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生前は1枚しか絵が売れなかった!? 南仏アルルを日本と思い込んだ!? あの黄色の意味するものは? 新しいゴッホが見えてくる! 多摩美術大学名誉教授による決定版。『謎解きゴッホ』改題。
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Posted by ブクログ
1078円 224P 西岡文彦先生の本かなり良い。やっぱり人文系の美術史の先生より、美大の先生の本の方が技法的な所も言ってくれるが良い。 ゴッホも狂気だけど、それを支えてるテオにも同じぐらい狂気を感じる 西岡 文彦 (にしおか ふみひこ、1952年 - )は、日本の版画家、多摩美術大学教授。...続きを読む山口県生まれ。1971年神奈川県立川崎高等学校卒業。版画家森義利に師事。1977年、日本版画協会展新人賞。1978年、国展新人賞受賞。雑誌「遊」(工作舎)の装画を機に、出版分野でも活動。著書も多い。1996年、多摩美術大学講師。2003年造形表現学部デザイン学科助教授、2007年准教授、2009年教授。 ★キーワード 浮世絵、日本大好き、林忠正はやしただまさ、早描き、ミレーとレンブラントに憧れた、聖書に没入、イギリス暮らし、パリ暮らし、清貧と貧困、南仏アルル、ゴーギャンと二人暮らし、耳を切り娼婦に届ける、ゴッホはプロテスタントでゴーギャンはカトリック、画家活動年数10年、総作品数2000点、 日本人ゴッホ大好きだけど、ゴッホも日本が大好きなのも凄いなと思う。あんな世界的に一番人気のあるゴッホに好かれてる日本って凄いな。 「今日の私たちから見れば地味にさえ思えるゴッホの初期作品が、絵を志す人にさえ衝撃を与えたのである。晩年のゴッホの色彩とタッチが荒れ狂うかのような作風が、一般の人々の理解を超えていたとしても不思議はない。 緑色の背景を赤い目玉のような模様で埋め尽くし、耳を深紅で縁どったレー医師を描く肖像画(口絵 Ⅲ)を、医師の母親が気味悪がるのも当然だったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「大学の神学部の履修期間が六年であるのに対し、この養成機関は三年で卒業できる上に、学問より実践を重んじる教育方針もゴッホの肌に合うものと思われた。 が、語学力を評価され試験的に入学はできたものの、この頃からゴッホの言動には異常さが目立ち始め、激昂して暴力を振るう傾向も見られるようになった。 三ヶ月の試験期間を経て委員会が下したのは、ゴッホには牧師の適性が欠けているとの判断であった。即興的な話術の才覚のない彼は説教を苦手としており、準備した原稿をぎこちなく読み上げることしかできなかったからである。 落胆する当人を見かねた父親の懇願もあり、委員会はゴッホを無給の牧師見習いとして極貧の炭坑地帯へ派遣し、半年の試用期間の成果次第では牧師の仮免許を与えてもよいという特例措置を講じる。が、最後の機会であったこの六ヶ月はゴッホの牧師への夢を、決定的に断つものとなってしまう。 それは、ゴッホの画家への道を運命づけることになる六ヶ月でもあった。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「牧師夫妻に別れを告げ、寒さの中を貧しい荷物を肩に裸足で立ち去るゴッホの背後を悪童達が、「気違い! 気違い!」と罵りながら追い立てていた。 その後ろ姿を見た牧師は、妻に、「私たちも彼を狂人呼ばわりしていたが、もしかすると、彼は聖者だったのかも知れない」と言ったという。 が、その言葉が、伝道の世界から追われたゴッホに届くことはなかった。 神にさえ裏切られたような思いでゴッホは、信仰に代わるものを求めて歩き去ってしまっていたからである。 ゴッホにとっての画家の道は選んで歩むものである以上に、自分が夢見た世界から閉め出され追われたあげく、唯一残された道でしかなかったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「 恋愛の幻に破れて失った、心のふれあいを求めての苦悩でもあったのだろう。 天職とも家庭とも絶望的に切り離されてしまった苦悩を綴る兄の手紙に胸を震わせた弟テオは、以降、兄を経済的に支えることを心に誓っている。子連れの娼婦と持った生涯一度の家庭 兄弟の間でこの約束が交わされたのは、一八八〇年の夏。弟テオが二十三歳、兄が二十七歳の時のことであった。 以降、三十七歳の兄が非業の死を遂げるまで、約束は守られることになる。 弟からの仕送りのおかげで、しばらくはベルギーで画家修業に励むことのできた兄だったが、絵画の基本を学ぶための師とした人物とも学友とも、やがては関係を悪化させ、失意のうちに帰国することになる。 父親は、息子の画家志望には反対したものの、牧師館の一画を息子に提供する。 ところが、またもやゴッホ特有の性癖が災いして、ゴッホはこともあろうに、従姉のケー・フォスと相思相愛の関係にあると思い込み、少し前に夫を亡くしたばかりの従妹に執拗な求愛をすることになる。 無論、ケーもまたウルシュラと同様、断固としてゴッホの求愛を受け付けず、再びゴッホは自身の妄想が生んだ恋に破れて消沈してしまう。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「が、はた目にはいかに非常識と見えようとも、このシーンと過ごした二十ヶ月は、ゴッホが生前に体験することのできた唯一の家庭生活であり、シーンの出産は、彼が生涯で一度だけ「保護者」として立ち会うことのできた「家族」の誕生であった。 やがて、シーンと彼女の親族の不当な要求に音を上げたゴッホは、彼女と離縁することになるが、この時期に味わった家庭の温かみと子供達への慈しみの思いは忘れることがなかったという。ゴッホが三十歳になろうとする頃のことであった。 しばらく後、再び実家に戻ったゴッホは、なかば見捨てられたような家族関係の中で制作に専念、ようやく弟の経済的援助の返礼に作品を送り始めることになる。 時に、収入の半額まで兄への援助に充てていたテオの献身は、周囲の理解を超えており、とりわけシーンとの同棲中は非難の対象にさえなった。 が、弟は弟で、この兄を支援することなしには生きていけない思いを抱えていた。 あまりに悲惨な運命に見舞われ続ける兄ゴッホの窮状は、パリ支店に派遣され画商として地歩を固めつつあった弟テオには、激痛のような自責の念を喚起し続けていたに相違ないからである。 