<ポイント>
・幸せな状態とは→自分が紡いだ自分の物語に、自ら疑念や欺瞞を抱くことなく、心から納得し、その物語に全力でコミットできること
・競争の世界に中で明確に「価値がる」とされているもの(「頭がいい」「一流企業の社員である」「名誉がある」)を手にすることを自分の物語の中心に据えると、失ったときに身を寄せるものがなくなる。競争的な価値観から適度に距離を置くことは、自分本来の物語を作るうえでとても重要。
・例えば、銀行の融資担当者が優秀と評価されるとする。その評価のベースは、「融資の額が多い、融資のジャッジが的確である」ということだけであれば、単に「銀行員として優秀である」「融資の技能、会社の中で役に立つ技能が優れている」ということでしかない。もちろん、技能が優れているのは誇るべきことであるし、技能を伸ばすことで得られる幸福も大事。しかし、技能はあくまでもその人の1面にすぎず、非常に環境依存的、一時的なものである。
・「人生」という物語には、「出来事」の部分と「解釈」の部分がある。例えば、慶応大学に入学できたとしても、一時的にはうれしかったが、はるかに優秀な人ばかりを目のあたりにして、劣等感にさいなまれるというネガティブな解釈をしてしまう人もいる。血のにじむような努力をし、それが報われても、なかなか自分を認めることができない。その結果、どんな素晴らしい出来事も、解釈がネガティブであれば価値はゼロになり、努力も無駄になる。こうした人は、たとえ、ハーバード大学だろうがスタンフォード大学だろうが、同じ解釈をする。良い方向を目指して発揮された努力は、それだけで尊いし、称賛に値する。しかし、それを自分自身で認めることができないのは悲しいこと。
・「何はなくとも、自分は自分であって大丈夫」と思う。
・身体は常に周囲の状況を判断し、安心を感じているときはリラックスし、危険だと感じているときは緊張するようにできている。緊張状態は身心に大きな負担をかけ、計画のために多大なエネルギーを消費する。不快な情動というのは、身に起こっている何かしらの危険を察知しているために起こる。それらの反応は、自律神経が担当している。非常に「動物的」で素早く、得てして頭が考えた判断よりもよほど正確である。そして、不快な状態があまりに長く続くとエネルギーが枯渇し、身体は、今後は省エネのため「フリーズモード」に入る。無抵抗・無気力になり、あらゆる刺激に対する反応を鈍くすることで防衛しようとする。現実感を薄めて、「心に麻酔をかける」ことで生存確率を上げようとする、自律神経の働きがあるためである。「自分の快・不快がわからない」という方は、こうした「フリーズモード」に入ってしまっていることが少なくない。(「不登校」という現象は、まさにこの防衛的な自律神経のフリーズ反応が大きく関わっていると指摘される。)
・人間関係に限らず、人生や生活のあらゆる面において、「快・不快」の感情をきちんと把握することは、自分のルールに基づいて自分の物語を生きていくための土台である。
<ピックアップ>
〇自分でない誰かのための人生を、誰かのための感情を生きさせられているようで、先の見えない苦しさにあえいでいるように感じる。
〇ラッセル「人々の努力によって社会がより良く、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる」という。つまり、社会が豊かになり、生命の危険がないことが当たり前になってくると、「生きること」それ自体の意味を見つけることが難しくなり、人生を賭けて埋めるべき大きな「穴」がなくなる。
〇そのために必要になるのが、「自分の物語化」である。自分の物語化とは、これまでの人生で連綿と起こってきた出来事に対して、自分なりの解釈をつけていくこと。起こった出来事に対して、主観的に自分が納得できるような意味づけをしていくことで、挫折から前向きに立ち直ったり、成功体験を自信に変えたりすることができる。そうした「自分を編集するような作業」の中で、自分の生き方に物語性を見いだせれば、当面の生きる意味を得ることができ、生きやすくもなる。
〇自分の物語に納得することは、自分を肯定することと同義。ありのままの自分の人生を「これでいい」と肯定できないと、自分以外の誰かの価値観やルールを中心に生きざるを得ない。
〇高垣忠一郎「人は、自分の物語にすがりつけて生きている。」たとえ、それが不幸の物語であったとしても、その人が生きていくためには必要。
〇ロバート・ハリス・フランク「所得や社会的地位、家や車など、他人の比較優位によって成立する価値によって得られる幸福感の持続時間がとても短い」。つまり、かつてのサクセスストーリーの先にある「サクセス」は、私たちに永続的な幸せを与えてくれるものではなかった。
〇幸せな状態とは→自分が紡いだ自分の物語に、自ら疑念や欺瞞を抱くことなく、心から納得し、その物語に全力でコミットできること
〇「人生をレースに見立て、それに勝ち続ける物語」は、一生すがりつくには、非常に脆弱である。なぜから、人は永遠に競争に勝ち続けることはできず、一生のうちに必ず弱者の側に回る瞬間がある。
〇競争の世界に中で明確に「価値がる」とされているもの(「頭がいい」「一流企業の社員である」「名誉がある」)を手にすることを自分の物語の中心に据えると、失ったときに身を寄せるものがなくなる。競争的な価値観から適度に距離を置くことは、自分本来の物語を作るうえでとても重要。世間の価値観(評価基準)を必ずしも満たしていなくても、「自分はこう生きています」と自分の言葉で言えるようになれば、少なくとも不幸な人生ではない。
