あらすじ
ようやく新人賞はもらったものの、執筆に行き詰まっている作家の孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会ったのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らすおうめ婆さん、そして難病とたたかっている明るい娘・小百合ちゃん。静かな時間と豊かな自然のなかで、ゆっくりと自分を回復してゆく二人が見つけたものとは……。極上の日本語で語られる、大人のためのおとぎ話。2002年秋、映画化原作!
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
行き詰まりを感じている作家、孝夫。その妻、美智子は医師。妻が心の病を得たことで、故郷の信州に戻ることにした二人。そこで出会う「阿弥陀堂」に暮らす、おうめ婆さん。難病とたたかっている、小百合ちゃん。
4人の人物それぞれに、目の前に迫ってくるようでした。心に染み渡る文章そのものの魅力とあいまって、忘れがたい作品になりました。(感動する部分が多く、付箋多し!)私たちは、生きているというよりも、生かされているのだという、背筋が伸びるような、そんな気持ちになりました。
作者は医師ですが、医療従事者でなければここまでの描写はできないだろうと感じました。真っ直ぐに医療と向き合っている、嘘偽りなく生きているからこそ、書ける文章であるということです。と同時に、心理描写が通り一遍でないことを合わせて考えると、作者は患者の心にも寄り添っている医師であること、想像されました。
文庫本のため解説があり、映画化された小説ということが分かりました。映像化されても、きっと素晴らしいと思います。でも私は、先に活字で読み、心の中で登場人物と出逢い、深く感動できたことが、最高に嬉しかったです。涙が出そうになりますが、あったかい気持ちになると共に、心洗われる作品です。
Posted by ブクログ
孝夫が育った街にある阿弥陀堂で生活するのは、身寄りのないおうめ婆さん。中学に上がるは春に家を出た父からの連絡を受けて自らも東京に出て行き、そこで将来の妻となる美智子と出会う。医師になった美智子は授かった子どもを胎児で失ったことをきっかけに、それまでの東京でのハードな仕事もたたってか、精神を崩してしまう。孝夫が移住した谷中村にっ戻り、そこでおうめ婆さんや村の診療所、そしておうめ婆さんの話を聞き取って「阿弥陀だより」を書く小百合ちゃんらと出会い、少しずつ彼女の気持ちも回復に向かっていく。
立脚点―この小説を読んで、そんな言葉を思い出した。自分はどこに立っているのだろうか。都会での生活は、自分がどんどん肥大化して、どんどん足が地面から離れていってしまい、まるで浮遊しているかのような感覚に陥ってしまう。でもおうめ婆さんの生き方はそれとは対局だ。ずっと谷中村で暮らし、狭い世界しかしらないかもしれない。でも、地に足の着いた生き方をして、そこから実感のこもった考え方を持ち、そして小百合ちゃんがそれを聞き取り、「阿弥陀堂だより」として言葉にする。
仕事で疲れた自分にとって、こんな生活が実際できるのかは置いておくにしても、ものすごく理想のものに感じられる。都会での生活は疲れた。人間関係は煩わしい。でも、この小説を通してこんな選択もあるんだと思えることこそが、精神の救いとなるのだ。
Posted by ブクログ
「映画は小説とは全く別のものですから」
南木さんはそれだけ言い、小泉監督に映画化を快く了承したそう。
両方好きな僕には言い方が引っかかる。
寺尾聰を追いかけて、映画→原作と進んだ10数年前とは逆に、今回は、原作→映画と進んでみた。
たしかに、南木さんの言い方もわかる。
でもそれは、映画(映像)と文字(連想)の表現方法の違いかも。
この映画がすごいのは、原作そのままの描写•セリフを点と点にして、その間を、原作を損なわないギリギリの演出で繋ぐ。
原作の延長線上に、キャラクターを創出していたりもする。
これは原作に惚れ込んだ人(監督)にしか成し得ない業。
