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作品一覧

  • 名画の暗号

    名画の暗号

    ビジネス・実用

    3.7
    1巻1,760円 (税込)
    名画に隠れた真実のコードを解き明かす、エンタメ的読み応えたっぷりの美術鑑賞ガイド。美術史を代表する画家たちがキャンバスに忍ばせたメッセージを彼らの生涯や作品制作の背景とともに書き下ろす。図版多数収録!
  • 恋愛美術館

    恋愛美術館

    ビジネス・実用

    4.2
    1巻1,100円 (税込)
    「電子版まえがき」を加筆し、新装カバーとなって待望の電子書籍化! 恋愛こそが芸術! 人が、誰かに恋をし、誰かを愛する時、そこにはその人の美学と人間観が結晶しています。 本書は、美術史を彩る絵画や彫刻の名品を、芸術家の恋愛体験で読み解く画期的な一冊。 モディリアーニの妻ジャンヌの悲恋伝説の真相、 巨匠ロダンとの狂気の恋に身を滅ぼしたカミーユ・クローデルの悲劇、 性の帝王として君臨した巨匠ピカソ晩年の自画像にひそむ地獄図絵、 ルノワール描く美の聖地モンマルトルの青春、 ドガ描く近代都市の泥沼の恋愛などなど……。 傑作の背景に渦巻く、恋愛の歓喜と苦悩、恍惚と絶望のドラマは、 それぞれ一編の短編小説のように読者を興奮と感動に誘うことでしょう。 あまりにドラマティックな芸術家達の、悲恋・純愛・狂恋の人間模様を通して 美術史上に残る傑作の数々の見方と読み解き方がスリリングに明かされていきます。 画家の恋に名画の秘密を見出し、愛のドラマに人間の生き方を学ぶ名画鑑賞ガイドです。
  • わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる!

    わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる!

    ビジネス・実用

    4.6
    1巻1,100円 (税込)
    生前は1枚しか絵が売れなかった!? 南仏アルルを日本と思い込んだ!?  あの黄色の意味するものは? 新しいゴッホが見えてくる! 多摩美術大学名誉教授による決定版。『謎解きゴッホ』改題。
  • アートがわかる! 自分を知るための美術入門
    NEW

    アートがわかる! 自分を知るための美術入門

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,034円 (税込)
    楽しく自由であるはずなのにアートはなぜむずかしく感じられるのでしょうか? 本書は「アートがむずかしい」「アートがわからない」と感じる読者のためのアート入門です.「美術館鑑賞の極意10」など,アートを通して自分と対話し,自身の内に眠るアーティストとしての可能性に出会える一冊です.

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  • ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)

    ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)

    ビジネス・実用

    4.1
    1巻836円 (税込)
    フェルメールの名画は「パン屋の看板」として描かれた!? ガラクタ扱いされていた印象派の価値を「爆上げ」したマーケティング手法とは? 美術の歴史はイノベーションの宝庫である。名画・名作が今日そう評されるのは、作品を売りたい画家や画商、そして芸術を利用しようとした政治家や商人たちの「作為」の結果なのだ。ビジネス戦略と美術の密接な関係に光を当てた「目からウロコ」の考察。
  • ピカソは本当に偉いのか?

    ピカソは本当に偉いのか?

    ビジネス・実用

    3.9
    1巻792円 (税込)
    「なぜ『あんな絵』に高い値段がつくのか?」「これって本当に『美しい』のか?」。ピカソの絵を目にして、そんな疑問がノド元まで出かかった人も少なくないだろう。その疑問を呑み込んでしまう必要はない。ピカソをめぐる素朴な疑問に答えれば、素人を煙に巻く「現代美術」の摩訶不思議なからくりもすっきりと読み解けるのだから――。ピカソの人と作品に「常識」の側から切り込んだ、まったく新しい芸術論。

ユーザーレビュー

  • ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)

    Posted by ブクログ

    ★再読

    836円

    印象派が猿の落書き、猫のピアノ演奏って言われてたの草

    フェルメール、レンブラント、

    西岡 文彦
    (にしおか ふみひこ、1952年 - )は、日本の版画家、多摩美術大学教授。山口県生まれ。1971年神奈川県立川崎高等学校卒業。版画家森義利に師事。1977年、日本版画協会展新人賞。1978年、国展新人賞受賞。雑誌「遊」(工作舎)の装画を機に、出版分野でも活動。著書も多い。1996年、多摩美術大学講師。2003年造形表現学部デザイン学科助教授、2007年准教授、2009年教授。

    「権力のプレゼンテーションとしての美術  ちなみに、ニーズということでいえば、宗教改革以前の美術の最大の需要は、プロテスタントが破壊した宗教美術に代表されるプレゼンテーション機能にあった。教会を飾る絵画彫刻やステンドグラスは、神の権威と教会の権力をプレゼンテーションするために制作されたものであり、教会と並ぶ美術のスポンサーであった王室にとっても、宮殿を飾る美術は王の権威と権力をプレゼンテーションするためのものであった。  中世以来ヨーロッパには日本の士農工商にあたる「祈る人・戦う人・働く人」という身分概念があり、祈る人つまり聖職者は神の王国の代理人として、働く人つまり労働者が生産する食糧や物資に依存しており、戦う人つまり貴族は地上の王国の守護者としてこれもまた労働者に依存し搾取するという構造によって社会が成立していた。  したがって、教会と王室が支配を維持するためには、教会は「祈る」力により人々の平安を保証しており、王室は「戦う」力により人々の安全を保証しているということをプレゼンテーションする必要があり、労働者の大半が文字を読めなかった当時は、絵画彫刻といったビジュアル表現がそうしたプレゼンテーションには最適だったのである。映画やビデオは無論のこと、カラー印刷の技術すらなかった当時、こうしたビジュアルな表現が与えるインパクトは私たちの想像をはるかに超えていたからである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「かくして既製品の展示販売という今日の美術市場のビジネス・モデルが誕生することになったのだが、新たな市場は新たな顧客のニーズを満たす新たな商品なくしては成立しない。市民という新しい購買層に買ってもらうためには、それまで教会や王室のプレゼンテーション・ツールであった美術品は、市民の生活空間を飾るにふさわしい新しい商品へと変容しなくてはならなかったのである。  それまでも美術工房が副業として既製品を販売することはあったが、キリストや聖母の像のように安定した需要を見込める作品に限られていた。が、そうした聖像類は宗教改革で販売できなくなっていたので、売る側は、市民顧客の安定した需要が期待でき、なおかつ宗教性のない美術品の開発を迫られることになった。  こうして誕生したのが、静物画や風景画という新種の絵画であった。それは、従来は脇役に過ぎなかった題材を画面の主役にするという、いわば逆転の発想から生まれた新たな戦略の賜物だったのである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「 十七世紀のオランダで誕生した静物画や風景画は、従来は小道具や大道具といった脇役に過ぎなかった題材を画面の主役に抜擢した新しい絵画だったのである。新たな美術の市場の顧客となった市民もまた、従来はいわば社会の脇役だった人々である。共和制により社会の主役となった彼らを顧客とする新たな美術市場で、静物や風景を描いた絵画がヒット商品となったのは当然の結果であった。  西洋の風景画といえば風車がつきものとなっているのも、もともと風景画がオランダで誕生したからである。二世紀ほど後、画家を志してオランダからパリに出たゴッホもモンマルトルの風車を描いている。望郷の念もあったかも知れないが、やはり風景画といえば風車が「絵になる」から描いたのであろう。モンマルトルの風車が小麦粉の製粉に用いられていたのに対して、オランダの風車は低地の水を汲み上げ農地とするために十四世紀に開発されている。教会や王室を飾っていた絵画が市民の家庭を飾り始めると共に、画面に日々の生活を支える風物が登場するのはごく自然なことであった。  神の世界でもなければ王の世界でもない市民の生活世界を描いて新たな市場を開いた風景画や静物画や風俗画は、人々の眼を彼ら自身の暮らす現実に向けさせ、その現実が教会や王室の美術に描かれた美にもまさる美しさを宿していることを、画面を通して示してみせたのである。それは、生活感にあふれる画面を介して人々に、美とは彼ら自身が生きる現実の中にこそあることを説いた、まったく新しい美術だったのである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「家政婦が絵画の主人公になった理由  フェルメールの代表作『牛乳を注ぐ女』( 1659)は、数あるヨーロッパ名画の中でも生活感を強調した作品として知られている。迫真の写実技術で描かれた家政婦は、見る者をその存在感で圧倒するが、当時のヨーロッパ絵画で家政婦を画面の主役にしたのはオランダ絵画のみであった。なかでもフェルメールの生地デルフトは、オランダで最初に家政婦を絵画に描いた都市として知られている。  当時オランダでは家政は国政の礎とされていたことから、家政を支える家政婦の社会的地位も高く、当時この国を訪れた他国の旅行者は、家政婦が家庭内で強い権限を持っていることに驚いている。とりわけデルフトはビールの醸造で繁栄しており、醸造の工程に必須の清潔な環境づくりに街ぐるみで取り組んでいたため、家政婦は街を清潔に保つには欠かせない職業人として敬意を払われていた。デルフトの画家がヨーロッパで最初に家政婦を絵画の主人公にしたのはそのためである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「当時は共和国だったオランダは、家庭を尊重し結婚と育児に道徳的な意義を見出していたことで知られ、従来は初等教育を一手に引き受けていた修道院を解体して、家庭と私塾を子供の教育の場としている。聖書の精神に戻れとのモットーに基づき自国語の聖書を出版、聖職者しか読めなかった従来のラテン語訳聖書に替わり一般市民でも読める聖書を普及させ、公費負担で読み書き教育を奨励することで、識字率を当時のヨーロッパ諸国では抜きん出た水準にまで向上させている。  良き伴侶を得て聡明な子供を育て、経済活動は夫が負担し、家事労働は主婦が分担して、夫婦共同で健全で教育的な家庭環境を築くことに、宗教的にも高い意義が見出されていたのが当時のオランダであり、世界貿易により急速に潤い始めた国情から、仕事で家を空けがちな夫を妻が支えて家業を繁栄させることが、国家の繁栄につながると考えられたのである。オランダでは、家事労働の評価や女性の社会的な地位も、他の国よりはるかに高かった。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「真珠の耳飾りの少女の正体  フェルメールの『牛乳を注ぐ女』と並ぶ代表作『真珠の耳飾りの少女』( 1665頃)のモデルについては、画家の恋人説から家政婦説までさまざまな憶測がされているが、おそらくこの作品は当時きわめて需要の多かった「トローニー tronie」という不特定人物の顔を描く作品として制作されたと思われる。  トローニーはオランダ語で「顔」を指す語から出た名称であり、本来は個性的で特異な顔を描いた絵画を指しており、ルネサンス後期から習作も兼ねて描かれ始め、大作を制作する工房ではあらかじめ画家が多数のトローニーを準備しておき、大画面の背景の人物を弟子達が描く際の見本に使用していたという。  映画で無名の群衆を演じるエキストラのようなものであり、かつて小道具だった静物や大道具だった風景を描く絵画が売れ始めたのと同じ理屈で、かつてエキストラだった無名の顔を描く絵画が、市民市場の確立により一躍人気商品となったわけである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「レンブラントの工房でも需要に応え大量のトローニーが描かれたという記録が残っており、フェルメールの描く人物も基本的にはトローニーである。注文で描かれる肖像画と違って既製品として販売される市民絵画では、画面の人物には誰もが感情移入できるような無名性というものが求められるからである。  誰もが自分を投影できるような標準的な人物像か、街でふと見かけた魅力的な異性を思わせる見知らぬ美女ないしは美男以外は、既製品としての絵画には描かれにくいわけで、実際のところ現代なお人物画の大半にはこの種の人物像しか描かれていない。  おそらく『真珠の耳飾りの少女』も、そうした趣旨で描かれたトローニーであろう。青いターバンは中東からの舶来品を思わせる架空のデザインであり、襟高の衣はオランダの貿易商が長崎の出島を訪れた際に幕府から贈られた打掛がオランダで評判となったことから高級室内着として流行していた日本風のデザインのローブである。特大の真珠は、これも高価な輸入品とも見えるが、当時開発されて大人気となっていたガラス球の内側に蠟と魚の鱗の粉末を塗ったフェイクとも考えられる。いずれにしても好景気に沸くオランダならではの当世風のヒロイン像であることは間違いがない。  アクセサリーとファッションにゴージャスな趣向を凝らした出で立ちは、画家が恋人や家政婦といった個人的に関係のある女性を描いた肖像画というよりは、高級感のあるトローニーとして描かれた可能性の方が高いように思われる。  世界貿易で得たオランダの富を象徴するかのようにワールド・ワイドなファッションに身を包む当世流行の画種トローニーとして描かれた、十七世紀オランダのバブル経済を反映する市民絵画の白眉と見るべき作品であろう。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「が、写真技術が登場する以前に人々が絵画に期待していた手法といえばもっぱら写実描写のみであった。写真のない時代における絵画は、今日の私たちが写真に求める画像による記録という機能を果たし得る唯一の技術であり、したがって写実を拒否した絵画などは絵画と見なされなかったのである。当時のオランダの画家が他の画家との差別化のために「手法」ではなく「題材」の独自性を探求したのはそのためであり、その結果オランダ絵画は極端なまでの専門分化を遂げることになる。  風景画は自然の風景と都市の景観に専門が分かれ、自然の風景でも森林を得意とする画家、草原や田園を得意とする画家、はたまた水辺を得意とする画家から砂丘が専門の画家まで現れ、さらには季節ごと昼夜の時間帯ごとの専門画家までが登場している。都市の風景画も同様に専門分化し、静物画においても、食器食材の専門画家、花瓶の花の専門画家、狩りの獲物を得意とする画家、世界貿易の輸入品を得意とする画家等々、考えられる限りの題材の専門画家が現れている。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「 金融で財を築いたメディチの当主が法王に助言を求めたのはそのためであり、法王の助言に従ってコジモが、荒廃していたサン・マルコ修道院の再建のために巨費を提供、修道院の維持費から修道僧達の生活費まで負担したのもそのためである。無論、ローマ法王庁に対しても多額の献金がなされている。  コジモは没後にフィレンツェ政府から「祖国の父」と称された政治的な手腕の持ち主で、実質的なフィレンツェ君主であると同時に高徳の経済人としても知られたが、自身の成功の「いかがわしさ」には生涯にわたり自責の念を抱き続けたという。教会や美術を保護したのも、信仰という当時の人間にとってきわめて「実用的」な目的に照らしてのことであり、当時の社会状況に鑑みるならば、そうした宗教的な「保険」ともいうべき資金投下によって保護されていたのはメディチ家の方だったのである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著