ゴッホの弟であったテオは、兄と同じく、悲惨な境遇にある人間を眼前にすれば、その苦難を分かち合わずにはいられない人間だったからである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「アルルで首をかしげる日本人 ゴッホがゴッホになったといわれる南仏アルルを、ゴッホ自身は「南仏の日本」と思い込んでいた。 ゴッホの熱心なファンでなくとも、南フランスに旅行した折りにはゴッホゆかりのアルルを訪れる日本人は少なくない。 が、ゴッホが描いた跳ね橋やカフェの夜景が当時の面影を伝えるアルルに、ゴッホが南仏の日本を見出していたことを知ると、そうした日本人旅行客の多くは決まって首をかしげることになる。 アルルは、地中海の港町として知られるマルセイユの北西約七〇キロに位置し、海とはローヌ河で結ばれていることから、古来の水運の拠点として発展している。 温暖な地中海性気候には瀬戸内海を思わせる部分もなくはないが、澄み切った大気と明るい陽光に恵まれたこの街を、南仏の日本と見なすことには無理がある。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「こうした絵画の革命をさらに大胆に押し進めたのが、ゴーギャンやロートレックやスーラといった後期印象派と呼ばれる画家達であった。 ゴーギャンが浮世絵の平面的な造形や瞬間の動きを切り取る描写を取り入れて大胆な画風を確立したのに対して(口絵 Ⅻ)、スーラはあざやかな原色の点描を創案し、ロートレックは流麗な描線を駆使した浮世絵そのままのポスターで、従来のヨーロッパ絵画の常識をくつがえす画期的な表現を生み出している。 いずれも彼らが、浮世絵の研究を通して独自に確立した新しい様式であり、ゴッホが出て来たパリは、そうした日本ブームの渦中にあるパリだったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「昼夜を問わず、相手構わず大声で議論を吹っかける兄に、画廊の仕事で疲れて帰宅するテオは打ちのめされ、散らかり放題の住まいと議論好きの兄を敬遠して、テオの友人知人の足も遠ざかってしまう。 後にアルルでゴーギャンとの間に繰り広げられることになる悲劇を予見するような生活であったが、弟テオはゴーギャンや兄ゴッホと違い、自分を抑制して相手に譲歩するすべをわきまえていた。 兄弟は、兄が母親の気性を継ぎ、弟が父親の気性を継いでおり、彼らの父親テオドルス・ファン・ゴッホは、同じ名の次男と同様、控えめな人柄の牧師として知られていたからである。対照的に、母親アンナは時として感情を爆発させることで知られ、家族や知人は彼女が突然に襲われる怒りの発作に恐れをなしていた。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホのこうした日本人観の出典となる文献は確認されていないが、ヨーロッパの当時の芸術家や思想家が、同様の日本人観を抱いていたのは事実である。 その根拠となったのは、日本美術に見られる自然描写であった。 ヨーロッパにも十七世紀頃から、静物画や草花鳥獣を描く絵画は登場していたが、その種の絵画は、聖書や神話の一場面を描いた作品より格下のものと見られており、日本美術のように、花鳥風月を主役にした絵画や彫刻は、彼らの伝統には存在していなかったからである。ヨーロッパ美術においては、自然はあくまで、人間を主人公とした絵画の舞台装置のような背景に過ぎなかったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホのこうした日本人観の出典となる文献は確認されていないが、ヨーロッパの当時の芸術家や思想家が、同様の日本人観を抱いていたのは事実である。 その根拠となったのは、日本美術に見られる自然描写であった。 ヨーロッパにも十七世紀頃から、静物画や草花鳥獣を描く絵画は登場していたが、その種の絵画は、聖書や神話の一場面を描いた作品より格下のものと見られており、日本美術のように、花鳥風月を主役にした絵画や彫刻は、彼らの伝統には存在していなかったからである。ヨーロッパ美術においては、自然はあくまで、人間を主人公とした絵画の舞台装置のような背景に過ぎなかったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「アルルにゴーギャンを招いた折りにゴッホが描いて送った自画像も、自分を日本の僧侶に見立てており、この地で彼が目指していた生き方を物語っている。 ゴッホが突然、パリからアルルへ向かったのは、一八八八年の二月であった。 アルルからの手紙は、初めて日本人の物の見方、色の感じ方が理解できたと書いている。「フランスの日本人」である印象派は、「フランスの日本」である南仏へ来るべきだとも書いている。絵画の未来は日本にあると確信したゴッホは、南仏の日本に新進画家の共同体を建設するという夢を描くことになる。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホが浮世絵に熱中したのはパリに出て来てからのことだが、じつはこのパリで彼と浮世絵の縁を結ぶことになる人物が、ゴッホが生まれ、日本に黒船がやって来た一八五三年の十一月に誕生している。富山の蘭学者の家に生まれ、第三回パリ万博に通訳として渡仏した後、日本美術商として活躍することになる林忠正である。 流暢なフランス語と高い教養で万博の日本館の来場客を魅了した林は、万博の閉会後もパリに残り、日本の美術工芸品の販売に腕を振るっている。当時パリには、空前の浮世絵のブームが到来しており、林はその第一人者として、膨大な枚数の浮世絵を日本から持ち込み売りさばいている。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「もともとゴッホは、版画という表現形式には強い愛着を持っている。 多くの画家が版画を単なる絵画の複製としか見なしていないのに対して、彼は版画を人々の暮らしに浸透した美術品として、高く評価していたからである。 日本の画家達が共同生活から生み出した大衆のための安価な芸術が浮世絵であるとすれば、それはまさしく彼にとっては芸術の理想の具現と映ったはずなのである。 日本を芸術のユートピアとして夢想してしまうのも無理はなかったわけである。 おそらく、その夢想はゴッホの胸を焦がすような憧れを喚起したに違いない。 