南木佳士のレビュー一覧
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様々な死を前にして、心が奪われる作品だった。40年前の作品でも色褪せない名作だと思う。
読み始めのきっかけは、約25年前に通った予備校教師のミシマ先生が、浪人生の切ない恋の小説だと紹介していたのを思い出し、読んでみたくなったから。読んでよかった。
情景描写が主で、多くを語らない、心理描写が少ない作品が、死をこんなにも素敵に、切なくあらわしていることに感激した。
全ての話に心が切なくなったが、自分なら限りなく不幸を感じるであろう状況でも、読みながら不思議と絶望を感じなかった。その理由は、死を静かに受け入れる作者の想いが、作品から滲み出て伝わったからなのだろうか。 -
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行き詰まりを感じている作家、孝夫。その妻、美智子は医師。妻が心の病を得たことで、故郷の信州に戻ることにした二人。そこで出会う「阿弥陀堂」に暮らす、おうめ婆さん。難病とたたかっている、小百合ちゃん。
4人の人物それぞれに、目の前に迫ってくるようでした。心に染み渡る文章そのものの魅力とあいまって、忘れがたい作品になりました。(感動する部分が多く、付箋多し!)私たちは、生きているというよりも、生かされているのだという、背筋が伸びるような、そんな気持ちになりました。
作者は医師ですが、医療従事者でなければここまでの描写はできないだろうと感じました。真っ直ぐに医療と向き合っている、嘘偽りなく生きているからこそ、書ける文章であるということです。と同時に、心理描写が通り一遍でないことを合わせて考えると、作者は患者の心にも寄り添っている医師であること、想像されました。
文庫本のため解説があり、映画化された小説ということが分かりました。映像化も、きっと素晴らしいと思います。でも私は、先に活字で読み、心の中で登場人物と出逢い、深く感動できたことが、最高に嬉しかったです。涙が出そうになりますが、あったかい気持ちになると共に、心洗われる作品です。 -
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孝夫が育った街にある阿弥陀堂で生活するのは、身寄りのないおうめ婆さん。中学に上がるは春に家を出た父からの連絡を受けて自らも東京に出て行き、そこで将来の妻となる美智子と出会う。医師になった美智子は授かった子どもを胎児で失ったことをきっかけに、それまでの東京でのハードな仕事もたたってか、精神を崩してしまう。孝夫が移住した谷中村にっ戻り、そこでおうめ婆さんや村の診療所、そしておうめ婆さんの話を聞き取って「阿弥陀だより」を書く小百合ちゃんらと出会い、少しずつ彼女の気持ちも回復に向かっていく。
立脚点―この小説を読んで、そんな言葉を思い出した。自分はどこに立っているのだろうか。都会での生活は、自分がどんどん肥大化して、どんどん足が地面から離れていってしまい、まるで浮遊しているかのような感覚に陥ってしまう。でもおうめ婆さんの生き方はそれとは対局だ。ずっと谷中村で暮らし、狭い世界しかしらないかもしれない。でも、地に足の着いた生き方をして、そこから実感のこもった考え方を持ち、そして小百合ちゃんがそれを聞き取り、「阿弥陀堂だより」として言葉にする。
仕事で疲れた自分にとって、こんな生活が実際できるのかは置いておくにしても、ものすごく理想のものに感じられる。都会での生活は疲れた。人間関係は煩わしい。でも、この小説を通してこんな選択もあるんだと思えることこそが、精神の救いとなるのだ。 -
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表題作のダイヤモンドダストについて。
主人公の和夫と今この文章を書いてい僕とでは、「死」との距離感がずいぶん違っているよなと思う。僕にとって「死」はまだ遠い存在で、祖父母を除けば自分とごく近しい人の「死」というものを経験したことがない。母方の祖母は「死」というものを理解できていないような時に亡くなってしまったし、2人の祖父の死はあまりにあっけなく、見送りもあまりに静かで、この世で長年生きたとしても最期は結局こんなものかという虚しさだけが残った。「生」の一番端っこにある「死」が虚しいのだとしたら、いったい「生」に何の意味があるというのか。「死」そのものよりも、「死」の前に流れる「生」の時間がかえって虚しく感じられてしまう。
