あらすじ
だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す。
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▼素晴らしい本です。馬鹿を承知で煎じ詰めると、方言がことばであり、文法とか正誤など些事であり、そこにヒトの愛着と歴史があり、国家なんぞ超えた普遍の価値がある。国家は国家のために言語にマルバツをつけてレッテルを貼るが、それはそれそのように理解せねばあかんぞな、というような。
▼(引用)人の精神には弱いところがあって、何かきちんとした数字が示され、それが教科書などに印刷されると、やっと落ちついた気分になって安心できるというところがある。
▼(引用)言語とは、それを構成するさまざまな諸方言をまとめて、その上に超越的に君臨する一種の超方言とする考え方である。それは頭のなかだけで描き得るきわめて抽象的なものであるから、誰にも話されていない、いわば日本語という名と、それについての観念とだけがある抽象言語とも言えよう。したがって言語とは、多かれ少なかれ頭のなかだけのつくりものである。別の言いかたをすれば、言語は方言を前提とし、また方言においてのみ存在する。それに対して方言は、言語に先立って存在する、よそ行きではない、からだから剝がすことのできない、具体的で土着的なことばである。それが観念のなかのことばではないという意味において、首都で話されている日常のことばは、厳密な言いかたをすれば、極度に観念のなかの標準型に近づけられた首都方言である。
▼スカして言えば、「そうに決まってるやんか」ですが、それをねっとりと情熱プラス実証で語る本書は、時を超えて残したい名著です。しかも平易です。たれでも読めます。
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“ことば”というものを“国家”との関係性で見つめることが無かったの自分に愚かさを感じさせられた。
“母語”はそこに暮らす“なかま”たちのコミュニケーションのための必然として生まれてきたものであり、それがそのなかまたち(民族)の文化を作り上げ継承してきたものなのだから、それを奪われたり、他の“ことば”を強要されることは、その断絶を意味することなのだ。だから、地域紛争は複雑で国家が操る政治で決着をつけようとすると必ず拗れることになる。
単一民族の日本人だからこのことを知らなかったのは仕方がないと、言い訳がましい言い訳を考えていたが、アイヌ、そして琉球で起きた“日本語”への統制の歴史を知らされ、彼等の嘆きを想像すると、
またしても、“国家”というものへの不信感を強め、それらにも思いが至らなかった自分の歴史観に愚かさを抱いた。
良書。見えなかった視点をくれた。
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言葉には話し言葉と書き言葉があります。
歴史的に見て、勿論話し言葉先にありました。
多くの人びとが文字によって自分の思うことを伝えはじめたのは本当に近年のことであります。
医学博士・野口英世の母は使い慣れない文字で外国にいる息子に、
すべてひらがなで、「はやくきてくたされ」と3度も繰り返しす一通の手紙を送りました。
明治の世ですらこのような状態でした。
でも、野口英世はその母からいろいろなことばを教わり、その世界を広めていったのです。
ここにことばに関する名著があります。
田中克彦著「ことばと国家」(岩波新書)であります。
「こどもが全身の力をつくして乳を吸いとると同時に、かならず耳にし全身にしみとおるものは、
またこの母のことばであった」著者はこれを母語とよんでおられます。
だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はないのです。
したがって、すべての母語は厳密にいえば皆違っております。
でもその地域の母語は概ねおなじでしょうが、他の地域とは異なり、
さらに民族によってはまるで違ってきます。
人類の歴史のうえではこうした状態が長く続いたことでしょう。
時代が下るとその地域を束ねる人がやがてあらわれてきます。
彼がやらなければならないことは沢山ありました。
時間、暦、尺度、貨幣など統一などですが、
何より急務はが文字を使ってのことばを統一することではなかったでしょうか。
一部のエリート層によって文字を書き、読む、
それを話し言葉でその内容を民衆に伝えるだけで十分だったのです。
この著書の中で、その特異な例として、
フランス語そしてユダヤ人のことばについて詳しくのべられています。
フランスという国はいわゆるフランス語の他に今でも
オック語、ブルトン語、アルザス語など多くの言語があるそうです。
しかし国内ではフランス語以外の授業がおこなわれることはほとんどない。
また名前もナポレオン法典にで示されたわずか500余りの名前しか使えないそうです。
ユダヤ人に関しては流浪の民といわれるように、彼らには固有の言語がほぼ失われてしまった。
イベリア半島のユダヤ人や中・東欧のユダヤ人(アシュケナージ)などは
その地域で生きゆくためそのことばに同化していかざるをえなかった。
つまり母語が時代、住む地域によって変わっていったのである。
ロシアに流れ着いたユダヤ人たちはレーニン、スターリンなどによって徹底的に無視された。
そのユダヤ人たちが、英国、米国の画策によってイスラエルという国を与えられた時、
彼らがまず直面したのがことばの問題であった。
中・東欧のユダヤ人の話言葉のイディシュ語だけでなく、
世界から集まったユダヤ人のことばさまざまであった。
そこで統一言語として使われたのが聖書にあるヘブライ語であった。
ヘブライ語は聖典にのみ使われる聖なることばで、
日常語として使われることばタブーとされていたのである。
そして今、ヘブライ語は母語になっているのでしょうか?