その夢想の中には、彼が望むすべての夢が含まれており、彼が失ったすべての夢が息づいていたからである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「当時の牧師が、芸術文化の全分野において指導的な役割を担っていたことは前述の通りだが、こうした版画は、彼らの出版活動とも密接に結びついており、著書の挿絵から教会で子供達に配られるカードにまで活用されていた。 ゴッホの版画への愛着は、こうした文化風土から育まれたものであろう。 当時の先端メディアの写真を用いた複製絵画とゴッホの取り合わせは、意外な印象もあるが、若きゴッホのこうした版画への関心は、絵画の安価な複製品という通常の認識をはるかに超えたところにあったのだろう。 人々と苦難を分かち合う伝道師を志したことからもわかる通り、ゴッホは常に人々と共にあることを願っており、絵画にも同じことを願っていたはずだからである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ロンドン時代、失恋で鬱屈したゴッホが、上司に向かって口にした画商という仕事への厳しい糾弾は、そうした彼の心情からのものであったに違いない。 浮世絵に魅了されたのも、そうした心情からのことであったのだろう。 彼らしい思い込みから、浮世絵こそが自分の理想とする美術品のあり方を具現したものと誤解してしまったゴッホは、日本の画家の生活様式から日本の気候風土までを現実とかけ離れたものとして夢想していたに違いないのである。 アルルを南仏の日本と思い込み、自分の絵を浮世絵のような作品と思い込むことになってしまったのは、そのためであったに違いないのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホのタッチは、早描きに特有のものである。 早描きは基本的には油絵には適さない手法である。油絵の具は水彩に比べてはるかに乾燥に時間を要するからである。 にもかかわらず早描きを敢行したところに、ゴッホのゴッホたる所以があり、彼が絵画に託していた思いを読み解く鍵もそこに隠されている。 早描きは、生き急いだゴッホが絵画に描き急いだものに不可欠の手法であり、彼が芸術を通して実現しようとしたものの結晶だったからである。 単に、残された時間に急かされての、性急さの現れではなかったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「パリで印象派と浮世絵の洗礼を受けアルルで開花させることになるゴッホが、独自の画風を確立する以前の代表作とされるこの作品は、主題にミレーの影響が見られ、劇的な明暗にレンブラントの影響が見られると説明されることが多い。 この二巨匠はゴッホが誰より敬愛した画家であった。貧窮のさなかにあっても部屋の壁にはミレーの版画が飾られており、レンブラントの作品の前の二週間とならば、生涯の十年を引き換えにしてもいいとゴッホ自身が語っている。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「初心者の油絵が稚拙に見えるのは、絵の具の乾きを待ちきれず、生乾きのまま重ね塗りしてしまうからであり、性急な描き方のおかげで、絵の具が画面上で練り合わされて、描線が引くそばから下地と混ざって色が変わってしまうからである。 じつは、このいずれもが、ゴッホの特徴となっている。 画面では、混じり合った絵の具が、生乾きのままのような生命感をかもしだしており、いかなる名画もゴッホと並ぶと印刷物のように生気を失って見える。 このゴッホの早描きは、かなり自覚的に確立されたもので、彼は当初から早描きをモットーにしている。本格的に油絵を描き始めて間もなく、この手法に確信を抱いたことはテオへの手紙で報告されている。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「腐った枯れ葉の落ちた地面の色に胸を打たれたゴッホは、その描写に全力を注ぎ、画面にこの夕刻の神秘的な気配が描けたと思えるまでは作業を断念しないことを決意する。が、急速に暗さを増す秋の夕暮れに急かされ、描きあぐねたゴッホは、思わず絵の具をチューブから画面に直接絞り出していたという。 チューブから絵の具を画面に絞り出す手法も今日では一般化しているが、当時は、ほとんど自暴自棄のような行為であった。が、ゴッホはこの絞り出した絵の具を筆で整え、ようやく納得できる効果を得たという。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホは自分の作品を、自然が語りかけることを、速記術のように書き留めたものだと書いている。速記には、解読できない言葉があるかも知れず、誤記や書き落としもあるかも知れないが、自然が語った言葉の残響はあるはずだとも書いている。 自分が正統的な絵画教育を受けていないからこそ、出会うことのできた手法だとも書いており、自分に独自の画風との自負をのぞかせている。 以降、ゴッホの画面は自然の様相を写す速記術として、独自の画風を探求していくことになる。急かされるようにして引かれた小刻みなタッチも、簡略化されて歪んでしまった形体も、大胆に単純化されて強烈な対比を見せる色彩も、この速記術としての絵画を探求した結果、必然的に導き出された様式だったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「が、彼自身、『ジャガイモを食べる人々』の醜さを自認していたことからもわかるように、むしろ人々に拒絶され嫌悪されるような画面を描くことを願ってもいた。 現実そのものが、嫌悪すべき矛盾と悲惨に満ち満ちていたからである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「なかでも興味深いのが、ロンドンでの失恋後、聖書を没入するように読み始めた頃に関心を抱いたという英国雑誌の表紙で、その画風は、初期のゴッホ作品に驚くほど似ている。彼の作品を見て仰天したケルセマーケルスに、ゴッホが参考資料に与えたのも、この種の雑誌の表紙であった。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「 パリの生活に疲れ果て、ブルターニュの村ポン・タヴェンに滞在して画風に新境地を開いた後、パリに戻ったゴーギャンはテオの紹介でゴッホに初めて出会う。 ゴッホが、この尊大な画家の作品と人格に魅了され、持ち前の思い込みから、過剰な期待をかけた時、悲劇の種はまかれることになった。 