あらすじ
フェルメールの名画は「パン屋の看板」として描かれた!? ガラクタ扱いされていた印象派の価値を「爆上げ」したマーケティング手法とは? 美術の歴史はイノベーションの宝庫である。名画・名作が今日そう評されるのは、作品を売りたい画家や画商、そして芸術を利用しようとした政治家や商人たちの「作為」の結果なのだ。ビジネス戦略と美術の密接な関係に光を当てた「目からウロコ」の考察。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
★再読
836円
印象派が猿の落書き、猫のピアノ演奏って言われてたの草
フェルメール、レンブラント、
西岡 文彦
(にしおか ふみひこ、1952年 - )は、日本の版画家、多摩美術大学教授。山口県生まれ。1971年神奈川県立川崎高等学校卒業。版画家森義利に師事。1977年、日本版画協会展新人賞。1978年、国展新人賞受賞。雑誌「遊」(工作舎)の装画を機に、出版分野でも活動。著書も多い。1996年、多摩美術大学講師。2003年造形表現学部デザイン学科助教授、2007年准教授、2009年教授。
「権力のプレゼンテーションとしての美術 ちなみに、ニーズということでいえば、宗教改革以前の美術の最大の需要は、プロテスタントが破壊した宗教美術に代表されるプレゼンテーション機能にあった。教会を飾る絵画彫刻やステンドグラスは、神の権威と教会の権力をプレゼンテーションするために制作されたものであり、教会と並ぶ美術のスポンサーであった王室にとっても、宮殿を飾る美術は王の権威と権力をプレゼンテーションするためのものであった。 中世以来ヨーロッパには日本の士農工商にあたる「祈る人・戦う人・働く人」という身分概念があり、祈る人つまり聖職者は神の王国の代理人として、働く人つまり労働者が生産する食糧や物資に依存しており、戦う人つまり貴族は地上の王国の守護者としてこれもまた労働者に依存し搾取するという構造によって社会が成立していた。 したがって、教会と王室が支配を維持するためには、教会は「祈る」力により人々の平安を保証しており、王室は「戦う」力により人々の安全を保証しているということをプレゼンテーションする必要があり、労働者の大半が文字を読めなかった当時は、絵画彫刻といったビジュアル表現がそうしたプレゼンテーションには最適だったのである。映画やビデオは無論のこと、カラー印刷の技術すらなかった当時、こうしたビジュアルな表現が与えるインパクトは私たちの想像をはるかに超えていたからである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「かくして既製品の展示販売という今日の美術市場のビジネス・モデルが誕生することになったのだが、新たな市場は新たな顧客のニーズを満たす新たな商品なくしては成立しない。市民という新しい購買層に買ってもらうためには、それまで教会や王室のプレゼンテーション・ツールであった美術品は、市民の生活空間を飾るにふさわしい新しい商品へと変容しなくてはならなかったのである。 それまでも美術工房が副業として既製品を販売することはあったが、キリストや聖母の像のように安定した需要を見込める作品に限られていた。が、そうした聖像類は宗教改革で販売できなくなっていたので、売る側は、市民顧客の安定した需要が期待でき、なおかつ宗教性のない美術品の開発を迫られることになった。 こうして誕生したのが、静物画や風景画という新種の絵画であった。それは、従来は脇役に過ぎなかった題材を画面の主役にするという、いわば逆転の発想から生まれた新たな戦略の賜物だったのである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「 十七世紀のオランダで誕生した静物画や風景画は、従来は小道具や大道具といった脇役に過ぎなかった題材を画面の主役に抜擢した新しい絵画だったのである。新たな美術の市場の顧客となった市民もまた、従来はいわば社会の脇役だった人々である。共和制により社会の主役となった彼らを顧客とする新たな美術市場で、静物や風景を描いた絵画がヒット商品となったのは当然の結果であった。 西洋の風景画といえば風車がつきものとなっているのも、もともと風景画がオランダで誕生したからである。二世紀ほど後、画家を志してオランダからパリに出たゴッホもモンマルトルの風車を描いている。望郷の念もあったかも知れないが、やはり風景画といえば風車が「絵になる」から描いたのであろう。モンマルトルの風車が小麦粉の製粉に用いられていたのに対して、オランダの風車は低地の水を汲み上げ農地とするために十四世紀に開発されている。教会や王室を飾っていた絵画が市民の家庭を飾り始めると共に、画面に日々の生活を支える風物が登場するのはごく自然なことであった。 神の世界でもなければ王の世界でもない市民の生活世界を描いて新たな市場を開いた風景画や静物画や風俗画は、人々の眼を彼ら自身の暮らす現実に向けさせ、その現実が教会や王室の美術に描かれた美にもまさる美しさを宿していることを、画面を通して示してみせたのである。それは、生活感にあふれる画面を介して人々に、美とは彼ら自身が生きる現実の中にこそあることを説いた、まったく新しい美術だったのである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「家政婦が絵画の主人公になった理由 フェルメールの代表作『牛乳を注ぐ女』( 1659)は、数あるヨーロッパ名画の中でも生活感を強調した作品として知られている。迫真の写実技術で描かれた家政婦は、見る者をその存在感で圧倒するが、当時のヨーロッパ絵画で家政婦を画面の主役にしたのはオランダ絵画のみであった。なかでもフェルメールの生地デルフトは、オランダで最初に家政婦を絵画に描いた都市として知られている。 当時オランダでは家政は国政の礎とされていたことから、家政を支える家政婦の社会的地位も高く、当時この国を訪れた他国の旅行者は、家政婦が家庭内で強い権限を持っていることに驚いている。とりわけデルフトはビールの醸造で繁栄しており、醸造の工程に必須の清潔な環境づくりに街ぐるみで取り組んでいたため、家政婦は街を清潔に保つには欠かせない職業人として敬意を払われていた。デルフトの画家がヨーロッパで最初に家政婦を絵画の主人公にしたのはそのためである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「当時は共和国だったオランダは、家庭を尊重し結婚と育児に道徳的な意義を見出していたことで知られ、従来は初等教育を一手に引き受けていた修道院を解体して、家庭と私塾を子供の教育の場としている。