    「第三章  リモートワークに乗り遅れたダ・ヴィンチ  不動産としての『最後の晩餐』、動産としての『モナ・リザ』   1796年、ミラノに侵攻したナポレオンは『最後の晩餐』( 1498)を見るためにサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院を訪れ、食堂の壁に描かれた画面をフランスに持ち帰ることも考えたといわれるが、作品の描かれた壁の巨大な重量から考えてこれは無理な相談であった。絵画は、壁画や天井画として教会や宮殿といった不動産に帰属していた時代には、制作された場所でしか鑑賞することができなかったのである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「 いうまでもなく、こうした絵画の動産化は、画家の働き方を根本から改革するものでもあった。不動産である壁画や天井画は画家が現地に出かけて描くしかないが、動産である絵画は画家が自宅で制作することが可能だったからである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著


    「この作品は、イエスが十字架に架けられる前夜に弟子達と共にした最後の晩餐の席上で「汝らのひとり、我を売れり」とユダの裏切りを告げ、弟子の間に衝撃が走った瞬間を、演劇の一場面のようなドラマティックな演出で描いている。他の画家による従来の『最後の晩餐』は、ユダが一目でわかるよう食卓の反対側に一人で坐らせて描くことが多かったのだが、ダ・ヴィンチは弟子全員を同じ側に坐らせて、動作と表情によりユダを見分けることのできる新しい様式を開発している。  弟子達のイエスの言葉に対する反応も、従来の作品では悲嘆にくれて師の胸にもたれかかる聖ヨハネを除いて全員が似た姿勢で描かれていたのだが、ダ・ヴィンチは弟子の個性に添って反応の描写に個人差を盛り込んでいる。彼以前に、これほど多様な反応を示す弟子達の集団劇として最後の晩餐の場面を描いた画家はいない。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「ミケランジェロの大作をダ・ヴィンチが描くと四千年かかる!?  フレスコの迅速な手順は大づかみなタッチを強いるため、精密描写は不可能に近い。ミケランジェロの『天地創造』の「アダムの創造」なども画集で見るリアルな印象とは裏腹に、近くで見ると驚くほど大胆な筆致で描かれている。  これとは対照的に『モナ・リザ』の画面は画集でいくら拡大されても、ほとんど筆の跡が見られない。写真を思わせる描写は薄く溶いた油彩絵の具を膨大な回数にわたって塗り重ねたものであり、漆喰の乾燥後は加筆をしないフレスコとは正反対ともいうべき手法で描かれている。迅速を旨とするフレスコは、こうした油彩による執拗な描き込みを好んだダ・ヴィンチの気質とは、文字通り水と油の関係にあったことになる。  サイズとしては小品の部類に入る『モナ・リザ』にダ・ヴィンチは十五年にわたって加筆し続けたというが、もしダ・ヴィンチが同じテンポで体育館の天井ほどの『天地創造』を描いたとすると、四千年近くはかかってしまう計算になる。  油彩は、絵の具が乾燥すれば黒地の上でも純白を塗り重ねられることから画面の修整を飛躍的に利便化した画材であり、おそらく当時の画家には今日のコンピュータ・グラフィックスさながらに無限の可能性を持つ画材と映ったはずである。理想の画面のためには描き直しをいとわないダ・ヴィンチには、まさしく理想の画材であった。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「美貌の弟子サライとダ・ヴィンチ遺言状の謎  フランソワ一世は、美術においてイタリアに大きく遅れをとっていたフランスにイタリア美術の精華を移入することを願っており、その願いに応えてフランスにやって来たダ・ヴィンチに、王の居城に近いフランス中部アンボワーズの城館を与えている。  フランス王は老いた芸術家を父のように慕い、ダ・ヴィンチの館を訪れ語り合うのをなにより楽しみにしていたという。このダ・ヴィンチ晩年のフランス時代に付き添った弟子のひとりがサライであった。本名はジャン・ジャコモ・カプロッティ、少年の頃に市場で盗みをして捕まっているのをダ・ヴィンチに見出され、弟子となっている。  画家として作品も何点か残しているが、画才よりは美貌を見込まれての入門であったらしい。ダ・ヴィンチは手記にサライは盗人で噓つきで大食漢と書いており、師の財布からくすねた金額まで記録している。美貌以外には取り柄のなさそうな弟子なのだが、サライは師の亡くなる直前までの三十年近く生活を共にしている。  もともとダ・ヴィンチには女性を忌避する傾向が見られ、若い頃には当時「フィレンツェの悪徳」と呼ばれた同性愛の容疑で告発されている。告発が匿名であり確証が得られなかったおかげでことなきを得ているが、当時ヴェロッキオが彼をモデルに制作したダヴィデ像などを見ても、彼自身が性を超越した天使的な美貌の持ち主であったことがしのばれる。彼が現れた途端、その場にいる全員がその美貌と美声と知性に魅了されたという。そんなダ・ヴィンチとすれば、サライの美貌に若き自分の姿を見出していたとしても不思議はないわけで、そういう意味で惹かれていたのかも知れない。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「第四章  レンブラントの割り勘肖像画  オランダにしかない「集団肖像画」  レンブラントの『夜警』( 1642)は、美術史ではバロックと呼ばれる十七世紀のオランダの市民精神を象徴する名画である。フェルメールと並んでオランダ絵画を代表する巨匠の描いたこの大作は、割り勘というきわめて合理的なシステムによって画家に報酬を支払って制作されているからである。  家族や職場の同僚から軍隊まで、公私の共同体のメンバーを描く肖像画は他の国々にも見られるが、この作品のように数十人単位の肖像画がブームとなったのは当時のオランダに特有の現象である。注文主となったのは、市民隊、同業者組合、病院や孤児院等の福祉施設のメンバーで、多い場合には三、四十人もの人物が描かれている。等身大で描かれた作品も多く、そうした画面は今日のミニ・シアターのスクリーン並みのサイズに仕上がっている。『夜警』も、縦三・六メートル ×横四・四メートルで面積にすると約十五平米、つまり九畳を上回るという堂々の大画面である。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「パン屋より多かったオランダの画家   1606年、レンブラント・ファン・レインはアムステルダムの南西に位置する都市レイデンの製粉業の家に生まれている。スペインとの休戦協定によりオランダが実質的な独立を勝ち取る三年前であった。母親の生家はパン屋で、レンブラントは十人兄弟の第九子であった。両親共に商家の出身であり、レンブラントが商才に恵まれていたのも不思議はない。家計は裕福であり、レンブラントは学校で当時の教養課程ラテン語学科で学んだ後に、十四歳で地元の画家に入門して三年間の絵画修業を積んでいる。  当時のオランダの画家工房は実質的に学校と同じであり、弟子は入門に際して授業料を納めることを義務づけられていた。ルネサンスのイタリアの美術工房が弟子に対して賃金を払っていたのに対して、バロックのオランダの絵画工房では、弟子から授業料を徴収していたのである。理由は簡単で、当時のオランダでは既に市民絵画の市場が確立していたからである。この一世紀前の時点でさえ、都市における画家の数が、パン屋の二倍、肉屋の三倍を上回っていたという記録が残されている。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「パン屋より多かったオランダの画家   1606年、レンブラント・ファン・レインはアムステルダムの南西に位置する都市レイデンの製粉業の家に生まれている。スペインとの休戦協定によりオランダが実質的な独立を勝ち取る三年前であった。母親の生家はパン屋で、レンブラントは十人兄弟の第九子であった。両親共に商家の出身であり、レンブラントが商才に恵まれていたのも不思議はない。家計は裕福であり、レンブラントは学校で当時の教養課程ラテン語学科で学んだ後に、十四歳で地元の画家に入門して三年間の絵画修業を積んでいる。  当時のオランダの画家工房は実質的に学校と同じであり、弟子は入門に際して授業料を納めることを義務づけられていた。ルネサンスのイタリアの美術工房が弟子に対して賃金を払っていたのに対して、バロックのオランダの絵画工房では、弟子から授業料を徴収していたのである。理由は簡単で、当時のオランダでは既に市民絵画の市場が確立していたからである。この一世紀前の時点でさえ、都市における画家の数が、パン屋の二倍、肉屋の三倍を上回っていたという記録が残されている。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「投機ということでいえば、当時大流行となっていたチューリップの球根の方がはるかに高騰を期待でき、現在は美術館になっているレンブラントの家で彼の破産の一因ともなった豪邸の査定額は邦貨に換算して一億数千万円だが、バブル最盛時のチューリップの球根は一個で同額の落札値を付けている。したがって当時のオランダでは、絵画は投資商品ではなく国民的人気を誇る消費財としての市場を有していたと見るべきで、画家は成功すれば高所得が見込まれる職業であり、したがって画家になるための授業料もまた未来への投資と見なされていたはずなのである。  レンブラントの入門時の授業料の額はわからないが、相場では通いの弟子なら邦貨にして年間二十万から五十万円、住み込みの場合は五十万から百万円だったというので、地元の画家を選んだレンブラントの家が払った額は最低でも年間二、三十万円にはなっていたはずである。レンブラントも自身の工房を構えた後には弟子から授業料を取っており、その総額は年間二千五百万円相当にも上ったという。  レンブラントが画家に入門できたのは生家に経済的余裕があったからであり、対してダ・ヴィンチもヴェロッキオ工房に入門しているが、これは彼が庶子であったことから正規のラテン語教育を受けられなかったためである。十七世紀オランダのレンブラントと十五世紀イタリアのダ・ヴィンチでは同じ工房の修業でも意味はかなり違っており、ダ・ヴィンチの入門が、いわば落ちこぼれの職人見習としての就労だったのに対して、レンブラントの入門はエリート画学生としての進学を意味していたのである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「 画商に投資したレンブラント  こうしてレンブラントは地元で絵を学んだ後、アムステルダムでイタリア絵画のドラマティックな明暗の対比手法を学んで帰郷し画家活動を開始、二十三歳になる頃には、オランダ総督オラニエ公家の秘書で美術顧問でもあった文人政治家コンスタンティン・ホイヘンスから有望な若手画家としてお墨付きを得るまでになっていた。  翌年に父を亡くし、翌々年アムステルダムに活動の拠点を移している。  興味深いことに、彼は当時アムステルダムの画商に多額の投資をしている。この画商は、美術学校も開いていたヘンドリック・ファン・アイレンブルフという人物で、レンブラントは彼に一千ギルダー、換算方法にもよるが邦貨で一千万円に相当する可能性のある額を投資している。亡父の遺産で経済的余裕があったのかも知れないが、この投資は現金でなく自作の絵画によるものともいわれている。当時オランダでは現金に代えて絵画で支払いをするのは珍しいことではなく、フェルメールがパン代として『牛乳を注ぐ女』を納品していたことは前述の通りである。  ほどなくレンブラントは投資先のアイレンブルフの工房に身を寄せ、アムステルダムでの画家活動を本格化するが、じつはこの工房には少なからず問題があり、後年のレンブラントの工房経営のビジネス・モデルは、善かれ悪しかれこのアイレンブルフの影響を受けているように思われる。その最大の問題が、模作ないしは贋作であった。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「レンブラントが描いたテュルプ博士は、四代目委員長を務めると共に、市の財務委員長を八期、市長を四期務めた名士で、この絵の評判からレンブラントへの肖像画の注文は激増、彼の生涯で最も成功に恵まれた時期を開幕させている。