〇誰に対しても優しく品行方正な「良い子」であろうとする人は少なくないが、そのような人は、子供の時に、自分本来の感情を素直に表現したり、その感情を受容されたりした経験に乏しいという共通点がある。自分よりも、自分を評価する誰かの感情を優先する癖がついていて、その誰かの感情を先回りして感じ、その人にとってのベストは反応を得られるような感情だけを選び取り、自分が本当に感じていた感情は心の奥底に封印してしまっている。誰からも褒められる「良い子」を演じれば、一時的な承認を得ることはできるが、自分のリアルな心根の部分を承認されているわけではないため、すぐにまた「誰かに褒めらえるる何か」をしていないと不安にある。
〇このような他人の感情を優先する生き方から向けだすきっかけの一つが、誰にも遠慮をしない、自分だけの「好き」を見つけて追及することである。
〇自分の物語は、これまでの人生で起こってきた出来事と、その解釈によって紡がれていく。どんなに素晴らしい「出来事」があっても、その解釈がネガティブであれば価値がゼロになってしまう。自分の物語をダメにする悪魔は、実は「解釈」のところに潜んでいる。
〇DWD病(「だから私はダメなんだ」)は、たとえ、ハーバードやスタンフォードに合格しても、DWD病にかかっている限り、「自分はダメだ」という結論になる。
〇自分の物語を作るうえで、最も重要なことは、自分の感情に素直になることである。怒り、死っと、悲しみなど、誰かに話すことがはばかられるようなネガティブものもありますが、感じてはいけない感情はない。感じたままの感情だけが、自分に起きた出来事に納得するための解釈をもたらす。それはきれいなものとは限らないですが、しかし、それを自分固有の形として、自分自身が納得して需要できたとしたら、誰にも比べることのない「強い物語」になる。なぜから、自分の物語を紡ぐことができるのは、自分の感情だけだからである。他人の価値基準や誰かのための感情に基づいた物語は、本当の生きる力を与えてくれません。
〇明確な答えがない時代において、人の心を動かすのは「弱き者の物語」である。完璧でない私たちに、それでも生きていていいのだという安心感を与えてくれる。
〇自分の弱さ、いびつさ、未熟で、格好悪いところを認めて、それをも引き受けた「嘘のない物語」はありのままの自分を「それでもいいよ」と肯定し、長きにわたって人生を支えてくれる「しなやかな強さ」をもたらしてくれる。
〇「他人の価値観やルール」「他人の感情」「他人に奪われる時間」を手放し、「自分の価値観やルール」「自分の感情」「自分の時間」を発見し、取り戻すことが必要である。
〇今の社会は、自己肯定感が得づらく、生きる意味を見つけにく。他人や社会のルールを受け入れ、自分のルールよりも優先させ、必要以上に我慢しているからである。
〇「いい学校を卒業し、いい会社に入って出世し、何自由ない暮らしをするのが勝ち組の人生」「社会人は、何よりも仕事を優先すべき」などといったメッセージが社会にある。こうしたメッセージは、誰かが考えた価値観やルール、生き方を一方的に押し付けられ、時に、自分らしくあることを否定され、様々な我慢を強いられる。こうした他者の価値観に適応しすぎて、自分が我慢していることにすら気づいていない人もたくさんいる。しかし、ある程度年齢を重ね、ふと人生を振り返った時、もしくは自分がそれまで信じ込んでいた価値観が崩れるような出来事に遭遇した時、「今まで自分は何をしてきたのか」「」自分の人生は何だったのか」と愕然とし、アイデンティティが崩壊するほどのショックを受け、虚無感に襲われる。
〇では、自分らしい人生や自分らしい価値観を取り戻すにはどうしたらいいのか、そのために必要なのは、人間関係の在り方を見直することである。人生において、もっとも重要で最も厄介なものは、人間関係だからである。
〇好ましい人間関係は、とにかく公平(フェア)で穏やかである。この人間関係の比重が高いと、「自分は自分のままでいてよいのだ」「たとえ欠点だらけでも、失敗だらけでも、大きなことを成し遂げられなくても、自分や自分の人生には価値があるのだ」と感じられるようになり、心が安定する。逆に、好ましくない人間関係は、他人のルールであなたを縛りつけ、あなたの価値を勝手にジャッジし、あなたの時間やエネルギーをひたすら奪う。常に自分は我慢していることになり、日々の生活に喜びを感じられなくなり、絶望感や虚無感に襲われるかもしれない。
〇世界は、「自分が責任を持って守るべき領域」と「他人が責任をもって守るべき領域」の2つに大きく分けることができる。自他の境界線をあいまいだと生きづらくなる。
〇境界があいまいになると、自責傾向や他責傾向が強くなる。自責傾向がある人は、心をすり減らしてしまう。他人の何気ない一言にも「自分が攻められている」と感じやすく、どうしても自己評価が下がりがちになり、自己肯定感も持ちづらくなる。他責傾向の強い人は、本来自分が守るべき領域よりもはるかに狭い範囲を自分の責任領域だととらえて他人を責め、「なぜ、自分ばかりがこんな目に」と生きづらさを感じてしまう。
〇モヤモヤしたものを感じたら、その関係性は公平ではないかもしれない。自分の感覚や気持ちに素直になり、心の声に耳をすまし、「ラインオーバーされている」と確信したら、その事実をしっかり認め、受け入れる。
〇相手の行動に対し、もしあなたがもやもやしたものや不快感を覚えたなら、それは確実に、あなたにとっては、ラインオーバーである。ラインオーバーかどうかわからない場合は、第3者に相談してみる。
〇ラインオーバーがあったら、アイメッセージで気持ちを伝える。話すタイミング、相手が落ち着てい話せるタイミングを選ぶ。相手への気遣いや感謝の言葉を添える(聞いていただいてありがとうございます)。相手の言い分も聞く。さらに、誠実に伝えても、相手に聞く気がなかったり、ラインオーバーした場合、距離を置く。
〇人それぞれ考えや価値観は違う。そこに違和感を感じるのは、「この人の考えや価値観は自分とは違う」と察知した時になるアラームのようなもの。アラームが鳴ったとき、心身がいったん立ち止まって、しっかり考えようというメッセージを発していると考える。この違和感は何かを深く理解するチャンスである。そこで、受け入れるか受け入れない、折り合いをつけられるか考えられる。