聖書の精神に戻れとのモットーに基づき自国語の聖書を出版、聖職者しか読めなかった従来のラテン語訳聖書に替わり一般市民でも読める聖書を普及させ、公費負担で読み書き教育を奨励することで、識字率を当時のヨーロッパ諸国では抜きん出た水準にまで向上させている。 良き伴侶を得て聡明な子供を育て、経済活動は夫が負担し、家事労働は主婦が分担して、夫婦共同で健全で教育的な家庭環境を築くことに、宗教的にも高い意義が見出されていたのが当時のオランダであり、世界貿易により急速に潤い始めた国情から、仕事で家を空けがちな夫を妻が支えて家業を繁栄させることが、国家の繁栄につながると考えられたのである。オランダでは、家事労働の評価や女性の社会的な地位も、他の国よりはるかに高かった。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「真珠の耳飾りの少女の正体 フェルメールの『牛乳を注ぐ女』と並ぶ代表作『真珠の耳飾りの少女』( 1665頃)のモデルについては、画家の恋人説から家政婦説までさまざまな憶測がされているが、おそらくこの作品は当時きわめて需要の多かった「トローニー tronie」という不特定人物の顔を描く作品として制作されたと思われる。 トローニーはオランダ語で「顔」を指す語から出た名称であり、本来は個性的で特異な顔を描いた絵画を指しており、ルネサンス後期から習作も兼ねて描かれ始め、大作を制作する工房ではあらかじめ画家が多数のトローニーを準備しておき、大画面の背景の人物を弟子達が描く際の見本に使用していたという。 映画で無名の群衆を演じるエキストラのようなものであり、かつて小道具だった静物や大道具だった風景を描く絵画が売れ始めたのと同じ理屈で、かつてエキストラだった無名の顔を描く絵画が、市民市場の確立により一躍人気商品となったわけである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「レンブラントの工房でも需要に応え大量のトローニーが描かれたという記録が残っており、フェルメールの描く人物も基本的にはトローニーである。注文で描かれる肖像画と違って既製品として販売される市民絵画では、画面の人物には誰もが感情移入できるような無名性というものが求められるからである。 誰もが自分を投影できるような標準的な人物像か、街でふと見かけた魅力的な異性を思わせる見知らぬ美女ないしは美男以外は、既製品としての絵画には描かれにくいわけで、実際のところ現代なお人物画の大半にはこの種の人物像しか描かれていない。 おそらく『真珠の耳飾りの少女』も、そうした趣旨で描かれたトローニーであろう。青いターバンは中東からの舶来品を思わせる架空のデザインであり、襟高の衣はオランダの貿易商が長崎の出島を訪れた際に幕府から贈られた打掛がオランダで評判となったことから高級室内着として流行していた日本風のデザインのローブである。特大の真珠は、これも高価な輸入品とも見えるが、当時開発されて大人気となっていたガラス球の内側に蠟と魚の鱗の粉末を塗ったフェイクとも考えられる。いずれにしても好景気に沸くオランダならではの当世風のヒロイン像であることは間違いがない。 アクセサリーとファッションにゴージャスな趣向を凝らした出で立ちは、画家が恋人や家政婦といった個人的に関係のある女性を描いた肖像画というよりは、高級感のあるトローニーとして描かれた可能性の方が高いように思われる。 世界貿易で得たオランダの富を象徴するかのようにワールド・ワイドなファッションに身を包む当世流行の画種トローニーとして描かれた、十七世紀オランダのバブル経済を反映する市民絵画の白眉と見るべき作品であろう。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「が、写真技術が登場する以前に人々が絵画に期待していた手法といえばもっぱら写実描写のみであった。写真のない時代における絵画は、今日の私たちが写真に求める画像による記録という機能を果たし得る唯一の技術であり、したがって写実を拒否した絵画などは絵画と見なされなかったのである。当時のオランダの画家が他の画家との差別化のために「手法」ではなく「題材」の独自性を探求したのはそのためであり、その結果オランダ絵画は極端なまでの専門分化を遂げることになる。 風景画は自然の風景と都市の景観に専門が分かれ、自然の風景でも森林を得意とする画家、草原や田園を得意とする画家、はたまた水辺を得意とする画家から砂丘が専門の画家まで現れ、さらには季節ごと昼夜の時間帯ごとの専門画家までが登場している。都市の風景画も同様に専門分化し、静物画においても、食器食材の専門画家、花瓶の花の専門画家、狩りの獲物を得意とする画家、世界貿易の輸入品を得意とする画家等々、考えられる限りの題材の専門画家が現れている。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「 金融で財を築いたメディチの当主が法王に助言を求めたのはそのためであり、法王の助言に従ってコジモが、荒廃していたサン・マルコ修道院の再建のために巨費を提供、修道院の維持費から修道僧達の生活費まで負担したのもそのためである。無論、ローマ法王庁に対しても多額の献金がなされている。 コジモは没後にフィレンツェ政府から「祖国の父」と称された政治的な手腕の持ち主で、実質的なフィレンツェ君主であると同時に高徳の経済人としても知られたが、自身の成功の「いかがわしさ」には生涯にわたり自責の念を抱き続けたという。教会や美術を保護したのも、信仰という当時の人間にとってきわめて「実用的」な目的に照らしてのことであり、当時の社会状況に鑑みるならば、そうした宗教的な「保険」ともいうべき資金投下によって保護されていたのはメディチ家の方だったのである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「第三章 リモートワークに乗り遅れたダ・ヴィンチ 不動産としての『最後の晩餐』、動産としての『モナ・リザ』 1796年、ミラノに侵攻したナポレオンは『最後の晩餐』( 1498)を見るためにサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院を訪れ、食堂の壁に描かれた画面をフランスに持ち帰ることも考えたといわれるが、作品の描かれた壁の巨大な重量から考えてこれは無理な相談であった。絵画は、壁画や天井画として教会や宮殿といった不動産に帰属していた時代には、制作された場所でしか鑑賞することができなかったのである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「 いうまでもなく、こうした絵画の動産化は、画家の働き方を根本から改革するものでもあった。