【感想・ネタバレ】阿弥陀堂だよりのレビュー

あらすじ

ようやく新人賞はもらったものの、執筆に行き詰まっている作家の孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会ったのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らすおうめ婆さん、そして難病とたたかっている明るい娘・小百合ちゃん。静かな時間と豊かな自然のなかで、ゆっくりと自分を回復してゆく二人が見つけたものとは……。極上の日本語で語られる、大人のためのおとぎ話。2002年秋、映画化原作!

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Posted by ブクログ

ネタバレ

「映画は小説とは全く別のものですから」

南木さんはそれだけ言い、小泉監督に映画化を快く了承したそう。

両方好きな僕には言い方が引っかかる。

寺尾聰を追いかけて、映画→原作と進んだ10数年前とは逆に、今回は、原作→映画と進んでみた。

たしかに、南木さんの言い方もわかる。

でもそれは、映画(映像)と文字(連想)の表現方法の違いかも。

この映画がすごいのは、原作そのままの描写•セリフを点と点にして、その間を、原作を損なわないギリギリの演出で繋ぐ。

原作の延長線上に、キャラクターを創出していたりもする。

これは原作に惚れ込んだ人(監督)にしか成し得ない業。

原作も映画も極上。

でも敢えて、どちらかを選ぶとすれば、(まるで映画のレビューみたいになってしまっている今回だけど、)ストレートに表現されている原作かなぁ。

今思えば、医者でも小説家でもある南木さんは、自分の、医者部分を美智子に、小説家部分を孝夫に託していたか•••。

ん〜、唸るしかない。

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2022年09月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

面白いのが、なんといっても阿弥陀堂に住むおうめ婆さんの存在。
主人公はおうめ婆さんのことを社会からあぶれた生活保護受給者のように見ていて、弱い者、守ってやるべきものとして捉えているふしがあるんだけど、阿弥陀堂に通うにつれ、おうめ婆さんにホトケのような神々しさが見えるようになってくる。
「方丈記」や「歎異抄」が作中に出てくるけど、このおうめ婆さんこそが、鴨長明であり、親鸞なのだ。
1年間の山里生活を経て主人公は、その地にどっしりと根をはり今を淡々と生きる人の強さを理解し、心の礎のようなものを得る。
踵を地につけることの「確かさ」を実感できる本でした。

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2022年02月13日

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ネタバレ

人生の折り返しに差し掛かり、故郷の集落に戻った夫婦の生活を描いた物語。

おうめさんの飾らない、それでいて核心をつく言葉が深く心に染み入って、何度か涙を拭った。
季節が巡り生命が芽吹きまた枯れていく、それをあるがままに受け入れることの美しさを感じた。
心に柔らかな温もりが灯るような一冊。

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2020年03月14日

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ネタバレ

売れない作家の孝夫は、心の病に罹った妻の美智子の療養も兼ねて、故郷の信州に戻ることにした。
不器用ながら田舎暮らしをしていくうちに、挫折を知らないエリート医師だった妻の、病以降の屈託がほどけてゆく。

集落のはずれで村人の霊を祀るおうめ婆さん。
山の上にある小さな阿弥陀堂に住み、ほぼ自給自足で暮らしている。
役場の若い事務員、小百合がおうめ婆さんに取材しまとめたものが、村の広報誌の中のコラム『阿弥陀堂だより』だ。

おうめ婆さんから、余分な力を抜いて自然体で生きることを教わる孝夫と美智子。
病気の再発で再び死と向かい合う小百合。
小百合の治療をすることで、医師としての自信と責任を取り戻す美智子。
そんな彼女たちの姿を見て、衒うことなく文章を綴りはじめる孝夫。

抱えているものはそれぞれに重いのだが、おうめ婆さんの飄々とした語り口がそれを軽やかにしてくれる。
おうめ婆さんが出てくるだけで、読んでいても顔がにこにこしてくるのがわかる。
こういう年の取り方をしたいと思う。
もう少し物欲を捨てて。