印象派と浮世絵の洗礼を経たゴッホがパリからアルルに向かったのが一八八八年の二月。この地に画家の共同体を建設することを夢見るゴッホの誘いに応じ、アルルにゴーギャンがやって来たのは十月のことであった。ただし、ゴーギャンの関心はテオからの仕送りにしかなく、画家の共同体に賛同したわけではなかった。 前年、ゴーギャンは南海の楽園を夢見てパナマに渡ったものの、生活の手段は運河工事の人夫しかなく、さらに未開のカリブ海のマルティニック島に渡航するが、現地でマラリアと赤痢にかかり帰国を余儀なくされている。 アルルに来たのは、ゴッホと生活を共にしてくれる画家を探していたテオの援助を当てにしてのことであった。前年、テオはゴーギャンの作品を数点買い取っており、アルル着の翌月には、ゴーギャンの個展をパリのグーピル商会で開いてやっている。ゴーギャンにとってアルル滞在は、作品が売れて生活のめどが立つまでの一時しのぎの方便に過ぎなかったのである。 そんなゴーギャンの現実主義とは裏腹に、まだ見ぬ日本を陽光に輝く国と誤解したゴッホは、南仏の夏の炎天下、影を描かぬ浮世絵そのままの画面を追求するうちに、ほとんど熱狂的なまでの期待を画家の共同体の夢想に抱き始めることになる。 白熱するかのような黄色に燃え立つ『ひまわり』を、豪放な早描きのタッチで描き上げ、ぎりぎりにまで高まった精神の高揚の中で、畏友ゴーギャンの到着を待つことになったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホがゴッホになったといわれるアルルに、彼が滞在していたのは十四ヶ月半。三十五歳の初春からのこの滞在期間には、「耳切り事件」による二週間の入院、その直後に起こした発作による警察命令の十日間の強制入院、さらには、彼の言動に不安を感じたアルル市民の要請で強制的に隔離された二ヶ月が含まれている。 まさに「炎の画家」として過ごした激動の十四ヶ月半に彼は、代表作『ひまわり』を含む二百点の作品を描き上げている。 二日で一点という猛烈な速度で絵を描きながら、狂気の天才としての生涯を伝説化する大事件をも起こした四百四十日間であった。 生き急ぎ、描き急いだゴッホの早描きが、渦巻くような筆致に変容していったのもこのアルルでのことであった。八月半ばに描かれた積み藁の素描を見ると、描線が彼に独自の揺らぎを見せ始めているのがわかる。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホは手紙に、アルルの強烈な陽光に慣れた目で見ても色彩が輝いて見える画家は、ドラクロワとモンティセリのみだと書いている。 ウジェーヌ・ドラクロワは、革命に蜂起するパリ市民を描いた『民衆を導く自由の女神』で近代絵画の歴史を開幕した、ゴッホの半世紀前の巨匠。アドルフ・モンティセリは、豪放な厚塗りで知られるゴッホの一世代前の画家である。 ドラクロワは、ゴッホがオランダ時代からその色彩の理論に傾倒した画家であり、モンティセリは、パリに出たゴッホがその作品の色彩に圧倒された画家であった。 今日の私たちの目には古典名画の代表とも映るドラクロワは、登場当時は「絵画の虐殺」と称されたほどの前衛画家であり、厳密なデッサンによる下図に着彩して描くのが常識であった油彩手法を変革し、色彩で直接にデッサンする手法を確立して非難の嵐を巻き起こしている。 印象派の先駆とされるのがこのドラクロワで、私たちには穏やかそのものに見える画面が、当時の人々の目には度肝を抜く原色のぶつかり合いのように映ったという。 そうしたドラクロワの手法の典型を見せるのが、彼の名を世に知らしめた『ダンテの小舟』という作品に描かれた地獄の亡者の肌の水滴で、原色のまま画面に併置された点描が、離れて見ると融合して輝くように見える(口絵 Ⅷ)。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホ渾身の『ひまわり』はゴーギャンの部屋を飾るために描かれた作品である。 説教を「描くように語る」ローリーヤールが、私たちの心はこの花のようでなくてはならないと説いたのも、ひまわりであった。 偉大な光に顔を向け続けるこの花のようにアルルの陽光を仰ぎながら、視覚の異常と精神の崩壊という心身の危機と引き換えにするようにして現出したのが、ゴッホの輝くばかりの黄色だったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「絵の具を受け取ったゴッホが弟に送った手紙には、白が足りないと書かれている。注文したリストに忠実に送って欲しいとも書かれている。 おそらくテオは、ゴッホの注文した白の絵の具の量があまり多いことに当惑して、兄の書き間違いと解釈し、量を加減して送ったのであろう。注文通りの量の白を送るようゴッホに催促されている。 ゴッホの色彩の特徴は、『ひまわり』のように、限られた種類の色を多彩に用いた作品であっても、補色の赤と緑や黄色と紫が激突する作品であっても、鮮烈な配色でありながら画面全体がひとつの輝きに統一されて映ることにある。 この統一された輝きを画面に与えているのが、白の絵の具の効果である。 白の絵の具といえば、一般的には地塗りの色と思われがちだが、この絵の具の真価はむしろ上塗りによって発揮される。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「おそらく、その白はゴッホがまだ見ぬ光の国日本に抱いた夢想の象徴であり、彼が日本の画家に託した理想の象徴でもあったのだろう。 そして、私たち日本人の西洋文化への憧れの結晶である油絵が、ゴッホに限ってはなぜか日本人に親近感を抱かせ、ヨーロッパとさしたる時間差もなく評価されるようになった一因も、この白の効果にあるのだろう。 日本で例外的な人気を誇るゴッホの作品は、当人も言う通り、浮世絵のような色彩で描かれているのである。 アルルでゴッホが『ひまわり』を描いていた頃、パリでは同じく浮世絵に傾倒する印象派の画家達が急速に評価を確立しつつあった。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「専用の美術館の設計者として、フランス政府が指名してきたのが、現代建築の父といわれる建築家ル・コルビュジェであった。 落成した国立西洋美術館に、松方コレクションが返還されたのは一九五九年。松方幸次郎が、八十四歳で逝って九年後のことであった。今なお、この国立西洋美術館建設当時の収蔵作品群には「フランス美術松方コレクション」の名が冠されている。 