【感想・ネタバレ】差別語からはいる言語学入門のレビュー

あらすじ

片輪、めくら、特殊部落……。公には使ってはいけないとされるこれらの言葉。しかしなぜこれらは「差別語」であり、使用する側にもされる側にも、そう感じさせるのだろう? 例えば「屠殺」の場合、生きているウシと食材としてのギュウという2つの言葉を用意せずにはいられなかった私たちの感覚に、問題を解くカギがあるのではないか。自ら公の場で使用し、糾弾された経験を持つ著者が、一つ一つの言葉が持つ文化的背景などから、差別語の差別語たるゆえんを解読。避けて通ったり排除したりするだけでは何の解決にもならない、日本語の、日本社会の根本問題に取り組む。

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

石川晋先生がオンライン読書会で指定されていたのをきっかけに注文して読みました。
今まで知らなかったこと、そうとは思わなかったことがいっぱい書いてありました。
大変刺激的で勉強になる本です。
また、非常に読みやすく、引き込まれる文体です。
題名からカタイ本を想像していましたが、違いました。

0
2025年11月09日

Posted by ブクログ

『差別語から入る言語学入門』 田中克彦

差別語糾弾運動について、言語学的な視点から考えるという非常に面白い取り組み。運動自体を、「社会的に肉体的に差別されている人たちが、自分たちに対して、これこれの言葉を使ってほしくない、使わせないと声を上げたできごとは、人間の言語氏の上ではほとんど考えられなかっためずらしいできごと」として、興味深いものと位置付けている。これまでの歴史では、明治日本の方言に対する態度をとっても、いわゆる正統と考えられる言語、言語の使用に関する覇権は常に、その時の政治的な強者がもっていたが、差別語糾弾運動は、その逆の、社会的に虐げられてきた人による、言語に関する覇権を奪取する運動としてみなしているところは面白い。
「ことばは、単に何かあるコト、ある事態を指すだけにとどまらず、それらをどのように見るかを言う観点を与えるというある意味で豊かさを厄介さをもっている。ことばは客観的にあたえられた世界にかかわるだけでなく、その世界をどのように見るかという言語共同体と、その主体ともかかわっていて、かれら、人間を支配している」 そのために、言語における覇権を奪取することは、それらによって見えている世界像の奪取という意味合いももっているのであろう。
差別語として、様々な事例があげられているが、興味深かったのが、「カタテオチ」「カタワ」という言葉に関する考察である。片方の腕がない方のことを指す差別語として取り上げられているが、そもそも、「カタテオチ」「カタワ」ということばが差別的と考えられる背景として、「カタ₋」と言うことば遣いが、「本来、二つではじめてそろいになっているもののうち、一方が欠けているもの」という含意を持っているが、それらに対応する言葉が日本語や中国語などのウラル¬=アルタイ諸語に特有ものであるというのである。「カタ₋」と言う言葉に、「本来二つではじめてそろいになっているもの」があるというそもそもの世界像の認識的な前提がなければ、この言葉は差別語足りえず、そして、そのような言葉が差別語として認識されているのは、まさに日本語の範疇の中だからなのである。日本においては、「本来二つではじめてそろいになっているもの」という社会的通念が言語によって形作られており、その結果として、「カタ₋」を接頭語とする言葉は、読み手に「強烈な欠損感」をもたらすのである。やはりこうした事例をとってみると、我々の世界認識というものがやはりいくぶんその使用言語に規定されているものであるとい感じざるを得ない。
最後に、差別語を考える上で、言語学が前提としている「共時主義(サンクロニー)」についても触れられていたため、メモしておく。「共時主義」とは、言葉の使い方など、それらが歴史的にどうであったかということではなく、いま、どういう風に受け取られているか、もっと言えば「話してのココロの中に生きている姿はどういうものか」ということを重要視する考え方である。一生懸命と言うことばがあるが、これは歴史的には一所懸命という言葉から来ている。しかしながら、現代的な意味で、一生懸命と言う場合の方がより広く大衆に受け入れられており、そうであるならばそちらの方に注目しようというものである。まさに差別語に関する検証も、この共時主義あってのものであろう。