原作も映画も極上。
でも敢えて、どちらかを選ぶとすれば、(まるで映画のレビューみたいになってしまっている今回だけど、)ストレートに表現されている原作かなぁ。
今思えば、医者でも小説家でもある南木さんは、自分の、医者部分を美智子に、小説家部分を孝夫に託していたか•••。
ん〜、唸るしかない。
Posted by ブクログ
面白いのが、なんといっても阿弥陀堂に住むおうめ婆さんの存在。
主人公はおうめ婆さんのことを社会からあぶれた生活保護受給者のように見ていて、弱い者、守ってやるべきものとして捉えているふしがあるんだけど、阿弥陀堂に通うにつれ、おうめ婆さんにホトケのような神々しさが見えるようになってくる。
「方丈記」や「歎異抄」が作中に出てくるけど、このおうめ婆さんこそが、鴨長明であり、親鸞なのだ。
1年間の山里生活を経て主人公は、その地にどっしりと根をはり今を淡々と生きる人の強さを理解し、心の礎のようなものを得る。
踵を地につけることの「確かさ」を実感できる本でした。
Posted by ブクログ
人生の折り返しに差し掛かり、故郷の集落に戻った夫婦の生活を描いた物語。
おうめさんの飾らない、それでいて核心をつく言葉が深く心に染み入って、何度か涙を拭った。
季節が巡り生命が芽吹きまた枯れていく、それをあるがままに受け入れることの美しさを感じた。
心に柔らかな温もりが灯るような一冊。
Posted by ブクログ
新人賞だけは取れたがそれ以降鳴かず飛ばずの作家。将来を嘱望される女医。2人はいろいろありながらも寄り添い夫婦として生きて来た。40歳を超え、妻が心を病んだ事をきっかけに生まれ故郷の長野の寒村に移住を決めた。
自分ではどうしようも出来ない心の病と対峙するのではなく、心休まる風景や人々の中で自分を取り戻していく妻の姿にこちらも次第に心の奥がほぐれてきます。実際とっても心が広くて優しくていい女です。緑の山に囲まれていきいきとして来る姿がとってもチャーミングです。
阿弥陀堂のおうめ婆ちゃんが可愛らしく、一度も村を出た事が無く、数十年阿弥陀堂の周辺だけで生きているのに、毎日の生活を大事に生きている姿に胸打たれます。何度読んでもいい本だと思います。また記憶から削除して数年後新たな気持ちで読みたいと思います。そう、いい本であるほど読んだ事は覚えておいて、内容はすっかり忘れる。これがベストです。
Posted by ブクログ
読後感がとてもさわやかだった。
救いのあるストーリーで、物語が見事にまとまっている。
間違いなく名作、誰にでもお勧めできる。
この作品に出会えたことに感謝。
Posted by ブクログ
私が南木さんを読み始めるきっかけとなった作品。SNS「やっぱり本を読む人々」の100冊文庫企画に推薦するために再読しました。
特筆すべきは96歳の老婆・おうめが小百合に答える言葉の数々でしょう。それを語らせるために、この物語は書かれたのではないかと思います。
『目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次へと苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬ間に96歳になっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿のひけつかも知れません。』
そして、最後の写真。
全体に暗く重い南木作品の中で、これほど一点突き抜けた明るさ、野放図な力強さを感じさせるシーンも有りません。これがこの作品の力の元なのだと思います。
======前回(05-006 2005/01/12 ☆☆☆☆☆)=======
なんか見た題だなと思っていたら、映画化されてたんですね。
孝夫と美智子。そして村の先祖の菩提を弔う阿弥陀堂の老婆・おうめ、難病を抱えた娘・小百合。皆、キャラクターが立っています。おうめの訥々とした言葉も染み込みます。欠点といえば、全体に「出来すぎている」という感じがすることでしょうか。
そしてラスト。明るく大らかで、なんとも美しい一枚の絵。