晩年の松方は、時折、思い出したように、「フランスに置いてある絵を持って帰らなくては」とつぶやいていたという。 こうして、当初、松方が構想していたものを大幅に下回る規模ながら、日本で初の本格的な西洋美術館は誕生し、政府に代わって取り組んだ松方の志は成就した。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「この号に、五点ほど紹介された図版のひとつが『アルルの寝室』である。 近代日本のゴッホ愛好家が最も早い時期から目にしていたのがこの作品であった。 それだけに、パリの印象派の殿堂オルセー美術館を訪れる多くの日本人は、この絵の前ではひときわ感慨深げに立っている。ゴッホ自身が手紙に「絶対的な休息の感覚を表現したかった」と書いた画面に、旅先の安息を見出す人も少なくないであろう。 が、そうした人々の多くは、この作品を今から百年ほど前に購入しながら、震災、恐慌、戦災に阻まれ、故国へ持ち帰ることのできなかった日本人のことを知らない。 その同じ人物が、日本唯一の国立西洋美術館の収蔵品の大半を、私財を投じて蒐集した功績も、急速に忘れられつつある。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「 一八八八年のクリスマス・イヴの朝、アルルを巡回していた警官ロベールは、地元の娼婦ラシェルから新聞紙の包みを渡されて仰天している。昨夜、客から届けられたという包みの中には、人間の耳の断片が入っていたからである。 すぐにロベールは署に帰り、数人の警官を連れて、包みを届けた客ゴッホの住まいに向かう。当時、ゴッホは街の広場に面した黄色い外壁の家に、ゴーギャンと二人で暮らしていた。 アトリエと台所と二室の寝室を借りたこの家を手始めに、画家が生活を共にしながら制作に励む共同体をこの地に築くことを夢見て、その呼びかけに応えたゴーギャンをアルルに迎えてから、二ヶ月が経過していた。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「突発的な激情に駆られて行動するのが常のゴッホに対して、理性派のゴーギャンは剛胆ではあっても無計画なことは好んでいない。乱雑な生活環境での衝動的な言動が慢性化しているゴッホとは対照的な生活感覚を持っていた。 株の仲買人といい水夫といい、彼の経験してきた職業は、予測を誤れば死活問題となるものばかりであったことも無縁ではなかったろう。画材の準備から衣食住の管理まで、混乱や無秩序を嫌う性分の彼にとっては、ゴッホとの同居は拷問のようなものであったに違いない。アルルを去る決意をしたとテオに書き送っている。 もともと、人一倍個性の強烈な二人の芸術家が、四六時中顔を突き合わせるかたちで共同生活を営むこと自体が無理だったのである。 加えて、ゴッホがオランダのプロテスタントの牧師の息子であるのとは対照的に、ゴーギャンはカトリックの家に育っていた。 フランス人の父親とペルーの貴族の血をひく母親の間に生まれた彼は、幼少時代をペルーの熱情的なキリスト教文化の中で過ごしている。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「植民地政策としての宣教が、壮麗な美術と音楽を利用したことから生まれた中南米特有のカトリック文化のなかで幼少期を送っている上に、フランスに戻った少年ゴーギャンが通った学校は、当時の教会行政を主導していたフェリックス・デュパンルーという、カトリック復興の立役者が教育にあたった寄宿学校であった。 父親を早くに失い、母親が働く必要があったことからの選択であったが、おかげでゴーギャンは、期せずして当時最高峰の神学教育を受けることになったのである。 したがって、ゴーギャンはその宗教的な出自においても、ゴッホと真っ向から対立していたことになるのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「 ゴッホもゴーギャンも、教会に背を向けた芸術家と見られることが多い。 が、ゴッホが、聖書の精神に忠実であり過ぎたがゆえに伝道師の道を断たれたのと同様に、ゴーギャンも真の信仰を求めるがゆえに教会の退廃に絶望している。 教会に背を向けたのは、当時の教会が神に背を向けていたからであり、その教会に背を向けることで、むしろ神に顔を向けることこそがゴーギャンの願いであった。 幼少期を過ごしたペルーのキリスト教徒の素朴で情熱的な信仰に較べれば、当時のフランスの教会はあまりに退廃しており、卓抜したルネッサンス的教養人でもあったデュパンルーから受けた神学教育に照らしても、当時の教会関係者の姿は通俗この上もなく映ったに違いない。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「論争は、互いの作品の批評から家事のささいな段取りに至るまで、あらゆる局面で繰り返されたに違いない。反目は日を追って高まり続け、やがて「黄色い家」は電気を帯びたような一触即発の緊張感に包まれていく。ゴーギャンが深夜に目覚めると、ゴッホがベッドの脇に立ち、自分を見すえていたこともあったという。 その対立が頂点を迎えたのが、二十三日の夜であった。 アルルにもゴッホにも嫌気のさしたゴーギャンが路上で背後の足音に振り返ると、絶望のあまり逆上して剃刀を手にしたゴッホが追ってくるのが見えたという。 が、ゴーギャンの気迫に押されたゴッホは、そのまま家へ帰り、剃刀で自分の耳を切り落とし、なじみの娼婦に届けた後、自分のベッドに戻り昏倒する。 小説や映画にもなったこの事件の詳細を伝える資料は、ゴーギャンの書いた回想録しか残されていない。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホは、この夜のことは記憶していないと言い、自分自身では事件のことはどこにも書いていない。 事件を回想録に記しているのはゴーギャンだけなのだが、ゴッホの没後に定着したゴーギャンを悪者とする見方への反論として書かれたともいわれる回想録が、事実を忠実に伝えているとは限らない。わかっているのは、一八八八年の十二月二十三日の夜、近代絵画を代表する二つの個性が激しく衝突したということだけである。 ゴーギャンは、ゴッホとの出会いで得たものは、自分が苦しい時に、もっと不幸な男がいたことを思い出せるようになったことだと書いている。 一方、ゴッホにとってゴーギャンとの訣別は、若き日の失恋、伝道の挫折に続く、あまりにも苦々しい拒絶の経験であった。