不動産である壁画や天井画は画家が現地に出かけて描くしかないが、動産である絵画は画家が自宅で制作することが可能だったからである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「この作品は、イエスが十字架に架けられる前夜に弟子達と共にした最後の晩餐の席上で「汝らのひとり、我を売れり」とユダの裏切りを告げ、弟子の間に衝撃が走った瞬間を、演劇の一場面のようなドラマティックな演出で描いている。他の画家による従来の『最後の晩餐』は、ユダが一目でわかるよう食卓の反対側に一人で坐らせて描くことが多かったのだが、ダ・ヴィンチは弟子全員を同じ側に坐らせて、動作と表情によりユダを見分けることのできる新しい様式を開発している。 弟子達のイエスの言葉に対する反応も、従来の作品では悲嘆にくれて師の胸にもたれかかる聖ヨハネを除いて全員が似た姿勢で描かれていたのだが、ダ・ヴィンチは弟子の個性に添って反応の描写に個人差を盛り込んでいる。彼以前に、これほど多様な反応を示す弟子達の集団劇として最後の晩餐の場面を描いた画家はいない。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「ミケランジェロの大作をダ・ヴィンチが描くと四千年かかる!? フレスコの迅速な手順は大づかみなタッチを強いるため、精密描写は不可能に近い。ミケランジェロの『天地創造』の「アダムの創造」なども画集で見るリアルな印象とは裏腹に、近くで見ると驚くほど大胆な筆致で描かれている。 これとは対照的に『モナ・リザ』の画面は画集でいくら拡大されても、ほとんど筆の跡が見られない。写真を思わせる描写は薄く溶いた油彩絵の具を膨大な回数にわたって塗り重ねたものであり、漆喰の乾燥後は加筆をしないフレスコとは正反対ともいうべき手法で描かれている。迅速を旨とするフレスコは、こうした油彩による執拗な描き込みを好んだダ・ヴィンチの気質とは、文字通り水と油の関係にあったことになる。 サイズとしては小品の部類に入る『モナ・リザ』にダ・ヴィンチは十五年にわたって加筆し続けたというが、もしダ・ヴィンチが同じテンポで体育館の天井ほどの『天地創造』を描いたとすると、四千年近くはかかってしまう計算になる。 油彩は、絵の具が乾燥すれば黒地の上でも純白を塗り重ねられることから画面の修整を飛躍的に利便化した画材であり、おそらく当時の画家には今日のコンピュータ・グラフィックスさながらに無限の可能性を持つ画材と映ったはずである。理想の画面のためには描き直しをいとわないダ・ヴィンチには、まさしく理想の画材であった。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「美貌の弟子サライとダ・ヴィンチ遺言状の謎 フランソワ一世は、美術においてイタリアに大きく遅れをとっていたフランスにイタリア美術の精華を移入することを願っており、その願いに応えてフランスにやって来たダ・ヴィンチに、王の居城に近いフランス中部アンボワーズの城館を与えている。 フランス王は老いた芸術家を父のように慕い、ダ・ヴィンチの館を訪れ語り合うのをなにより楽しみにしていたという。このダ・ヴィンチ晩年のフランス時代に付き添った弟子のひとりがサライであった。本名はジャン・ジャコモ・カプロッティ、少年の頃に市場で盗みをして捕まっているのをダ・ヴィンチに見出され、弟子となっている。 画家として作品も何点か残しているが、画才よりは美貌を見込まれての入門であったらしい。ダ・ヴィンチは手記にサライは盗人で噓つきで大食漢と書いており、師の財布からくすねた金額まで記録している。美貌以外には取り柄のなさそうな弟子なのだが、サライは師の亡くなる直前までの三十年近く生活を共にしている。 もともとダ・ヴィンチには女性を忌避する傾向が見られ、若い頃には当時「フィレンツェの悪徳」と呼ばれた同性愛の容疑で告発されている。告発が匿名であり確証が得られなかったおかげでことなきを得ているが、当時ヴェロッキオが彼をモデルに制作したダヴィデ像などを見ても、彼自身が性を超越した天使的な美貌の持ち主であったことがしのばれる。彼が現れた途端、その場にいる全員がその美貌と美声と知性に魅了されたという。そんなダ・ヴィンチとすれば、サライの美貌に若き自分の姿を見出していたとしても不思議はないわけで、そういう意味で惹かれていたのかも知れない。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「第四章 レンブラントの割り勘肖像画 オランダにしかない「集団肖像画」 レンブラントの『夜警』( 1642)は、美術史ではバロックと呼ばれる十七世紀のオランダの市民精神を象徴する名画である。フェルメールと並んでオランダ絵画を代表する巨匠の描いたこの大作は、割り勘というきわめて合理的なシステムによって画家に報酬を支払って制作されているからである。 家族や職場の同僚から軍隊まで、公私の共同体のメンバーを描く肖像画は他の国々にも見られるが、この作品のように数十人単位の肖像画がブームとなったのは当時のオランダに特有の現象である。注文主となったのは、市民隊、同業者組合、病院や孤児院等の福祉施設のメンバーで、多い場合には三、四十人もの人物が描かれている。等身大で描かれた作品も多く、そうした画面は今日のミニ・シアターのスクリーン並みのサイズに仕上がっている。『夜警』も、縦三・六メートル ×横四・四メートルで面積にすると約十五平米、つまり九畳を上回るという堂々の大画面である。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「パン屋より多かったオランダの画家 1606年、レンブラント・ファン・レインはアムステルダムの南西に位置する都市レイデンの製粉業の家に生まれている。スペインとの休戦協定によりオランダが実質的な独立を勝ち取る三年前であった。母親の生家はパン屋で、レンブラントは十人兄弟の第九子であった。両親共に商家の出身であり、レンブラントが商才に恵まれていたのも不思議はない。家計は裕福であり、レンブラントは学校で当時の教養課程ラテン語学科で学んだ後に、十四歳で地元の画家に入門して三年間の絵画修業を積んでいる。 当時のオランダの画家工房は実質的に学校と同じであり、弟子は入門に際して授業料を納めることを義務づけられていた。ルネサンスのイタリアの美術工房が弟子に対して賃金を払っていたのに対して、バロックのオランダの絵画工房では、弟子から授業料を徴収していたのである。理由は簡単で、当時のオランダでは既に市民絵画の市場が確立していたからである。この一世紀前の時点でさえ、都市における画家の数が、パン屋の二倍、肉屋の三倍を上回っていたという記録が残されている。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「パン屋より多かったオランダの画家 1606年、レンブラント・ファン・レインはアムステルダムの南西に位置する都市レイデンの製粉業の家に生まれている。