〇多少、悪口を言うくらいのほうが、少なくとも自分に対しては正直で、むしろ自分にうそをついて悪口を言わない人よりも健全かもしれない。
〇もし誰かのことを苦手だと思ったら、それが家族や恋人だったとしても、接する時間をいったん減らし、好ましい人たちとの人間関係の割合を増やし、自分の心と身体がどう反応するかを、じっくり感じる。
〇相手の性格は変えられないが、関わる人間関係の割合は自由に変えられる。自分を尊重しない相手から距離を取り、自分を大事にしてくれる相手をより大切にする。それが自分自身を大事にするということ。
〇謝罪や反省は、謝罪する側の領域であり、責任をもって行う必要があるが、「許すかどうか」はあくまでも相手側の領域である。相手に与えた迷惑を認め、その痛みを真剣に慮ることである。どのような態度でどのように行動すれば、お互いにとってよりよい状況になるのかを、対話をしながら考えつくす。これがフェアな謝罪のありかた。目指すゴールは、「お互いにとってよりよい状況」である。
〇謝罪をする、相手が納得していなければ何に納得していないのかを検討し、相手が求めている内容が、客観的にみて、妥当で公正であれば、無理なく応じられる範囲であれば、受け入れてもよい。そうでない場合は、相手の関係性自体を見直したほうが良い。
〇心が弱っているときは、自分をジャッジする人から離れる。
〇社会には不公平なトレードがあふれている。会社こそ、不公平なトレードに満ちている。「社会人は~であるべき」「管理職は~すべき」といった一方的なルールを押し付け、あなたの領域を平気で侵害し、あなたの時間や能力、さらには、価値観やルール、幸せで穏やかな生活、人生そのものさえ奪っていく。
〇「ミッドライフ・クライシス」。「競争に勝ち、いい学校、いい会社に入って出世することと言った、時に自分を犠牲にしても、会社に貢献するなどを正しい、幸せと信じて生きてきた人が、人生の後半に差し掛かった時、それまでの生き方に疑問を持ったり、価値がないと感じたりすることがある。同時に、「今、自分がやっていることは、本当に自分が求めていることか」と自分の人生のあり方や意味を問い直さずにいられなくなる。
〇特に、頑張って会社や社会に適合してきた人、つまり「自分の中にインストールされた会社や社会のルールを、疑うことなく素直に受け入れてきた人ほど、ミッドライフ・クライシスに陥りやすい。もちろん、社会や会社のルールを自分の中に適度にインストールしておくことは、社会や会社で生き延びていくためには、ある程度有用なこと。しかし、それら(社会で成功すること、競争に勝つこと)をフルインストールして自分の価値観を完全に上書きし、人生のコントロール権を手放してしまうのは考えものである。
〇会社や社会の価値観、ルールは、決してあなたを本当の意味で幸せにはしてくれない。それらは、基本的には競争原理に基づいているから。競争に勝てばお金や名誉が手に入り、一時的に自己評価が上がるかもしれない。しかし、そこには常に「今度は負けるかもしれない」「負けたらどうなるんだろう」という不安が付きうし、実際に永遠に「勝ち続ける」ことはできない。競争に勝つことで得られる幸せは、決して長続きしない。
〇会社や社会からの要求にこたえられている間は、承認欲求が満たされるかもしれないが、競争に負けたりミスをしたり「欠点」がクローズアップされると、たちまち厳しい評価が下される。
〇例えば、銀行の融資担当者が優秀と評価されるとする。その評価のベースは、「融資の額が多い、融資のジャッジが的確である」ということだけであれば、単に「銀行員として優秀である」「融資の技能、会社の中で役に立つ技能が優れている」ということでしかない。もちろん、技能が優れているのは誇るべきことであるし、技能を伸ばすことで得られる幸福も大事。しかし、技能はあくまでもその人の1面にすぎず、非常に環境依存的、一時的なものである。
〇なにより、会社員としての技能や勝ち、評価がどれほど高まっても、定年退職すると同時に、それらははぎとられてしまう。こうしたことは、不公平なトレードによって損をさせられがちな人だけでなく、会社や社会のルールを利用して、多少なりとも「おいしい目」を見てきた人にも等しく訪れる。
〇ミッドライフ・クライシスや定年退職後の虚無感に襲われないためには、「会社や社会が「是」とする価値観は、あくまでも他人の都合で考えたものであり、自分を本当に幸せにしてくれるとは限らない」ということに気づくことである。
〇私たちはお金と我慢をトレードするために働くのではない。人間の脳は、パソコンのハードディスク。そこに、親や教師、会社の上司、メディアなどによって、様々なソフト(価値観やルール)がインストールされて、私たちの思考や行動のもとになっている。そうしたソフトの中には、不良ソフトが混じっている。例えば、「我慢は美徳」というのは、他人に我慢をしてもらったほうが都合がいい人たちの勝手なルールに過ぎない。もちろん、社会でうまく生きていくうえで、我慢というスキルが必要になることもある。しかし、それが短期的にはつらいことがあっても、長期的にはそれを上回るメリットがあるときに限って発揮されるべきスキル。
〇我慢スキルというのは、ゲームでいう守備力。守備だけが高いキャラクターは、敵の攻撃を一身に受けるサウンドバック役になってしまう。それを望むのか?「我慢」はあくまで手持ちのカードの一枚に過ぎない。すべての局面を乗り切れるほど便利なものではない。