若き人気画家となったレンブラントは、翌々年にはアイレンブルフの又従妹でアムステルダム北東の酪農都市レーワルデンの元市長の娘のサスキア・ファン・アイレンブルフと結婚、彼女の人脈と多額の持参金のおかげで、画家としての活動の舞台はさらに拡がることになる。  自身の工房を開いて多くの弟子を抱え、絵画や版画の制作に加えて画商まで経営したレンブラントだったが、放漫経営がたたって破綻、画家としての人気も急速に衰え、最晩年には破産の憂き目に遭った上に、伴侶にも子供にも先立たれ、孤独のうちに生涯を閉じることになる。  そんな彼が生涯で最も幸福であった時代を招いたのが、『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』なのだが、この作品の受注当時のレンブラントはアムステルダムに活動の拠点を移したばかり。新参の若手画家への、由緒ある外科医組合の集団肖像画の依頼は異例としかいいようのない抜擢によるものであった。受注に前後するレンブラント自身の動きにも、画策と見られる側面がなくはないのである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「したがって、壮年期に例外的成功を収めながら晩年に破産したレンブラントへの世間の視線も冷たく、彼の晩年の清貧が孤高の芸術家の証として讃美の対象となったのは、近代になってからである。十九世紀パリが、明日を夢見る若く貧しい芸術家のメッカとなったことから、貧困が芸術の土壌と見なされ始めたからである。  十七世紀オランダにおいては経済的成功こそが美徳であり、要職はレヘントによって占められ、独立以前からの貴族の家系を継ぐ旧エリート層に替わって富裕商人が政治的実権を握るようになっていた。経済的成功を背景にレヘントとなった富裕商人は役職を世襲化することで財と権力の継承手段を確保、旧来の貴族に匹敵する社会的特権を享受していたのである。商人貴族ともいうべきこのレヘント層がパトロンとなって確立したのが、諸国に一世紀以上も先駆けたオランダの市民絵画市場だったわけである。  レヘント画はオランダの新しい支配者となった商人貴族の自負の証として、各団体の本部のホールや役員室を誇らしげに飾っていたのだが、レンブラントが最後の集団肖像画としてレヘント画を受注する頃には、世界貿易で栄華を誇ったオランダの経済も衰退し始め、レンブラントの経済状況も坂道を転げ落ちるように悪化し始めていた。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「彼が画家として最も恵まれていたのは、なにかと問題のあった画商アイレンブルフの又従妹サスキアと結婚してからの十年弱で、『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』の二年後の結婚により、妻の持参金と人脈から成功を享受したのは前述の通り。画商としての投機熱からか画家としての収集熱からか、高額を投じて絵画と骨董を買い始めたのもこの頃で、オランダのチューリップ・バブルが頂点に達した時期でもあった。四年後に、サスキアが父親の遺産を蕩尽していると非難した妻方の親族を名誉毀損で訴えているが、浪費していたのは妻でなくレンブラントであった。  画家としての人気は絶頂期にあり、その四年後に『夜警』を受注するが、同年に結核で妻を亡くしたのを境に運命は暗転し始める。遺児の乳母に雇った家政婦に婚約不履行で訴えられ、画策して彼女を更生施設に送り込むなど、人としてあまり誉められない面も見せており、 1652年に勃発した英蘭戦争でオランダ経済が急速に衰退したことから美術市場も不況に見舞われ、四十六歳のレンブラントは巨額の借金を負うことになる。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「レンブラントとコピー商法  晩年のこうした不遇から、レンブラントは『夜警』の不評から不遇の時代を招いたとの伝説も生まれたのだろう。市民隊でもない少女を中央に描いた上に暗い背景の人物は顔も見分けられず、払った料金に見合わない等々の苦情がモデルの市民隊から続出してレンブラント人気を凋落させた、というのがその伝説だが、事実はむしろ逆であった。晩年の画家に最後の集団肖像画を依頼して救いの手を差し伸べたのは、『夜警』の画面に描かれた市民隊の多くが所属する布地商の同業者組合だったからである。  ただし、レンブラント特有の荘重な画風が時流に合わなくなり始めていたのは事実であり、時代の嗜好が明るく華美に移行するにつれて、彼の画風は見放されていくことになる。そうした市場のレンブラント離れは彼自身にも原因があり、最盛期に彼が自身の工房で量産させたレンブラント風の作品の供給過剰が一因となっていた可能性はある。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「 美大入試がデッサンになった理由  プロテスタント国オランダの十七世紀が絵画の市民市場を誕生させたのとは対照的に、カトリック国フランスの十七世紀は、宗教改革で否定された美術のプレゼンテーション機能が比類なき力を発揮した時代であった。教会の権威に替わって王室の圧倒的な権力を人々に知らしめるものとして、ヴェルサイユ宮殿を拠点として豪華絢爛の王室美術が栄華を極めたからである。  美術史的には同じバロックの名で呼ばれながら、十七世紀オランダが生んだのはレンブラント『夜警』に代表される市民絵画であり、十七世紀フランスが生んだのは「朕は国家なり」との言葉で知られるルイ十四世の肖像に代表される王室美術であった。この王室美術に「学術」としての権威を与えたのが、この頃にフランスで創立された「アカデミー  仏: Académie  英: Academy」であった。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「美術に学術としての権威を与え、ギルドに対する学術的な優位を確保することが急務とされたのは、美術の権威がそのまま王の栄光を意味していたからであり、その権威を確立するためにアカデミーが導入した独自の教育が人体デッサンであった。以降、デッサンはモノクロの人体素描という地味な画風と裏腹に、王の栄光を讃える美術家に必須の素養とされることになる。  近代に入って以降も、各国の国立美術大学の入試がデッサンによって行なわれていたのはその伝統に則ってのことである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「臣民を物理的に支配する軍事力と並んで、精神的に支配する文化力が必要であることを国務大臣として痛感していたのだろう。彼の指揮下、フランス王室美術は「太陽王」を自称するルイ十四世を中心に、神の威光に替わって地上を満たす王の栄光のプレゼンテーション装置として絢爛豪華の文化力を発揮することになる。  アカデミー設立によってフランス王室は、ルネサンス期に巨匠が輩出してヨーロッパ美術の指導的な立場にあったイタリアを凌駕することを目論み、それら巨匠の傑作群で壮麗に飾られた古都ローマを凌駕することを目論んでいた。  フランス王室の栄光を讃えるためにはカトリックの総本山ローマ法王庁の威光を凌駕することが必須とされたからであり、そのために造営されたのが、芸術と学芸の総本山としてのヴェルサイユ宮殿であった。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「ナポレオンは、旧体制の騎士叙勲制度を軍人に限らず万民に開かれた制度に改革して今日なおフランスの最高勲章として知られる「レジオン・ドヌール勲章」を創設、美術工芸分野の功労者に積極的に与えて芸術振興をはかっている。フランス美術をヨーロッパ諸国の模範とするため、国家的な事業に際してはコンクール等により芸術家達を競合させて水準の向上につとめている。そうした彼の芸術振興策の中軸を成したのが、 1803年のナポレオン美術館、すなわち後のルーヴル美術館の開設であった。  中世期に要塞として建設されて歴代フランス王の王宮となっていたルーヴル宮殿は、ルイ十四世がヴェルサイユ宮殿を王宮として以降、王立コレクションの収蔵展示と王立アカデミーの教育施設として使用されていたが、これを美術館として市民に公開するという構想は、旧体制時から啓蒙思想家が提唱していた懸案政策だった。これを実現したのが革命政府による 1793年の市民美術館としての開設であり、当初は中央美術館と称されたこの施設をナポレオン美術館と改名し、諸国への軍事遠征によって収奪した膨大な美術工芸品と考古学出土品によりコレクションを一挙に拡充、前代未聞の大規模かつ広範囲の収蔵品を誇る美術館としたのがナポレオンであった。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「セーヴル磁器といえば今なおフランスを代表する磁器であり、豪華な金彩でも知られている。ポンパドゥール夫人の指示によりパリ近郊セーヴルに王令で開設された製作所は、ヨーロッパ最初の磁器の生産拠点となったドイツのマイセンに対抗して創立されたものだが、製作所の設立以降、王の勅令によって他所の窯では金を用いた絵付けは一切禁じられている。磁器の金彩は、王室の色彩として独占されていたのである。  金メッキの技術が、フランスで完成の域に達したのもこの時期のことであった。  ヴェルサイユ宮殿「振子時計の間」といえば、ルイ十五世の賓客のみが入室を許された部屋として観光ツアーの見どころとなっているが、この部屋に置かれた豪華金メッキの巨大振子時計を作ったジャック・カフィエリを筆頭に、腕に覚えのある名匠達が金メッキの粋を凝らした工芸品を生み出したのがこの時代であった。いうまでもなくカフィエリの金時計の脚部のデザインもまた優美な猫足曲線を描いている。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「貴族のいない新興国家アメリカの空虚感   1776年、イギリスの植民地支配から独立してアメリカが建国されたのは、最初の印象派展( 1874)の百年ほど前のことである。そうした歴史の浅さもあって、アメリカはヨーロッパのように名誉ある称号として授けられる貴族の位階の伝統というものを持っていない。ホワイトハウスの主である大統領というアメリカ最高の地位も選挙によって任命される「役職」であり、ヨーロッパ諸国の王位や貴族の称号のように長きにわたる伝統や厳しい因襲に照らして叙階される「身分」ではない。  善かれ悪しかれこの国における特権的地位というものは、旧世界ヨーロッパにおける貴族のように伝統的な位階や称号として授けられるのではなく、経済的ないしは政治的な闘争によって獲得される財力や権力をしか意味していない。そのことが、アメリカを「チャンスの国」としている半面、この国の富裕層が、貴族的な文化に対して抱く強烈なコンプレックスの原因ともなっているのである。  貴族文化は、伝統という歴史的蓄積や格式という様式的洗練により人々の畏敬の対象となるものである。人々が平等な社会を願って出現したはずのフランスの市民社会さえ依然として貴族文化に対する憧れを抱いていたのは、多くの矛盾や弊害を抱えながらも伝統や格式には、人々の畏敬や畏怖を喚起するものが備わっているからである。  アメリカは、現実的な問題解決能力や経済的な活力においては他国の追随を許さないほど恵まれてはいたものの、そうした伝統や格式といった文化資産の結実としての貴族制度というものを持っておらず、そのことがこの国の新興富裕階級にとっては埋めようのない空虚感の源となっていたのである。アメリカ人富豪が、美術蒐集に異常な情熱を燃やしたのは、その空虚感を埋めるためであった。いかに巨万の富を築こうと、彼らは貴族や貴婦人の位に叙されることが叶わなかったからである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「四十代に差し掛かったモネがデュラン リュエルに宛てた手紙に、もはや新聞雑誌の応援なしに成功は望めないと書かれている。印象派の絵が猿の落書きや猫のピアノ演奏呼ばわりされて十五年ほど後の手紙で、「批評の内容は気にしないのだが」と書いてはいるものの、当初の揶揄や批判には彼も少なからず傷ついていたはずである。それだけにジャーナリズムの影響力も痛感していたに違いない。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

