「真理であるから有用であり、有用であるから真理である」というジェイムズの唱えた真理観はプラグマティズムを簡潔に表したものとして有名である。逆に私はこのような簡単なテーゼとしてしかプラグマティズムを理解していなかった。本書ではプラグマティズムの含む豊潤な論理やプラグマティズム内での派閥の広さを概観できる。この思想が既存の哲学の強力なアンチテーゼであり、現代でも勢いを増し続けていることから、どの哲学をやるにしても無視できない存在であるように思う。以下、特に重大に思えた点をまとめる。
創始者であるパースは大陸合理論・経験論の派閥を超えて近代哲学に存在したドグマについて痛烈に批判した。それは「思考とは内的な観念の知覚である」という、人間の認識能力に関わるイメージである。彼が特に批判したのがデカルトである。デカルトは方法的懐疑によって、あらゆる日常的イメージや科学的知見を疑った上で、なお疑い得ない明晰な知識から思考を始めることを説いた。しかし、パースによれば方法的懐疑とは「疑ったフリをしただけ」で本当の懐疑とはいえない。我々の種々の先入観とはそもそも疑い得ないようなものであるからだ(他者の存在を懐疑しようとしても、その懐疑に使用している言葉とは明確に他者がいないと成り立たないものである。懐疑論は終着点になることはあり得ても、出発点にはなり得ない、というのは確かだと思う。実際にヒュームの『人間本性論』は明確にデカルト批判として『方法序説』と真逆の構造を持っている。最も、ウィトゲンシュタインなどであれば、そもそも懐疑論にいくこと時点が言語のルールに反していることだと主張するだろうし、パースもそっち寄りな意見な気もするが)。
では、このような視点に立ったとき、本当の懐疑とは何か、本当に明晰な信念とはどのようなものか。それは信念のネットワークの中で、行為によって改定されていくプロセスである。イメージとしては科学的知識に近いかもしれない。妥当な科学知識とはパラダイムという信念のネットワークの中で、検証され改定されていくものである。デカルトの信念観というものが、ある頑丈な基礎の上に樹木のように伸びていくものだとすれば、パースの信念観は信念同士がリゾームのように互いを支え合っているものである。
これをより具体的に表現したものとして、パースは明晰化の原理を提唱する。「ダイヤモンドは硬い」という文章を明晰化すると「ダイヤモンドを使って削ると、すべての物質にキズをつけることができる」という文に変形することができる。つまり「SはPである」という平叙文から「もしも行為aを実行するなら、効果eが得られるだろう」という条件文への書き換えである。行為のなかで実際的にどのような効果を発揮するか、特にどのような欲求を解消できるか、が信念において重大なのだ。ここで「ダイヤモンドとは本当に存在するのか」みたいな問いはナンセンスなものとして片付けられている。
しかし、信念さえ得られれば、どのような方法でもよいのか。そうではない。パースは四つの信念の固め方を提示し、真理とは何かを再定義する。信念確定の四つのスタイルとは「伝統に盲目的に従う」「社会的権威に従う」「理性の導くところに従う」「科学的共同体の導くところに従う」の四つである。前者二つは思考コストの節約という意味ではコスパのいい方針であるかもしれないが、堅牢さでいえば明らかに脆弱だろう(カントに言わせれば蒙のなかにある状態と言わざるを得ない)。一方、デカルトのような理性に従うスタイルは、そもそも「理性」という概念が曖昧な個人的資質であるとして、自分好みの世界観に留まってしまう可能性を指摘している(これはジェイムズが哲学を精神の気質であると言ったのに通ずる指摘かもしれない)。結果、最も頑丈な信念の固定方法は科学的共同体における探究ということになる。これは様々な推論が縄のように絡み合うことで互いを補強し合っている。
このことからパースは「無限の探究を経て最終的に辿り着くような信念」こそが真理である、と主張する。もちろん、これにはいくつも突っ込めるポイントがある。無限の探究を文字通りに受け取るなら、我々が真理に辿り着くことなんてないのではないか、仮に辿り着いたとしても我々はどのようにして「辿り着いた」と知るのか。後のプラグマティズムでもパースの真理観は大量の批判にさらされている。最初に批判を呈したのは、彼の親友ジェイムズであり、クワイン・ローティといったネオプラグマティズムと呼ばれる人たちは、パースというよりジェイムズ寄りの思想を支持している(ローティに至ってはパースの業績は名前を付けたことだけだとすら言っているから酷いもんだ)。
パースはプラグマティズムの方法論を打ち出したが、その適用範囲において科学的探究に焦点をかなり絞っていた節がある。例として出されたダイヤモンドの硬さの話なんかも、経験的知識の獲得についての議論であった。ジェイムズはこれを哲学や宗教における抽象的概念にまで拡大できないかと模索した人物で、結果としてパースとは異なる真理観に辿り着く。
ジェイムズは科学的探究における信念の特異性を指摘する。科学的探究においては、十分な証拠がないままに信じることは、愚かであるだけでなく悪である。一方で、身近な日常のレベルではどうだろう。私たちは十分な証拠がなくても賭けなければならない信念が存在し、それに対して「信じる権利」があるはずだろう。
また、「適切なプロセスを踏めば最終的に確かな真理に辿り着く」という発想にも疑問を投げる。社会的公平についてや政治体制のあり方についてという課題は、科学的探究と同じようにいずれ真理に辿り着くということがあるのか疑わしい(そもそも科学的探究もいずれ真理に辿り着くもんなの?とは思う。これは私が反実在論的な立場に立っているからだと思うが)。