〇ブラック企業、どれほど理不尽な状況に置かれても、「人生には我慢も大事」「自分さえ我慢すれば」などと考え、身体が悲鳴を上げていても「このくらい我慢できなくては生きていけない」と思ってしまう。その「まだ我慢が足りない」は果たして正しい認識なのか。これは明らかに、生存戦略として誤っていて、非常に危険な状態である。人間の脳は、自分が理不尽な状況に置かれ、辛さを感じると、何とかしてラクになろうとする。つらい状態を「つらい」と認識したままいつまでも続けるのは不可能だからである。本来なら「理不尽な状況を変える、逃げ出す」というのが、最も健康的な解決方法だが、それらを実行しようと思ったら、大きなエネルギーが必要になる。状況を変えるには、多くの人にとって不安や恐怖心を抱く。よって、つらい状態をつらくないと考えるようになる。また、怒りや悲しみ、つらさなどの感情を自分で抑えようとしたり、人に伝えずに我慢したりしているうちに、自分の欲求や気持ちがだんだんつかめなくなっていく。これはただ、心にふたをしているだけ。なかったことにされた「本来の感情」は、蓋の下でたまり続け、徐々に圧力を増していき、いつか必ず爆発する。
〇例えば、「会社に向かう電車の中で、突然涙が出る」といったように、心身の不調となって表面化する。ストレスによって、自律神経が乱れ、身体症状が現れることもあれば、うつ状態になる場合もある。こうした状態は、「このままだとあなたの心と身体は崩壊しますよ」とうアラームが鳴っている状態だと理解する。
〇我慢は美徳と考える人は、「お金は、「苦労」や「我慢」の代償として支払われる」という思考がベースにある。
〇我慢することで、自分に得られるもの(メリット)があるかどうか。そのメリットを自分が欲しいと思っているかどうか。そのメリットが、自分の支払うコスト(お金、時間、エネルギー、ストレスなど)に見合っているかどうか。我慢しなければならない期間が決まっているかどうか。をきちんと吟味する。もし支払うコストに見合うメリットがなく、期間が決まっていなかったり長すぎたりするようなら、それは不公平なトレードといえる。自ら結論を出し、NOをつきつけたほうがいい。
〇罪悪感という感情は、「我慢は美徳」といった価値観やルールと並び、あなたに不公平なトレードを強いる「内なる敵」のひとつ。例えば、「自分の一言が誰かを傷つけてしまった」という罪悪感を抱くことはある。まず知っておくことは、「罪悪感とは、実は自己中心的な感情である」ということである。罪悪感という感情には、「関係を修復する役割がある」といわれているが、その感情にとらわれすぎると、相手の関係がうまくいかなくなる。きわめて厄介な感情。
〇罪悪感にかられやすい人は、他人に対して常にものすごく気を使っている人。気づかいとは、2つの種類があり、ひとつは、自分が嫌われない、傷つかないための防衛的な気遣い。もうひとつは、自分のことは置いておいて、純粋に相手にとってプラスを考えた気遣い。前者の防衛的な気遣いが圧倒的に多い。その防衛的な気遣いが、必要のない罪悪感を生む原因となっている。「自分が嫌われたらどうしよう」という思いである。
〇必要のない罪悪感を抱えると、本当は望んでいないのに、相手の言いなりになってしまうことがある。なぜなら、罪悪感というものは、他人をコントロールするのに利用されやすい感情だからである。
〇私たちが抱く罪悪感は、実際には、”ほかの人からネガティブな感情を向けられることへの恐怖”である。他人からネガティブな感情を向けられることに耐えられず、自分自身の罪の意識にも耐えられないのから、自分の身に火の粉が降りかかるのを避けようと、考え得ることはある。だから、他人に見つかる前に、自分の不完全さを補うことに注力することや、周りの人に望まれているであろう自分でいようとする戦略をとるかもしれない。その戦略が、罪悪感という不快な感情を避ける助けとなるよう望んでしまう。それが緊張感となり、かえって、心地よい気持ちから遠ざかることになる。
〇罪悪感は実は自分勝手で、関係改善に役に立ちにくい感情であるということを前提に考える。そうすれば、「なにもかもすべて私が悪い」という罪悪感の檻にとらわれ、置かれている状況を正しく判断できなくなるリスクは下がる。
〇罪悪感によって他人にコントロールされることを防ぐために、物事の優先順位をつけ、その順位付けを忠実に守る。相手の要望や期待が、自分の望むもの、自分がここと良いと感じられるものでないときは、自分の心の声を優先し、断るという選択肢を常に持つ。適度に、他人の都合よりも自分の都合を優先する。そうした体験の積み重ねが、自己を肯定する力につながり、本当の意味で他人と健全な関係を構築する能力のベースになる。
〇人生は、「ほどほどにポンコツ」がちょうどいい。「社会や職場で「良い」とされているものを目指しすぎない」ことである。不公平なトレードや一方的なルールを押し付けてくる人間関係にNOを言う。
〇社会から、「一流、勝ち組」といわれるコースがある。いわゆる一流と思われることである。こうした社会や会社から、一方的に、順位付けが行われ、そんなが同じポジションやコースを目指すことに、様々な問題の原因がある。
〇「そのコースを歩み、そのポジションを得ることこそが良いこと、評価されるべきこと、立派なことである」という幻想が、「他人を蹴落としてでも、勝ち組になりたい」という欲望を生み、それ以外の道を歩む人に「このままでいいのだろうか」「自分に価値はあるのだろうか」という不安や焦燥を感じさせるからである。それに対し、「無理に頑張って、一流や勝ち組を目指す必要はない」「そこそこにポンコツな人生は、結構、楽だ」ということである。「会社や社会でいいとされているから」「高く評価されるから」という理由で、歩むコースや目指すポジションを選ぶのは、少々リスキーだと。「一流」「勝ち組」といわれているものは、多くの人が「良い」と判断しているものであり、安心感がある。しかし、結局、それは、誰かが決めた価値基準の一つ。何を「良い」とするかの暫定的な補助線にはなってくれますが、変化の激しい時代において、死ぬまでアテにしていい、絶対的に強固な価値観ではないと考えておくほうが現実的。