    「十九世紀における批評時評の類の需要の高さは、今日の私たちの想像を超えており、「パリ便り」のような名物時評の紙面での人気は時に小説をも上回っていた。小説家のゾラも詩人ボードレールも、作家として名を成す前は新聞雑誌の批評書きを生活の道としていたことが、その需要の高さを物語っている。それほどまでに、当時の読者は自分自身の意見や見解といったものを形成するための見識を求めていたのである。  とりわけ美術品のような奢侈品に関しては、革命から間もない市民社会に生きる人々の商品知識は圧倒的に不足しており、批評家の見識に頼らざるを得なかったのである。したがって、ダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍した十五、六世紀のルネサンスや、レンブラントやフェルメールが活躍した十七世紀のバロックの時代には、美術批評家は存在していない。批評を公表するためのジャーナリズムが未発達だったこともさることながら、批評を必要とする読者そのものが存在していなかったからである。」

    —『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著

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    2026年07月14日
  • 名画の暗号

    Posted by ブクログ

    1760円

    エミール・ゾラ初めて読んだ時、絵画みたいに鮮明に絵が想像できたんだけど、美術史の人間関係にエミール・ゾラがかなり出てくるからゾラ自体も美術が好きだったんだろうなと思った。

    意味不明な絵画モナリザの解説有難い、

    ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ファンアイク兄弟、カラヴァッジョ、マネ、ゴッホ、ゴーギャン、

    西岡 文彦
    (にしおか ふみひこ、1952年 - )は、日本の版画家、多摩美術大学教授。山口県生まれ。1971年神奈川県立川崎高等学校卒業。版画家森義利に師事。1977年、日本版画協会展新人賞。1978年、国展新人賞受賞。雑誌「遊」(工作舎)の装画を機に、出版分野でも活動。著書も多い。1996年、多摩美術大学講師。2003年造形表現学部デザイン学科助教授、2007年准教授、2009年教授。

    「以降、ダ・ヴィンチは、美術・音楽から工学・科学に至る広い分野で才能を開花させることになるが、こうした領域横断的な活動が、彼の出自や学歴から生じた、既成の学問にとらわれない自由な発想と、少なからぬ劣等感によって醸成された可能性は大きい。  後年、ダ・ヴィンチは自然を師とするよう説き、「経験の弟子」を自称している。  絵画制作における観察の重要性を諭すと共に、実証的な近代科学精神の先駆と見られることも多い言葉ながら、その背後には、少年時代、エリート教育での師を得られなかった無念が潜んでいたのかも知れない。  四十歳前後のダ・ヴィンチの蔵書目録に、十代の学生向けのラテン語初級教科書が何冊も見られるのが、微笑ましくも痛ましい。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「ヴァザーリは、ダ・ヴィンチの学業の断念についても、当人の飽きっぽい性格が原因と思っていたらしく、ダ・ヴィンチが膨大な手記に残した無数の構想を、余暇の知的遊戯と見なしている部分がある。そうした文脈の中で、このアカデミーやエンブレムのことにも触れているため、学校自体が夢想と思えるような記述になってしまっている。  近年では、このアカデミーは実在したと考えられるようになり、所在地はミラノ北東の小古都ヴァプリオダッダ付近とされている。  彼に『最後の晩餐』を描かせたミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの設立といい、公の甥も貴族の子弟と共に学んでいたという。  アカデミーのダ・ヴィンチの居所は優雅な別荘の体を成していたらしく、静謐な環境で思索と制作に励みながら、学生の指導にあたったとの記録が残されている。絵画・彫刻・建築に加え、宝石貴金属工芸から鉄や青銅の彫金鋳造までの、広い分野にわたる優秀な技術者を養成し、それなりの実績を上げていたらしい。  ダ・ヴィンチが著した『絵画論』は、美術史上最初期の絵画理論でありながら、総合的視野において並ぶものがない書物として、いまだに読み継がれている。このアカデミーの教育課程にしても、独自の先駆性を備えていたに違いないのだが、カリキュラムに関する資料はまだ発見されていないようである。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「ヴァザーリは、ダ・ヴィンチの学業の断念についても、当人の飽きっぽい性格が原因と思っていたらしく、ダ・ヴィンチが膨大な手記に残した無数の構想を、余暇の知的遊戯と見なしている部分がある。そうした文脈の中で、このアカデミーやエンブレムのことにも触れているため、学校自体が夢想と思えるような記述になってしまっている。  近年では、このアカデミーは実在したと考えられるようになり、所在地はミラノ北東の小古都ヴァプリオダッダ付近とされている。  彼に『最後の晩餐』を描かせたミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの設立といい、公の甥も貴族の子弟と共に学んでいたという。  アカデミーのダ・ヴィンチの居所は優雅な別荘の体を成していたらしく、静謐な環境で思索と制作に励みながら、学生の指導にあたったとの記録が残されている。絵画・彫刻・建築に加え、宝石貴金属工芸から鉄や青銅の彫金鋳造までの、広い分野にわたる優秀な技術者を養成し、それなりの実績を上げていたらしい。  ダ・ヴィンチが著した『絵画論』は、美術史上最初期の絵画理論でありながら、総合的視野において並ぶものがない書物として、いまだに読み継がれている。このアカデミーの教育課程にしても、独自の先駆性を備えていたに違いないのだが、カリキュラムに関する資料はまだ発見されていないようである。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「美術史上最大級の規模を誇る絵画が、キリスト教の総本山のローマ法王庁ヴァティカン宮殿サン・ピエトロ大聖堂の心臓部であるシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた天井画『天地創造』と『最後の審判』の壁画である。  詩人ゲーテが、人の成し得ることの偉大さを知りたければこの絵を見るがいいと言ったことで知られているが、この絵の作者ミケランジェロが自分に対して抱いていたイメージは、徹底して矮小であり醜悪そのものであった。  四階建てビルの壁面相当の二百 ㎡の大画面に四百人の裸体がひしめく『最後の審判』の中央部分、彼が描き込んだ自画像は、剝がされた生皮となってぶら下がっている。  この皮は、これを手に持つ聖バルトロマイが生皮を剝がされて殉教したことを示すために描かれているのだが、その生皮に自身の顔を投影していることからもわかる通り、ミケランジェロはあきれるほどに自己肯定感というものに欠けていた。  美貌に恵まれたダ・ヴィンチが、ヴェロッキオ工房に入って間もなく天使や両性具有的なダヴィデのモデルとなったのとは対照的に、ミケランジェロは生涯にわたって自分の顔にコンプレックスを抱き続けているのである。  彼の書く手紙や詩には一貫して卑下した調子がつきまとい、自分は腹に石を詰め込んだ革財布のようなものに過ぎず、その顔はおぞましく、目はどんよりとして、片耳にクモ、もう片耳にはコウモリが巣くっていると書いている。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「じつは、この恐るべき『最後の審判』には、着想源となった作品がある。  ミケランジェロの一世代前の画家ルカ・シニョレリがオルヴィエートの大聖堂に描いた連作壁画であり、無数の裸体で埋め尽くされた「最後の審判」の様式は、この画家によって確立されている。その筋骨隆々たる人体表現を見ればわかる通り、人体描写は解剖の知識に裏打ちされており、劇的なポーズで裸体をよじる画面の迫力にも、どこか常軌を逸したものがある。  これは、当時のイタリアを支配していた終末的な世界観というものの反映で、キリスト教世界には、千年期や二千年期に際して、終末的な世界観つまり世界が滅びるのではないかという厭世的な危機感が周期的に蔓延している。  この壁画の描かれた十五世紀末イタリアは、まさにそうした終末的な気運にあり、その時代の趨勢を象徴するように、サヴォナローラという激烈な人物を生み出している。  医学生から修道僧に転じたサヴォナローラは熱狂的な説教で知られ、フランス軍のフィレンツェ侵攻を予言したことから、一時はフィレンツェを支配するに至る。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「カヴァリエーリ以前にも、ミケランジェロの同性愛的な恋慕の対象となった男性は存在し、どう見てもプラトニックな関係でなかったと思われる相手もいるのだが、このカヴァリエーリに対する愛情は、そうした過去の情熱とは一線を画するものであった。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「 このフィリップ善良公は、男性ファッションにおける黒のパイオニアでもあった。  中世来、黒は清貧と謙譲をよしとする修道僧の衣服であり、黒い羊毛で織った粗末な布が用いられていた。黒地を美しく染め上げる技術はまだ開発されておらず、修道衣も生地のままで、黒は醜悪と同義の言葉でさえあった。  黒服がファッションとなったのは、毛織物や絹織物の技術が発展して、黒の染色技術が誕生して後のことで、その流行の発信源となったのが、ヨーロッパ織物産業の中心に位置するこの地であった。フィリップ善良公が前王の死を悼んで喪服で通したことも、美しき黒の普及を促進することになっている。  画面で夫が外套の下に着ているのは、その美しくも典雅な黒地の高級服である。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「もともと肖像画は、生者の面影を死後も保存することを目的に描かれるものである。  その事実に照らしてみれば、亡き妻との記念肖像画説もさほど荒唐無稽ではないことになる。画家は、生者と死者を分かつことなく描き、人間の生死を超越した神のごとき視点に立って夫婦の再会を現出しているわけである。  一方、誓いの相手が内縁の妻であるという説は、矛盾しているようだが、正式な結婚をした相手ではないという事実が、逆の意味で説得力を発揮する。  法的に結婚していないからこそ、描かれた画面の中では夫婦であることを願い、記念に描かれた作品である可能性が強まってくるからである。  今日でも、結婚式を挙げられなかったり入籍できなかったりといった事情を抱えた男女が、記念に写真を撮ることでそれらに替える例は少なくない。  法的な根拠は持たぬにしても、二人の誓いを迫真の写実描写をもって視覚的に記録するものとして、画家に依頼されたのがこの画面であったのかも知れない。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「ファン・アイクが確立した油彩技法は、従来のテンペラという技術に比べて格段に優れた写実描写を可能にする新技術であった。  絵の具を卵黄や卵白で溶くテンペラに対して、植物の種子から採った油で溶く油彩は、絵の具の伸び、混色の自由度、塗り重ねのための堅牢性等々、あらゆる面ではるかに優秀だったからである。この技術革新のおかげで、絵画の写実描写は飛躍的に進歩することになり、ファン・アイクはその確立者であり完成者でさえあった。  ところが、このファン・アイクの技量をも上回るといわれた画家が、同時代に存在していた。ヤン・ファン・アイクの兄フーベルト・ファン・アイクである。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著