和夫の「死」の経験値は僕と根本的に異なっている。幼い頃に母が死に、結婚して間もない妻が死に、そして看護師という仕事柄も多くの死と接してきただろうし、アメリカ人宣教師のマイクの死と向き合い、脳卒中で倒れながらも危機を脱してきた父の松吉も、最後は自ら作った水車が壊れると共に逝ってしまう。
和夫は僕と、「死」の経験値があまりにも違う。にもかかわらず、僕は和夫を遠くには感じない。あえて一つ共通点を探るとしたら、悲しみとか苦しみとかそういう感情は抜きにして、「死」というものを心理的にそんなに遠くに感じていないところだろうか。和夫は「死」の経験から、僕は生きることの虚しさから。
この物語で出てくる「死」はなにも人間に限ったことだけではない。松吉が運転士を務めていた田舎の小さな鉄道が廃線となる。皆で一緒に作った立派な水車も死を迎える。いろんな形の「死」がある。そしてすべてのものが「死」を迎える。どうしたって、人は死と向き合わざるを得ない。
この物語では、「死」というものがセンセーショナルに描かれているわけではない。日常の中で、当たり前のように「死」が存在している。そしてそれぞれの「死」が、松吉の死に向き合うときにダイヤモンドダストによってあたりが輝くように、悲しみはあるが、否定的に描かれない。大きな日常の中に「生」と「死」が同居していて、それぞれの「生」や「死」が否定されることなく、確かな存在感をもっているから、だから読後に安心感のようなものを得られるのだと思う。 -
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ネタバレ「映画は小説とは全く別のものですから」
南木さんはそれだけ言い、小泉監督に映画化を快く了承したそう。
両方好きな僕には言い方が引っかかる。
寺尾聰を追いかけて、映画→原作と進んだ10数年前とは逆に、今回は、原作→映画と進んでみた。
たしかに、南木さんの言い方もわかる。
でもそれは、映画(映像)と文字(連想)の表現方法の違いかも。
この映画がすごいのは、原作そのままの描写•セリフを点と点にして、その間を、原作を損なわないギリギリの演出で繋ぐ。
原作の延長線上に、キャラクターを創出していたりもする。
これは原作に惚れ込んだ人(監督)にしか成し得ない業。
原作も映画も極上。
でも敢えて、どちらかを選ぶとすれば、(まるで映画のレビューみたいになってしまっている今回だけど、)ストレートに表現されている原作かなぁ。
今思えば、医者でも小説家でもある南木さんは、自分の、医者部分を美智子に、小説家部分を孝夫に託していたか•••。
ん〜、唸るしかない。 -
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ネタバレ面白いのが、なんといっても阿弥陀堂に住むおうめ婆さんの存在。
主人公はおうめ婆さんのことを社会からあぶれた生活保護受給者のように見ていて、弱い者、守ってやるべきものとして捉えているふしがあるんだけど、阿弥陀堂に通うにつれ、おうめ婆さんにホトケのような神々しさが見えるようになってくる。
「方丈記」や「歎異抄」が作中に出てくるけど、このおうめ婆さんこそが、鴨長明であり、親鸞なのだ。
1年間の山里生活を経て主人公は、その地にどっしりと根をはり今を淡々と生きる人の強さを理解し、心の礎のようなものを得る。
踵を地につけることの「確かさ」を実感できる本でした。 -
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ネタバレ第100回芥川賞受賞作。
「冬への順応」は浪人時代のぼくと千絵子の関係を描く。浪人時代から医学生時代、そして現在と、ぼくと千絵子の関係性が移ろうが、死期が迫ったからこその関係性が美しく描かれていた。死を目前にぼくに再会した千絵子は「生きてた」と思える最期を果たして送れたのだろうか。