別の見方ではちょっと不思議な作品でもあります。主人公が売れない作家という設定のせいもあって、「xxxでなければならない」といった小説論が所々に出てきます。そして、それを守るかのようにこの小説は書かれています。ちょっと変わった構成だと思います。
Posted by ブクログ
パニック障害の描写がリアルだなと思ったら、南木先生自身がそれを理由に病棟をお辞めになられていたのか。テーマは重いが、変に感傷的なトーンがなくて良かった。
Posted by ブクログ
売れない作家の孝夫は、心の病に罹った妻の美智子の療養も兼ねて、故郷の信州に戻ることにした。
不器用ながら田舎暮らしをしていくうちに、挫折を知らないエリート医師だった妻の、病以降の屈託がほどけてゆく。
集落のはずれで村人の霊を祀るおうめ婆さん。
山の上にある小さな阿弥陀堂に住み、ほぼ自給自足で暮らしている。
役場の若い事務員、小百合がおうめ婆さんに取材しまとめたものが、村の広報誌の中のコラム『阿弥陀堂だより』だ。
おうめ婆さんから、余分な力を抜いて自然体で生きることを教わる孝夫と美智子。
病気の再発で再び死と向かい合う小百合。
小百合の治療をすることで、医師としての自信と責任を取り戻す美智子。
そんな彼女たちの姿を見て、衒うことなく文章を綴りはじめる孝夫。
抱えているものはそれぞれに重いのだが、おうめ婆さんの飄々とした語り口がそれを軽やかにしてくれる。
おうめ婆さんが出てくるだけで、読んでいても顔がにこにこしてくるのがわかる。
こういう年の取り方をしたいと思う。
もう少し物欲を捨てて。
Posted by ブクログ
小説家として結果を出せず苦しむ夫。優秀な医師として多忙な妻。都会で支え合いながら生活する中、妻は心を病んでいく。夫の故郷信州の山村に戻る決意をする。そこは、母を亡くし父が家を出た後、祖母と二人、自然と共に暮らした懐かしい場所だった。
都会で傷を負った二人に自然は懐が深い。妻は、以前の笑顔を取り戻していく。
タイトルの「阿弥陀堂だより」は、地元の病気で声を失った女性が“阿弥陀堂守”のおうめお婆さんに、インタビューし、その言葉を広報誌に連載している小エッセイからきている。お婆さんの飾らない、自然に同化した言葉は、人を導く力がある。
夫婦はこの山村で人生を過ごす土台を作る。生きていく為の足るを知る。
読後感が心地良い。最後に、この女性たちを写真に撮るのだけれど、あらゆる年代が揃って生活できるというのが望まれる社会なんだろうなぁと思う。
Posted by ブクログ
難病の小百合ちゃんがおうめ婆さんを取材して村の広報に掲載する『阿弥陀堂だより』の短くも優しい記事文が、疲れた心に沁みてくる。
医師である主人公の妻の心を病むまでの仕事ぶりはすごいし、売れない作家でダメな感じと見える主人公の、故郷の山に移住して妻を再生させるまでの献身ぶりは素晴らしい。
ダイヤモンドダストと違い、結末が死ではなくそれぞれの障害を乗り越えて生きていく、と言うのがまた良かった。
Posted by ブクログ
新聞で南木さんの書いた文章を読み、興味を持って読んだ。
コロナ禍の中で重たい内容ではあったけど、最終的には晴れやかな気分になったのでよかった。生と死、死生観。所詮、人の命も自然の一部の流れ・・。
まあ、でも次は軽めの小説を読みたい気もする。
Posted by ブクログ
小さな山奥の村、その山里の山の方の阿弥陀堂に暮らす老婆。祖先の霊を守ってくれる老婆にお礼として、老婆には食糧が運ばれる。
40年、50年この閉ざされた風景から一歩も外に出ないで暮らしてきた老婆。
都会で精神的に病んだ妻と売れない作家の自分。口の聞けない若い女性。圧倒的な大自然のなかで、生きるとは何か、考えさせられる名作。
田舎で暮らし、病気と単なる身体の故障の違いとは、心が病んでるかどうかであると気づく妻。
深いですね。
Posted by ブクログ
地に足がつく….というか、土地に根付いて身も心も健全に生きたくなるな。
『器に合った分の、それもなるたけいい話を聞いていたい』
このSNS時代にグッと来る言葉だ。