スペインとの休戦協定によりオランダが実質的な独立を勝ち取る三年前であった。母親の生家はパン屋で、レンブラントは十人兄弟の第九子であった。両親共に商家の出身であり、レンブラントが商才に恵まれていたのも不思議はない。家計は裕福であり、レンブラントは学校で当時の教養課程ラテン語学科で学んだ後に、十四歳で地元の画家に入門して三年間の絵画修業を積んでいる。 当時のオランダの画家工房は実質的に学校と同じであり、弟子は入門に際して授業料を納めることを義務づけられていた。ルネサンスのイタリアの美術工房が弟子に対して賃金を払っていたのに対して、バロックのオランダの絵画工房では、弟子から授業料を徴収していたのである。理由は簡単で、当時のオランダでは既に市民絵画の市場が確立していたからである。この一世紀前の時点でさえ、都市における画家の数が、パン屋の二倍、肉屋の三倍を上回っていたという記録が残されている。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「投機ということでいえば、当時大流行となっていたチューリップの球根の方がはるかに高騰を期待でき、現在は美術館になっているレンブラントの家で彼の破産の一因ともなった豪邸の査定額は邦貨に換算して一億数千万円だが、バブル最盛時のチューリップの球根は一個で同額の落札値を付けている。したがって当時のオランダでは、絵画は投資商品ではなく国民的人気を誇る消費財としての市場を有していたと見るべきで、画家は成功すれば高所得が見込まれる職業であり、したがって画家になるための授業料もまた未来への投資と見なされていたはずなのである。 レンブラントの入門時の授業料の額はわからないが、相場では通いの弟子なら邦貨にして年間二十万から五十万円、住み込みの場合は五十万から百万円だったというので、地元の画家を選んだレンブラントの家が払った額は最低でも年間二、三十万円にはなっていたはずである。レンブラントも自身の工房を構えた後には弟子から授業料を取っており、その総額は年間二千五百万円相当にも上ったという。 レンブラントが画家に入門できたのは生家に経済的余裕があったからであり、対してダ・ヴィンチもヴェロッキオ工房に入門しているが、これは彼が庶子であったことから正規のラテン語教育を受けられなかったためである。十七世紀オランダのレンブラントと十五世紀イタリアのダ・ヴィンチでは同じ工房の修業でも意味はかなり違っており、ダ・ヴィンチの入門が、いわば落ちこぼれの職人見習としての就労だったのに対して、レンブラントの入門はエリート画学生としての進学を意味していたのである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「 画商に投資したレンブラント こうしてレンブラントは地元で絵を学んだ後、アムステルダムでイタリア絵画のドラマティックな明暗の対比手法を学んで帰郷し画家活動を開始、二十三歳になる頃には、オランダ総督オラニエ公家の秘書で美術顧問でもあった文人政治家コンスタンティン・ホイヘンスから有望な若手画家としてお墨付きを得るまでになっていた。 翌年に父を亡くし、翌々年アムステルダムに活動の拠点を移している。 興味深いことに、彼は当時アムステルダムの画商に多額の投資をしている。この画商は、美術学校も開いていたヘンドリック・ファン・アイレンブルフという人物で、レンブラントは彼に一千ギルダー、換算方法にもよるが邦貨で一千万円に相当する可能性のある額を投資している。亡父の遺産で経済的余裕があったのかも知れないが、この投資は現金でなく自作の絵画によるものともいわれている。当時オランダでは現金に代えて絵画で支払いをするのは珍しいことではなく、フェルメールがパン代として『牛乳を注ぐ女』を納品していたことは前述の通りである。 ほどなくレンブラントは投資先のアイレンブルフの工房に身を寄せ、アムステルダムでの画家活動を本格化するが、じつはこの工房には少なからず問題があり、後年のレンブラントの工房経営のビジネス・モデルは、善かれ悪しかれこのアイレンブルフの影響を受けているように思われる。その最大の問題が、模作ないしは贋作であった。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「レンブラントが描いたテュルプ博士は、四代目委員長を務めると共に、市の財務委員長を八期、市長を四期務めた名士で、この絵の評判からレンブラントへの肖像画の注文は激増、彼の生涯で最も成功に恵まれた時期を開幕させている。若き人気画家となったレンブラントは、翌々年にはアイレンブルフの又従妹でアムステルダム北東の酪農都市レーワルデンの元市長の娘のサスキア・ファン・アイレンブルフと結婚、彼女の人脈と多額の持参金のおかげで、画家としての活動の舞台はさらに拡がることになる。 自身の工房を開いて多くの弟子を抱え、絵画や版画の制作に加えて画商まで経営したレンブラントだったが、放漫経営がたたって破綻、画家としての人気も急速に衰え、最晩年には破産の憂き目に遭った上に、伴侶にも子供にも先立たれ、孤独のうちに生涯を閉じることになる。 そんな彼が生涯で最も幸福であった時代を招いたのが、『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』なのだが、この作品の受注当時のレンブラントはアムステルダムに活動の拠点を移したばかり。新参の若手画家への、由緒ある外科医組合の集団肖像画の依頼は異例としかいいようのない抜擢によるものであった。受注に前後するレンブラント自身の動きにも、画策と見られる側面がなくはないのである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「したがって、壮年期に例外的成功を収めながら晩年に破産したレンブラントへの世間の視線も冷たく、彼の晩年の清貧が孤高の芸術家の証として讃美の対象となったのは、近代になってからである。十九世紀パリが、明日を夢見る若く貧しい芸術家のメッカとなったことから、貧困が芸術の土壌と見なされ始めたからである。 十七世紀オランダにおいては経済的成功こそが美徳であり、要職はレヘントによって占められ、独立以前からの貴族の家系を継ぐ旧エリート層に替わって富裕商人が政治的実権を握るようになっていた。経済的成功を背景にレヘントとなった富裕商人は役職を世襲化することで財と権力の継承手段を確保、旧来の貴族に匹敵する社会的特権を享受していたのである。商人貴族ともいうべきこのレヘント層がパトロンとなって確立したのが、諸国に一世紀以上も先駆けたオランダの市民絵画市場だったわけである。 