〇みんなが目指すコースは何となく安心ですが、そこに関係している人達があまりにも多く、踏みとどまるためにはあらゆる人の期待にこたえ続けなければいけないし、どうしても競争が激しくなる。王道を歩むための維持コストは、ものすごく高くなる。でも、そこから少し横道にそれるだけで、ものすごく楽な世界が広がっていたりする。「みんながやっていることをちゃんとやろう」という感覚が薄らぐこともいい。
〇「怠惰は美徳」。サボること、手の抜き方を覚えると、「サボりたくないこと」「手を抜きたくないこと」が明確になる。
〇総体として自分の幸せに近づく道を見つけたら、ぜひ自信を持って歩く。みんなが「いいだろう」と思うものを選択せず、ちょっとだけ「邪でわがままな考え」を入り込ませることは、誰にでも可能である。誰かのために生きる必要はない。
〇「自分のルールに基づいた自分らしい人生」を取り戻す。一人でも多くの人に、自分のルールに基づいた自分らしい生活、自分らしい人生を取り戻し、自分の物語を生きていく。そのために、自分と他人の間にある境界線、自分が責任をもって守るべき領域をしっかり意識し、ラインオーバーしたりされたりすることに敏感になること。また、知らず知らずのうちに自分の脳内にインストールされている、他人や社会から押し付けられた価値観やルール、を見直し、不公平なトレードに気づく。さらに、ラインオーバーを繰り返す人や不公平なトレードを持ち掛けてくる人には、できるだけ距離をとる。という、「人間関係の見直し方」「会社や社会の価値観、ルールの見直し方」である。
〇では、「自分のルールで生きる」とは、どういう風に見つけるか。まずは、「自分に合わないもの、やりたくないことを見つけ、NOを言うことから始める」ことである。嫌なことを見出すことで、その先に、自分に合うものややりたいこと、自分のルールなどが見えてくる。
〇自分のルールで生きる、自分の物語を生きるというのは、結局のところ、「自分を喜ばせる時間やエネルギーをできるだけ増やしていく」ことである。必要以上に我慢をしないこと、自分のルールで生きることは、決して他人のことなどお構いなしに、わがまま放題に振舞い、全てを自分の想い通りにすることではない。あくまでも、自分のルールを振りかざし、周りに自分勝手な要求ばかり突き付け、他人に我慢を強いるのは、他人の領域へのラインオーバーになる。あなたが自分のルールで生きるために、他人が自分のルールで生きるのを妨げてはいけない。お互い、自他の境界線、自分の療育と他人の領域を尊重し合い、公平な関係性を保とうと努力する。
〇「やりたいことがあることはいいことだ」という思い込みを捨てる。
〇「会社でバリバリ働いて出世し、お金を稼ぐことが、自分の人生の夢であり、目標であり、果たすべき役割だと思って、これまで生きてきた。しかし、ある程度出世を果たし、財産をも築いたのに、何かが違う気がする。人生ってこんなものなのか、これが本当に自分が求めているものなのか、と、最近ふと思うようになった」という違和感は、社会などから、他人の価値観に基づいた「やりたいこと」を追ってきたという点である。他人の価値観をベースにした「やりたいこと」は、たいてい地位材を得ることを目的にしたものであり、競争の激しいコースを歩ませようとするものになりがち。それらは、一時的な人生の目標や充実感、達成感、満足感などを与えてはくれるものの、長期的な幸福感をもたらす約束まではしてくれない。しかし、人はなかなか「自分が本当にやりたいこと」と「他人に押し付けられたやりたいこと」を区別することができない。これは、「ミッドライフ・クライシス」の原因のひとつ。
〇やりたいことが見つからない人の多くは、「他人に押し付けられたやりたいこと」に目くらましをされている可能性がある。自分の正直な気持ちを認めることこそが、第一歩。
〇「本当の生きやすさ」は、競争や実力とは関係ないところにある。人間には、もともと闘争本能や承認欲求が備わっている。よって、競争させられたり他人から評価されたりすると、たいていの人はやる気が刺激される。いい面もあるが、デメリットもあり、常に競争にさらされ、他者から評価される。よって、競争に勝たなければという価値観が受け付けられる。競争に勝ち、高い評価が得られた時には、自尊心や承認欲求、名誉欲が満たされるが、世の中には、「上には上がいる」し、心身の状態は、いいときばかりではない。
〇どんな超一流でも、いつか人生のどこかで必ず「弱者」になる。競争に負け、評価が下がると、自分はダメな人間だ、自分には価値がないと思うようになる。実際には、競争に負けようが他人からの評価が低かろうが、その人が存在することとそのものの価値とは全く関係がないが、つい混合してしまう。
〇自己肯定感(完璧でなくても優秀でなくても競争に負けても、自分はこれでいい、自分は自分であって大丈夫という感覚)がないと、どれほどいい会社や学校に入って、重要なポストに抜擢され、成果を上げても、「うれしい」「認められた」と喜ぶより、「なんとかノルマを達成できてほっとした」と思ってしまう。つまり、喜びより安心である。それも、つかの間の安心に過ぎず、すぐに、「次はうまくやれるだろうか」「もっと優秀な人が現れて、自分の存在価値がなくなる」といった不安にさいなまれる。競争の世界の中で、評価のプレッシャーに常にさらされている間は、いつまでたっても、「これでいいや」と思えない。
〇お金や名誉、肩書、家や車などの所有物のように、他人との比較によって満足感が得られるものを「地位材」、自由や健康、愛情など、他人と比べなくても満足感が得られるものを「非地位材」という。競争によって手に入れられるのは地位材、非地位材は、競争や評価とは無縁のところで得られることができるものである。地位材による幸福感は、非地位材による幸福感と比べて長続きしない。