0
2022年07月31日

Posted by ブクログ

本来、差別語と普通の単語の境目はなく、ある人が意図的に一つの言葉を用いた時に、それが差別的な意味を持つ。田中克彦先生の体当たりのような取り組みが文章でも表現されているのではないでしょうか。

0
2022年02月08日

Posted by ブクログ

差別語ができた経緯や、それが差別となった背景などを通して、人間の生活や文化の推移やモノの見方を分析する。

単にモノを指す言葉だったのが差別用語となったのには、人の観点の問題ということで、言葉は人間が作ったのだから、人間により徐々に変わってゆく。その経緯で人の争いや差別化が生まれてゆく。

著者の主張は「言葉の由来は音で分かる」ということで、漢字より平仮名や片仮名表記が多い。
例えば「男・女」と書くより、音で「オトコ・オンナ」とすると、古い段階の「ヲトコ・ヲトメ」が浮かび上がり、「ヲト」をついとして、オス・メスを表す「コ・メ」が付いたと言葉だと分かる、という感じ。

昔人が自分で動物を食用にしていた頃は「しめる、ほふる」だったのが、肉を加工する人と食べる人が分かれた事により、「とさつ」ができて、「生きたカウ」と「食べるビーフ」と言葉が分かれた。

終盤に書かれた、裁判での言葉による印象操作(結果的には)の経緯は興味深かった。
ある男が会社に豚の頭を持って抗議に行ったところ脅迫罪で訴えられた。
家畜解体の仕事をする男にとって、豚の頭は日常品。
この豚の頭を最初は「豚の頭」「豚の首」と言っているのが、会社側が「豚の生首」などと残酷性を感じる言葉を使った(会社側からすればまさに「切り落としたばかりのナマクビを持ってきた」という正しい表現なんだろうけれど)。
それに被告側も合わせて「はい、豚の生首を…」などと答えてしまった。
それにより被告側の残虐性が印象付いてしまった。
…というように、言葉により印象が変わってゆくそのさまが書かれていて非常に興味をそそられた。

0
2020年07月28日

Posted by ブクログ

タイトルと装丁に惹かれて読んでみたけど、なかなかおもしろかった。著者の熱さが素敵!
最近は言葉狩りじゃないけども、SNSなどですぐに「炎上」→削除、謝罪みたいになって、無難な表現を〜みたいになってる気がする。
ので、改めて自分の発する言葉にしても、自覚と責任を持たなくちゃだなあ。