Posted by ブクログ
六川集落出身の孝夫が結婚し妻を連れて移住してくる。そこで暮らしながら出会う人との触れ合いが描かれている。
タイトルでもある阿弥陀堂は、山の中腹にあるお堂で、選ばれたお婆さんが守っていくしきたりになっている。
96歳のおうめ婆さんはそこに住み、祖先の霊を守っていてくれるのでそのお布施として村人は食料や燃料を運ぶ。
病んでいた人々がおうめ婆さんと、この村での暮らしで元気を取り戻していく。
映画化もされている。
Posted by ブクログ
映画化もされた名作。わたしはこの作家の作品を読むのは3回目であるが、やはりこの静謐な世界は非常に好みである。作家である主人公とパニック障碍を患って田舎の診療所に赴任してきた女性医師の夫婦をメインに描いていて、これは完全なフィクションかとも思ったのだが、一部は実体験を取り入れた、半私小説なのかもしれない。著者が病気になったということは知っていたのだが(そのため後年登山に傾倒するようになり、近年の山岳小説につながる)、Wikipediaによれば著者の年齢はちょうど学園紛争激しい頃に受験を控えていたという作中の設定と合致するし、なにより著者の本名は「霜田(しもだ)」らしいので、まったく無関係に上田姓を登場させるわけもあるまい。作家としてスランプだった時期の経験を夫に、医師として多忙を極め身体に異常を来した経験を妻にそれぞれ仮託して書き上げたものと推察される。さて、そういった背景はともかくとして、作品自体も非常にすばらしいと思う。谷中村は都会に生まれ育ち、パソコンやスマートフォンをバリバリに使いこなすわたしからしたらとんでもない田舎でしかないが、それでもそんな田舎でさえも嫌悪感を覚えさせず、むしろ憧憬すら抱いてしまうのはやはりこの筆致のなせる業であろう。阿弥陀堂に住まうおうめ婆さんの設定がまたすばらしく、たとえば美智子は病を患っており、ほんらいであれば暗いムードが物語を支配してもおかしくないところ、それを中和させるような不思議な雰囲気を放っている。一言一句にも含蓄があり、無学で貧困なのであろうが、人生の手本にしたいようなすてきな老婆である。時代劇によくべらんめえ口調でなにごともガハハと笑い飛ばして片づけてしまうようなキャラクターが登場するが、おうめ婆さんも性質は違えど役割的にはおなじような感じであろう。このような魅力的なキャラクターを造形する筆者には頭が上がらない思いである。小百合ちゃんもおなじく魅力的である。ただ、単純にハッピー・エンドで良いのかという疑問はある。執筆当時になかった言葉を使えば、この作品の舞台は「限界集落」である。もちろん戦時中でも一般家庭には時として笑顔があったように、限界集落でも毎日の通常の営みがあり、そこには喜怒哀楽さまざまな表情があるであろう。しかし、長期スパンでみれば絶対に「暗い未来」が待っているような場所であって、そういったところでもひたすらニコニコ、というのはリアルであろうか。わたしは、あえて小百合ちゃんか、おうめ婆さんか、誰かが亡くなっても作品としては良かったのではないかと思う。最後に妊娠までされてしまうと、読者としてはこのあと元気な子供が産まれ、ついでに主人公もとうとう作品を書き上げて雑誌に掲載され、というような絵に描いたような平和な明るい未来しか想像できなくなってしまうが、『阿弥陀堂だより』という小説をずっと書いてきて、伝えたかったメッセージははたしてほんとうにこれで良いのであろうかという疑問は拭えない。
Posted by ブクログ
医者という人の生死に関わる仕事につき、自らも精神を病んでしまう妻。新人賞を受賞したものの次が思うように書けない夫。山の人となり前時代的な生活を続けているおうめ婆さん。病の再発から再起した小百合ちゃん。暗くなりがちな登場人物の設定だがそうならないのは、自然が圧倒的だからなのかもしれないですね。
Posted by ブクログ
南木佳士さんの小説は筋だけ書くと,なんだということになるし,振り回されるような感動があるわけでもないんだけど,読み終わると,静かな心持ちになれる.この作品もそう.非常に読後感がいい.