〇よって、「競争の世界とのかかわりを一度見直し、自分にとって適切な距離で関わること」は、幸せに生きるための、かなり重要な要件。競争をどれだけ楽しめるかは人による。「たとえ負け続けても、勝負事が楽しくて仕方がない」という人は、好きなだけ関わればいい。しかし、そういうタイプでないならば、時には競争を楽しんだり、他人からの評価に喜んだり悲しんだりすることがあっても、それらは、あくまでも「人生のスパイス」程度だと考え、自分自身の価値を判断する基準しないほうが賢明。そのうえで、競争や評価とは無縁な人または世界とのつながりを大事にすること。さらに、自分の中の「欠損している部分」をそのまま受け入れ、愛してくれる人と出会えたら最高。
〇一度勝っても、競争は終わることなく永遠に続き、きりがない。勝ち続けなければ維持できない価値や居場所は、とても高コストで疲れてしまう。
〇頼まれごとは、いったん持ち帰る。余計なことを考えずに、自分の「快・不快」の感情に目を向ける。楽しそうだとイメージできたら、OK。そうでなければ、断る。
〇「人生」という物語には、「出来事」の部分と「解釈」の部分がある。例えば、慶応大学に入学できたとしても、一時的にはうれしかったが、はるかに優秀な人ばかりを目のあたりにして、劣等感にさいなまれるというネガティブな解釈をしてしまう人もいる。血のにじむような努力をし、それが報われても、なかなか自分を認めることができない。その結果、どんな素晴らしい出来事も、解釈がネガティブであれば価値はゼロになり、努力も無駄になる。こうした人は、たとえ、ハーバード大学だろうがスタンフォード大学だろうが、同じ解釈をする。良い方向を目指して発揮された努力は、それだけで尊いし、称賛に値する。しかし、それを自分自身で認めることができないのは悲しいこと。
〇たとえいい結果につながらなかったとしても、「あれだけ頑張ったことが、自分の糧になった。」「あれだけ頑張ったら、今の自分がある」「あれだけ頑張った自分をほめてあげたい」と思えるなら、その努力には大きな意味があり、決して無駄ではなくなる。しかし、「自分を認める」ことができないままだと、どれほど努力を重ねても、自分を肯定できないどころか、むしろ「あれだけ頑張ったのに、まだこの程度だなんて、だから自分はダメだ」と、自己評価をさらに下がってしまいかねない。そのようなネガティブな解釈は無駄であり、手放すべきものである。
〇こうしたネガティブなクセ、「だから私はダメなんだ」という、DWD病をもっていると、ありのままの自分を肯定することができない。「欠点だらけでも、できないことが多くても、存在しているだけで自分には価値がある」と思うことができないため、ほかの多くの人たちが価値を認めてくれそうな、立派な看板(学校や職業)を追い求める。しかし、努力を重ねて出した成果を認められ、褒められることで上がるのは「私は~ができる」という自己効力感や自己評価であり、それは「何はなくとも、自分は自分であって大丈夫」という自己肯定感とは異なる。努力の結果、看板を手に入れれば、一時的には満足し、自信を持ち、自己評価も高まるかもしれないが、こうした看板は、実は自分が本当に求めているものではなく、親や他人の評価を満たすものであるため、自分自身は満たされない。また、看板はあくまでも看板に過ぎず、その人自身の存在の価値とは待ったう関係がないため、褒められても、「うれしいけど、何かが違うという思いが付きまとい、時間が経てばたつほど、それは膨れあがっていく。しかも、多くの人たちが価値を認めてくれそうな看板は、当然のことながら人気が高く、そこには必ず競争が付きまとい、「人との比較」が発生する。世界は広く、必ず「上には上がいる」ので、競争や人との比較を続けている限り、心の底から満足することはできない。そのため、いくら努力して立派な看板を手に入れても、競争に負けたりうまくいかないことがあったりすると、すぐに「だから私はダメなんだ」と思ってしまう。これが、DWD病のメカニズム。
〇エリートと呼ばれ、地位や年収、プライドは高いものの、自己肯定感を持てず、自分の物語を生きられず、DWD病を抱えている人もたくさんいる。彼らは一生懸命ミッションをクリアすればするほど、世間からの評価だけが「身の丈」を飛び越え、空虚な風船のように膨れ上がる。その風船は、針の穴ほどの小さな少しのつまづきではじけ、「自分はダメなんだ」と悩み、落ち込んでしまう。
〇DWD病は脳の奥深くに潜むため、失敗したとき、自分の思考を注意深く観察して、「だからダメなんだ」という考えが浮かぶようなら、DWD病の可能性がある。
〇「だから私はダメなんだ」と落ち込んだり、世間からの評価に一喜一憂したりする時間を減らすには、「ダメなところも、自分の愛すべき一部」と感じ、そんな自分をありのまま認める時間を過ごし、どんな失敗も面白がる。
〇「何はなくとも、自分は自分であって大丈夫」と思う。他人の価値観やルールにNOを言い、自分のルールに基づいて自分の物語を生きる上で、非常に、重要なのもののひとつが自己肯定感である。自己肯定感とは、「何はなくとも、自分は自分であって大丈夫」という感覚。たとえ欠損や欠点だらけでも、誇れるものがなくても、そんな自分自身を丸ごと受け入れ、愛することができることが、自己肯定感である。
〇自己肯定感と自己評価は違う。自己評価とは、「自分の能力、仕事の成果や努力、用紙などに対し、外部から取り込んだ一定の価値基準(物差し)をもとに、自分自身が下す評価(ジャッジ)である。例えば、「自分は優れている、自分は~を成し遂げた人生には価値がある、私は劣った人間である、何も成し遂げなかった私の人生には価値がない」などは、いずれも自己評価にあたる。厳しい評価をするのが他人であれば、その人と距離をとればいいが、評価を下すのが自分自身だと、そういうわけにいかず、厄介である。例えば、何事も100点を取らないと許せないという自己評価を持つなど。。。