    「カラヴァッジオが生まれたのはミケランジェロの約一世紀後の一五七一年。ミラノ近郊の小村カラヴァッジオの出身で、本名をミケランジェロ・メリージといった。  石工だった父親が、巨匠ミケランジェロの名声にあやかって命名したともいわれるが、実際のところは、彼の誕生日九月二十九日が大天使ミカエルの祝日だったことに由来しているらしい。ミケランジェロ Michelangeloは、ミカエルのイタリア語名 Micheleと天使 angeloから成る男子名で、レオナルドと同様に現在でも用いられている。  画家を志した後のカラヴァッジオがミケランジェロを意識していたことは確実であり、作品の随所にミケランジェロの影響を見出すことができる。とりわけ強い影響が見られるのが、ミケランジェロが確立した体をよじるポーズのとり方で「蛇状体」と呼ばれるこの劇的な身体表現に強烈な明暗の効果を加えて、彼独自の様式を確立している。  同時代の画家に強い影響を与え、カラヴァッジェスキつまりはカラヴァッジオ派と呼ばれる追随画家の一群を生み出し、その画風は国際的に伝播することになる。フェルメールが画面に描いた絵の作者バブーレンも、こうしたカラヴァッジェスキのひとりである。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「近代絵画の原体験  近代絵画の祖となったマネは、ベラスケスを「画家の中の画家」と賞賛している。  マネの作品に見られる、明暗の対比を強調した大胆なタッチや、現実感にあふれる人物の描写は、ベラスケスの画風を当世風にアレンジして生まれたものである。  ベラスケスの人物画を同時代の人物に置き換えた『笛を吹く少年』は、そうした当世風ベラスケス様式の典型を見せる作品で、足元のわずかな影と横笛が体に投げる影以外は、ほとんど陰影描写がないにもかかわらず、人物の立体感と背後の空間を描き出している。  が、現代のスタジオ撮影による写真にも似た先駆性を見せる画面は、当時の批評家には理解されず、安手の民衆版画のように稚拙で陳腐な表現と酷評されている。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「こうした非難と嘲笑に抗して、マネ擁護の論陣を張ったのが後の文豪ゾラであった。  保守系新聞「レヴェヌマン」に連載中の美術評でマネを擁護するが、憤激した読者から購読中止の申し出が殺到したため、連載は打ち切られてしまう。少し前に出版社の広報部を辞め、文筆で生計を立てる決意をしたばかりのゾラには物心両面での打撃であった。  この応援への感謝を込めて、マネが描いたのが書斎のゾラの肖像である。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「今日では『草上の昼食』も古典としての地位を確立した感があり、画面を見てもこの絵が当時の人々を激昂させた理由は実感されにくい。  現代でも公共の場での裸体の露出は自粛されるが、ルネッサンス以来、名画と呼ばれるものの大半はヌードを描いている。そうしたヌードと『草上の昼食』の裸体を隔てるものを理解するのは簡単なことではないのだが、この絵の最大の問題が、画面左下に描かれた女性の衣服であったことは間違いがない。  ヌードのあけすけなポーズや見る者を見返す挑発的な視線、女性の裸身を強調するようなスーツ姿の男性もさることながら、なにより画面に猥雑な現実感を与えたのが、ワインと果実の傍らに脱ぎ捨てられたこの衣服だったのである。  明らかに同時代のものだとわかる服は、裸身が「衣服を脱いだ」現実の女性の裸であると告げているからである。  それが画家の意図であるのは、この静物と衣服が画面の中で最も入念な筆致で描かれていることが物語っている。どの部分よりも、なにを描いているかがはっきりわかるようになっており、人々がこの絵を猥褻として非難したのもそのためであった。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「マネがサロンでの地位を獲得すべく苦闘していた時代は、ボードレールが「偉大な伝統が失われ、新たな伝統の生まれていない」と評した芸術の過渡期であった。  それは、ルネッサンス的な写実を理想とする近世絵画から印象派の軽快なタッチが開く近代絵画への美的な移行期であると同時に、政府主催の官展から民間の画商への経済的な仕組みの移行期でもあった。  政府の官展であるサロンが画家の唯一の登竜門であった旧体制から、画商を介して画家の自由競争が展開する今日的な美術市場への移行期にあたるこの時期に、印象派展に先駆するような絵画流通の試みが、半官半民のかたちで存在していたのである。  マネには、こうした先駆的な組織と遠からぬところに居たと思われる節がある。  マネの初の個展は、三十一歳の時にイタリアン大通りにあるルイ・マルティネ画廊で開かれている。一八六三年三月、『草上の昼食』が騒動を巻き起こす前々月のことである。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「天才は病も独創的である  耳を切り落とすというゴッホの自傷行為の原因は、医学的には解明されていない。  初診したレー医師の癲癇説に続いて、一九二〇年代に盛んになる精神医学研究は、統合失調症説、突発性の躁病説、散発性の脳膜炎説、若年性アルツハイマー病説、油彩の溶き油テレピンの中毒説から、幻聴による命令説まで、数多くの説を提唱している。  一九四〇年代に諸説を検討した上で、原因の医学的診断は不可能であるとしたオランダの精神科医 G・クラウスは、「ゴッホはその芸術と同様、疾患においても個性的な人物であった」と説いている。ひとつの真実を衝いた言葉といえるだろう(*)。  ゴッホの生活を物心両面で支え続けた弟テオは、パリの画廊に勤める彼を頼ってオランダから出て来た兄が、宗教や哲学をめぐる議論でわめき散らすのに閉口している。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

    「黄視症とは視野が黄色くなる色覚異常のことで、当時の見解は、炎天下での制作による直射日光の影響ないしは性病を原因としている。が、もしゴッホが黄視症を患っていたとすれば、アプサントの過剰摂取も大きな原因のひとつであったように思われる。  アプサントはニガヨモギから作られる強度の蒸留酒で、安い値段で泥酔できるためパリの貧民層に愛飲されていたが、習慣性と毒性から後には販売禁止になっている。ゴッホも常飲していたこの安酒には、寄生虫の駆除に使われるサントニンという成分が多く含まれており、この駆虫成分は黄視症の副作用があることで知られている。  極度のストレスも黄視症の原因になるというので、ゴーギャンを待ちながらひまわりの制作に没頭するうち、異常な精神的高揚とアプサントの副作用が黄視症を引き起こしていたのかも知れない。すべての色彩が黄変している視野の中で、なお黄色を感じさせる色彩を現出しようとすれば、その黄色が異常な色調を帯びるのは当然であろう。」

    —『名画の暗号 (角川書店単行本)』西岡 文彦著

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    2026年07月13日
  • わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる!

    Posted by ブクログ

    1078円

    224P

    ★再読

    ゴッホの絵はテオとゴッホというカルト兄弟2人のユニット作品なんだ

    西岡文彦先生の本かなり良い。やっぱり人文系の美術史の先生より、美大の先生の本の方が技法的な所も言ってくれるが良い。

    ゴッホも狂気だけど、それを支えてるテオにも同じぐらい狂気を感じる

    西岡 文彦
    (にしおか ふみひこ、1952年 - )は、日本の版画家、多摩美術大学教授。山口県生まれ。1971年神奈川県立川崎高等学校卒業。版画家森義利に師事。1977年、日本版画協会展新人賞。1978年、国展新人賞受賞。雑誌「遊」(工作舎)の装画を機に、出版分野でも活動。著書も多い。1996年、多摩美術大学講師。2003年造形表現学部デザイン学科助教授、2007年准教授、2009年教授。

    ★キーワード
    浮世絵、日本大好き、林忠正はやしただまさ、早描き、ミレーとレンブラントに憧れた、聖書に没入、イギリス暮らし、パリ暮らし、清貧と貧困、南仏アルル、ゴーギャンと二人暮らし、耳を切り娼婦に届ける、ゴッホはプロテスタントでゴーギャンはカトリック、画家活動年数10年、総作品数2000点、

    日本人ゴッホ大好きだけど、ゴッホも日本が大好きなのも凄いなと思う。あんな世界的に一番人気のあるゴッホに好かれてる日本って凄いな。


    「今日の私たちから見れば地味にさえ思えるゴッホの初期作品が、絵を志す人にさえ衝撃を与えたのである。晩年のゴッホの色彩とタッチが荒れ狂うかのような作風が、一般の人々の理解を超えていたとしても不思議はない。  緑色の背景を赤い目玉のような模様で埋め尽くし、耳を深紅で縁どったレー医師を描く肖像画(口絵 Ⅲ)を、医師の母親が気味悪がるのも当然だったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著


