る力がほしいなと思います。そのためにも,いろんなことを学習する必要がある。
今回のウクライナのことも,なぜ,戦争になったのか。プーチンだけを責めることはできるのか? イスラエルがアラブに武力行使したとき,なぜ,世界の国ぐにはだまっているのか。よく分からないです。日本のマスコミが報道するのは,アメリカ発の情報ばかり。これで,本当に戦争が収まるのでしょうか。ウクライナに武器を与えれば与えるほど,戦争は長引くだけです。そして多くの人(ウクライナもロシアも)が死んでいく。もし,武器を与えなければ早々に降参する。降参したら,両国で生き残る人間が増える。それがいいことなのか,いけないことなのか。
こんな時に中立なんて言っていられるのか。ウクライナ支援に募金した人は「ウクライナ人よ,もっと闘え」と言っているのだろうか。逃げてきた人には親切にしたいという気持ちだけなのか。
残念ながら,わたしの中の結論はなし。将来の歴史が証明してくれるのだろうな。
でも,今一度,ロシアやウクライナの歴史を学習する必要があると思う。ということで,少しずつ調べているのである。 -
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なぜ、ネットニュースを見てしまうのか?
私は1日に1時間を超えるぐらいダラダラと見てしまうことがあります。
「この行動はヤバい」、「時間を無駄にしている」と思い、「ネットニュースとの付き合い方」を真剣に考えたいと思い本書を購入しました。
本書は、なぜネットニュースを見てしまうか?という私の問いには、
(当たり前ですが)直球では答えてはくれません。
ただ、ネットニュースをめぐる歴史と興亡、そして負の面であるフェイクニュースが起った経緯を知ると、
上記の答えを考える上で参考になりました。
まず、ネットニュースを見てしまう、私なりの答えですが、
それは目標達成と自己目的的な欲望を満たしてくれるからです(これは心理学的知見から参考にしました)。
ネットニュースには、私が知りたいという欲求をある程度知ることができます。
例えばサッカー日本代表の結果だったり、大災害が起こった後の経過、有名人のゴシップなどが、目標達成にあたります。ただ、これは、ネットニュースを見てしまう理由の、ごくごく一部のものだと思っています。
圧倒的に、後者の自己目的的な理由です。
その理由とは、ネットニュースを見ることで、自分の思いを満たしてくれる記事に出会ったり、
気になる記事だけを拾い読みできたり、また、不謹慎ですが、悲しいニュースを見ると、
ああ世の中には、こんなひどいことが起こっているのかと、自分と比較して、
安心したり、憤ったりと喜怒哀楽の感情を人工的に作り出すことができるからです。
ネットニュースは無料です。
無料なのに、自分の自己目的を満たしてくれる。
これは凄いことですが、「なぜ、無料なのか」と疑問に思わないといけません。
もちろん無料には理由があって、私たちが見るのは、記事の他に、様々な商品の広告を見ています。
ネットニュースを見る時間と量と、広告の量は比例関係ということです。
ネットニュースに掲載される広告を、どれぐらいの人が見ると、
どれぐらい購買につながるか、ある程度わかっています。
だから、プラットフォームを運営する会社はニュースを無料にしています。
私たちは、意識的にも、無意識的にも、記事の他に、広告も大量に見ています。
無料の対価は、割と大きいかもしれまえん。
必然的に如何にPV数を上げるのか、プラットフォーム側も、
またニュースを提供するメディアも関心がそこにいきます。
必然的に、もっと魅力的で、興味が湧き、刺激的なニュース作りをします。
それは、ニュースもまた、商品という面が強いからです。
脳科学の視点で、ネットニュースを見ると、また興味深いと思います。
ニュースは、情報の一つの形態です。
最近の脳科学の成果では、「情報」は報酬刺激、つまり脳の中の神経伝達物質の放出をもたらす。
興奮性刺激として考えられています。
なぜ、ニュースを見ると、楽しくなったり、悲しくなったり、
もっと知りたくなったり、怒りを感じるのかだ?その答えが、ニュースを見た私たちの脳は、