レヘント画はオランダの新しい支配者となった商人貴族の自負の証として、各団体の本部のホールや役員室を誇らしげに飾っていたのだが、レンブラントが最後の集団肖像画としてレヘント画を受注する頃には、世界貿易で栄華を誇ったオランダの経済も衰退し始め、レンブラントの経済状況も坂道を転げ落ちるように悪化し始めていた。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「彼が画家として最も恵まれていたのは、なにかと問題のあった画商アイレンブルフの又従妹サスキアと結婚してからの十年弱で、『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』の二年後の結婚により、妻の持参金と人脈から成功を享受したのは前述の通り。画商としての投機熱からか画家としての収集熱からか、高額を投じて絵画と骨董を買い始めたのもこの頃で、オランダのチューリップ・バブルが頂点に達した時期でもあった。四年後に、サスキアが父親の遺産を蕩尽していると非難した妻方の親族を名誉毀損で訴えているが、浪費していたのは妻でなくレンブラントであった。 画家としての人気は絶頂期にあり、その四年後に『夜警』を受注するが、同年に結核で妻を亡くしたのを境に運命は暗転し始める。遺児の乳母に雇った家政婦に婚約不履行で訴えられ、画策して彼女を更生施設に送り込むなど、人としてあまり誉められない面も見せており、 1652年に勃発した英蘭戦争でオランダ経済が急速に衰退したことから美術市場も不況に見舞われ、四十六歳のレンブラントは巨額の借金を負うことになる。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「レンブラントとコピー商法 晩年のこうした不遇から、レンブラントは『夜警』の不評から不遇の時代を招いたとの伝説も生まれたのだろう。市民隊でもない少女を中央に描いた上に暗い背景の人物は顔も見分けられず、払った料金に見合わない等々の苦情がモデルの市民隊から続出してレンブラント人気を凋落させた、というのがその伝説だが、事実はむしろ逆であった。晩年の画家に最後の集団肖像画を依頼して救いの手を差し伸べたのは、『夜警』の画面に描かれた市民隊の多くが所属する布地商の同業者組合だったからである。 ただし、レンブラント特有の荘重な画風が時流に合わなくなり始めていたのは事実であり、時代の嗜好が明るく華美に移行するにつれて、彼の画風は見放されていくことになる。そうした市場のレンブラント離れは彼自身にも原因があり、最盛期に彼が自身の工房で量産させたレンブラント風の作品の供給過剰が一因となっていた可能性はある。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「 美大入試がデッサンになった理由 プロテスタント国オランダの十七世紀が絵画の市民市場を誕生させたのとは対照的に、カトリック国フランスの十七世紀は、宗教改革で否定された美術のプレゼンテーション機能が比類なき力を発揮した時代であった。教会の権威に替わって王室の圧倒的な権力を人々に知らしめるものとして、ヴェルサイユ宮殿を拠点として豪華絢爛の王室美術が栄華を極めたからである。 美術史的には同じバロックの名で呼ばれながら、十七世紀オランダが生んだのはレンブラント『夜警』に代表される市民絵画であり、十七世紀フランスが生んだのは「朕は国家なり」との言葉で知られるルイ十四世の肖像に代表される王室美術であった。この王室美術に「学術」としての権威を与えたのが、この頃にフランスで創立された「アカデミー 仏: Académie 英: Academy」であった。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「美術に学術としての権威を与え、ギルドに対する学術的な優位を確保することが急務とされたのは、美術の権威がそのまま王の栄光を意味していたからであり、その権威を確立するためにアカデミーが導入した独自の教育が人体デッサンであった。以降、デッサンはモノクロの人体素描という地味な画風と裏腹に、王の栄光を讃える美術家に必須の素養とされることになる。 近代に入って以降も、各国の国立美術大学の入試がデッサンによって行なわれていたのはその伝統に則ってのことである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「臣民を物理的に支配する軍事力と並んで、精神的に支配する文化力が必要であることを国務大臣として痛感していたのだろう。彼の指揮下、フランス王室美術は「太陽王」を自称するルイ十四世を中心に、神の威光に替わって地上を満たす王の栄光のプレゼンテーション装置として絢爛豪華の文化力を発揮することになる。 アカデミー設立によってフランス王室は、ルネサンス期に巨匠が輩出してヨーロッパ美術の指導的な立場にあったイタリアを凌駕することを目論み、それら巨匠の傑作群で壮麗に飾られた古都ローマを凌駕することを目論んでいた。 フランス王室の栄光を讃えるためにはカトリックの総本山ローマ法王庁の威光を凌駕することが必須とされたからであり、そのために造営されたのが、芸術と学芸の総本山としてのヴェルサイユ宮殿であった。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「ナポレオンは、旧体制の騎士叙勲制度を軍人に限らず万民に開かれた制度に改革して今日なおフランスの最高勲章として知られる「レジオン・ドヌール勲章」を創設、美術工芸分野の功労者に積極的に与えて芸術振興をはかっている。フランス美術をヨーロッパ諸国の模範とするため、国家的な事業に際してはコンクール等により芸術家達を競合させて水準の向上につとめている。そうした彼の芸術振興策の中軸を成したのが、 1803年のナポレオン美術館、すなわち後のルーヴル美術館の開設であった。 中世期に要塞として建設されて歴代フランス王の王宮となっていたルーヴル宮殿は、ルイ十四世がヴェルサイユ宮殿を王宮として以降、王立コレクションの収蔵展示と王立アカデミーの教育施設として使用されていたが、これを美術館として市民に公開するという構想は、旧体制時から啓蒙思想家が提唱していた懸案政策だった。これを実現したのが革命政府による 1793年の市民美術館としての開設であり、当初は中央美術館と称されたこの施設をナポレオン美術館と改名し、諸国への軍事遠征によって収奪した膨大な美術工芸品と考古学出土品によりコレクションを一挙に拡充、前代未聞の大規模かつ広範囲の収蔵品を誇る美術館としたのがナポレオンであった。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「セーヴル磁器といえば今なおフランスを代表する磁器であり、豪華な金彩でも知られている。