    「大学の神学部の履修期間が六年であるのに対し、この養成機関は三年で卒業できる上に、学問より実践を重んじる教育方針もゴッホの肌に合うものと思われた。  が、語学力を評価され試験的に入学はできたものの、この頃からゴッホの言動には異常さが目立ち始め、激昂して暴力を振るう傾向も見られるようになった。  三ヶ月の試験期間を経て委員会が下したのは、ゴッホには牧師の適性が欠けているとの判断であった。即興的な話術の才覚のない彼は説教を苦手としており、準備した原稿をぎこちなく読み上げることしかできなかったからである。  落胆する当人を見かねた父親の懇願もあり、委員会はゴッホを無給の牧師見習いとして極貧の炭坑地帯へ派遣し、半年の試用期間の成果次第では牧師の仮免許を与えてもよいという特例措置を講じる。が、最後の機会であったこの六ヶ月はゴッホの牧師への夢を、決定的に断つものとなってしまう。  それは、ゴッホの画家への道を運命づけることになる六ヶ月でもあった。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「牧師夫妻に別れを告げ、寒さの中を貧しい荷物を肩に裸足で立ち去るゴッホの背後を悪童達が、「気違い!  気違い!」と罵りながら追い立てていた。  その後ろ姿を見た牧師は、妻に、「私たちも彼を狂人呼ばわりしていたが、もしかすると、彼は聖者だったのかも知れない」と言ったという。  が、その言葉が、伝道の世界から追われたゴッホに届くことはなかった。  神にさえ裏切られたような思いでゴッホは、信仰に代わるものを求めて歩き去ってしまっていたからである。  ゴッホにとっての画家の道は選んで歩むものである以上に、自分が夢見た世界から閉め出され追われたあげく、唯一残された道でしかなかったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「 恋愛の幻に破れて失った、心のふれあいを求めての苦悩でもあったのだろう。  天職とも家庭とも絶望的に切り離されてしまった苦悩を綴る兄の手紙に胸を震わせた弟テオは、以降、兄を経済的に支えることを心に誓っている。子連れの娼婦と持った生涯一度の家庭  兄弟の間でこの約束が交わされたのは、一八八〇年の夏。弟テオが二十三歳、兄が二十七歳の時のことであった。  以降、三十七歳の兄が非業の死を遂げるまで、約束は守られることになる。  弟からの仕送りのおかげで、しばらくはベルギーで画家修業に励むことのできた兄だったが、絵画の基本を学ぶための師とした人物とも学友とも、やがては関係を悪化させ、失意のうちに帰国することになる。  父親は、息子の画家志望には反対したものの、牧師館の一画を息子に提供する。  ところが、またもやゴッホ特有の性癖が災いして、ゴッホはこともあろうに、従姉のケー・フォスと相思相愛の関係にあると思い込み、少し前に夫を亡くしたばかりの従妹に執拗な求愛をすることになる。  無論、ケーもまたウルシュラと同様、断固としてゴッホの求愛を受け付けず、再びゴッホは自身の妄想が生んだ恋に破れて消沈してしまう。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「が、はた目にはいかに非常識と見えようとも、このシーンと過ごした二十ヶ月は、ゴッホが生前に体験することのできた唯一の家庭生活であり、シーンの出産は、彼が生涯で一度だけ「保護者」として立ち会うことのできた「家族」の誕生であった。  やがて、シーンと彼女の親族の不当な要求に音を上げたゴッホは、彼女と離縁することになるが、この時期に味わった家庭の温かみと子供達への慈しみの思いは忘れることがなかったという。ゴッホが三十歳になろうとする頃のことであった。  しばらく後、再び実家に戻ったゴッホは、なかば見捨てられたような家族関係の中で制作に専念、ようやく弟の経済的援助の返礼に作品を送り始めることになる。  時に、収入の半額まで兄への援助に充てていたテオの献身は、周囲の理解を超えており、とりわけシーンとの同棲中は非難の対象にさえなった。  が、弟は弟で、この兄を支援することなしには生きていけない思いを抱えていた。  あまりに悲惨な運命に見舞われ続ける兄ゴッホの窮状は、パリ支店に派遣され画商として地歩を固めつつあった弟テオには、激痛のような自責の念を喚起し続けていたに相違ないからである。  ゴッホの弟であったテオは、兄と同じく、悲惨な境遇にある人間を眼前にすれば、その苦難を分かち合わずにはいられない人間だったからである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「アルルで首をかしげる日本人  ゴッホがゴッホになったといわれる南仏アルルを、ゴッホ自身は「南仏の日本」と思い込んでいた。  ゴッホの熱心なファンでなくとも、南フランスに旅行した折りにはゴッホゆかりのアルルを訪れる日本人は少なくない。  が、ゴッホが描いた跳ね橋やカフェの夜景が当時の面影を伝えるアルルに、ゴッホが南仏の日本を見出していたことを知ると、そうした日本人旅行客の多くは決まって首をかしげることになる。  アルルは、地中海の港町として知られるマルセイユの北西約七〇キロに位置し、海とはローヌ河で結ばれていることから、古来の水運の拠点として発展している。  温暖な地中海性気候には瀬戸内海を思わせる部分もなくはないが、澄み切った大気と明るい陽光に恵まれたこの街を、南仏の日本と見なすことには無理がある。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「こうした絵画の革命をさらに大胆に押し進めたのが、ゴーギャンやロートレックやスーラといった後期印象派と呼ばれる画家達であった。  ゴーギャンが浮世絵の平面的な造形や瞬間の動きを切り取る描写を取り入れて大胆な画風を確立したのに対して(口絵 Ⅻ)、スーラはあざやかな原色の点描を創案し、ロートレックは流麗な描線を駆使した浮世絵そのままのポスターで、従来のヨーロッパ絵画の常識をくつがえす画期的な表現を生み出している。  いずれも彼らが、浮世絵の研究を通して独自に確立した新しい様式であり、ゴッホが出て来たパリは、そうした日本ブームの渦中にあるパリだったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「昼夜を問わず、相手構わず大声で議論を吹っかける兄に、画廊の仕事で疲れて帰宅するテオは打ちのめされ、散らかり放題の住まいと議論好きの兄を敬遠して、テオの友人知人の足も遠ざかってしまう。  後にアルルでゴーギャンとの間に繰り広げられることになる悲劇を予見するような生活であったが、弟テオはゴーギャンや兄ゴッホと違い、自分を抑制して相手に譲歩するすべをわきまえていた。  兄弟は、兄が母親の気性を継ぎ、弟が父親の気性を継いでおり、彼らの父親テオドルス・ファン・ゴッホは、同じ名の次男と同様、控えめな人柄の牧師として知られていたからである。対照的に、母親アンナは時として感情を爆発させることで知られ、家族や知人は彼女が突然に襲われる怒りの発作に恐れをなしていた。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホのこうした日本人観の出典となる文献は確認されていないが、ヨーロッパの当時の芸術家や思想家が、同様の日本人観を抱いていたのは事実である。  その根拠となったのは、日本美術に見られる自然描写であった。  ヨーロッパにも十七世紀頃から、静物画や草花鳥獣を描く絵画は登場していたが、その種の絵画は、聖書や神話の一場面を描いた作品より格下のものと見られており、日本美術のように、花鳥風月を主役にした絵画や彫刻は、彼らの伝統には存在していなかったからである。ヨーロッパ美術においては、自然はあくまで、人間を主人公とした絵画の舞台装置のような背景に過ぎなかったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホのこうした日本人観の出典となる文献は確認されていないが、ヨーロッパの当時の芸術家や思想家が、同様の日本人観を抱いていたのは事実である。  その根拠となったのは、日本美術に見られる自然描写であった。  ヨーロッパにも十七世紀頃から、静物画や草花鳥獣を描く絵画は登場していたが、その種の絵画は、聖書や神話の一場面を描いた作品より格下のものと見られており、日本美術のように、花鳥風月を主役にした絵画や彫刻は、彼らの伝統には存在していなかったからである。ヨーロッパ美術においては、自然はあくまで、人間を主人公とした絵画の舞台装置のような背景に過ぎなかったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「アルルにゴーギャンを招いた折りにゴッホが描いて送った自画像も、自分を日本の僧侶に見立てており、この地で彼が目指していた生き方を物語っている。  ゴッホが突然、パリからアルルへ向かったのは、一八八八年の二月であった。  アルルからの手紙は、初めて日本人の物の見方、色の感じ方が理解できたと書いている。「フランスの日本人」である印象派は、「フランスの日本」である南仏へ来るべきだとも書いている。絵画の未来は日本にあると確信したゴッホは、南仏の日本に新進画家の共同体を建設するという夢を描くことになる。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホが浮世絵に熱中したのはパリに出て来てからのことだが、じつはこのパリで彼と浮世絵の縁を結ぶことになる人物が、ゴッホが生まれ、日本に黒船がやって来た一八五三年の十一月に誕生している。富山の蘭学者の家に生まれ、第三回パリ万博に通訳として渡仏した後、日本美術商として活躍することになる林忠正である。  流暢なフランス語と高い教養で万博の日本館の来場客を魅了した林は、万博の閉会後もパリに残り、日本の美術工芸品の販売に腕を振るっている。当時パリには、空前の浮世絵のブームが到来しており、林はその第一人者として、膨大な枚数の浮世絵を日本から持ち込み売りさばいている。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「もともとゴッホは、版画という表現形式には強い愛着を持っている。  多くの画家が版画を単なる絵画の複製としか見なしていないのに対して、彼は版画を人々の暮らしに浸透した美術品として、高く評価していたからである。  日本の画家達が共同生活から生み出した大衆のための安価な芸術が浮世絵であるとすれば、それはまさしく彼にとっては芸術の理想の具現と映ったはずなのである。  日本を芸術のユートピアとして夢想してしまうのも無理はなかったわけである。  おそらく、その夢想はゴッホの胸を焦がすような憧れを喚起したに違いない。  その夢想の中には、彼が望むすべての夢が含まれており、彼が失ったすべての夢が息づいていたからである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「当時の牧師が、芸術文化の全分野において指導的な役割を担っていたことは前述の通りだが、こうした版画は、彼らの出版活動とも密接に結びついており、著書の挿絵から教会で子供達に配られるカードにまで活用されていた。  ゴッホの版画への愛着は、こうした文化風土から育まれたものであろう。  当時の先端メディアの写真を用いた複製絵画とゴッホの取り合わせは、意外な印象もあるが、若きゴッホのこうした版画への関心は、絵画の安価な複製品という通常の認識をはるかに超えたところにあったのだろう。  人々と苦難を分かち合う伝道師を志したことからもわかる通り、ゴッホは常に人々と共にあることを願っており、絵画にも同じことを願っていたはずだからである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ロンドン時代、失恋で鬱屈したゴッホが、上司に向かって口にした画商という仕事への厳しい糾弾は、そうした彼の心情からのものであったに違いない。  浮世絵に魅了されたのも、そうした心情からのことであったのだろう。  彼らしい思い込みから、浮世絵こそが自分の理想とする美術品のあり方を具現したものと誤解してしまったゴッホは、日本の画家の生活様式から日本の気候風土までを現実とかけ離れたものとして夢想していたに違いないのである。  アルルを南仏の日本と思い込み、自分の絵を浮世絵のような作品と思い込むことになってしまったのは、そのためであったに違いないのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホのタッチは、早描きに特有のものである。  早描きは基本的には油絵には適さない手法である。油絵の具は水彩に比べてはるかに乾燥に時間を要するからである。  にもかかわらず早描きを敢行したところに、ゴッホのゴッホたる所以があり、彼が絵画に託していた思いを読み解く鍵もそこに隠されている。  早描きは、生き急いだゴッホが絵画に描き急いだものに不可欠の手法であり、彼が芸術を通して実現しようとしたものの結晶だったからである。  単に、残された時間に急かされての、性急さの現れではなかったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「パリで印象派と浮世絵の洗礼を受けアルルで開花させることになるゴッホが、独自の画風を確立する以前の代表作とされるこの作品は、主題にミレーの影響が見られ、劇的な明暗にレンブラントの影響が見られると説明されることが多い。  この二巨匠はゴッホが誰より敬愛した画家であった。貧窮のさなかにあっても部屋の壁にはミレーの版画が飾られており、レンブラントの作品の前の二週間とならば、生涯の十年を引き換えにしてもいいとゴッホ自身が語っている。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「初心者の油絵が稚拙に見えるのは、絵の具の乾きを待ちきれず、生乾きのまま重ね塗りしてしまうからであり、性急な描き方のおかげで、絵の具が画面上で練り合わされて、描線が引くそばから下地と混ざって色が変わってしまうからである。  じつは、このいずれもが、ゴッホの特徴となっている。  画面では、混じり合った絵の具が、生乾きのままのような生命感をかもしだしており、いかなる名画もゴッホと並ぶと印刷物のように生気を失って見える。  このゴッホの早描きは、かなり自覚的に確立されたもので、彼は当初から早描きをモットーにしている。本格的に油絵を描き始めて間もなく、この手法に確信を抱いたことはテオへの手紙で報告されている。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「腐った枯れ葉の落ちた地面の色に胸を打たれたゴッホは、その描写に全力を注ぎ、画面にこの夕刻の神秘的な気配が描けたと思えるまでは作業を断念しないことを決意する。が、急速に暗さを増す秋の夕暮れに急かされ、描きあぐねたゴッホは、思わず絵の具をチューブから画面に直接絞り出していたという。  チューブから絵の具を画面に絞り出す手法も今日では一般化しているが、当時は、ほとんど自暴自棄のような行為であった。が、ゴッホはこの絞り出した絵の具を筆で整え、ようやく納得できる効果を得たという。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホは自分の作品を、自然が語りかけることを、速記術のように書き留めたものだと書いている。速記には、解読できない言葉があるかも知れず、誤記や書き落としもあるかも知れないが、自然が語った言葉の残響はあるはずだとも書いている。  自分が正統的な絵画教育を受けていないからこそ、出会うことのできた手法だとも書いており、自分に独自の画風との自負をのぞかせている。  以降、ゴッホの画面は自然の様相を写す速記術として、独自の画風を探求していくことになる。急かされるようにして引かれた小刻みなタッチも、簡略化されて歪んでしまった形体も、大胆に単純化されて強烈な対比を見せる色彩も、この速記術としての絵画を探求した結果、必然的に導き出された様式だったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「が、彼自身、『ジャガイモを食べる人々』の醜さを自認していたことからもわかるように、むしろ人々に拒絶され嫌悪されるような画面を描くことを願ってもいた。  現実そのものが、嫌悪すべき矛盾と悲惨に満ち満ちていたからである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「なかでも興味深いのが、ロンドンでの失恋後、聖書を没入するように読み始めた頃に関心を抱いたという英国雑誌の表紙で、その画風は、初期のゴッホ作品に驚くほど似ている。彼の作品を見て仰天したケルセマーケルスに、ゴッホが参考資料に与えたのも、この種の雑誌の表紙であった。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著