私はこの本を読むことによって、
ことばと文字がいかに時代、政治、社会によって変貌をとげるものかということを
目からウロコが落ちる思いで一気に読み上げました。
最後にこの言葉によって締めたいと思います。
『言語は差異しかつくらない。その差異を差別に転化させるのは、
いつも趣味の裁判官として君臨する作家、言語評論家、言語立法官としての文法家、
漢字業者あるいは文法的精神にこりかたまった言語学者、
さらに聞きかじりをおうむ返しにくり返す一部の新聞雑誌製作者等々である。』
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社会言語学というのか、とても面白くて理解が浅いながらもサクサクっと読んでしまった。古い本だけどおれ的には中身は古くない。
母語と母国語の違い、アルザスの最後の授業の話、ラテン語が「たえず変化することによって、新しい歴史的状況に適応していおうとすることばの性質に反して、文法とは、真の意味におけることばでないことばをつくる作業」により書き言葉として固定され死んでしまったこと、各地における方言に対する抑圧、イディッシュ語やピジン、クレオール語の成り立ちなどなど、興味深いテーマがぎっしり。
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20年以上前に書かれた言語の国家政策に関する名著。文章が非常に分かりやすく、説得力に富んでいる。
現代にも非常に重要な示唆を与えてくれる。言語がいかに政治と分かちがたいものか。
(2015.9)
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痛快な文体で国家とことばの関わりについて述べた本。「国語」の始まりは日本の西欧化と密接な関わりがあること、方言滅ぼし教育の存在があったことなど、日本の中央集権的国家語統制の確立の道具としての国語の存在という視点を学ぶことができた。現在の標準語を特に違和感なく使用している自分の普段の生活をあらためて振り返るための色んな考えを享受して頂きました。すばらしい名著だ!
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かつて、イタリア中部の一部属の話していたラテン語は、ローマ帝国の言語として、その支配地域と共に拡大していった。もちろん各地には、それぞれすでに話されていた言語があり、ラテン語は、支配階級の言語として、そこに覆い被さっていったのである。土着の言語はラテン語の影響を受けて、今日のロマンス諸語など俗ラテン語を形成していった。そして、ラテン語はその格式を守る為、より厳格に古典的硬さを強めていった。実は、このことこそラテン語の死を意味していたのである。ラテン語はローマ帝国唯一の書き言葉としてなお君臨し続けたが、もはや誰もそれを話さなくなってしまった。人の営みはその心と共に移ろい、くずれず、乱れず、変化しない言葉で、何を表現できるだろうか。言語は、それを話す人と共に、生きているのである。
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言語の分類は常に恣意的で、政治の力が働くということを
「フランス語」や「ドイツ語」、「イディッシュ」が形成された経緯を見ながら説明しています。
今現在の、例えばベルギーを見れば、国家における言語の果たしている意味というのはいまだ変わりません。
30年前の本ですが、時代に左右されない内容のみで構成されています。
人文系のタイトルですが、政治学に興味がある人こそは本書を読むと良いと思います。
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今ではなにげなく使っている、「国語」という言葉の成立過程のくだりには、はっとさせられ、言語と国家を切り離して考えることの難しさが、あらわれている。「母語」って言葉、いい響きですね。
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神です。
うちの学類に入学したら読まないとダメだと言われた。
ことばの在り方、国語という概念、今までの常識。
いろんなことを考えさせられた。
あたしの考えの根源にはこの本の影響が間違いなくある。
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すごくおもしろい!一応英語という言語に携わる職につくつもりなので、いい刺激になったぁ。母語と母国語の違い、とか何気ないことに気づいたよ。ゼミの先生に、イ・ヨンスクさんの師であると教えてもらって読んだ本なので、私の興味にストライクしました。これ読んで田中克彦さんに目覚めたので、違う本も読んでみたいと思います★
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2022年頃読んだ時の感想が出てきたのでアップロード。
間違った語彙の認識、と言われるものに対して、