ポンパドゥール夫人の指示によりパリ近郊セーヴルに王令で開設された製作所は、ヨーロッパ最初の磁器の生産拠点となったドイツのマイセンに対抗して創立されたものだが、製作所の設立以降、王の勅令によって他所の窯では金を用いた絵付けは一切禁じられている。磁器の金彩は、王室の色彩として独占されていたのである。 金メッキの技術が、フランスで完成の域に達したのもこの時期のことであった。 ヴェルサイユ宮殿「振子時計の間」といえば、ルイ十五世の賓客のみが入室を許された部屋として観光ツアーの見どころとなっているが、この部屋に置かれた豪華金メッキの巨大振子時計を作ったジャック・カフィエリを筆頭に、腕に覚えのある名匠達が金メッキの粋を凝らした工芸品を生み出したのがこの時代であった。いうまでもなくカフィエリの金時計の脚部のデザインもまた優美な猫足曲線を描いている。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「貴族のいない新興国家アメリカの空虚感 1776年、イギリスの植民地支配から独立してアメリカが建国されたのは、最初の印象派展( 1874)の百年ほど前のことである。そうした歴史の浅さもあって、アメリカはヨーロッパのように名誉ある称号として授けられる貴族の位階の伝統というものを持っていない。ホワイトハウスの主である大統領というアメリカ最高の地位も選挙によって任命される「役職」であり、ヨーロッパ諸国の王位や貴族の称号のように長きにわたる伝統や厳しい因襲に照らして叙階される「身分」ではない。 善かれ悪しかれこの国における特権的地位というものは、旧世界ヨーロッパにおける貴族のように伝統的な位階や称号として授けられるのではなく、経済的ないしは政治的な闘争によって獲得される財力や権力をしか意味していない。そのことが、アメリカを「チャンスの国」としている半面、この国の富裕層が、貴族的な文化に対して抱く強烈なコンプレックスの原因ともなっているのである。 貴族文化は、伝統という歴史的蓄積や格式という様式的洗練により人々の畏敬の対象となるものである。人々が平等な社会を願って出現したはずのフランスの市民社会さえ依然として貴族文化に対する憧れを抱いていたのは、多くの矛盾や弊害を抱えながらも伝統や格式には、人々の畏敬や畏怖を喚起するものが備わっているからである。 アメリカは、現実的な問題解決能力や経済的な活力においては他国の追随を許さないほど恵まれてはいたものの、そうした伝統や格式といった文化資産の結実としての貴族制度というものを持っておらず、そのことがこの国の新興富裕階級にとっては埋めようのない空虚感の源となっていたのである。アメリカ人富豪が、美術蒐集に異常な情熱を燃やしたのは、その空虚感を埋めるためであった。いかに巨万の富を築こうと、彼らは貴族や貴婦人の位に叙されることが叶わなかったからである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「四十代に差し掛かったモネがデュラン リュエルに宛てた手紙に、もはや新聞雑誌の応援なしに成功は望めないと書かれている。印象派の絵が猿の落書きや猫のピアノ演奏呼ばわりされて十五年ほど後の手紙で、「批評の内容は気にしないのだが」と書いてはいるものの、当初の揶揄や批判には彼も少なからず傷ついていたはずである。それだけにジャーナリズムの影響力も痛感していたに違いない。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
「十九世紀における批評時評の類の需要の高さは、今日の私たちの想像を超えており、「パリ便り」のような名物時評の紙面での人気は時に小説をも上回っていた。小説家のゾラも詩人ボードレールも、作家として名を成す前は新聞雑誌の批評書きを生活の道としていたことが、その需要の高さを物語っている。それほどまでに、当時の読者は自分自身の意見や見解といったものを形成するための見識を求めていたのである。 とりわけ美術品のような奢侈品に関しては、革命から間もない市民社会に生きる人々の商品知識は圧倒的に不足しており、批評家の見識に頼らざるを得なかったのである。したがって、ダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍した十五、六世紀のルネサンスや、レンブラントやフェルメールが活躍した十七世紀のバロックの時代には、美術批評家は存在していない。批評を公表するためのジャーナリズムが未発達だったこともさることながら、批評を必要とする読者そのものが存在していなかったからである。」
—『ビジネス戦略から読む美術史(新潮新書)』西岡文彦著
Posted by ブクログ
「アート作品を売れれば、この世に売れない商品などない」3
「アートにとって経済の話はタブーなのでは」と見なされがちだが、元々アートというものは経済的な余剰が存在しないところには決して存在しない。
アートが経済の話を避けるのは、その出自があまりにも密接に経済と直結しているため、出自を暴かれることで価値やイメージの下落を恐れるため。
対照的に、同じ経済の話であってもオークションで巨額落札された絵画のニュースが好んで取り上げられるのは、こちらは美術の価値やイメージを上げることに直接的に貢献する話題だから5
猫足家具はルイ15世統治下、ルイの愛妾ポンパドール婦人のアート政策に始まった。猫足を「カブリオール」と呼んだ。これはイタリア語の鹿足から来ている176
出現当時の印象派絵画は、そのあまりの衝撃からしばしば新聞の風刺画になった。面白いのは第三回印象派展当時の新聞風刺画家シャムの『戦争に備えて印象派展で作品を買い漁るトルコ人』。兵士が印象派の作品をかざして敵兵を追い払っている181
デュラン=リュエルはルノアールに「希代のギャンブラー」と呼ばれた。「印象派の未来を信じる」という、無謀ともいうべき賭けに出た唯一の画商だったから215
第一章
17世紀オランダでは宗教改革が進み、偶像崇拝として協会絵画がことごとく破壊され、アーティストは失業危機に陥った。そこで個人に作品を販売する方法をとりピンチをチャンスに変えた。宗教画を止め、静物、風景、一般人というモチーフの絵画が生まれた。代表的なのはフェルメール。『牛乳を注ぐ女』はパン屋に飾られた家政婦の絵だ。
ここに市場初めてアートの一般販売という形式が誕生。市場は大きくなったが、アーティストの過当競争が起きた。そこで個々のアーティストは「個性的なモチーフ」を探求して商品(アート)の差別化に乗り出した。これが「アートは個性を重んじる」の起源
第二章
