田中克彦の作品一覧
「田中克彦」の「漢字が日本語をほろぼす」「言語学者が語る漢字文明論」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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小説・文芸
Posted by ブクログ
ウラル・アルタイ語――ハンガリー語もフィンランド語も、トルコ語もモンゴル語も、朝鮮語も日本語もこの仲間。本書はウラル・アルタイ語の類縁関係の発見と研究の歴史をたどる。英語や印欧語からものを見ることに慣らされてしまった者(たとえば私)にとっては、発想(視点)の転換を迫られる。ウラル・アルタイ語から世界史を見直してみることもできそうだ。
田中「節」は健在。ほかの研究者への棘、ちょっとした脱線、そして個人的なエピソードが織り交ざる。随所に挟まれるトリビア、これが堪らない。
ただ、ツラン主義の章はついていけなかった。本書のタイトル『ことばは国家を超える』はこの章に由来する。
アルタイ語にはラ行が語頭に来る単語がない。あっても、それは外来語。日本語もそうなのか? 早速、広辞苑。ほんとだ。ラ行はカタカナ語か漢語しかない!
Posted by ブクログ
▼素晴らしい本です。馬鹿を承知で煎じ詰めると、方言がことばであり、文法とか正誤など些事であり、そこにヒトの愛着と歴史があり、国家なんぞ超えた普遍の価値がある。国家は国家のために言語にマルバツをつけてレッテルを貼るが、それはそれそのように理解せねばあかんぞな、というような。
▼(引用)人の精神には弱いところがあって、何かきちんとした数字が示され、それが教科書などに印刷されると、やっと落ちついた気分になって安心できるというところがある。
▼(引用)言語とは、それを構成するさまざまな諸方言をまとめて、その上に超越的に君臨する一種の超方言とする考え方である。それは頭のなかだけで描き得るきわめて抽象的なものであるから、誰にも話されていない、いわば日本語という名と、それについての観念とだけがある抽象言語とも言えよう。したがって言語とは、多かれ少なかれ頭のなかだけのつくりものである。別の言いかたをすれば、言語は方言を前提とし、また方言においてのみ存在する。それに対して方言は、言語に先立って存在する、よそ行きではない、からだから剝がすことのできない、具体的で土着的なことばである。それが観念のなかのことばではないという意味において、首都で話されている日常のことばは、厳密な言いかたをすれば、極度に観念のなかの標準型に近づけられた首都方言である。
▼スカして言えば、「そうに決まってるやんか」ですが、それをねっとりと情熱プラス実証で語る本書は、時を超えて残したい名著です。しかも平易です。たれでも読めます。
Posted by ブクログ
東欧からシベリアに至るまでの北方ユーラシアに居住する諸民族(アルタイ諸語を話す諸民族)の宗教的世界像、並びにその担い手であるシャマニズムについて解説した書。1巻に続く下巻となる本書では、シャマニズムの主役であるシャマン、そして諸々の儀礼についてを取り扱う。
本書は、20世紀初頭のフィンランド人宗教学者ウノ・ハルヴァの著書"Die religiösen Vorstellungen der altaischen Völker"(1938)の邦訳である。内容の概説・特徴については上巻である1巻のレビューを参照して頂くとして、後半となる本書は第十六章(「供養祭」)から第二十二章(「供犠と供犠祭」)までを収録、様々な儀礼行為や諸霊たち、そしてシャマンについてを概説する。
本書で特に目を引いたのは、狩猟に関する儀礼――それも熊狩りに際して行われる儀礼についての報告である。北ユーラシアでも最大の動物である熊の狩猟に際して、同地の人々は様々な呪的行為・儀礼を行ってきた。例えば、彼らは熊(の霊魂)の報復を避けるために、熊の鼻面や目・歯や爪を狩ったその場で解体することでその脅威を取り除こうとする。そして「お前を殺した(食べた)のは自分達ではない」と熊に対して言い含め、場合によっては熊の「不慮の死」を嘆いてみせたりカラスの鳴き真似をするなどして熊を欺こうとする。その一方、狩りを終えて集落に戻る際には熊を客人のように扱い、解体後の骨を丁重に葬ることで「熊がまた自分たちに狩られてくれるように、仲間の熊たちに歓待ぶりを伝えて自分たちのところに来てくれるように」と懇願する。かのフィンランドの国民的叙事詩『カレワラ』にて描かれた熊祭りの光景にも通じるこれらの作法は、北ユーラシアの狩猟民族の自然観・動物観を何よりも如実に示すものであろう。
Posted by ブクログ
“ことば”というものを“国家”との関係性で見つめることが無かったの自分に愚かさを感じさせられた。
“母語”はそこに暮らす“なかま”たちのコミュニケーションのための必然として生まれてきたものであり、それがそのなかまたち(民族)の文化を作り上げ継承してきたものなのだから、それを奪われたり、他の“ことば”を強要されることは、その断絶を意味することなのだ。だから、地域紛争は複雑で国家が操る政治で決着をつけようとすると必ず拗れることになる。
単一民族の日本人だからこのことを知らなかったのは仕方がないと、言い訳がましい言い訳を考えていたが、アイヌ、そして琉球で起きた“日本語”への統制の歴史を知らされ、彼等の嘆きを想像すると、
またしても、“国家”というものへの不信感を強め、それらにも思いが至らなかった自分の歴史観に愚かさを抱いた。
良書。見えなかった視点をくれた。