もともと彼が志した画家の道は、そうした失職と失意の果てに見出した最後の光明であった。そして、彼が夢見た画家の共同体は、伝道に挫折して失ってしまった魂の居場所を求めての夢想であった。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「テオは、アルルからの知らせに駆けつけた時点で、兄の死を覚悟している。 医師も覚悟が必要だと告げている。 一旦は、絶望の底に落とされているが、兄の奇跡的な回復で希望を持ち直し、後に兄が自殺をはかった折りにも、絶望の中で再度の奇跡を期待している。 アルルの病院での療養で肉体的には回復したものの、この頃からゴッホは、激しい発作に見舞われるようになり、自身でも精神の崩壊を危惧し始めている。 事件の翌月の一月には退院して制作を再開するが、春に弟が結婚するのと前後して発作を繰り返し、みずから申し出てアルル北東のサン・レミにあった精神病院に入院している。修道院の経営する病院であったが、精神医学の未発達であった当時、この種の病院の実態はむしろ監獄に近かった。 代表作の『星月夜と糸杉のある道』はこの病院で描かれている。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホがアルルで描いた作品を、浮世絵のようだと形容したのは、明確な輪郭線と平板な色面で画面を構成することにつとめたからである。 こうした陰影描写を排した明快な造形と共に、ゴッホが日本の絵画の特質と見なしていたのが速筆で、手紙に日本の画家は稲妻のようにデッサンすると書いている。 確かに、水墨画の筆勢をみれば、大胆な速筆で描かれていることは容易に想像できるであろうし、当時パリでも知られていた『北斎漫画』などは、そうした筆勢を思わせる作品や絵師の姿を多数掲載している。 自然の言葉の速記術となる早描きをモットーに画家としてスタートを切ったゴッホにとって、日本美術の色彩と共に模範とすべきは、その速筆だったわけである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「 ムンクの描いた不安の叫びにゆらぐ人物像や、ピカソの描いた涙で顔が流れ落ちるような女性の泣き顔が登場したのも、このゴッホによる人間心理の視覚化という前代未聞の試みがあったからこそのことである。 絵画が、写真のような客観的な描写ではなく、画家ならではの主観的なイメージを描く芸術としてその地位を確保したのは、ゴッホがこのオーヴェールで孤独な偉業を達成した後のことだったのである。 そして、最晩年の代表作となる麦畑が描かれたのも、この村であった。 この麦畑を描いた絵についてゴッホは手紙で、筆がほとんど手から落ちそうな状態で制作したと書いている。悲しみと孤独のきわみを表現した作品と書くと共に、田園ならではの健全なたくましさを表現した風景だとも書いている。 悲哀のきわみと田園の壮健が共存するのは矛盾とも思えるが、これは当時のゴッホの心境からすれば、きわめて自然な言葉ではあった。 この少し前、テオ夫妻に初めての子供が生まれ、ゴッホは弟に自分以上に親しく、自分以上に保護を必要とする家族が誕生したことに、底知れぬ不安を抱いていたからである。この絵に描かれた悲しみと孤独のきわみとは、そんなゴッホの不安に他ならず、田園の壮健とは、ゴッホがこの時期、しきりに弟夫妻をオーヴェールへ誘っていた理由に他ならなかったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「翌朝、テオはガシェと共に役場に死亡届を提出するが、キリスト教が教義で自殺を禁じているため、教会から葬儀用の馬車を貸与できないと言い渡されている。 ゴッホが『オーヴェールの教会』に描いた教会である。 川向こうの村から馬車を借り、教会で葬儀を断られた葬列が村はずれの共同墓地に向かったのは、翌日の午後三時であった。下宿の前の通りを進み、教会の脇を通って墓地へと向かう道の横には、ゴッホが描いた麦畑が海のように広がっていた。 悲報を聞いてパリから駆けつけたタンギー爺さんら数人の友人を加えたささやかな葬列が麦畑の横を通って墓地に向かう光景は、少年ゴッホを画家の道へといざなった『麦畑の葬列』の画面そのままであったに違いない。 葬儀に参加した画家ベルナールは友人への手紙に、テオが悲しみにうちひしがれていたと書き送っている。 墓地での別れの儀式と埋葬を終え一同が下宿に帰ると、テオは形見として兄の絵を持ち帰ってくれるよう参列者に頼んだという。 一同がそれぞれに絵を選び去ってしまうと、兄の部屋に取り残されたテオは、悲嘆と絶望に押しつぶされそうになりながら遺品の整理を始め、やがて兄の着ていた上着のポケットに、折り畳んだ紙片が入っているのに気づく。 兄が最後に書いたと思われる未完の手紙であった。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「絶望の色濃い文面は、自分は絵画を探究するあまり、理性を崩壊させてしまうことになったと綴っていた。テオに対して「君は信念を曲げず、人間性を見失わずに生きていけるに違いない」と激励の言葉を贈っている。「くれぐれも君は単なる画商などではなく、自分と共同して強固な芸術を確立したことを忘れないで欲しい」とも書いている。おそらく兄は、弟にとってはその芸術が、兄の存在なしにはいかなる意味も持っていないことを理解していなかったのであろう。 強固な芸術など確立できなくとも、兄に生きていてくれることを望み続けていた弟の思いを、わかってやることはできなかったのであろう。 どれほど弟に負担をかけたとしても、彼自身が生き長らえること以上に、兄の弟に対する優しさなどないことを、結局は理解できなかったのであろう。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホが、人一倍「自分らしさ」を求めたのは、この兄の身代わりとしての自分を否定したかったからかも知れない。なんらかの意義あることを成就しない限り、自分がこの世に生まれてきたことの意味を見出すことができなかった可能性はある。 妄執にも似た彼の「自分らしさ」の探究は、絵画史上にまったく例を見ない独創的な画風を生み出すことにはなったが、その画家としての偉業は、あまりに悲惨な生涯と引き換えに成就されたものであった。 生前に一度だけ、ゴッホの作品への讃辞が雑誌に掲載されたことがある。 詩人で批評家のアルベール・オーリエが、『メルキュール・ド・フランス』という雑誌に寄せたものだが、評を読んだゴッホは、抗議に近い手紙を送り付けている。