最近,南木佳士を集中して読んでいるわけだが,こうして,エッセイを読みつつ小説を読んで見ると,小説の舞台裏がうかがえて面白い.実生活の小さな材料をいくつも細部に織り込みながら,ストーリーを紡いでいく技術ってのはほんとにすごい.
Posted by ブクログ
南木さん、初作品です。
信州の山里で祖母に育てられた主人公・孝夫が医者である妻と連れて
故郷へ戻って来たところから物語は始まりました。
その村には、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」があり、
一人身の高齢者がその堂を守ることになっていました。
孝夫が幼い時から阿弥陀堂守をしているおうめ婆さんは
質素な生活をしつづけている高齢者です。
孝夫の天寿をまっとうした祖母もこのおうめ婆さんも
おかしくなるぐらいに欲がなく、
あきれるほどしぶとく大地に根付いた生活をしていました。
医者の妻は心の病を持っていましたが、、
村でのんびり生活をして、
新鮮な野菜と澄んだ空気のある毎日を過ごすうちに、
だんだんとたくましく強くなっていました。
阿弥陀堂で知り合った難病の娘の病を救おうと、
一度は退いた自分の専門分野の医療と
孝夫の妻は向き合います。
美しい信州の自然を背景に
電化製品に頼らない厳しい自給自足生活を続ける孝夫夫婦ですが、
人として生きるうえで
大切なものをしっかりと持って幸せに暮らしている様子に
ほのぼのとしたものを感じました。
「南無阿弥陀仏を唱えれば救われる」
という、おうめ婆さんの信念は
昔の日本人誰もがもっていた信仰心なのかもしれません。
Posted by ブクログ
追われるように過ごしてる毎日が、なんとなくもったいなく思えてくる。
踵から地に足をつけて生きていくってすごい。
ちゃんと地味を味わいたいものです。
Posted by ブクログ
高校時代に学生運動に没頭する仲間たちに嫌気がさした事から知り合い、結婚した夫婦の話。夫はどこか浮世離れしていて幼少期に「花見百姓」と祖母に評される。文学部に進学し編集者になるが退職し小説家に転身。新人賞を受賞後はほとんど書けず、妻の稼ぎで生活を立てる。妻は高校時代から「毎日を生活」することを分かっている。医学部に進み、第一線で活躍する医者になるが、心を病み、夫の故郷の信州で暮らす事を決意する。信州で話の中心となる阿弥陀堂の96歳のおうめ婆さん、ガンで口がきけなくなった24歳の小百合、そして夫婦2人がそれぞれ面白い。夫はなんだか自分と重なる。「体を動かしてさえいれば一日をなんとかうっちゃれる。」「孝夫が作家としてものにならないのは、思索よりも安易な行動を好む性格のためかも知れない。」、、、うーん。
Posted by ブクログ
ゆっくり読みたい、味わいがあります。小説の舞台と同じく田舎暮らしの自分には、共感もあり、ヒントもあり。全てを達観したようなおうめ婆さんの、小百合ちゃんへの想いと涙が心に残ります。
Posted by ブクログ
先日読んだ『山影の町から』(笠間真理子著)に、下記の記述があった。
「南木佳士が小説やエッセイに描く信州の人々を思い出させるところがあって、山の人間の感じなのだろうか。」
著者作品はエッセイにしか触れていない。小説を読んでみようと旧い作品だが手にしてみた。なにより、そのエッセイでは「いまは小説を書いていない」とあった(『猫に教わる』(2022年3月刊))。新作は今後の楽しみとしよう。
小説の良さは、筆致による読みやすさ、表現の豊かさも楽しみたい部分であるが、登場人物の暮らし、その時代や舞台をいつまでも楽しんでいたいと思えるかどうかも大切。
起承転結が明確で、昨今喧しい伏線と回収による納得感も、物語を楽しむ大きな要素ではあるが、解決を見たところで、あぁスッキリしたと本をパタンと閉じてしまう作品が多いのが昨今の傾向ではなかろうか。その中で、主人公たちとの関係が(読者と作品、その登場人物とのという意味で)、これで終わってしまうのかと残念に思え、余韻が長くたなびく作品も、少なからず存在はするもの。