〇自己評価が低いと、「自分なんてダメなんだ」と当然のごとく、自己肯定感も持ちづらい。しかし、自己評価が高いからといって、自己肯定感が得られるわけではない。自己評価が高い人は、自分の仕事の成果や努力、容姿などについてはそれなりのものであるという自負はあるものの、評価から切り離された時の自分を認めてあげることができないし、基準を満たしている間しか、「自分をOK」だと思うことができない。つまり、評価が高かろうと低かろうと、評価するのが他人であろうと自分であろうと、他人の価値観やルールで生き、「評価」というものに縛られ振り回されているかぎり、人はなかなか自己肯定感を得られない。自己肯定感を持てないと、他人の評価によって自分にOKを出そうとするため、ますます他人の価値観やルールに縛られるという悪循環に陥ってしまう。逆に、他人の価値観やルールにNOを言い、自分のルールで生きているようになると、「評価」にふりまわされにくくなる。それが、自分を肯定できるということ。自己肯定感があると、自分で自分を責めなくなり、失敗しても「まあ、いいや」「なんとかなるだろう」と思えるようになる。自分の存在と自分の行いを、切り分けて考えられるようになる。自己肯定感を得るためには、「自分を一方的にジャッジせず、自分の欠損や欠点を認めてくれる、信頼できる他人の存在」が欠かせない。自分一人の力では、なかなか自分を肯定することができない。信頼できる人との間で、「NOと言っても大丈夫」という体験を積み重ねる。
〇自己肯定感を得られるポイント
→一人でも二人でも、自分を欠点ごと受け入れてくれる、信頼できる他人がいること(他人への信頼)。
→そのような他人が存在する「世界」そのものを信頼し、世界とのつながりを感じ、「世界は決して怖くない」「自分は世界とつながっており、ひとりではない」と思えること(世界への信頼)。
→そのような他人と世界の存在をよりどころにし、「自分は自分であって大丈夫」という、自分自身への信頼感を抱くこと(自分への信頼)。
というこれら3つが、必要不可欠。
〇本来望ましいのは、親か家族が、最初の「信頼できる他人」になることである。
〇「この人なら、もしかしたら信頼を寄せてもいいかもしれない」と思う人に出会ったら、そう思った理由が何なのかを考え、なぜ合うのか合わないのかを、感覚だけ得なく、きちんと言語化する。そういう失敗やトライを積み重ねると、人を見抜く知性がはぐくまれる。
〇自己肯定感に対し、大事なことは、自分に対し、頭の中だけで、「なぜ」という問いかけを行ってはいけない。「なぜ」と問いかけても、前向きな建設的な答えは出てこない。結局は、「自分がダメだから」といった答えが導き出され、それを自分自分で疑うことができない。さらに、その答えが脳内で反芻・強化され、あなたの自己評価は下がる。
〇自分を客観的に省みる。自他の境界線や自分が守るべき領域、自分が本当に求めているものがわかってくる。思考の外在化である。=紙に出す。
〇心身のバランスを崩して休職中の場合などは、「自分の身体的ニーズ」を書き出す。
〇誰でも完璧にはなれない。ある程度で自分を許す。
〇他人の忠告やアドバイスを自分の感覚でしっかりと吟味し、向き合わなくていいもの、聴くべきではないものは捨て、向き合うもの、聴くべきものについては誠実に耳を傾けるというのも、人が成長するうえで、欠かせないプロセス。
〇NOを言える人になるということは、自分のルールで生きることと、ただわがままに生きること、自分勝手に生きることとは異なる。あくまでも目指すべきは、他人とフェアな関係を作ること。
〇ただたんに、給料に見合う範囲の仕事を、「やりたくないから」という理由で断ったら、それはただのわがまま。しかし、自己評価を下げるような尊厳を奪うような発言をする人などに対しては、きちんとNOといい、距離を置き、心身を守る。
〇「自分も含め、人間は決して完ぺきではない。弱い部分やずるい部分もある。失敗や間違いをおこあすこともある。人にはそれぞれ事情があり、そこを考慮せずに、一方的にジャッジし攻撃するのはラインオーバーである。」。よって、正義感、正しさというのは、危ない考えである。
〇快く過ごすために率先して嫌なことから逃げよう。
〇体が出すシグナルに敏感になる。会わないもの、苦手なものを前にすると、身体は実は非常に正直に反応してしまう。しかし、思い込みや作られた感情にどうしても支配されているため、頭(脳)は気づいていないことが多い。身体に備わっている神経系センサーはかなり優秀で、その環境から発せられるあらゆるシグナルを感知し、そこが自分にとって安全かどうかを判断している。そこが自分にって「危険な場所」「不快な場所」だと判断した時に、「なんかしんどい、吐き毛がする、よくわからなけれどおなかが痛い」といった拒否反応がでる。これは、理性や理屈を凌駕した「野生の感覚」である。
〇野生の感覚を磨けば、「合うもの」「合わないもの」を感覚で判断できる。例えば、「気持ちいいな」「気分がいいな」と感じる瞬間があれば、「それをさらに良くするにはどうしたらいいのか?何がなくなればもっと良くなるだろうか?」といったことを想像する。気持ちがいいという感覚に浸りながら、そうした空想をひたすら続ける。このとき、なぜ気持ちがいいのか、悪いのかを考えない。言葉で考えようとすると、野生の感覚からはそれてしまうから。また、「合わないもの、苦手なもの」を見分ける方法は、「体感時間が長いかどうか」。好きなこととそうでないときでは、同じ1時間でも、感じ方が異なる。