アートメセナの走りのメディチ家。その反映は「ヤミ金」であった。キリスト教では利息が厳禁されていたのでメディチ家は常に罪の意識にさいなまれていた。そこで遠方の通貨との両替を名目にした商売や、教会の金庫番を行い利益を出した。さらに教会が求める宗教画をメセナし、これが今日まての「アートの守護者」のイメージを作った。しかし実際にはアーティストへの支払いは極少額で、例えばボッティチェリへの作品制作料は現在の金額でたった50万円ほどだった。このことから現在ではメディチ家を「アーティストの守護者」とは思われていない。
第三章
16世紀まではアートは不動産だった。絵画は教会に描かれたテンペラなので動かせないため。しかしこのころキャンバスと油絵の具が開発され「持ち運べるアート」が可能になり動産化する。
テンペラは漆喰が乾かない内に絵の具を塗らなければならないため、手の早さが求められた。しかし油絵の具はじっくり制作でき、修正も可能だった。この効果に魅了されたのがダヴィンチで、その典型的作品がモナリザ。ダヴィンチは手が遅くて有名だったので後年仕事が来なく貧困だった。ただモナリザは手元で制作出来たため相当な年月をかけて制作された。モナリザは当時から破格の価値だったが、愛弟子にあげてしまい本人はビジネスに失敗した。
第四章
レンブラントは商魂たくましく、複数人がモデルの一枚画商法を考えた。各人から金銭をもらい巨大な作品を作る方法で、有名な『夜警』を作る。またそのリアルな表情やポーズの作風が評判を呼んだので工房を経営して複製や模造もいっぱい作った。しかしその作風は次第に時代遅れになり、また工房大量生産方式によりブランド力も落ちて晩年は貧困になった。
第五章
「作家は職人に優位する」は17世紀絶対王政時代に生まれた。絶対王政の王は「科学」を推奨した。これは当時生活や戦争などの技術向上に科学が強い役割を果たしたので、これを王が推奨することで「王の思し召し」、「権威の証」として利用出来たから。そこから「王立アカデミー」が生まれた。
アカデミーは今までの社会を構成していたギルドを否定したので、王政の元、反ギルド運動が起こり、ギルド制を採っていた絵画職人、彫刻職人はギルドから独立。ここにアカデミー(王政)が承認する「アーティスト」が生まれる。これまで「art(技芸)」と呼ばれていた絵画、彫刻はこの時から「arts(芸術)」と呼ばれることになる。これは「美」をもたらす「技芸」という意味。
第六章
ナポレオンはイメージ戦略としてアートを使った。有名なナポレオン肖像画は意図的に、多量に作られ、これがナポレオンの権威、神格化をもたらす重要な要因になった。また文化事業としてルーブル美術館を「ナポレオン美術館」と変えて、各国の戦利品を収蔵した。
第七章
落書き同様の評価だった印象派は当初全く価格が付かない「ガラクタ」と見なされていた。これを天文学的なバブル価格にした立役者がデュラン=リュエルという画商。
その商法は「クラシック」と「セレブ」。印象派を金ぴかの額縁で額装。顧客をセレブとして接待し猫足家具とシャンデリアのある私室でもてなす。金ぴか額縁も猫足家具も当時は時代遅れの終わった用具と見なされていた(これらはフランス革命前のルイ15世治世の様式)。しかし、クラシックな演出は顧客の警戒感を緩め、セレブな接客には顧客の財布のヒモを緩める効果が備わっている。また、販売のためには印象派絵画の並外れた新奇性を緩和するためにも寄与した。その相乗効果は、「顧客の理解を越えた商品」でさえ容易に購入の意思決定へと誘導する魔術的な作用を発揮した。これは今日のギャラリーのビジネスモデルを確立した。
この金ぴか額縁は、都市風俗や川面を描く絵にマッチしないからアーティストからは嫌われた。しかしデュランは、作家の画風やモチーフは好きにさせたが、金ぴか額縁は譲らなかった。これはデュランが、絵を買う立場から作品を眺めていたから。海のものとも山のものとも知れない奇抜は作品に本当に価値があるのか?値崩れするのでは?などの心配を防ぐため。事実後年、印象派絵画が完全に市民権を得てからデュランは、作家の希望どおりシンプルな額縁にした。
金ぴかは貴族層にも不評だったが、そもそもデュランは没落していく彼らをターゲットにしていなかった。ターゲットは新興富裕層。新興層は資産を手にいれたが貴族のような地位が無いのでそれを欲しがった。それが金ぴか部屋の絵画を求めた。さらに貴族願望を持っていたのはアメリカ国民。ヨーロッパ人以上に貴族へのコンプレックス、憧れを持っていた彼らは印象派を爆買いした。画商はアメリカ人に法外な値段で印象派絵画を売った。これを「アメリカ値段」という。
第八章
印象派絵画をアメリカ値段で売ることにもっとも貢献したのがペン。つまり美術批評の誕生だった。有名なのはド・ローネ子爵。貴族の男性と思われがちだが、この人物はデルフィーヌ・ジラルタンという大衆紙の女性記者で新聞王の妻。つまりブランディング用のカリスマインフルエンサーペンネーム。美術批評を載せた雑誌、新聞というメディアはその後のアート市場を作った。
デュランはこのメディア戦略として、「画商自ら出版社を立ち上げる」という画期的方法を行った。
「画商こそが美術史を創り出す主人公である」
Posted by ブクログ
誰もが見たことある絵画を題材にしてくれて面白い
宗教改革で、宗教画がかけなくなったから静物画や風景画が生まれた
動産、不動産としての絵画
ギルド(教会」vs王室
職人と作家、アカデミア
正面は聖なるもの
横顔は永遠、記念碑的なもの
斜め向き自然体、親近感→モナリザで完成
批評家がフランス美術に反映をもたらした
美術を売る戦略、面白かった
Posted by ブクログ
名作が生まれた裏側にあるビジネス戦略
販売戦略、マーケティング戦略、メディア戦略、広報戦略、政治戦略、写真すらない時代において、美術はその手段であり、目的であり、商品であった
とまぁ、名作を見る目が変わる一冊
Posted by ブクログ
ヨーロッパの美術の歴史を、世界の経済、社会情勢から解説した一冊。
ダ・ヴィンチやレンブラント、フェルメールなど巨匠と言われる作家たちの置かれていた状況や、何故彼らの歴史に残る作品が生まれたのかなど、理解できました。
Posted by ブクログ
絵画は生活必需品ではないので、画家が生活するには、それを支える経済的な仕組みがあるはず。この視点から、ダビンチやフェルメール、レンブラントや印象派の背後にあるビジネス戦略を解き明かす。
マルチン、ルターの宗教改革は、偶像崇拝を禁じ、それまで教会が宗教画を発注してた画家たちが食えなくなった。そこで画家たちは、当時、貿易で経済力のあった市民が買うことで、盛り上がっていった。フェルメールは、パン屋の代金代わりで、店に飾るポスター的な絵画だったとか。
Posted by ブクログ
2023.02.22 とても興味深く、面白く読ませていただいた。美術品も商品であるわけで、であればその背景には必ずビジネスの側面がある。そこが時代の変化、技術の発展とともにどのように推移したか。とてもよく分かった。興味深い内容であった。
Posted by ブクログ
