読んでいるときの感覚は星4くらいだったのだが、そのあとに思考を整理するために感想を長々と書いていたら、とてもよい小説だったなと思い改めた。
以下、感想。
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「青ひげ」の主人公・ラボー・カラべキアンは元画家の老人で、海辺の屋敷で大量の美術品を抱えながら独り暮らしている。コックやその子供、使用人もいるが独りである。彼が二番目の妻と長年暮らしたその屋敷は今ではコックの娘が友達を連れてきて好き勝手に遊んでいる。そして妻にさえ見せなかったジャガイモの納屋が建っている。
そこにサーシ・バーマンという女性がやってくる。彼女はアメリカで大活躍中の作家であるが、彼にその姿は明かさず、海辺でカラべキアンがひとり佇んでいるところにやってきて、
「ねえ、あなたのご両親はどんな死にかたをしたの?」
と訊ねる。
彼女はカラべキアンの屋敷にしばらくの間、住むことになる。そして彼女の登場をきっかけに、彼は自分の半生を振り返る自伝的小説を書き始める。
この小説は、彼の書く自伝的小説の部分と現実でのバーマンとのやり取りが交互に展開されてながら進んでゆく。
自伝的部分では、アルメニア人の父母のもとで育っていた彼が、彼を目にかけるマリリーと出会ってパリにゆくまでの経緯が語られ、現実ではバーマンの登場によってそれまで化石のように動かなかった彼のうちの時間が次々に塗りかえられてゆく様子がわかる。
読んでゆくうちに、現在のカラべキアンと過去のダン・グレゴリーが重なり、彼をパリに呼んだマリリーがバーマンと重なるようにも見える。これは抑圧的に他者を抑え込もうとする父性的な象徴と、男性にとっての母性的な象徴を映すものとしてそれぞれがよく重なって見えたのであって、実際の彼らには少なからず差異がある。だがカラべキアンの視点を通して語られると、どうしてもそれが重なっているように見える。
ダン・グレゴリーの家での数年間は、十代のカラべキアンにとって苦痛の滲むものであった。カラべキアンが来た時点でマリリーは階段の上から突き落とされて片足にびっこを引くような状態に陥っている。話がちがう。悲惨的な状況と言えるだろう。彼を呼んだ人間がいない中で彼はパリでの暮らしをはじめる。現在のカラべキアンの陰鬱な性格を形づくった日々とも言えるかもしれない。後に彼は自虐的に自らのことをこう表す。
カラべキアン[名](二十世紀のアメリカ画家、ラボー・カラべキアンより)。ある人物が愚鈍さか不注意、またはその両方で、自分の業績と評判に泥を塗るような大失敗を演じること。
画家だったときの知り合いはことごとく自殺を遂げている。たとえばキッチンは、父親に拳銃を向け、一発撃った後に(弾は頭をそれて肩に当たっていた)、拳銃の銃口を口にくわえてそのまま死んだ。
ほら、また自殺だ。フォークナー、アーヴィング、そしてヴォネガット。
彼らにとっての自殺は、という問いが自ずと浮かんでくる。その秘密に近づくためには、スローターハウス5の彼らみたいにヴォネガットの時代にまで遡らなければならないのかもしれない。その地点で生きてみる必要がある。ただひとつ明らかであるのは彼らの自殺と、日本文学における三浦哲郎が描いた兄姉の死や、芥川、太宰、三島が自らの身体をもって体現した死とは根本的に何かが違う。
人が死を選ぶのはおおよそ、自身の生きる「自身」か「環境」に絶望するためだと思う。死は完全なる休符であり、そこから先に音やリズムを繋がないための唯一の方法である。それはある種の美しさに捉えることもできるだろう。それを身体の劣化というような自然的要因に身を任せて遂げるのか、事故や殺人のような偶発的な事故として他者によって定められるのか。はたまた自殺のように、自らの理性をもって自らの生を決めようという意思なのか。恐ろしいことに、理性によって本能のベクトルを定めようとし構築されたこの社会では、自殺の周辺に薫るこの静けさを、ある種の美しさとも捉えることができる。ヴォネガット、フォークナーらが描いた自殺と、日本文学において重要な産物である自殺。自殺する理由が、客観的にはっきりと説明づけられるのはアメリカ文学に置いて描かれてきた「自殺」の方である。
この小説は終盤にかけて、静かでまたドラマチックなあらすじに向かってゆく。ひどく緩慢な速さで。
その終着点はどこかというと、ジャガイモの納屋がついに開けられて、その中にある絵をカラべキアンとバーマンが眺めるシーンだ。タイトルは「こんどは女性の番だ」。カラべキアンが戦争の終わった直後に見た谷での光景を描いた絵。とても長い絵で、どこから見ようとしても一目で全貌を見渡すのは不可能なほど大きい
「第二次世界大戦がヨーロッパで終わった日に、太陽が昇ってきたとき、ぼくがいた場所だ」
と彼はバーマンに伝える。
絵には戦争時には殺し合った人種たちが入り混じって描かれている。強制収容所の囚人、奴隷労働者、捕虜、ドイツ軍の兵士、地元の農夫とその家族。誰もが救いを待ち受けている。絵にはカラべキアンも描かれていて、画面のいちばん下の床すれすれのところにいる。
これは戦争の話だ。読み終えたときには自然とそうわかる。戦争は、いつまでも語られるべきなのだ。語られながら、いつまでも起こされないものとして伝承されるべきものである。