少し前に、「風呂キャンセル界隈」という言葉が話題になった。「あぁ、面倒くさくて入れないとき、あるよね」。そう笑いを持って受け止めた人も多いだろう。しかし、それを笑えない人たちがいる。本気で風呂に入れないのだ。入りたくないわけではない。入らないといけないこともわかっている。でも入れない。どういうことか。
うつ病の兆候としてよく挙げられることのひとつに、入浴の困難がある。健常者でも夜遅くにクタクタになって帰宅し、「もういいや、風呂は明日の朝入ろう」と考えて、そのまま寝てしまう経験はあるだろう。うつ病になると、朝起きた瞬間その状態からスタートする。謎の疲労感と倦怠感。十分に寝ているはずなのに疲れが取れず、体がだるい。風呂に入るどころの話ではない。
医学的には「易疲労性」と呼ばれるが、本書では「脳性疲労」という言い方をしている。脳が疲れた状態、脳のはたらきが低下している状態、つまり体じゃなくて脳が不自由な状態。この「不自由な脳」がいかに貧困と結びつきやすいか。それが本書のテーマである。
「不自由な脳」は一般に理解されにくい。それは怪我や肉体の欠損と比べて見えにくいということもある。内臓疾患でもレントゲンや各種検査の数値で可視化されるが、脳の「不自由さ」は数字や言葉で伝えることが難しい。だがそれだけではない。
著者はもともと貧困層や生活困窮者を取材してきたルポライターである。その中で、彼らには共通した特徴があることに気づいていた。時間を守らない、計画性がない、約束を破る、危機的状況なのに何もしない。なぜこんなにもだらしがないのか。でも著者はあえてそれを書かなかった。書けば「こんな人間は貧困になって当然だ」と自己責任論の燃料になり、貧困者に対する攻撃を助長してしまう。そういう危惧があったからだ。だが同時に、著者自身もその「なぜ」を深掘りせず、「結局そういう人たちなのだ」と考えることしかできなかった。
それが一変したのは、著者が脳梗塞で脳機能障害を負ってからである。そこではじめて、彼らが「やらない」のではなく、「できない」ということに気づく。冒頭の例を思い出してほしい。誰かが「風呂に入れない」と言っても、健常者は「そういうことは誰だってあるよ」と、自分にとって既知の困難の延長線上で理解してしまう。「できない」のではなく「やらない」だけ。つまり努力が足りないとしか思ってもらえない。この断絶感。
僕の話をしよう。前に勤めていた会社で隣の席だった先輩の話。その先輩は真面目で几帳面な性格だった。彼の作る資料はいつも綺麗に色分けされていて、先輩の性格をよく表していた。その先輩があるときから急に遅刻や欠勤が目立つようになった。昼頃にようやく出社しても、パソコンの画面をただぼうっと眺めている。僕は先輩の分まで仕事しなくてはいけなくなり、正直心の中では「もっとしっかりしてくれよ!」「気合いを入れろよ!」といつも思っていた。ほどなくして先輩は会社を辞めた。いま考えると、その先輩は間違いなくうつ病だった。それが理解できたのは、僕自身もうつ病になってからだった。
でも、そういうのは病気の人でしょ。病気と怠けてる人を一緒にしないでほしい。そう思うかもしれない。だが、著者は過去の貧困の取材を振り返って、その対象者たちに高い頻度で発達障害や精神疾患による精神科通院歴があったことを思い出す。そして何より、「確実に間に合う時間に家を出たのに約束に遅れる」「買い物でレジの表示金額を見ても財布からいくら出せばいいかわからない」といった、かつての取材対象者たちと同じ状態に自身も陥っていた。そこではじめて「不自由な脳」、すなわち「やらない」のではなく「できない」脳が存在することに気づく。
こうした不自由脳の持ち主は、現代的な社会生活から容易に脱落する。なぜなら、この社会は「できる脳」を基準に回っているからだ。不自由なのが体であれ脳であれ、介助も経済的支援もないまま生きていくのは同じくらい無理ゲーなのに、脳の場合は助けてもらえないどころか自己責任論の矢を向けられる。「俺たちは同じ環境でこんなに頑張っているのに、たったそれしきのことで!」というわけだ。そうやって当事者は口を閉ざす。いっそう自分の苦しさを隠す。
うつ病というと、一般には気分が落ち込む病気と考えられているかもしれない。しかし、うつ病や双極性障害のような精神疾患は、もっと全般的な脳機能の低下を伴うことが多い。たとえば僕の場合、朝から午前中にかけての意識や記憶があやふやになることが多かった。こんな経験がある。喉が渇いたので冷蔵庫の桃を食べようと思ったが、冷蔵庫を開けたらその桃がない。妻が帰宅してから「冷蔵庫の桃どうした?」と聞いたところ、驚きの答えが返ってきた。今朝僕が自分で剥いて食べていたというのである。刃物を使っていたのに僕にはその記憶が一切なかった。
そんな僕も夕方から夜になると、だんだん意識がはっきりして、普通の生活が送れるようになる。問題はそこだ。周囲の人間は元に戻った僕を見て、「ほら、やっぱりできるじゃん」と思う。そして、できるときの僕を基準にして「やる気がない」「サボってる」と判断する。健常者は意識はコントロール可能なものだと思っている。なぜなら、脳とはまさにコントロールする器官だからである。したがって、その脳が「不自由」になったときにどんな事態が立ち現れるか、想像がつかないのだ。
白状すると、僕はまだ寛解していない。本書を読んで思い当たるのは、中長期的な思考や判断ができないことである。僕の場合は予定を立てて計画的に実行することができない。たとえば、僕は家で家事をやりながら仕事しているが、休みの日に妻から「洗濯して」と頼まれる。これは簡単だ。ところが、平日の夜に「洗濯物が溜まってるから明日洗っといて」と頼まれると、かなりの確率でできない。やることはまったく同じなのだが、「明日の予定に組み入れる」になった途端、急に難易度が上がる。いつから始めていつまでに終わらせるか(普通はそんなこと意識せずにできると思うが)、それが思考できない。気がついたら夕方になっている。目の前のことをひとつひとつ処理していくのはできるが、To Doリストを作って優先順位をつけてやろうとすると、混乱して何をすればいいかわからなくなる。
だが、こんな僕でも誰かがタスク管理してくれれば、健常者と同じように仕事することができるのだ。いや、僕はもともとデザイナーで、デザインしたりこういう文章を書いたり、クリエイティブな作業なら普通の人より得意だという自負さえある。つまり、体の不自由な人でも適切な支援があれば社会生活が送れるように、脳が不自由な人にも支援が必要なのだ。だから、まずはその「不自由さ」を可視化すること。それによって不毛な自己責任論を終わらせること。それが本書の目指しているゴールである。