本作は、間違いなく、物語の世界観、登場人物たちのその後の人生にも思いを馳せ、出来ればこの続きを味わっていたいと思える類の作品だ。
物語の中で、美智子は健康と精神の安定と、仕事に対する自信を取り戻し、それを支えてきた孝夫も、新人賞以来書けないでいた小説執筆を開始する端緒に就く。村の聾唖の少女小百合は、病気の再発を乗り越え、その治療を通し美智子に医師としてのやりがいを思い出させる。
こうした、起承転結も描かれているが、時の流れの必然として、あるいは、そうした人の世の営みも村の背景の信州の大自然の営みの一環でしかないという趣きで、淡々と描かれるにすぎないように感じる。
おうめ婆さんの「いい話だけを聞きてえであります。たいていのせつねえ話は聞き飽きたものでありますからなあ」という思いを現したかのように、物語は小さな幸せをいくつが紡いで閉じられてはいく。
読後の、爽やかさ、心持ちは異なるかもしれないが、小百合が回復せずに若くして天寿を全うすることになったとしても物語になんら破綻を来たさないのではなかろうか。それで美智子が医者として復帰できず、村の小さな診療所で細々と診察を続けるだけだとしても。その為、生活を支える孝夫が小説を書かず、百姓として暮らすことになったとしても、だ。
なのに、この物語に、味わいと、どこか心に残るものがあるのは、田舎の暮らしぶりと、登場人物たちのヒトトナリ、信州の大自然に抱かれる心地よさがあるからだろう。
孝夫と美智子の、この後の、なんら起伏のない平凡な生活は想像できる。やがて子どもが産まれるという小さな幸せも、どの夫婦にも訪れる可能性のある特別なものではない。小百合も健康に留意しながら身の丈の暮らしをしていくのだろう。きっと、大波乱が起きることはない。
なにより、おうめ婆さんは、まだまだこの先も、これまで通り、カクシャクと阿弥陀堂守として永らえていくのではなかろうかと、半ば神がかった存在として、静かなたたずまいを保っていきそうな気がしてならない。いや、むしろ、間違いなく、今も生きているとさえ思える。
そうした余韻がずっと漂っているお話だった。
Posted by ブクログ
ミステリーばかり読んでいた身には起伏のない展開がしんどかったが、次第になじんでくる。幸せに生きるとはどういうことか、どのように死に向かっていくのか。医者でもある著者が抑えた筆致で問うてくる。しかし私には、ここに出てくるどの人の生き方もできないな。
Posted by ブクログ
売れない物書きとキャリアウーマン医師の妻、妻が体調を崩し、夫の故郷の田舎村に帰る。自然、田舎の人達に触れながら第二の人生をゆっくりとでも健康に歩んでいく姿を描く。
知人に「オススメ」と言われもらった本、座禅をやっていることもあり、タイトルにも惹かれ読んでみる。
父も田舎暮らしをしていて、私もリタイアしたら田舎暮らしもいいなと思ったり、物語の自然とふれあう良さもわかるのだけれども、全体としては物足りなさを感じたかな。
Posted by ブクログ
おうめばあさんには何か実在のモデルがあるのだろうか?
時代を遡れば、田舎には、こういう「人から切り離されて共同体のために自分を捧げる存在」はあったと思うけれど。
子どもを授かるという終わり方が、帳尻が合わないように感じた。子どもを産み育てるってもっともっと犠牲が大きいものでは?心を病んだとはいえ仕事をある程度順調にこなせてきた女性が後半において子どもを授かる、っていうのはうまくいきすぎのような。作者男性だからかな。私がひがみ根治強すぎですね。
ダイヤモンドダストのような終い方をどこかで期待しておりました。この作者にはそっちの方が似合うのでは?
Posted by ブクログ
素朴でクセがない文章、悪く言えばあまり個性がないかもしれない。
都会で汚れた心が田舎で洗われました、だけのストーリーにならなくてよかった。
こんな風に好きなこととか得意なことして生きられたらいいよなあ。