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホの弟として生まれたテオの自己犠牲の精神は、兄の狂気に似た過剰さを帯びており、兄が無慈悲なまでに他者を害し続けることに対しても、兄に代わって自責と羞恥の念を抱き続けていたに違いないのである。 テオが周囲にあきれられながらも、兄を支え続けたのはそのためであろう。 収入の半額を兄への仕送りに当て、パリでの悪夢のような兄との同居に耐えたのもそのためであろう。兄の所業に、自身の恥のように自責の念を抱いていたからこそ、聖者のような献身と奴隷のような奉仕を続けざるを得なかったのであろう。 そのテオに、兄が書いて寄こした手紙には、「君は僕に、妻も子供も仕事も与えることができない。金しか与えることができない」と書かれていた。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「 兄ゴッホが逝った翌年の一八九一年一月二十五日、弟テオはオランダのユトレヒトの精神病院で、妻ヨハンナと生まれて一年目の息子を残して亡くなっている。 兄を失ったテオは、まるで取り憑かれたようにゴッホの作品を世に出すことに没頭し始めるが、当時最も先鋭的な画商で印象派の育ての親となったデュラン =リュエルさえ、社会的信用を失うことを怖れて、ゴッホの絵は扱おうとしなかった。 激務で体調を著しく悪化させたテオは、やがて幻聴や悪夢に襲われるようになり、ゴッホを理解しようとしない人々を呪い始め、それまでは決して振るったことのない暴力を周囲の人々に振るい始める。ヨハンナが断腸の思いで入院させた精神病院では自分の殻に閉じこもってしまい、やがて完全に正気を失ってしまう。 兄の名前を呼ばれた時にのみ、かすかに反応を見せたという。 死因となった疾病については諸説が唱えられているが、兄を失った痛手がテオから生きる意欲を著しく奪い、死期を早めたことは間違いないであろう。 ゴッホがテオなしには生きられなかったように、テオもゴッホなしには生きられなかったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「ゴッホの描いたひまわりは、ゴーギャンに捧げられた花であった。 視野を黄変させ精神をなかば崩壊させながら描いたこの作品の名声から、今日では「ひまわりの画家」はゴッホの代名詞となっている。 が、生前のゴッホをこの名で呼んだ画家がいることはあまり知られていない。 アルルでゴーギャンが描いた、現在では『ひまわりを描くゴッホ』と呼ばれている作品を、ゴーギャン自身は『ひまわりの画家』と命名しているのである。「ひまわりの画家」の命名者は、ゴッホがこの花を捧げた画家だったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「オーヴェールのゴッホの部屋を訪ねたことがある。 二十年以上も前の真冬のことで、ゴッホが下宿していた居酒屋ラヴー亭は「ゴッホの家」という記念施設になってはいたが、まだ訪れる人は少なく、おかげでひとりでゴッホの部屋に入ることができた。今となっては夢のような話である。 入館料を払うと、入場券を兼ねた小冊子を渡され、係の人がゴッホの部屋へ上がる階段を教えてくれた。階段が暗く狭いことに驚いたのを覚えている。 上りながら右へと曲がり、折り返すかたちで階上へと続く階段を十七段上がると、ゴッホの部屋の扉の前に出る。足を置くたびに、階段の板がきしむ音がした。 生前のゴッホがこの世で最後に成し遂げた難事業が、この十七段を独力で上り切ることだった。胸に銃弾を撃ち込んだ状態でこの階段をひとりきりで上り終え、部屋の寝台に倒れ込んだ彼が、生きてこの階段を降りることはなかった。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「じつは、ゴッホ自身、技法に関してはきわめて研究熱心であり、テオへの手紙にも驚くほど頻繁に技法書の名が登場している。激情的に映る画面とは対照的に、画家としての彼は常に絵画を理論的に探求し続けていたのである。 画家を志して間もない頃のゴッホの絵を見て仰天した革細工師のケルセマーケルスは、粗暴な画風もさることながら、ゴッホの理論好きに驚嘆している。 絵画を音楽と対比させることを好んだゴッホは、教会の老オルガン奏者にピアノの手ほどきを頼んだものの、音を色に置き換えて話し続けたせいで怖がられてしまったというのである。ピアノの音を青や緑や黄色に比べてばかりいるゴッホは、老音楽家には狂人としか映らず、レッスンを中止されてしまったらしい。 以降もゴッホは色彩を理論的に探求し続け、絵画に明るい色彩をもたらした印象派の革命を超え、個々の色彩に意味を託した絵画の様式を模索している。好んで用いた補色についても、愛する男女の対比と結合を意味するものと手紙に書いている。 現代芸術の世界では、言葉を色に置き換える詩や楽譜を色彩で表す音楽にも、人々はさほど驚かないが、ゴッホの時代には狂気の沙汰でしかなかったのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「が、日本の『ひまわり』を見ても、実物の色彩は白い輝きを帯びている。 後年、印刷所の老名匠に理由を聞いてみたところ、製版カメラのタングステン光のせいだろうという。専門的で早口の説明は、私の理解を超えるものであったが、製版技術が進歩したおかげで、原画の色彩を再現できるようになったということらしい。 印刷の技術が、ようやくゴッホに追いついたということなのだろう。 が、当時はそうした事情もわからず、ゴッホの白に衝撃を受けるばかりであった。 なんと無謀なことを試みていたのだろう、というのが率直な感想であった。ゴッホの試みは、油彩ではほとんど実現不可能なことだったからである。 浮世絵のような色彩を模索していることは、職業柄すぐに察しがついたが、浮世絵や日本画を特徴的づけているツヤ消しの色調は、絵の具の固有色である以前に、表面に乱反射する光の粒子の賜物である。いかに白を加えたところで、油絵の具が本来的に持つ光沢が失われるわけではない。その油絵の具をもってして、ゴッホはツヤ消しという光の秘儀ともいうべき効果を手中にしようとしているのである。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「画材研究に時間も経費も惜しまぬ研究者の身分ならともかく、極貧と精神の危機に直面しつつ実作者が探究するには、あまりに困難な課題であった。 十年しかなかったゴッホの画家人生は、この困難な課題に取り組むためにはあまりに短かったに違いない。晩期のオーヴェールで手がけた作品で、ようやくゴッホは、西洋絵画にも浮世絵にも例のない独自の白みを帯びた配色を確立している。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著 「まるで泥で殴り描きをしたような初期の暗い画風を、燃え上がるような色彩で描く明るい画面に一変させ、日本を画家の理想郷と見なし南仏アルルを日本と思い込み、浮世絵のような作品を描こうと願ったゴッホの思いを知らないことには、彼が絵画に託していた夢は理解できず、アルルでゴーギャンと決裂し自分の耳を切るに至った時の、彼の絶望の深さというものもわからない。」 —『わかるゴッホ 見方が変わる 理解が深まる! (河出文庫)』西岡文彦著