神経伝達である物質ドーパミンが放出されて気持ちよくなるからです。
ドーパミン神経系は、予期せぬものや、新しいモノを期待することで、より活性化します。
これが、どんどんネットニュースを見てしまうことや、
プラットフォームが絶え間なくネットニュースを流す理由の一つです。
流せば、流すほど、見る人の脳は、喜ぶからです。
ネットニュースが私たちの脳の中で報酬を引き起こす仕組みとして、重要なことがあります。
それは、私たちの脳は、「すでに知っている事柄」について、
「さらなる情報」を求めるよう調整されているということです。
このことは、より強調されてよいかもしれません。
つまり、ネットニュースをたくさん見ても、「自分が知りたいことを、
知れる」というわけでなく、「知っていることを、どんどん知るように脳の力学が働くからです。
もしかしたら、ネットニュースは自分が「知らないこと」を「知る」という目的では、
あまり役立たないものかもしれません。圧倒的に態度が受動的です。
人が何かにはまる理由は、知らない、わからない、できないという理由は少数でしょう。
知っている、わかる、できるという理由の方が圧倒的でしょう。
ネットニュースには、物理学の理論とそれを補う数式がのることは、あまりありません。
なぜなら、それは、多くの人が「知らない」「わからない」からです。
そういうことに興味が湧くのは、ごくごく少数派です。
PV数を上げることが、収入に結びつくというビジネスモデルの元で、記事を提供しているのなら、
難しい記事や読者が「知らない」「わからない」記事を提供するモデルなのは、稀でしょう。
「知らない」や「わからない」ものに、多くの人は、興味を湧きません。
簡単に知りえるだろうことに興味が湧きます。
言ってみれば、自分達が見る多くのネットニュースとは、
もう自分が「知っている」ことを反芻して、脳の報酬系に訴えているだけの行為かもしれません。
なぜなら、神経伝達物質のドーパミンは、報酬そのものに反応するのでなく、
報酬を予期させる確情報をいち早く見つけようとする性質を持っているからです。
現に、絶え間なく更新されるネットニュースの見出しを見て、「あっこれ面白そうだな」と思ってみたものが、
本当に面白いと思った時、言い表せない快感を感じることがあります。
それは、脳の報酬系は、予測していたよりも、
実際に、享受したものの報酬が大きいと、よりドーパミンが放出されることからも頷けます。
以上の論理は、「依存症」になってしまう危険性をはらんでいます。
よって、ネットニュースの付き合い方は、ある面では、非常に慎重になった方がよいと思います。
なぜニュースを見てしまうのか、その一つの解答は、
自己目的的に私達は行動してしまう理由の他に、
そのニュースを作り出す側が、自分達に、もっと、もっと、
それこそ中毒・依存症状を起こしてもらいたいほどニュースを見てもらいたいからです。
この消費者側の私たちの欲求と、提供・作り手側の思惑が間違った方向に行ったのがフェイクニュースということです。
「肩こりは、幽霊が原因」と言ったニュースまで出るようになってしまいました。
視点を少し広げて、アメリカの調査を紹介します。
「ニュースと消費行動」というテーマで興味深いアンケート結果が出ました。
その結果を見てみると、
ニュース消費者の72%が、家族や友人と語り合うためにニュースを見ているという結果が出ました。
そして、69%が情報に接するのが社会的義務であること
61%がニュースの中で生活に役立つ情報がしばしば見つかること
44%がニュースがくつろげる娯楽や個人的な楽しみを提供してくれること
19%が仕事上ニュースに接している必要がある
と答えています。これは、ニュースというくくりなので、ネットニュースに的を絞ったものではありません。
ただ、ニュース消費者の70%以上の人は、「語り合うため」というのが、非常に興味深いなと思います。
ニュースは、どちらかというと、自分の人生にダイレクトに影響する話題は、少ないと思いますが、
ニュースを他者と共有することで、語り合うキッカケになることは、私自身も経験しています。