「長い影」はカンボジア難民医療団時代のメンバーであった、ぼくとフランス語を話す看護婦(原文ママ)の女の物語。「役人」的な治療をしたぼくと、周りからたしなめられるほど難民に肩入れをしていた女とでは、人道的には女の方が善であるように見える。しかし、それらの出来事は事実として地の文に淡々と描き、善悪の視点は女のセリフに感情をこめて載せられているからか、作品全体としては中立に立っているように思えた。
「ワカサギを釣る」は看護士の種村と医療助手のミンの話。「ものごとを深く、だからどうしても暗く考えてしまう人間」という点で共通する「黙り助平」の種村とミンの命に対する畏敬は同等に深いのだと思う。
「ダイヤモンドダスト」は看護士の和夫を中心に、その家族、幼馴染の悦子、死期の近いアメリカ人宣教師のマイクの物語。特に、従軍経験もあるマイクの死生観は素朴ながらも、人間がある種本能的に持っている神の概念と自然に接続する等身大の感性だと思う。彼が宣教師であるという設定も、その補強になっているように思える。
初読で細部までは読み込めてないように思えるため、いつの機会かに再読をしたいと思う。 -
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1988年の受賞作でずいぶん前の作品だ。当時の選考委員水上勉氏の「最後の水車づくりにまとめられてゆく人の世の生のはなやぎというか、はかなさというか、病床描写は簡にして生彩を放っていた」という評がある。
映画で、私のベスト10に入る「阿弥陀堂だより」を書いた人。
映画の中の美しい風景と、暖かい物語をいつも思い出す。それなのに、随分前に話題になったこの本を読んでなかった。
100回記念(昭和63年/1988年下半期)の時の芥川賞受賞作。1989年の著者の近影があったが若々しい、最近は病気も快癒されて書かれたエッセイを読んだ。
日常勤務している信州の病院が舞台で、4つの短編に別れている。短編といってもただのショートストーリーではなく読み応えがある。
冬への順応
タイ・カンボジアの国境近くで医療活動に参加して帰った僕は、日本の気候に慣れないでいる。命まで乾いたような難民キャンプの暮らしと、帰国してからの、電話の鳴り止まない病院。命の現場の違いに慣れないで、休日は鮎つりにのめりこんでいた。そこに予備校時代に東京で再会した女性が、転院してくる。末期の肺がんだった。
以前同じチームだった同僚が主治医だったが、手の施しようがないという。
彼女も静かにそれを受け入れていたが、時々病室を覗いて昔話をしたりした。恵まれた育ちで憧れだった人はもうわずかに残る命の灯の前で無力だった。山の診療所で働きたいと話したことがあったが、ちょうど、空いた診療所があり、そこに通うことになった。
そして暫くして彼女が亡くなった。ぼくは、厚く張った氷を割ってワカサギを釣っていて、疲れてコタツに入っていたとき電話で彼女の死の知らせを聞いた。
長い影
カンボジア医療団の忘年会が開かれた。風呂に入っていたところに痩せた女が入ってきて、洗い場で烈しく嘔吐した。僕は汚れを洗い流し、身体にタオルをかけて寝かしておいた。
女は看護婦で参加していた。献身的に働き、妻を亡くした若い男の乳児の世話をしていた。
帰国前に男と乳児を連れて帰りたいと大使館に申請したが却下された。
帰国する日、彼女は淡々と引き継ぎをして、バスに乗った。男と赤ん坊は身を反らせて泣いていた。
申し送り終えた女に、タケオさんは思い切って聞いてみた。なぜそんなに意地を張ってきたのか、と。女は下を向いたまま、ひとそれぞれに性格がちがうように、責任のとり方にもちがいがある、という意味のことを、きつい東北なまりで切れ切れにつぶやきながら、ジープに乗り込んでいった。
タケオさんのまわりに集まって手を振っている、若いクメール人の医療助手の一人が、彼女ほど病棟の仕事をきちんとやった看護婦はいなかった。と怒ったように言った。それにつられて他の一人が涙声で言った。難民に対する同情をおさえることと、なにもしないことが、おなじことだと錯覚していた日本の医者や看護婦たちに、なぜひと一倍多くのことをしてくれた彼女を責める権利があるのだ、と。