西洋絵画の裏歴史というべきか、画家や作品ではなく世界史から絵画の道具、さらには政治やビジネス戦略から絵画を見るとこうも切り口が出てくるのか、とワクワクした一冊です。
元々は宗教画など崇高で神聖なものとされた絵画は、宗教改革や偶像崇拝の禁止の影響で大口取引だった教会や聖職者を失い、あらたな消費者として市民へ間口へ広げていった。一方で富豪のメディチ家は自身のもうけによる罪から逃れるために、芸術への支援を行いそれが現在のアートにもつながった。
こうした歴史背景から絵画がどのように利用されていったか、続く章で考察されていきます。
絵を描くためのキャンバスの誕生が芸術に与えた影響。
ナポレオンの芸術を利用した政治戦略。
アメリカの台頭と印象派の画家たちの活躍。
そして芸術家たちのブランド化、メディア戦略と権威化。
画家や技法の変遷をたどるだけではみえてこない芸術史が見えてくるのです。
芸術となると画家や作品が前面に押し出されるイメージがあったので、世界史や当時の世相などを交えて芸術史が紐解かれていくのがとても新鮮でした。少しひねくれた視点から西洋美術をみる入り口としてうってつけの一冊だったと思います。
Posted by ブクログ
【ビジネス戦略から読む美術史】 西岡 文彦 著
編集者が付けたタイトルと思いますが、内容からすれば「西洋史における美術」という感じです。
プロテスタントが偶像崇拝を禁じたことから商業絵画がオランダで開花。当時、「家政は国政の礎」とされて、家政婦の社会的位置づけは高く、フェルメールが「牛乳を注ぐ女(家政婦)」を描いて、パン屋の広告に使われたという話から、ダ・ヴィンチ、ナポレオンなどの史実を踏まえて、19世紀ころまでの西洋史(+米国史)を新書サイズに一気に書き上げた内容になっています。
読んでいるうちに、「これ、歴史の本じゃないの?」と思うときもままあり、金利の話やそれによるユダヤの位置づけなど、美術とはそれますが、とてもわかりやすく書かれています。
歴史と絵画との大きな流れをつかむことができて参考になりました。高尚なウンチクを語るにはお薦めの一冊です。
Posted by ブクログ
多摩美術大学教授で、テレビの美術系番組の企画も行う著者による、ビジネスの視点に立った美術史。西洋絵画を主体に、単に画家や美術作品そのものを評価するのではなく、ビジネスの視点から画家やそのオーナーなどが成功を収め、需要に応えることによって宗教画や自画像、印象派の絵画へと移っていったことを説明している。フェルメールもレオナルド・ダ・ヴィンチもレンブラントもビジネス的に上手く時代にはまったからこそ、現在でも高価な値がつく作品を残せたことに納得した。美術には素人である私でも興味深く読み進められた。勉強になった。
「フェルメールのように無名の少女や家政婦を主人公にした絵は、宗教改革が宗教絵画を禁止したことを機に描かれはじめた。モネが得意とした風景画や、ゴッホがひまわりを描いた静物画も、その時期に人気を呼んだ新種の絵画だった。驚くべきことにそれ以前のヨーロッパには風景画も静止画も存在していない。これらの絵画は、教会という大スポンサーを失った画家達が、生活のために市民顧客に売れる絵を描き始めた結果として生まれたのである」p4
「美術の経済的な側面にまつわる話題は芸術性に反するように見なされがちだが、もともと美術というものは、経済的な余剰が存在しないところには決して存在しない」p4
「驚くべきことには、「十戒」の戒めを最も厳格に守ったプロテスタント国のオランダがレンブラントとフェルメールという当時を代表する巨匠を生み出し、近代には印象派を代表する天才ゴッホを生み出し、現代には抽象絵画の開祖にして最高峰の巨匠といわれるモンドリアンをも生み出しているのである」p16
「教会を飾る絵画彫刻やステンドグラスは、神の権威と教会の権力をプレゼンテーションするために製作されたものであり、教会と並ぶ美術のスポンサーであった王室にとっても、宮殿を飾る美術は王の権威と権力をプレゼンテーションするためのものだった」p19
「今日では名画と聞けば誰もが思い浮かべる静物画や風景画は、当時のオランダで確立されたジャンルであり、それ以前のヨーロッパ美術にはこうした絵画は見当たらない。ルネッサンスの巨匠であるボッティチェリやダ・ヴィンチやミケランジェロが描いたとされる静物画や風景画が残されていないのはそのためである」p25
「西洋の風景画といえば風車がつきものとなっているのも、もともと風景画がオランダで誕生したからである」p28
「写真技術が登場する以前に人々が絵画に期待していた手法といえばもっぱら写実描写のみであった。写真のない時代における絵画は、今日の私たちが写真に求める画像による記録という機能を果たし得る唯一の技術であり、したがって写実を拒否した絵画などは絵画と見なされなかったのである」p39
「(ヨーロッパと東方を結ぶイタリア商人)現金で支払わずに決済が可能な為替というシステムや、利益と損失の関係の正確な把握が可能な複式簿記のノウハウを確立して会計実務の技術革新を行ったのがイタリア商人であり、やがてヨーロッパ経済は彼らによって独占的に支配されることになる」p49
「国によっては19世紀までローマ数字を会計帳簿に使っていたのに対して、イタリア商人は12世紀にはアラビア数字を導入、複雑な計算が可能なこの数字システムを活用して、経理技術を飛躍的に発展させることになった」p52
「キャンバスは絵画の代名詞として用いられるほど一般化しているが、この布製の下地材の登場は、絵画というものの存在を根本から変える大事件であった。木の枠に釘で貼るだけですぐに絵を描くことができ、軽量であるために大画面の作品も丸めて運搬できるキャンバスは、絵画という芸術に、描く場所や飾る場所を選ばないという画期的な機動性と流動性をもたらすことになったからである」p68
「ミラノ公に問いただされたダ・ヴィンチは、画家はなにもしていない時にこそ多くの仕事をしているものだと答えている」p74
「デュラン・リュエルが販売に着手した時点では、印象派の作品は人々の理解を超えた前衛芸術でしかなく、当時の新聞「フィガロ」は印象派の絵を評して猿の落書きか猫がピアノの鍵盤の上を歩いて出す音のようなものだと酷評している。市場価値は皆無に等しく、タダ同然の値段でも買い手のつかない絵だったのである」p171
「フランス絵画というアメリカ人が憧れてやまない伝統の象徴であると同時に、新時代の市民生活を賛美するという二重の効用によって、印象派の絵画はまさに新大陸の新興富裕階級にはうってつけのステータス・シンボルとなったのである」p191
Posted by ブクログ
ちょっと難しかった。
「リモートワーク」とか、なんか強引に、
最近のワードを使ってくるのも、
なんかな…という感じがした。
でも、印象派の話とか、
知らない事が多くて、勉強になりました。