なかなか共通の話題を他者と引き出すのは、難しいですが、ニュースならば、好き勝手なことを言えます。
なぜなら、自分にも、他者にも、ダイレクトに関係ないからです。
しかし、ニュースを語りあうことで、お互いの考えや見方を知ることができます。
そして、関係を構築するキッカケになるかもしれません(もちろん構築したくないということも判断できます)。
つまり、ニュースを他者と関係を作れる道具とすることができます。
また、ネットユーザーの37%がニュースを作り出したり、論評を加えたり、
SNSを通じてニュースを拡散させたりしているという調査結果が出ています。
その中で、ネットユーザーの9.2%はニュースにコメントを加えています。そして
6.3%はSNSにリンクをはる
4.1%はコンテンツにタグをつける
3%はオリジナルのニュースコンテンツや論説を作る
1.1%はツイッター上でニュースを伝えています。
これは、アメリカの調査で、日本には、これに該当するような調査を、
探すことができませんでした。私なんかは、ニュースにコメントをしていたことがあって、
「これって、プア充の典型的な行為だな」と思って、今はやっていませんが、
アメリカで9.2%、ネットユーザーの10人に1人ぐらいがやっているんだ、
「へぇー、」と思いました。これを少数とみるのか、えっ!そんなに多いの!」と見るのかは、わかりませんが。
私の場合は、少数だな思いました。
冒頭の自分の疑問である「なぜ、ネットニュースを見てしまうのか」の答えですが、
唯一の解答は、もちろんありません。私なりの答えとしては、受け手をある私たちは、
「ネットニュースがどういう形態のものなのか、よくよく考えた方がいい」なという感じです。
プラットフォーム側は、受け手ある私たちに、多くが無料という記事を提供しています。
その意味を考えるのは非常に重要です。それは、私たちを消費者と見ているからです。
たくさん見てもらうことで、利益が比例するならば、これからも、私たちの自己目的的な欲望を満たしてくれる内容の記事を、
様々な工夫を凝らして、届けてくれるはずです。それが、自分達にどう影響を及ぼすのか、良いのか、悪いのか、
それとも、違う「目的」が作りて側にあるのか、それは、自分達が、ネットニュースと、どう付き合っていくかにより
ますが、全く付き合う必要もないともいえないですし、ネットニュースが私たちに福音だけをもたらしてくれることはありません。
やはり、アメリカの調査の結果で出たように、他者と関係を構築したり、社会的義務としてであったり、生活に役立てたり、くつろげたり、仕事で使ったりと、あくまで、利用するという意志が大事で、そのバランスの追及がネットニュースとの付き合い方で大切なことだと思いました。 -
Posted by ブクログ
ジャーナリストであり、ネットメディア・ソーシャルメディアに精通する著者が、ヤフー・LINE・スマートニュース・日本経済新聞・Newspicksという5つのネットニュース界メインプレーヤーの競争と戦略、ジャーナリズムとしての責任の有り方、DeNAのWelq騒動に代表される偽ニュースが跋扈した背景などについて、緻密な取材と抱負な見識をベースにまとめた一冊。
全般的に、ヤフーに対しては私怨とも言える厳しい書き方がされている一方、私から見ればヤフーの足元にも及ばないようなメディアの使命感しか持たないLINEに対してはさほど厳しくないなど、一定のバイアスについては割り引いて読む必要がある。しかしながら、相反しがちなジャーナリズムとしての社会性と、ビジネスとしてどうマネタイズするかという事業性を、5つのプレーヤーがどのように考え、どこに力点を置いているのかを、ここまで明確にまとめる力量はさすがの一言。特に、レガシーな新聞というメディアでは、「広告と編集の分離」というルールにより、社会性と事業性のバランスがうまく保たれていた点が、ネットニュースにおいては「プラットフォームとメディアが必ずしも分離しているわけではなく、その関係性をみな模索している」という指摘は、ネットニュースの難しさを端的に表しているといえる。