忘年会が明けた翌日、彼女はさばさばと東京駅から新幹線に乗って帰っていった。
ワカサギを釣る
種村はカンボジアで知り合ったミンがきたので、ワカサギを釣りに行った。ミンは厚い氷の上を恐る恐る歩いて氷に穴を開けた。
ワカサギは大漁だったがミンは初めての寒さを経験した。
ミンは戦前のプノンペンでは良家の息子だった、しかし、新生の政府は家族を連れ去り、彼は収容された。仲間と逃亡をはかりミンは生き延びた。彼の難民用の家に招かれた種村は信州の話をした。
帰国してミンが妻子とともに大阪の看護士学校にいることを知った。
ミンは釣ったワカサギを湖の氷とともに袋に入れて帰っていった。
ダイアモンドダスト
看護士の和夫は帰り道で、幼馴染の悦子がテニスのコーチをしているのに気づく。彼女はカリフォルニアに住んでいた。
和夫の父は小さな電車を運転していた。
別荘地から山の下を回って、温泉街までゆっくりゆっくり走る電車だった。
廃線になり父は仕事をやめたが、持っていた山が別荘の開発業者に売れ、生活の心配はなかった。
母は早く死に、妻もなくなって一人息子と男ばかりの三人家族だった。
家事は器用な父がした。
和夫は医者になるつもりだったが父が頭を打ち、倒れたので看護士になった。
半身が不自由になってはいたが父はまだ家のことができた。だがまた倒れ入院する。
そこになぜか悦子が家事を手伝いに来てくれた。
病院にマイク・チャンドラーという宣教師らしくない宣教師が入院してくる。彼はベトナムでファントムに乗っていたという。元気があるときはそのプラモデルを作っていた。患者が増え父と同室になった。彼は不思議に父と気があった。
父が退院して、水車を作ると言い出した、身体は動かないが頭の中に設計図が出来ていて、悦子を含め、和夫も馬鹿にしていた水車作りに興味がわいた。
低い河から水をくみ上げ庭に水を張る、そんな水車が完成した。
しかし、水車がきしみながら回り続ける頃、庭で父は死んだ。
マイクから遭いたいと電話が来て、エンジントラブルで海に向かって脱出したときの話をした。
「誰かこの星たちの位置をアレンジした人がいる。私はそのとき確信したのです。私の心はとても平和でした。その人の胸に抱かれて、星たちとおなじ規則でアレンジされている自分を見出して、心の底から安心したのです。今、星を見ていて、あのときの安らかな気持ちを想い出したかったのです。誰かに話すことで想い出したかったのです」
「検査の技術が進歩して、癌患者の予後が正確にわかるのに、治療が追いついていない。このアンバランスはきっと、星のアレンジをしている人が、自分勝手に死さえも制御できると思い上がった人間に課している試練なのだと思います、今、とても素直な気持ちでそう思う・・・・・思いたいのです」
この4編。作者はあとがきで、作品は硬すぎる文体しか持たない男の自己検証の作業、といっている。
硬すぎる文体、かえってそれが私には読みやすく、きちんと整ったこの小説に感動できた。
叙情に傾かない言葉で語った作品には力があり、人の生と死について、医療の現場からの真摯なレポートのようだった。
静かで落ち着いた文体の中に重い現実と、必ず訪れる死に対する作者の思いが深くにじんで胸が熱くなる。
ミステリを推理しながら読むことも楽しいが、文学作品はすっぽり浸ってしまえるよさがある。 -
Posted by ブクログ
新人賞だけは取れたがそれ以降鳴かず飛ばずの作家。将来を嘱望される女医。2人はいろいろありながらも寄り添い夫婦として生きて来た。40歳を超え、妻が心を病んだ事をきっかけに生まれ故郷の長野の寒村に移住を決めた。
自分ではどうしようも出来ない心の病と対峙するのではなく、心休まる風景や人々の中で自分を取り戻していく妻の姿にこちらも次第に心の奥がほぐれてきます。実際とっても心が広くて優しくていい女です。緑の山に囲まれていきいきとして来る姿がとってもチャーミングです。
阿弥陀堂のおうめ婆ちゃんが可愛らしく、一度も村を出た事が無く、数十年阿弥陀堂の周辺だけで生きているのに、毎日の生活を大事に生きている姿に胸打たれます。何度読んでもいい本だと思います。また記憶から削除して数年後新たな気持ちで読みたいと思います。そう、いい本であるほど読んだ事は覚えておいて、内容はすっかり忘れる。これがベストです。