    「 パリの生活に疲れ果て、ブルターニュの村ポン・タヴェンに滞在して画風に新境地を開いた後、パリに戻ったゴーギャンはテオの紹介でゴッホに初めて出会う。  ゴッホが、この尊大な画家の作品と人格に魅了され、持ち前の思い込みから、過剰な期待をかけた時、悲劇の種はまかれることになった。  印象派と浮世絵の洗礼を経たゴッホがパリからアルルに向かったのが一八八八年の二月。この地に画家の共同体を建設することを夢見るゴッホの誘いに応じ、アルルにゴーギャンがやって来たのは十月のことであった。ただし、ゴーギャンの関心はテオからの仕送りにしかなく、画家の共同体に賛同したわけではなかった。  前年、ゴーギャンは南海の楽園を夢見てパナマに渡ったものの、生活の手段は運河工事の人夫しかなく、さらに未開のカリブ海のマルティニック島に渡航するが、現地でマラリアと赤痢にかかり帰国を余儀なくされている。  アルルに来たのは、ゴッホと生活を共にしてくれる画家を探していたテオの援助を当てにしてのことであった。前年、テオはゴーギャンの作品を数点買い取っており、アルル着の翌月には、ゴーギャンの個展をパリのグーピル商会で開いてやっている。ゴーギャンにとってアルル滞在は、作品が売れて生活のめどが立つまでの一時しのぎの方便に過ぎなかったのである。  そんなゴーギャンの現実主義とは裏腹に、まだ見ぬ日本を陽光に輝く国と誤解したゴッホは、南仏の夏の炎天下、影を描かぬ浮世絵そのままの画面を追求するうちに、ほとんど熱狂的なまでの期待を画家の共同体の夢想に抱き始めることになる。  白熱するかのような黄色に燃え立つ『ひまわり』を、豪放な早描きのタッチで描き上げ、ぎりぎりにまで高まった精神の高揚の中で、畏友ゴーギャンの到着を待つことになったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホがゴッホになったといわれるアルルに、彼が滞在していたのは十四ヶ月半。三十五歳の初春からのこの滞在期間には、「耳切り事件」による二週間の入院、その直後に起こした発作による警察命令の十日間の強制入院、さらには、彼の言動に不安を感じたアルル市民の要請で強制的に隔離された二ヶ月が含まれている。  まさに「炎の画家」として過ごした激動の十四ヶ月半に彼は、代表作『ひまわり』を含む二百点の作品を描き上げている。  二日で一点という猛烈な速度で絵を描きながら、狂気の天才としての生涯を伝説化する大事件をも起こした四百四十日間であった。  生き急ぎ、描き急いだゴッホの早描きが、渦巻くような筆致に変容していったのもこのアルルでのことであった。八月半ばに描かれた積み藁の素描を見ると、描線が彼に独自の揺らぎを見せ始めているのがわかる。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホは手紙に、アルルの強烈な陽光に慣れた目で見ても色彩が輝いて見える画家は、ドラクロワとモンティセリのみだと書いている。  ウジェーヌ・ドラクロワは、革命に蜂起するパリ市民を描いた『民衆を導く自由の女神』で近代絵画の歴史を開幕した、ゴッホの半世紀前の巨匠。アドルフ・モンティセリは、豪放な厚塗りで知られるゴッホの一世代前の画家である。  ドラクロワは、ゴッホがオランダ時代からその色彩の理論に傾倒した画家であり、モンティセリは、パリに出たゴッホがその作品の色彩に圧倒された画家であった。  今日の私たちの目には古典名画の代表とも映るドラクロワは、登場当時は「絵画の虐殺」と称されたほどの前衛画家であり、厳密なデッサンによる下図に着彩して描くのが常識であった油彩手法を変革し、色彩で直接にデッサンする手法を確立して非難の嵐を巻き起こしている。  印象派の先駆とされるのがこのドラクロワで、私たちには穏やかそのものに見える画面が、当時の人々の目には度肝を抜く原色のぶつかり合いのように映ったという。  そうしたドラクロワの手法の典型を見せるのが、彼の名を世に知らしめた『ダンテの小舟』という作品に描かれた地獄の亡者の肌の水滴で、原色のまま画面に併置された点描が、離れて見ると融合して輝くように見える(口絵 Ⅷ)。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホ渾身の『ひまわり』はゴーギャンの部屋を飾るために描かれた作品である。  説教を「描くように語る」ローリーヤールが、私たちの心はこの花のようでなくてはならないと説いたのも、ひまわりであった。  偉大な光に顔を向け続けるこの花のようにアルルの陽光を仰ぎながら、視覚の異常と精神の崩壊という心身の危機と引き換えにするようにして現出したのが、ゴッホの輝くばかりの黄色だったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「絵の具を受け取ったゴッホが弟に送った手紙には、白が足りないと書かれている。注文したリストに忠実に送って欲しいとも書かれている。  おそらくテオは、ゴッホの注文した白の絵の具の量があまり多いことに当惑して、兄の書き間違いと解釈し、量を加減して送ったのであろう。注文通りの量の白を送るようゴッホに催促されている。  ゴッホの色彩の特徴は、『ひまわり』のように、限られた種類の色を多彩に用いた作品であっても、補色の赤と緑や黄色と紫が激突する作品であっても、鮮烈な配色でありながら画面全体がひとつの輝きに統一されて映ることにある。  この統一された輝きを画面に与えているのが、白の絵の具の効果である。  白の絵の具といえば、一般的には地塗りの色と思われがちだが、この絵の具の真価はむしろ上塗りによって発揮される。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「おそらく、その白はゴッホがまだ見ぬ光の国日本に抱いた夢想の象徴であり、彼が日本の画家に託した理想の象徴でもあったのだろう。  そして、私たち日本人の西洋文化への憧れの結晶である油絵が、ゴッホに限ってはなぜか日本人に親近感を抱かせ、ヨーロッパとさしたる時間差もなく評価されるようになった一因も、この白の効果にあるのだろう。  日本で例外的な人気を誇るゴッホの作品は、当人も言う通り、浮世絵のような色彩で描かれているのである。  アルルでゴッホが『ひまわり』を描いていた頃、パリでは同じく浮世絵に傾倒する印象派の画家達が急速に評価を確立しつつあった。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「専用の美術館の設計者として、フランス政府が指名してきたのが、現代建築の父といわれる建築家ル・コルビュジェであった。  落成した国立西洋美術館に、松方コレクションが返還されたのは一九五九年。松方幸次郎が、八十四歳で逝って九年後のことであった。今なお、この国立西洋美術館建設当時の収蔵作品群には「フランス美術松方コレクション」の名が冠されている。  晩年の松方は、時折、思い出したように、「フランスに置いてある絵を持って帰らなくては」とつぶやいていたという。  こうして、当初、松方が構想していたものを大幅に下回る規模ながら、日本で初の本格的な西洋美術館は誕生し、政府に代わって取り組んだ松方の志は成就した。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「この号に、五点ほど紹介された図版のひとつが『アルルの寝室』である。  近代日本のゴッホ愛好家が最も早い時期から目にしていたのがこの作品であった。  それだけに、パリの印象派の殿堂オルセー美術館を訪れる多くの日本人は、この絵の前ではひときわ感慨深げに立っている。ゴッホ自身が手紙に「絶対的な休息の感覚を表現したかった」と書いた画面に、旅先の安息を見出す人も少なくないであろう。  が、そうした人々の多くは、この作品を今から百年ほど前に購入しながら、震災、恐慌、戦災に阻まれ、故国へ持ち帰ることのできなかった日本人のことを知らない。  その同じ人物が、日本唯一の国立西洋美術館の収蔵品の大半を、私財を投じて蒐集した功績も、急速に忘れられつつある。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「 一八八八年のクリスマス・イヴの朝、アルルを巡回していた警官ロベールは、地元の娼婦ラシェルから新聞紙の包みを渡されて仰天している。昨夜、客から届けられたという包みの中には、人間の耳の断片が入っていたからである。  すぐにロベールは署に帰り、数人の警官を連れて、包みを届けた客ゴッホの住まいに向かう。当時、ゴッホは街の広場に面した黄色い外壁の家に、ゴーギャンと二人で暮らしていた。  アトリエと台所と二室の寝室を借りたこの家を手始めに、画家が生活を共にしながら制作に励む共同体をこの地に築くことを夢見て、その呼びかけに応えたゴーギャンをアルルに迎えてから、二ヶ月が経過していた。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「突発的な激情に駆られて行動するのが常のゴッホに対して、理性派のゴーギャンは剛胆ではあっても無計画なことは好んでいない。乱雑な生活環境での衝動的な言動が慢性化しているゴッホとは対照的な生活感覚を持っていた。  株の仲買人といい水夫といい、彼の経験してきた職業は、予測を誤れば死活問題となるものばかりであったことも無縁ではなかったろう。画材の準備から衣食住の管理まで、混乱や無秩序を嫌う性分の彼にとっては、ゴッホとの同居は拷問のようなものであったに違いない。アルルを去る決意をしたとテオに書き送っている。  もともと、人一倍個性の強烈な二人の芸術家が、四六時中顔を突き合わせるかたちで共同生活を営むこと自体が無理だったのである。  加えて、ゴッホがオランダのプロテスタントの牧師の息子であるのとは対照的に、ゴーギャンはカトリックの家に育っていた。  フランス人の父親とペルーの貴族の血をひく母親の間に生まれた彼は、幼少時代をペルーの熱情的なキリスト教文化の中で過ごしている。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「植民地政策としての宣教が、壮麗な美術と音楽を利用したことから生まれた中南米特有のカトリック文化のなかで幼少期を送っている上に、フランスに戻った少年ゴーギャンが通った学校は、当時の教会行政を主導していたフェリックス・デュパンルーという、カトリック復興の立役者が教育にあたった寄宿学校であった。  父親を早くに失い、母親が働く必要があったことからの選択であったが、おかげでゴーギャンは、期せずして当時最高峰の神学教育を受けることになったのである。  したがって、ゴーギャンはその宗教的な出自においても、ゴッホと真っ向から対立していたことになるのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「 ゴッホもゴーギャンも、教会に背を向けた芸術家と見られることが多い。  が、ゴッホが、聖書の精神に忠実であり過ぎたがゆえに伝道師の道を断たれたのと同様に、ゴーギャンも真の信仰を求めるがゆえに教会の退廃に絶望している。  教会に背を向けたのは、当時の教会が神に背を向けていたからであり、その教会に背を向けることで、むしろ神に顔を向けることこそがゴーギャンの願いであった。  幼少期を過ごしたペルーのキリスト教徒の素朴で情熱的な信仰に較べれば、当時のフランスの教会はあまりに退廃しており、卓抜したルネッサンス的教養人でもあったデュパンルーから受けた神学教育に照らしても、当時の教会関係者の姿は通俗この上もなく映ったに違いない。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「論争は、互いの作品の批評から家事のささいな段取りに至るまで、あらゆる局面で繰り返されたに違いない。反目は日を追って高まり続け、やがて「黄色い家」は電気を帯びたような一触即発の緊張感に包まれていく。ゴーギャンが深夜に目覚めると、ゴッホがベッドの脇に立ち、自分を見すえていたこともあったという。  その対立が頂点を迎えたのが、二十三日の夜であった。  アルルにもゴッホにも嫌気のさしたゴーギャンが路上で背後の足音に振り返ると、絶望のあまり逆上して剃刀を手にしたゴッホが追ってくるのが見えたという。  が、ゴーギャンの気迫に押されたゴッホは、そのまま家へ帰り、剃刀で自分の耳を切り落とし、なじみの娼婦に届けた後、自分のベッドに戻り昏倒する。  小説や映画にもなったこの事件の詳細を伝える資料は、ゴーギャンの書いた回想録しか残されていない。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホは、この夜のことは記憶していないと言い、自分自身では事件のことはどこにも書いていない。  事件を回想録に記しているのはゴーギャンだけなのだが、ゴッホの没後に定着したゴーギャンを悪者とする見方への反論として書かれたともいわれる回想録が、事実を忠実に伝えているとは限らない。わかっているのは、一八八八年の十二月二十三日の夜、近代絵画を代表する二つの個性が激しく衝突したということだけである。  ゴーギャンは、ゴッホとの出会いで得たものは、自分が苦しい時に、もっと不幸な男がいたことを思い出せるようになったことだと書いている。  一方、ゴッホにとってゴーギャンとの訣別は、若き日の失恋、伝道の挫折に続く、あまりにも苦々しい拒絶の経験であった。もともと彼が志した画家の道は、そうした失職と失意の果てに見出した最後の光明であった。そして、彼が夢見た画家の共同体は、伝道に挫折して失ってしまった魂の居場所を求めての夢想であった。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「テオは、アルルからの知らせに駆けつけた時点で、兄の死を覚悟している。  医師も覚悟が必要だと告げている。  一旦は、絶望の底に落とされているが、兄の奇跡的な回復で希望を持ち直し、後に兄が自殺をはかった折りにも、絶望の中で再度の奇跡を期待している。  アルルの病院での療養で肉体的には回復したものの、この頃からゴッホは、激しい発作に見舞われるようになり、自身でも精神の崩壊を危惧し始めている。  事件の翌月の一月には退院して制作を再開するが、春に弟が結婚するのと前後して発作を繰り返し、みずから申し出てアルル北東のサン・レミにあった精神病院に入院している。修道院の経営する病院であったが、精神医学の未発達であった当時、この種の病院の実態はむしろ監獄に近かった。  代表作の『星月夜と糸杉のある道』はこの病院で描かれている。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホがアルルで描いた作品を、浮世絵のようだと形容したのは、明確な輪郭線と平板な色面で画面を構成することにつとめたからである。  こうした陰影描写を排した明快な造形と共に、ゴッホが日本の絵画の特質と見なしていたのが速筆で、手紙に日本の画家は稲妻のようにデッサンすると書いている。  確かに、水墨画の筆勢をみれば、大胆な速筆で描かれていることは容易に想像できるであろうし、当時パリでも知られていた『北斎漫画』などは、そうした筆勢を思わせる作品や絵師の姿を多数掲載している。  自然の言葉の速記術となる早描きをモットーに画家としてスタートを切ったゴッホにとって、日本美術の色彩と共に模範とすべきは、その速筆だったわけである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「 ムンクの描いた不安の叫びにゆらぐ人物像や、ピカソの描いた涙で顔が流れ落ちるような女性の泣き顔が登場したのも、このゴッホによる人間心理の視覚化という前代未聞の試みがあったからこそのことである。  絵画が、写真のような客観的な描写ではなく、画家ならではの主観的なイメージを描く芸術としてその地位を確保したのは、ゴッホがこのオーヴェールで孤独な偉業を達成した後のことだったのである。  そして、最晩年の代表作となる麦畑が描かれたのも、この村であった。  この麦畑を描いた絵についてゴッホは手紙で、筆がほとんど手から落ちそうな状態で制作したと書いている。悲しみと孤独のきわみを表現した作品と書くと共に、田園ならではの健全なたくましさを表現した風景だとも書いている。  悲哀のきわみと田園の壮健が共存するのは矛盾とも思えるが、これは当時のゴッホの心境からすれば、きわめて自然な言葉ではあった。  この少し前、テオ夫妻に初めての子供が生まれ、ゴッホは弟に自分以上に親しく、自分以上に保護を必要とする家族が誕生したことに、底知れぬ不安を抱いていたからである。この絵に描かれた悲しみと孤独のきわみとは、そんなゴッホの不安に他ならず、田園の壮健とは、ゴッホがこの時期、しきりに弟夫妻をオーヴェールへ誘っていた理由に他ならなかったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「翌朝、テオはガシェと共に役場に死亡届を提出するが、キリスト教が教義で自殺を禁じているため、教会から葬儀用の馬車を貸与できないと言い渡されている。  ゴッホが『オーヴェールの教会』に描いた教会である。  川向こうの村から馬車を借り、教会で葬儀を断られた葬列が村はずれの共同墓地に向かったのは、翌日の午後三時であった。下宿の前の通りを進み、教会の脇を通って墓地へと向かう道の横には、ゴッホが描いた麦畑が海のように広がっていた。  悲報を聞いてパリから駆けつけたタンギー爺さんら数人の友人を加えたささやかな葬列が麦畑の横を通って墓地に向かう光景は、少年ゴッホを画家の道へといざなった『麦畑の葬列』の画面そのままであったに違いない。  葬儀に参加した画家ベルナールは友人への手紙に、テオが悲しみにうちひしがれていたと書き送っている。  墓地での別れの儀式と埋葬を終え一同が下宿に帰ると、テオは形見として兄の絵を持ち帰ってくれるよう参列者に頼んだという。  一同がそれぞれに絵を選び去ってしまうと、兄の部屋に取り残されたテオは、悲嘆と絶望に押しつぶされそうになりながら遺品の整理を始め、やがて兄の着ていた上着のポケットに、折り畳んだ紙片が入っているのに気づく。  兄が最後に書いたと思われる未完の手紙であった。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著