子供の頃から絵が好きとか音楽が出来るとかそう言う芸術的なバックグラウンドのある育ちではなく、大人になってからなんとなく美術館に足を運ぶようになりました。 芸術に関する知識もなければ才能もない人間からすると、何の前情報もなく絵画を見てみてもさっぱり理解できないという事ばかりでした。 絵画の鑑賞とは決し...続きを読むて情報を見るだけのものではないと思いますが、何の情報もなく絵を見てもそれはそれで理解が難しいと言う面があると身をもって感じていました。 そう言う経験からすると、この本はゴッホの絵画を鑑賞する際の最初の一歩を手助けしてくれる貴重な本だと思います。 今後は絵の書かれた年代やタッチやその頃の人間関係などを手がかりに、自分なりのゴッホの鑑賞方法や解釈を考えてみます。 ゴッホ以外の芸術家の同様の本があれば良いのにと思いました。
絵が全体的に白みがかっている、確かに。 わたしの好きなゴッホって、死の直前10週間に生まれたものだったんだ。精神的に苦しんでいただけでなく、最後の最後まで技術を磨こうと模索していたと知り、より好きになる。 テオがゴッホの死後半年で亡くなったのはもちろん知っていたけれど、入院するほど精神にキテいた...続きを読むのね。ヨハンナ、強い女性だ。
凄まじく悲しい人生とその絵の筆致について、残された膨大な手紙による事実と筆者の考察からまとめられている これは感動した 軽いタイトルで損してると感じる程、素晴らしい内容だった 今、上野でやってるゴッホ展、これ読んでから行ってたら涙出ただろうな…
この本を読むことができて良かったと本当に思いました。こんな気持ちになることなんて滅多にないのですが、ゴッホ展の前にこの本を読んでなかったらその感動が全く違うと思います。 ゴッホは27歳から37歳までわずか10年で約2000枚の作品を遺すのですが、生前に売れた作品はわずか1枚のみだったというのは驚き...続きを読むです。芸術とは普遍的なものではなく流行や教育に依存するものであるということがわかります。わたしは19世紀の末になぜゴッホの作品がこれほどまでに嫌悪されたのかよくわかりませんでしたが、タッチの荒々しさが理解されなかったということなのだと思います。 この本を読むまで、わがままな兄を支え続けた弟テオは立派で、この弟があったからこそゴッホはいい作品を遺すことができたのだと、ゴーギャンは偏屈でストーカーっぽいゴッホに関わってたいへんだったと、そんなふうに思っていました。 しかし、弟のテオは兄が 自殺した翌年の1月に精神病院で発狂死するのです。ゴッホがテオなしでに生きられなかったようにテオもゴッホなしには生きられなかったのです。ゴッホはその周りの人傷つけてしまう人であり、他人だったら関わらないようにしていればいいのですが、テオは家族なのでゴッホから逃げることは許されなかったのです。きっとテオは兄が無慈悲に他の人を傷つけてしまうことについて兄と同じように自責と羞恥の念を抱いていたに違いないのです。そんな兄のことはさっさと捨てて、自分の人生を楽しく送ればいいのにって思ってしまいます。 でも、テオにとって兄を支えるということは、単なる自己犠牲の精神ではなく、自分が自分らしく生きることそのものであったのです。だからゴッホはテオに「泣かないでくれ、皆のために良かれとしたことなんだ」という言葉を残して自殺しますが、その行為はテオに銃弾を撃ち込むことにも等しいことだったのです。 だからテオは兄の死後わずか半年で発狂死してしまうのです。そしてテオの死はゴーギャンにも影響を与え、その翌々月にゴーギャンはタヒチに渡るのです。 人間というのは自分を自分として祝福してもらえないと幸福感を感じることができない動物のようです。だから自分らしく生きることにこだわる人は周りの人を傷つけます。そしてその人を愛する人はその犠牲になるのですが、そのうち犠牲こそその人の生きる意味になっていることもあるのです。なんだか哀しい関係ですが、この本を読んだので、ゴッホ展が楽しみです。
開催中のゴッホ展を鑑賞する前に絶対に読んでおいた方良いです。 ゴッホ展を2倍3倍楽しめました。 描いた時代によって変わっていく技法の変化はとても興味深いものがあります。 個人的には、後期の歪んだ表現が好きだなぁ。
ばりおもろいやん! 小説くらい面白かった。 なんかもっと勉強的な本かと思って買ったけど いい意味でも悪い意味でも違った。
・存命中に売れた絵は「赤いブドウ畑」の1点だけ ・前衛的が過ぎており、気味悪がられていた ・南フランスのアルルを日本と思い込み、夢を抱いていた ・日本の浮世絵に熱中していた ・ゴッホは早描きであり、アクリル絵の具が乾燥する前に色を重ねる ・黄色の絵の具が原因なのか、黄視症を患っていた可能性がある ・...続きを読む一生で1番購入した色は白絵の具である ・ゴッホはゴーギャンが同居を解消し、アルルを去ろうとしたことに激昂し、自身の耳を切った ・ゴッホの病的な言動については、癲癇や統合失調症、躁病、嚢胞炎、若年性アルツハイマー病、絵の具の溶き油による中毒の可能性が考えられている ・弟のテオはゴッホの死にかなりのショックを受けていた ・ゴッホもテオなしには、テオもゴッホなしには生きられなかった ・ゴッホ兄弟の墓はオーヴェール・シュル・オワーズの共同墓地に並んで立てられている 「感想」 兄弟の強い絆に感動した。ゴッホの絵が日本で親しまれているのは、浮世絵の特徴を取り入れているだと知り、驚きとともに喜ばしく、日本人であることを誇りに思った。
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