金田一先生が言葉は生きていると言っているのをテレビで見た。最初はイマイチ腑に落ちなかった。
だってこれが正しいって教えられたし、辞書的に違うなら間違いじゃん、と。
私たち人間は文字が生まれるずっと前から、属するコミュニティに通じることばを話している。
文字や文法なんて習わなくても母から音で習うのだ。
それは自由で、しかも完成されたものだ。
コミュニティで問題なく運用されるから。
歴史の流れで文字や文法になっていったことばは化石化していく。
この本を読んで、著者と金田一先生の言っていたことの共通点を掴み、やっと腑に落ちた。
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読み終わってから、時間がだいぶ経ってしまったのであまり内容を覚えていないが、勉強になったことだけは確かだ。
「ことばがくずれていくのは、それが生きている証拠である。生きていくためには変化しなければならない。死んだことばは決してくずれず、乱れることがないのである」(p34)
言われてみればもっともである。時に新しい言葉の使い方は、「言葉の乱れ」などと批判されることがあるが、それは言葉が生きている証拠だと考えることにしようと思った。
時間が経ったとはいえ、忘れてしまうには早い。
忘れてしまったのは、しっかり理解していなかった証拠。ということで、時間があったら再読したい。
Posted by ブクログ
情熱的社会言語学入門書。概して入門書といえば基本事項をわかりやすく満遍なく抑えたものというイメージがあり、またそのようなものが求められがちだ。本書では時折、感情的な意見が客観性を欠いたかのように映る。しかし読み進めていけば言語の本質を真剣に追求した人間の息遣いに他ならないことに気づく。社会言語学のエッセンスもしっかり抑えられる。
Posted by ブクログ
社会言語学者の著者が、言葉と国家をめぐる複雑な問題を分かりやすく解説している本です。
言葉はダイナミックな政治の文脈に置かれており、そのことに早くから気づいていた言葉の研究者たちは、国家や民族といった言語外的な要因を慎重に取り除いていくことに注意を払ってきたと著者は言います。そして、まさにこのことが、微細な権力構造が言葉に投げかけている影についての精妙な眼差しを社会言語学が獲得することを可能にしたと言ってよいでしょう。本書で取り上げられている諸問題は、そうした言葉と政治の絡み合いを垣間見せてくれます。
Posted by ブクログ
丸谷某をはじめとした所謂日本の知識人への痛烈な批判の小気味良さは初めて読んだ時と今もって変わらない。
でも今回の再読で一番感じたことは、現在の否応なく巻き込まれているグローバルな環境、つまりは英語優先主義の現状をどのように見ているのだろうか?ということ。
アイデンティティーと深く結びつく言語の行く末を考えると、SF的世界を簡単に想像してしまう当方は完全に底の浅い輩と言うしかないかもね。
Posted by ブクログ
言語学は客観的な学問であり、あることばを徹底的に記述研究すればよいとする立場とは全く異なる、「国家がことばをつくる」、話しことばこそが言語の基本であることを前提とした言語学の観点からの本。特に琉球語に関する考察は自分にとって身近な例であり、全体主義・言語純粋主義のもとに少数言語を抑圧する国家的体制の歴史の中にそれらの置かれてきた境遇の悲しみを感じる一著でした。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。
その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。
国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す。
[ 目次 ]
1 「一つのことば」とは何か
2 母語の発見
3 俗語が文法を所有する
4 フランス革命と言語
5 母語から国家語へ
6 国語愛と外来語
7 純粋言語と雑種言語
8 国家をこえるイディシュ語
9 ピジン語・クレオール語の挑戦
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
○○語、ということばを想定した時点で、もうすでに国家という政治的な概念が含まれてしまっており、純粋な言語を取り出すためにはどのような困難が伴うかという言語学の基本的な問題について、母語と母国語、純粋言語と雑種言語、ピジン・クレオール、といった観点から分析している。ドーデの『最後の授業』の舞台となったアルザス地方の言語状況、フランスにおけるオック語とオイル語、世界に離散したユダヤ人のイディッシュ語とヘブライ語の復興などの具体的な事例が挙げられている。
琉球語が「琉球方言」にならざるを得ない状況、ラテン語やギリシャ語にしか文法はないと思われていた状況と同じことがピジン・クレオールの問題にも起きていること、英語もそもそもピジンであるということ、比較言語学が純粋という想像上のものを過程していること、話者にとっては言語に歴史的なものなどなくあるのは今の言語だけである、という内容が印象的だった。言語学を勉強している人は必読だと思う。(10/03/01)