〇年齢や性別といった枠組みに惑わされない。自分を縛っている価値観や、自分を閉じ込めている枠組みが何なのかをつきとめ、それが本当に今の自分にとって有用なのかを検証し、「不要だ」とはんだんしたら、削除したほうがいい。最新の寛容に合わせ、どんどんアップデートしていけば、今までは思いもよらなかった景色が目の前に広がる。それが、自分の物語を生きる第一歩。
〇落ち込んでいるときに、重要な意思決定はしない。自分には価値がないという環境下では、消極的な選択をしてしまう。だからこそ、先延ばしする。
〇自分を取り戻せる「休み方」を知る。
〇「自分が今、快いと感じているのか、不快に感じているのか」「自分が本当に何を楽しいと感じるのか」といった自分の本来の感覚や感情よりも、「他人によって都合の良い価値観、ルール」を優先したからこそ、彼らは自らの心身を、崩壊するまで酷使するにいたってしまったからである。まとまった休みには、普段自分を縛っている価値観、ルールを見つめ直し、いらないものを捨て、その奥に眠っている自分が本当に大切にすべきものを発見して、生き方のフォームを大幅にチェンジできる可能性がある。人生の主導権を取り戻す、大きなチャンスになりうる。多くの人には、「休む」ことを「逃げ」だと考えていますが、私はむしろ、かなり実験的でドラスティックな「攻め」の試みである。
〇少ししんどくなると、すぐに脳がオーバーヒートして、過去の傷や、煩わしい人間関係や、将来に対する不安など、不穏な暗い「もやもや」に頭の中が占拠される。よって、何か没頭できるコンテンツを、浸れるものを見出す。そうすると、余計なことを考えなくてすむ。
〇人間関係であれば、相手に対し、「この人が好き、この人といると楽しい」という気持ちが自然に生まれる場合は、快を感じている。人間関係に限らず、人生や生活のあらゆる面において、「快・不快」の感情をきちんと把握することは、自分のルールに基づいて自分の物語を生きていくための土台である。自分にとって、何が快であり不快であるかに気づけば、自分に必要なもの、不必要なものがわかる。命あるものは、よりよく強く生きるよう定められている。
〇人間にとって「可能性が阻害されない環境」の土台になるものは、「安心」である。「安心」の土壌があれば、自然に趣旨は目を出し、枝を伸ばしていく。この安心というものが、とても身体的・神経的なプロセスを通した感覚である。「身体の声を聞く」ということがあるが、私たちは自らの身体が感じる快・不快を通じて、安心できるかそうでないかを判断し、自分にとって良いもの、必要なものを知る力を持っている。
〇頭が求めていることと身体が求めることが違う。例えば、働きすぎて、もしくは仕事の内容が合わなくて、身体が限界を訴え、「朝起きられない」「出勤しようとすると吐いてしまう」という拒絶のサインを発しているのに、頭で「社会人であり給料をもらっている以上、働かなければいけない」「やりがいのある仕事だから頑張らないと」などと考えて頑張り続けてしまうのは、身体の声を無視して頭で考えたことを優先させてしまっているケースである。
〇身体は常に周囲の状況を判断し、安心を感じているときはリラックスし、危険だと感じているときは緊張するようにできている。緊張状態は身心に大きな負担をかけ、計画のために多大なエネルギーを消費する。不快な情動というのは、身に起こっている何かしらの危険を察知しているために起こる。それらの反応は、自律神経が担当している。非常に「動物的」で素早く、得てして頭が考えた判断よりもよほど正確である。そして、不快な状態があまりに長く続くとエネルギーが枯渇し、身体は、今後は省エネのため「フリーズモード」に入る。無抵抗・無気力になり、あらゆる刺激に対する反応を鈍くすることで防衛しようとする。現実感を薄めて、「心に麻酔をかける」ことで生存確率を上げようとする、自律神経の働きがあるためである。「自分の快・不快がわからない」という方は、こうした「フリーズモード」に入ってしまっていることが少なくない。(「不登校」という現象は、まさにこの防衛的な自律神経のフリーズ反応が大きく関わっていると指摘される。)
〇もちろん、社会で生きていくためには、頭で考え、合理性や効率性を追求することも大切である。しかし、「頭で理解できることなどたかが知れている」という感覚も忘れてはならない。頭で考えた「正しいこと」「効率的なこと」を優先しすぎることで、かえって自分自身が「本当に求めるもの」がわからなくなってしまうことがよくある。頭で「正しい」「効率的」と思っていることも、多くは社会や他人の考えを内在化しているものであり、自分のリアルな身体感覚に結びついているものではなかったりする。
〇「社会的からの要求に応えられた」という一時の満足感は得られるかもしれないが、それが本当に自らの心身が欲するものでなければ、一つの生命体としての根源的な充実感を得るのは難しい。なぜなら、人間は動物だからである。あえて対比するならば、「人間」的な思考と、「動物」的な感覚とが、うまく調和してバランスが取れている状態が、生命としてより健全で機能的である。しかし、現代人はどうしても「思考」のほうに偏重しがち。
〇身体の声を聞くためには、頭と体を休めるために、「空白の時間を作る」ことである。特に、「動機がする」「ねむれない」「頭が痛い」「気持ち悪い」などはストレスを受けている、この状態は不快であるという、身体からのメッセージであり、決して無視せずに、何らかの対応をしてあげる。
〇休むには、スマホを手放し、なるべく自然が豊かなで静かな場所に生き、まずは1時間だけでいいので、ベンチに座って、ぼんやりと呼吸・深呼吸だけをしてみる。足元から吸い込んだ空気が、身体の中のいろいろな「イやなもの」と一緒に頭の先から吐き出して抜けていくようなイメージをもってやってみる。
〇毎日、少しでも身体のための空白時間を作り、身体の声を聞く。
〇自分の感覚を信頼できるようになることは、環境や人間関係の選択の幅を広げ、自分の物語を生きるうえで、とても大きな力になる。