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2024年03月18日

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ネタバレ

映画化もされた名作。わたしはこの作家の作品を読むのは3回目であるが、やはりこの静謐な世界は非常に好みである。作家である主人公とパニック障碍を患って田舎の診療所に赴任してきた女性医師の夫婦をメインに描いていて、これは完全なフィクションかとも思ったのだが、一部は実体験を取り入れた、半私小説なのかもしれない。著者が病気になったということは知っていたのだが(そのため後年登山に傾倒するようになり、近年の山岳小説につながる)、Wikipediaによれば著者の年齢はちょうど学園紛争激しい頃に受験を控えていたという作中の設定と合致するし、なにより著者の本名は「霜田(しもだ)」らしいので、まったく無関係に上田姓を登場させるわけもあるまい。作家としてスランプだった時期の経験を夫に、医師として多忙を極め身体に異常を来した経験を妻にそれぞれ仮託して書き上げたものと推察される。さて、そういった背景はともかくとして、作品自体も非常にすばらしいと思う。谷中村は都会に生まれ育ち、パソコンやスマートフォンをバリバリに使いこなすわたしからしたらとんでもない田舎でしかないが、それでもそんな田舎でさえも嫌悪感を覚えさせず、むしろ憧憬すら抱いてしまうのはやはりこの筆致のなせる業であろう。阿弥陀堂に住まうおうめ婆さんの設定がまたすばらしく、たとえば美智子は病を患っており、ほんらいであれば暗いムードが物語を支配してもおかしくないところ、それを中和させるような不思議な雰囲気を放っている。一言一句にも含蓄があり、無学で貧困なのであろうが、人生の手本にしたいようなすてきな老婆である。時代劇によくべらんめえ口調でなにごともガハハと笑い飛ばして片づけてしまうようなキャラクターが登場するが、おうめ婆さんも性質は違えど役割的にはおなじような感じであろう。このような魅力的なキャラクターを造形する筆者には頭が上がらない思いである。小百合ちゃんもおなじく魅力的である。ただ、単純にハッピー・エンドで良いのかという疑問はある。執筆当時になかった言葉を使えば、この作品の舞台は「限界集落」である。もちろん戦時中でも一般家庭には時として笑顔があったように、限界集落でも毎日の通常の営みがあり、そこには喜怒哀楽さまざまな表情があるであろう。しかし、長期スパンでみれば絶対に「暗い未来」が待っているような場所であって、そういったところでもひたすらニコニコ、というのはリアルであろうか。わたしは、あえて小百合ちゃんか、おうめ婆さんか、誰かが亡くなっても作品としては良かったのではないかと思う。最後に妊娠までされてしまうと、読者としてはこのあと元気な子供が産まれ、ついでに主人公もとうとう作品を書き上げて雑誌に掲載され、というような絵に描いたような平和な明るい未来しか想像できなくなってしまうが、『阿弥陀堂だより』という小説をずっと書いてきて、伝えたかったメッセージははたしてほんとうにこれで良いのであろうかという疑問は拭えない。

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2017年09月05日

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ネタバレ

高校時代に学生運動に没頭する仲間たちに嫌気がさした事から知り合い、結婚した夫婦の話。夫はどこか浮世離れしていて幼少期に「花見百姓」と祖母に評される。文学部に進学し編集者になるが退職し小説家に転身。新人賞を受賞後はほとんど書けず、妻の稼ぎで生活を立てる。妻は高校時代から「毎日を生活」することを分かっている。医学部に進み、第一線で活躍する医者になるが、心を病み、夫の故郷の信州で暮らす事を決意する。信州で話の中心となる阿弥陀堂の96歳のおうめ婆さん、ガンで口がきけなくなった24歳の小百合、そして夫婦2人がそれぞれ面白い。夫はなんだか自分と重なる。「体を動かしてさえいれば一日をなんとかうっちゃれる。」「孝夫が作家としてものにならないのは、思索よりも安易な行動を好む性格のためかも知れない。」、、、うーん。