0
2018年07月31日

Posted by ブクログ

・田中克彦「差別語からはいる言語学入門」(ちくま学芸文庫)はおもしろい。実を言へば、まだ半分も読んでゐない。それでも本当におもしろいと思ふ。ただし、これが言語学の書として、特に入門書としておもしろいかどうか、よく書けてゐるのかどうか、この点は分からない。私だとて言語学的な内容に関心はある。差別語に関する諸々を知りたいとも思ふ。実際、さういふことが書いてある。ただ、本書を読んでゐると、どうしてもこの著者田中克彦といふ人が、そんな内容より先に私に迫つてくるのである。文は人なりといふ。本書は、いや田中克彦の著作はなべて正にそれである。文体や内容、そこに含まれる思考方法等等、さういふものが見事に田中克彦である。私はこの人の不熱心な読者でしかないから、この人の著作をほんの数冊しか読んでゐない。それでもそのいづれにも紛れもなき田中克彦が存在してゐるのに気づく。これがおもしろいのである。本書第6講までは『小説トリッパー』に連載されたといふ。第7講、第8講はその編集部から突き返された。そこで以下は他の雑 誌に連載された。「私としてはいよいよ論佳境に入った、悪くないできだと思っていた(中略)やっと、この第8講で、いくぶん『説得的』になってきたのではないかと思っていた」(76~77頁)といふのにである。佳境に入らうとするところで掲載を拒否された、その理由など私に分かるはずもない。ただ、想像をたくましくすれば、「論佳境に入った」がゆゑに、あまりに田中克彦的になり、それが鼻についてきたからだといふことではないかなどと思ふ。もちろん、これ以前も十分に田中克彦的だつたので、掲載拒否は単なる編集部の言ひがかりでしかなかつたのかもしれない。いづれにせよ、天下の大『朝日』ともあらうものが、このやうな論考を拒否するとはである。つまり、本書はそれほどに田中克彦なのである。
・例へばこんなのがある。蔑視語「はりこのとら」に関して、「くりかえし私が愛読していた、そしてまた、今でも折にふれてとり出して眺める、中国人民解放軍総政治部編『毛沢東語録』にあった、『帝国主義とあらゆる反動派は張子の虎である』というあの第六節を思い出した」 (43頁)と書く。かういふ形で毛語録を出せる日本人はあまりゐないのではないかと思ふ。文化大革命の頃ならいざ知らず、当世、中国での毛語録はどうなつてゐるのかと思つてしまふほど、中国自身が帝国主義、拡張主義になつてしまつた。本書元版は10年ほど前の刊行である。 かうなりつつあつた頃である。信念の人だからこんなことも書けるのである。この少し前にはかうある。「『かわりもの』、『ばか正直』、 『世間しらず』などは、私には蔑視どころか、私のようにたいへん気高い精神の持主に対するほめことばのような気がする。」(同前)痛烈な皮肉だが、もしかしたらまじめな本心かもしれないと思はせるのはさすがである。この人はかういふ人なのである。更に、私の関心あるものを 捜すとこんなのがある。漢字についてである。「考えてみれば、それはひどく頭の悪いめいわく文字なのである。」(48頁、「めいわく」傍 点付き)さう、迷惑なら使ふのやめたらと言ひたくなる。この人、実際には、本書でも人並みに漢字を使つてゐる。完全仮名書きにして漢字を捨てるつもりはないらしい。「十世紀の日本で、女たちが、かなもじだけで、どれだけ豊かな愛の表現技術を獲得したかはいうまでもない。」 (49頁)これは皮肉ではなく本心であらう。さう分かつてゐても、漢字を捨てられないらしい。これもまた信念、かういふのは鼻につくが、 おもしろいこともまた確かなのである。

0
2012年08月12日

Posted by ブクログ

本書に収録されている文章は「小説トリッパー」で連載がスタートしたもののわずか2回で終了、その後「部落解放なら」で継続されたものだそうだ。後者は目を通したことがないが、かなり落差の大きい移動である。BUBKAからVogueくらいの落差があるんじゃないか。なお、その経緯は本書内で書かれている。トリッパーの編集長はなかなかひどいと思う。

そのような経緯があったせいか、まとまりはない。言語学の入門書としても危うく、ところどころおもしろい点はあるものの、全体はエッセイ的な要素が強い。たとえば犬殺しということばの話をしているかと思えば、急に著者の学生時代の話にさかのぼる。(内容は保健所職員に対する同情のようなもの)後半になると、このような脱線も多くなる。

まえがきでは、以下のように書かれている。

「…日本語をどのようにして生産的な言語にしておくかという課題ともかかわってくる。本書はこのような野心的なかまえをもって出発したにもかかわらず、思ったほどには議論が展開しなかったのは残念である。」

これは謙遜でもなんでもなく、端的な事実である。が、そのような瑕疵が気にならなければ、充分に文章としておもしろいのでおすすめではある。

0
2025年07月17日

Posted by ブクログ

真面目な言語学研究のなかに、毒舌がちょいちょい出てくるのが、小気味よい。難しくなりすぎず、ぐだけすぎず言語学に触れ合える。面白い。

0
2012年12月21日

「学術・語学」ランキング