このことから、ジェイムズは真理とは行為の中で有用とされたものである、と定義した。行為によって信念の明晰さを検証する姿勢はパースの思想そのものだが、それをそのまま真理にしてしまうという点で、真理のハードルが大きく下がったと言えるだろう。
もちろん、これには大量の批判が寄せられ、その中にはラッセルも含まれる。批判の主眼は「事実と価値を混同している」というものだ。しかし、ジェイムズは「事実と価値なんて区別はそもそも存在しない」と反論する。
心身二元論というものがある。これは物質的でないとされている心が物質に影響を与えているとしている点で奇妙である。かといって、我々はどうしても心的作用としか呼びようのないものを持っている気もする。ジェイムズは純粋経験という主客に別れない中立な概念を持ち出し、これによる一元論を唱える。二直線の交点である点はどちらの直線にも属している。ただ、どちらの線に乗せるかは我々の解釈次第だ。これと同じように純粋経験もそれ単体では中立だが、我々はそこに主客の区別を勝手に見出しているのだ、としている。……その区別をしているのは誰か、ましてやただの経験を知覚し、観念としている作用は何か、という話をすると、結局それは心じゃないのか、となってしまい、観念論と何が違うんだと思わなくもないが、これはもう少し詳しく学ぶ必要があるように思う。
アメリカでは論理実証主義が一大ムーブメントとなった。プラグマティズムはこの勢いに押されてやや劣勢となる。この二つの思想は全く共通点がないわけではない。経験のなかで有意味性を判定するという発想や、できるだけアプリオリなものを排除しようという傾向は両者に共通している(そもそもアメリカ哲学の大半は根底にイギリス経験論があるから、まあ必然的な共通点と言えるかもしれない)。明確に違うのは①事実と価値についての区別②全体論的認識についての見解である。
ジェイムズは事実と価値の区別とは形而上学的誤謬だと一蹴したが、論理実証主義では明確にこの二つが区別されている。宗教や道徳における真偽をジェイムズは科学における真偽と並置したのに対し、論理実証主義は前者における真偽の議論はナンセンスなものと考えた。
また、プラグマティズムにおける真偽の判定が信念のネットワーク内での真偽という全体論的なものだったのに対し、論理実証主義は個別の経験には個別の真偽が与えられると考えた。特に全体論的発想から論理実証主義を内部攻撃したのがクワインであり、アメリカ哲学においてネオプラグマティズムと呼ばれる人たちが勢いをつけ始める。
ローティはプラグマティズムにおける真理の多元論的性格をより前面に押し出した。彼はプラトンからデカルト、ロック、カントに至る西洋哲学に一貫する特徴として、認識論における基礎づけ主義、真理についての本質主義、言語に関する表象主義を指摘し、これらがすべて独断的なものであることを主張した。
反基礎付け主義・反本質主義は古典的プラグマティズムでも見られた発想である。ある明晰な真理を基礎に置き、存在論的本質を探究しようという発想が西洋哲学には前提されていた、という指摘だ。むしろ彼が新しいのは反表象主義である。
ローティのいう表象主義とは「精神を自然を映す鏡」のように扱う発想であり、鏡としての正確さを真理としての正確さに結びつける真理観である。デカルトにおいてはコギトが、ロックにおいては経験を受け取る知覚が、鏡として用いられている。カントにおいても現象と物自体という区別はなされたが、現象を正しく表象するものとして人間の理性を書き出していた。さらに言えば、観念という発想を捨てて言語分析に進んだ分析哲学でさえも、心から言語を鏡に移し替えただけだと言える。
ローティは反表象主義を主張するにあたってセラーズの「所与の神話」批判を持ち出す。所与の神話とは、生のデータを我々が知覚し、その受容には誤謬が入り込む隙がないので、これが認識の正当化にできる、というドグマのことである。我々は生のデータそれ単体で受け取ることなんてできない。それは「理由の空間」とも言えるような信念のネットワークの中でしか解釈できない。すると、我々の認識の客観性・確実性というのは対して意味がないのではないか、という話になってくる。ここで科学的真理とは、真理の描写をしているという点より、対話の道具として有用であるという点で正当化されているという話がある。遍く真理はこのような性質のものではないか、という発想に近づいていく。
すなわち、客観性とは連帯である。科学とは連帯の模範的例として優れており、逆に言えば真理としての性質は文学と大して変わるものではない。
これは相対主義ではないかという批判が考えられる。これに対し、ローティは相対主義ではなく自文化中心主義だと唱え、そもそも相対主義というレッテル自体が実在論・反実在論という区別を前提にしたドグマであると主張している。この際、デイヴィドソンの「経験論の第三のドグマ」という発想を援用している。ここら辺の議論は難解でよく分からなかったが、後期ウィトゲンシュタイン的な発想に近付いているのだと思う(後期ウィトゲンシュタインがプラグマティズム的発想をしているのではないかという私の読みは正解だったということでいいのだろうか)。
私が最も検討しなければならないのはプラグマティズムのいう「価値と事実の二分法は無意味だ」という主張がどこまで正当化できるものなのか、という点だろう。すなわち、プラグマティックな真理観が妥協された真理ではないかという疑念をどこまで払拭できるか。この点を納得できたら、ヒューム哲学のアップデート版として受け入れられるかもしれない。