1度読んだ本ということを忘れて、もう1度読んでしまった。こんなことは初めて。印象的だった部分を以下に記す。外来語を排除しようという動きを国家が行うことは多いが、市民一人一人が誰にもわかるようにという気持ちから母語を使おうとした西ドイツの大統領の話(pp.142-3)は印象的だった。それこそ今の日本では「マニフェスト」をはじめ、政治の重要な場面でカタカナが出てくるが、これこそ「教養ある階層と、我らの住民の広汎な大衆とのあいだの溝」であり、「民主主義にとって大変危険なこと」(p.143)ではないかという気がする。また、「ことばは近ければ近いほど差別感が生じ、遠ざかれば別の言語になりうる」(p.175)という「言語環境の法則」や、「学問や聖典のための専用にことばをとっておく―じつはこのことがそのことばの死をもたらす」(p.182)という部分が印象的だった。前者は方言のあり方を理解するには不可欠な「法則」だろうし、後者はことばは使われてナンボ、そして変わってナンボ、ということばの本質をついていると思った。(13/09/15)
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言葉と言うものは、外国語という名称にもあるように、
国家が成立するとそれにあわせて分類されることが多いが、
実はそうではないという主張から始まり、
早くから国家が成立し、言葉の整備が始まったフランス語の
ラテン語からの脱却などが説明されている。
それとは対照的に、国家の整備が遅れ、
フランス語からの借用語が入るだけ入ってしまっていたドイツ語も説明されている。
言葉は純粋に学問的に見たい場合でも、
政治的要素を多分に含んでいるものだと思った。
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今の目で見るとそんなにショッキングには感じない。
・母国語と母語の違い
・アルザス/エルザス地方で使われている言葉
とか基本的なこと。
高校の世界史レベルで分かることよりは少し知識が進むけど。
しかし「言語的支配の独善をさらけ出した、文学などとは関係のない、植民者の政治的扇情の一篇でしかない。」というのはいかがなものか?
「言語的支配の独善をさらけ出した」というのはそのとおりだと思います。
しかし、小説というのは、必ずテーマがないといけないと習ったのだけど、「フランス語の世界征服は素晴らしい」というテーマだといけないのかなあ?
『西部戦線異常なし』は反戦小説だからいい小説。というのはだれでも思うのかしら? 小説として出来がいいのとテーマに賛成とは、切り離しにくいとは思いますが。
『最後の授業』は「プロイセンが憎くて、アルザスを返せ」という動機で書いたものなんでしょうが、主人公の名前はフランツだし、フランス語がかれの母語でないことも隠していないし、感動させる上手いつくりの話ではあると思います。
まあ、ちょっと世界史や言語の知識があると感動しにくいのも確かだけど、それはテーマが気に食わないというだけも問題で、それが「文学」かいなかを決めるものなのでしょうか?
Posted by ブクログ
母語と母国語の違いは何か,こういうことを考えたことがあるだろうか.また,通じて「正しいことば」とは何か,ということも考える.方言や俗語もれっきとした「ことば」なのである.
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言語と方言。祖国と故国。母国語と母語。話し言葉と、書き言葉。
母語とは、母から口語で聴いて自然と受け継いだ言葉。
ユダヤ人や、第二祖国を持たない、日本人である自分は、母語≠母国語でなく、故国・故郷とは別の祖国を意識する事がないが、都内で仕事・生活を続けるにあたって、方言が自分の中から失われようとしている現実は、故国、母語をも失い兼ねない事になるのだと気付かされた。
Posted by ブクログ
文章が難解で読みにくいです。
言語における考察を作者がつらつらと書いてる。特に大した感想を抱かなかった。ふーんって感じの本。
母語っていう単語にすごい執念を持っているが、専門領域にしている人でなければ母国語と敢えて区別しないところをつっこみまくっている。
いや、ほんとに可も不可もなくって感じの本です。
Posted by ブクログ
「母国語」と「母語」は違うのか。ふむふむ。
気になった表現。
「現実にある言語共同体が用いていることばであって、話されているだけで書かれることのないことばは存在するが、書かれるだけで話されることのないことばは存在しない。つまり、話すことはつねに書くことに先行する。」p.26
「文法の安定と不変を願う気持が、それを正しいときめ、それからの逸脱を誤りとするから、言語の変化はいつでも誤りであって、正しい変化というものは論理的にはあり得なくなるであろう。そのことはつまり、言語に関するかぎり進歩という概念はあり得ないということになる。」pp.72-73