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2013年02月08日

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ネタバレ

 先日読んだ『山影の町から』(笠間真理子著)に、下記の記述があった。
「南木佳士が小説やエッセイに描く信州の人々を思い出させるところがあって、山の人間の感じなのだろうか。」

 著者作品はエッセイにしか触れていない。小説を読んでみようと旧い作品だが手にしてみた。なにより、そのエッセイでは「いまは小説を書いていない」とあった(『猫に教わる』(2022年3月刊))。新作は今後の楽しみとしよう。

 小説の良さは、筆致による読みやすさ、表現の豊かさも楽しみたい部分であるが、登場人物の暮らし、その時代や舞台をいつまでも楽しんでいたいと思えるかどうかも大切。

 起承転結が明確で、昨今喧しい伏線と回収による納得感も、物語を楽しむ大きな要素ではあるが、解決を見たところで、あぁスッキリしたと本をパタンと閉じてしまう作品が多いのが昨今の傾向ではなかろうか。その中で、主人公たちとの関係が(読者と作品、その登場人物とのという意味で)、これで終わってしまうのかと残念に思え、余韻が長くたなびく作品も、少なからず存在はするもの。

 本作は、間違いなく、物語の世界観、登場人物たちのその後の人生にも思いを馳せ、出来ればこの続きを味わっていたいと思える類の作品だ。

 物語の中で、美智子は健康と精神の安定と、仕事に対する自信を取り戻し、それを支えてきた孝夫も、新人賞以来書けないでいた小説執筆を開始する端緒に就く。村の聾唖の少女小百合は、病気の再発を乗り越え、その治療を通し美智子に医師としてのやりがいを思い出させる。
 こうした、起承転結も描かれているが、時の流れの必然として、あるいは、そうした人の世の営みも村の背景の信州の大自然の営みの一環でしかないという趣きで、淡々と描かれるにすぎないように感じる。

 おうめ婆さんの「いい話だけを聞きてえであります。たいていのせつねえ話は聞き飽きたものでありますからなあ」という思いを現したかのように、物語は小さな幸せをいくつが紡いで閉じられてはいく。
 読後の、爽やかさ、心持ちは異なるかもしれないが、小百合が回復せずに若くして天寿を全うすることになったとしても物語になんら破綻を来たさないのではなかろうか。それで美智子が医者として復帰できず、村の小さな診療所で細々と診察を続けるだけだとしても。その為、生活を支える孝夫が小説を書かず、百姓として暮らすことになったとしても、だ。

 なのに、この物語に、味わいと、どこか心に残るものがあるのは、田舎の暮らしぶりと、登場人物たちのヒトトナリ、信州の大自然に抱かれる心地よさがあるからだろう。
 孝夫と美智子の、この後の、なんら起伏のない平凡な生活は想像できる。やがて子どもが産まれるという小さな幸せも、どの夫婦にも訪れる可能性のある特別なものではない。小百合も健康に留意しながら身の丈の暮らしをしていくのだろう。きっと、大波乱が起きることはない。
 なにより、おうめ婆さんは、まだまだこの先も、これまで通り、カクシャクと阿弥陀堂守として永らえていくのではなかろうかと、半ば神がかった存在として、静かなたたずまいを保っていきそうな気がしてならない。いや、むしろ、間違いなく、今も生きているとさえ思える。

 そうした余韻がずっと漂っているお話だった。

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2025年01月31日

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ネタバレ

おうめばあさんには何か実在のモデルがあるのだろうか?
時代を遡れば、田舎には、こういう「人から切り離されて共同体のために自分を捧げる存在」はあったと思うけれど。

子どもを授かるという終わり方が、帳尻が合わないように感じた。子どもを産み育てるってもっともっと犠牲が大きいものでは?心を病んだとはいえ仕事をある程度順調にこなせてきた女性が後半において子どもを授かる、っていうのはうまくいきすぎのような。作者男性だからかな。私がひがみ根治強すぎですね。
ダイヤモンドダストのような終い方をどこかで期待しておりました。この作者にはそっちの方が似合うのでは?

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2018年07月26日

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