福澤諭吉のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
偉人ではあるが、、、 地頭のよい人は明るい。福沢諭吉は、その典型だと思う。斎藤孝が推薦するのも納得。
明治維新前後の偉人ですが、少し腑に落ちない点もあった。
「東洋の授業授業と西洋の文明主義と比較してみると、東洋にないものは、形があるものでは数理学と、形がないものにおいては独立心とのこの二点である。」
洋行したときの経験や体験談、考察を様々書いているが、欧米におけるキリスト教の影響には一切触れていない。他の著書を読んでないので、判断するのは早計か?
しかし、この切り口がその後の日本の思想や学問のやり方の方向性を決めてしまったとしたら残念。 -
Posted by ブクログ
齊藤先生による現代語訳でとても読み易いです。
福沢諭吉と言うと堅いイメージがあるかもしませんが、本書を読むとそのイメージが変わります。
破天荒だけど悪戯好き。ですが論理的で思考や価値観、生活態度1つとっても時代を先取りしていたことが判ります。
悪戯等のエピソードは笑えますが、学問に対しては妥協を許さず取り組んだからこそ、幾度の海外進出や塾の開校、名著の執筆等、歴史に名を残しお札の顔になれたのかもしれません。
日本を西洋に劣らぬ国にしなければならないという考えの下、政府に肩入れをし所属するのではなく、庶民の立場から文明開花のために尽力した福沢諭吉の人生が綴られています。
読み易さ重視の為、原書か -
Posted by ブクログ
本書は、近代日本最大の啓蒙思想家ともいえる福澤諭吉(1835~1901年)が、1875年(明治8年)に発表した『文明論之概略』の現代語訳である。思想家としての福澤が、体系的、包括的に物事を論じたことにおいて、「主著」とも言えるもので、近代日本思想史上の古典ともされる。
本書で福澤は、まず、西洋文明から、外に表れる「事物」の文明を採用するだけでなく、内側に存在する「精神」の文明を得なければならない、と、西洋文明を目指す理由・目的を述べている。
そして、文明の本質について、「文明とは人間交際が次第に改まって良い方に進んでいく様子を形容したものであって、野蛮で無法な独立に対して、一国の体裁をなしてい -
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齋藤孝先生の現代語訳。読み易い。
明治維新という歴史の転換点における時代の捉え方は、現在の時勢を考える上でも参考になる処が多い。
時代の転換点だからこそ、西洋事情も含めた全体的なところを押さえ、自らの現状認識を正しくし、合理的に物事を判断していく。
物事の本質を捉える際のプロセスでもある。
以下引用~
・文明とは結局、「人間の知性と徳性の進歩」と言ってよいのである。
・目的を定めて文明に進む。それしかない。
では目的とは何か。内外の区別を明らかにして、わが国の独立を保つことである。そしてこの独立を保つ手段は、文明の他にはないのだ。いまの日本人を文明の道に進めるのは、我が国の独立を保つ、ただ -
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たまには名著をということで読んでみた。
結構分量が多くかつ、文章が硬いので若干読みづらかった。
かつ結構まどろっこしいと感じる言い方(多分これが福澤節とは思うが)自分的にはそこまで刺さらなかった。
とはいえ、現代につながる考え方も多く勉強になった。
# 個人ポイント
- 近くの原因と、遠くの原因がある
- 討幕がなったのは、異国の襲来という近因もあるが、そもそも身分制度という枠組みに対する独立心や時代の流れが遠因としてあり進んだもの
- 智力が大事
- 一歩目を踏み出す時は二歩目を考えておく
- 危機感を持とう
- 自国独立せよ。文明を進めるのが人類の目的。 -
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文明とは、国民一人ひとりが作り出す気風、としているので、国民一人ひとりが日本人としての気概を持たなければならない、ということだと理解しました。
1.この本を一言で表すと?
・国家の独立を国民に向け強く訴えた本
2.よかった点を3〜5つ
・いまこの時にあたって、さあ、前に進もうというのか、それとも後ろに退こうというのか。進んで文明の道を歩むのか、退いて野蛮へと変えるのか。ここは進むか退くかの二者択一だ。(p33)
→強いメッセージ性を感じる。また、当時の日本の状況からの切迫感も感じる。
・いまわが国にとって至急求めるべきは智恵でなくてなんだというのか。(p208)
→現代においても同じこと -
Posted by ブクログ
現代語訳なので、とても読みやすい。若くして長崎、大阪で学んだことが礎になったことがわかるが、理解力が高く、勉強熱心であったことが伝わってくる。さらに、横浜に行ってオランダ語が通じないことを知って英語を学び始めたり、自らアメリカ渡航を志願したり、ウェブストル辞書を買ってくるといった積極的な行動が、その後の活躍につながったのだろうと想像できる。
1854年、21歳の時、窮屈な中津を出ることを目的に、兄の共で長崎に行き、蘭学を学び始める。翌年、中津に返す計略を受けて江戸を目指すが、大阪の兄の助言で緒方の下で学び始める。23歳の時に兄が死亡したため家を継いだが、母親の許しを得て大阪に戻る。1858年