    「絶望の色濃い文面は、自分は絵画を探究するあまり、理性を崩壊させてしまうことになったと綴っていた。テオに対して「君は信念を曲げず、人間性を見失わずに生きていけるに違いない」と激励の言葉を贈っている。「くれぐれも君は単なる画商などではなく、自分と共同して強固な芸術を確立したことを忘れないで欲しい」とも書いている。おそらく兄は、弟にとってはその芸術が、兄の存在なしにはいかなる意味も持っていないことを理解していなかったのであろう。  強固な芸術など確立できなくとも、兄に生きていてくれることを望み続けていた弟の思いを、わかってやることはできなかったのであろう。  どれほど弟に負担をかけたとしても、彼自身が生き長らえること以上に、兄の弟に対する優しさなどないことを、結局は理解できなかったのであろう。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著


    「ゴッホが、人一倍「自分らしさ」を求めたのは、この兄の身代わりとしての自分を否定したかったからかも知れない。なんらかの意義あることを成就しない限り、自分がこの世に生まれてきたことの意味を見出すことができなかった可能性はある。  妄執にも似た彼の「自分らしさ」の探究は、絵画史上にまったく例を見ない独創的な画風を生み出すことにはなったが、その画家としての偉業は、あまりに悲惨な生涯と引き換えに成就されたものであった。  生前に一度だけ、ゴッホの作品への讃辞が雑誌に掲載されたことがある。  詩人で批評家のアルベール・オーリエが、『メルキュール・ド・フランス』という雑誌に寄せたものだが、評を読んだゴッホは、抗議に近い手紙を送り付けている。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「ゴッホの弟として生まれたテオの自己犠牲の精神は、兄の狂気に似た過剰さを帯びており、兄が無慈悲なまでに他者を害し続けることに対しても、兄に代わって自責と羞恥の念を抱き続けていたに違いないのである。  テオが周囲にあきれられながらも、兄を支え続けたのはそのためであろう。  収入の半額を兄への仕送りに当て、パリでの悪夢のような兄との同居に耐えたのもそのためであろう。兄の所業に、自身の恥のように自責の念を抱いていたからこそ、聖者のような献身と奴隷のような奉仕を続けざるを得なかったのであろう。  そのテオに、兄が書いて寄こした手紙には、「君は僕に、妻も子供も仕事も与えることができない。金しか与えることができない」と書かれていた。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「 兄ゴッホが逝った翌年の一八九一年一月二十五日、弟テオはオランダのユトレヒトの精神病院で、妻ヨハンナと生まれて一年目の息子を残して亡くなっている。  兄を失ったテオは、まるで取り憑かれたようにゴッホの作品を世に出すことに没頭し始めるが、当時最も先鋭的な画商で印象派の育ての親となったデュラン =リュエルさえ、社会的信用を失うことを怖れて、ゴッホの絵は扱おうとしなかった。  激務で体調を著しく悪化させたテオは、やがて幻聴や悪夢に襲われるようになり、ゴッホを理解しようとしない人々を呪い始め、それまでは決して振るったことのない暴力を周囲の人々に振るい始める。ヨハンナが断腸の思いで入院させた精神病院では自分の殻に閉じこもってしまい、やがて完全に正気を失ってしまう。  兄の名前を呼ばれた時にのみ、かすかに反応を見せたという。  死因となった疾病については諸説が唱えられているが、兄を失った痛手がテオから生きる意欲を著しく奪い、死期を早めたことは間違いないであろう。  ゴッホがテオなしには生きられなかったように、テオもゴッホなしには生きられなかったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著



    「ゴッホの描いたひまわりは、ゴーギャンに捧げられた花であった。  視野を黄変させ精神をなかば崩壊させながら描いたこの作品の名声から、今日では「ひまわりの画家」はゴッホの代名詞となっている。  が、生前のゴッホをこの名で呼んだ画家がいることはあまり知られていない。  アルルでゴーギャンが描いた、現在では『ひまわりを描くゴッホ』と呼ばれている作品を、ゴーギャン自身は『ひまわりの画家』と命名しているのである。「ひまわりの画家」の命名者は、ゴッホがこの花を捧げた画家だったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「オーヴェールのゴッホの部屋を訪ねたことがある。  二十年以上も前の真冬のことで、ゴッホが下宿していた居酒屋ラヴー亭は「ゴッホの家」という記念施設になってはいたが、まだ訪れる人は少なく、おかげでひとりでゴッホの部屋に入ることができた。今となっては夢のような話である。  入館料を払うと、入場券を兼ねた小冊子を渡され、係の人がゴッホの部屋へ上がる階段を教えてくれた。階段が暗く狭いことに驚いたのを覚えている。  上りながら右へと曲がり、折り返すかたちで階上へと続く階段を十七段上がると、ゴッホの部屋の扉の前に出る。足を置くたびに、階段の板がきしむ音がした。  生前のゴッホがこの世で最後に成し遂げた難事業が、この十七段を独力で上り切ることだった。胸に銃弾を撃ち込んだ状態でこの階段をひとりきりで上り終え、部屋の寝台に倒れ込んだ彼が、生きてこの階段を降りることはなかった。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「じつは、ゴッホ自身、技法に関してはきわめて研究熱心であり、テオへの手紙にも驚くほど頻繁に技法書の名が登場している。激情的に映る画面とは対照的に、画家としての彼は常に絵画を理論的に探求し続けていたのである。  画家を志して間もない頃のゴッホの絵を見て仰天した革細工師のケルセマーケルスは、粗暴な画風もさることながら、ゴッホの理論好きに驚嘆している。  絵画を音楽と対比させることを好んだゴッホは、教会の老オルガン奏者にピアノの手ほどきを頼んだものの、音を色に置き換えて話し続けたせいで怖がられてしまったというのである。ピアノの音を青や緑や黄色に比べてばかりいるゴッホは、老音楽家には狂人としか映らず、レッスンを中止されてしまったらしい。  以降もゴッホは色彩を理論的に探求し続け、絵画に明るい色彩をもたらした印象派の革命を超え、個々の色彩に意味を託した絵画の様式を模索している。好んで用いた補色についても、愛する男女の対比と結合を意味するものと手紙に書いている。  現代芸術の世界では、言葉を色に置き換える詩や楽譜を色彩で表す音楽にも、人々はさほど驚かないが、ゴッホの時代には狂気の沙汰でしかなかったのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「が、日本の『ひまわり』を見ても、実物の色彩は白い輝きを帯びている。  後年、印刷所の老名匠に理由を聞いてみたところ、製版カメラのタングステン光のせいだろうという。専門的で早口の説明は、私の理解を超えるものであったが、製版技術が進歩したおかげで、原画の色彩を再現できるようになったということらしい。  印刷の技術が、ようやくゴッホに追いついたということなのだろう。  が、当時はそうした事情もわからず、ゴッホの白に衝撃を受けるばかりであった。  なんと無謀なことを試みていたのだろう、というのが率直な感想であった。ゴッホの試みは、油彩ではほとんど実現不可能なことだったからである。  浮世絵のような色彩を模索していることは、職業柄すぐに察しがついたが、浮世絵や日本画を特徴的づけているツヤ消しの色調は、絵の具の固有色である以前に、表面に乱反射する光の粒子の賜物である。いかに白を加えたところで、油絵の具が本来的に持つ光沢が失われるわけではない。その油絵の具をもってして、ゴッホはツヤ消しという光の秘儀ともいうべき効果を手中にしようとしているのである。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「画材研究に時間も経費も惜しまぬ研究者の身分ならともかく、極貧と精神の危機に直面しつつ実作者が探究するには、あまりに困難な課題であった。  十年しかなかったゴッホの画家人生は、この困難な課題に取り組むためにはあまりに短かったに違いない。晩期のオーヴェールで手がけた作品で、ようやくゴッホは、西洋絵画にも浮世絵にも例のない独自の白みを帯びた配色を確立している。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

    「まるで泥で殴り描きをしたような初期の暗い画風を、燃え上がるような色彩で描く明るい画面に一変させ、日本を画家の理想郷と見なし南仏アルルを日本と思い込み、浮世絵のような作品を描こうと願ったゴッホの思いを知らないことには、彼が絵画に託していた夢は理解できず、アルルでゴーギャンと決裂し自分の耳を切るに至った時の、彼の絶望の深さというものもわからない。」

    —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著

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    2026年07月13日
  • ピカソは本当に偉いのか?

    Posted by ブクログ

    著者のプロフィールを見ると、版画家で多摩美術大学教授。
    さらにあとがきでは、ピカソの画集を見て、美術の道を目指されたそうです。
    これを見ただけで、濃い内容が想像できましたが、果たしてその通りでした。

    著者はたぶん、ピカソが生まれてから亡くなるまで、どこで誰と何をして、どんな作品を描いたのか全部頭に入っていると思います。
    それに加えて、美術品や芸術に関する深い知識をもって、現代美術の巨人ピカソをお金、人間関係、作品から分析していくのですから、面白くないわけがありません。
    「おわりに」で書かれている著者の芸術の値段に対する考え方に、目の覚める思いでした。
    素晴らしい本でした。

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    2026年05月04日
  • ピカソは本当に偉いのか?

    Posted by ブクログ

    誰もが一度は思ったことがある「ピカソの作品って、何がいいのかわからない…」について、
    歴史・社会・文化を背景に丁寧に解説をしてくれている本です。

    個人的には、特に、ピカソの人となりについて深堀されている箇所が興味深かったです。ピカソの女性遍歴は有名な話ですが、画商など仕事で関わる人達に対する傍若無人で「人の心とかないんか」というような振る舞いの数々に驚かされます。しかし、その美術の帝王の最晩年の自画像がこれまた衝撃的で、ピカソの人生と美術の持つ力について考えさせられてしまいました。

    また、芸術と社会、芸術と経済が切り離せないものであるということも実感できます。旧来のキリスト教的世界観では「進化・変化」というものに今日的なポジティブな意味はありませんでしたが、19世紀以降、ダーウィンの進化論的な「変化≓向上」の思想が現れたことで、美術の世界でも革新的で前衛的なものが「良いもの」と考えられるようになったのです。それに加えて、社会の変革の中で、美術作品を売る「画商」という職業が誕生したことで、現代まで続く絵画市場に大きな変革をもたらしました。

    ピカソに限らず、現代アート全般に漂う「わからない感」について、美術作品や芸術家がどのような歴史をもって現代に至ったのかを、この本とともに追っていくことで、少しだけ「わからない感」が減り、「なるほど、そういうことか」という感覚を持てるようになると思います。

    私は山田五郎さんのユーチューブチャンネルもこの本の内容やアートというものをより理論的に理解するのに役に立つと思いました。アートの「鑑賞方法」というものを習うことなく、美術館に放り込まれて「さぁ!鑑賞しろ」と言われても、その作品の文化的・社会的背景を知らずに鑑賞するのは(不可能ではないかも知れないが)かなり難しい、そして、難しいが故に「アートってわからない、苦手だ」と思う人を増やしているのでしょう。「アートを知る」という鑑賞の仕方を取り入れる人が増え、美術というものが身近なものになることを期待しています。

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    2026年04月10日

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