人間は自然界の頂点に君臨する。一応、そう考えられている。その根拠はいろいろあるが、ひとつには脳の大きさが挙げられるだろう。生物は進化するにつれて、しだいに脳が大きくなっていった。脳が大きければ大きいほど賢いことは、観察からある程度わかる。たとえば、犬はお手や伏せを覚えるので、ウサギよりも賢そうだ。チンパンジーは簡単な記号も扱えるので、犬よりももっと賢い。脳の大きさと知能に一定の関係があるとすると、脳の大きさが最大であるヒトは、生物の中でもっとも賢いことになる。
だが、もっとよく観察してみると、小さな脳の持ち主たちもなかなか凄いことをやっている。ファーブル昆虫記で有名なスカラベは、ヒツジや馬などの糞を丸めて玉を作るが、彼らは雪だるまのように転がして丸めているのではない。頭と前肢だけを使ってびっくりするほど完璧な球を作るのだ。誰にも教わることなく、である。こんな芸当が人間にできるだろうか。
虫たちは考えてやっているわけではなく、本能に従って動いているに過ぎない。ヒトは本能から離陸して理性を獲得したわけだが、生物を観察していると、彼らが本能で苦もなくやってのけることを、人間は頭で必死に考えた挙句、下手糞に真似ているだけではないか。そうとしか思えないことがしばしばある。いったい人間と動物と、どちらが賢いのか。
本書は「人間の脳は大きくなりすぎた欠陥品で、しかも危険きわまりない邪悪な機械である」という洞察のもとに書かれたサイエンス・フィクションである。私はこの本を大学生のときに知り、以来作者のファンとなった。
ご存じのようにヴォネガットは、未来を戯画的に描くことで現実世界の歪みを浮き彫りにする手法をよく用いる。本作もまたその好例で、われわれの脳の大きさは実際には一五〇〇グラム程度だが、この小説ではそれがさらに進化し、三キログラムという設定になっている。そして人類は大きくなりすぎた脳のせいで、破滅の道を歩み始める。
彼一流のユーモアに溢れた表現をいくつか紹介しよう。
──当時の人間のおとなの大部分が、三キログラムもの重さの脳を持っていたのだ! それほどふくれあがった思考機械が想像し実行できる邪悪な計画には、およそ限界というものがなかった。
──いくら人間がふえたといっても、この惑星にはまだすべての人間にたっぷりいきわたるだけの食料や燃料などがあったが、いまや何百万人もの人びとが飢えで死にかけていた。
──そして、この飢饉は、ベートーヴェンの第九交響曲とおなじく、純然たる巨大脳の産物だった。
──だから、こういうしかない。当時の人間の脳は、生命をどこまで粗末に扱えるかについて、ひどく口数の多い、無責任な発案者になっていたため、未来の世代の利益のために行動することまでが、ちょうど限られた範囲の愛好家がたのしむゲームのように扱われた──たとえば、ポーカーや、ポロや、証券市場や、SF小説の執筆のようなゲームのように。
いかがだろうか。本作は構成の緻密さという点でもヴォネガットの作品群の中でとりわけ優れた部類に入るが、作品のいたるところに散りばめられた痛烈な批判の数々を眺めるだけでも一読の価値がある。
ところで、この物語では人類は絶滅してしまうわけではない。しかし、ある意味ではそれよりももっと皮肉な結末といえる。過酷な自然選択の法則は大きすぎる脳を無用と宣告し、人類から取り上げた。われわれの子孫は小さな流線型の頭とひれを持ち、和毛に覆われた体へと「進化」して、ガラパゴス諸島の片隅にあるサンタ・ロサリア島という架空の楽園でひっそりと暮らしていくのだ。
この物語における現在、すなわちいまから百万年後の人類には、もはやベートーヴェンの第九は書けない。だが、そんなものが何になる? 巨大な脳を持つことがそんなに偉いのか。ここで私は再び冒頭の疑問に戻る。はたしてわれわれ人間は本当に賢いのだろうか、と。