748円
モディリアーニはカリヤティードを研究していた
ピカソって観てるだけだとあまり分からないけど、模写すると適当に描いたと思われる線も全てが計算されてる事に気づくよね。だからピカソの絵はどの絵も全部上手いんだよ。
布施 英利
(ふせ ひでと、1960年4月2日 - )は、日本の芸術学者、美術批評家、解剖学者。東京芸術大学美術学部芸術学科教授。芸術と科学の交差する「美術解剖学」を基盤として[1]、美術や文学の批評、解剖学の著作などの執筆活動を展開している。著書に『脳の中の美術館』(1988年、2025年)、『構図がわかれば絵画がわかる』(2012年)、『人体、5億年の記憶 からだの中の美術館』(2024年)など。群馬県多野郡鬼石町(現在の藤岡市鬼石)生まれ[1]、藤岡市育ち。1979年群馬県立高崎高等学校卒業、1984年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業[1]、1989年同大学院美術研究科博士後期課程修了(美術解剖学専攻)[1]。大学院在学中の1988年9月、28歳で最初の著作『脳の中の美術館』を出版[1]。博士論文「人体解剖図譜の研究」で、学術博士[2]。大学院修了後の1990年より東京大学医学部解剖学教室助手として[1]、養老孟司の下で研究生活に従事[1]。東大助手時代の著書『死体を探せ!』(法蔵館、1993年7月)は、死体ブームと呼ばれた。1995年、批評家・文筆家として独立する[1]。2021年10月より東京芸術大学美術学部教授[3]。長男は美術家の布施琳太郎、次男は音楽家の布施砂丘彦(さくひこ)。
「ここで画家エドゥアール・マネのことについて少し書こう。マネは、一八三二年、パリのブルジョワ階級の家に生まれた。堅物の両親のもと、親の期待を裏切り画家の道に進み、三〇歳の一八六三年に『草上の昼食』(一八六二 ~六三年)をサロンに応募するが落選。その年のサロンは、落選作が大量に出たのでそれらを集めた落選展が催され、そこに展示された『草上の昼食』は、悪評高く、下品な絵だと罵声を浴びた。裸の女性を描くということは、サロンの多くの作品にも見られたことで、それが問題ではなかった。当時、ルネサンスを代表するイタリアの画家、ティツィアーノ(一四八八、九〇頃 ~一五七六年)の『ウルビーノのヴィーナス』(一五三八年頃)が美の規範とされ、たとえば『草上の昼食』が落選した年のサロンで高い評価を得たカバネル(一八二三 ~八九年)の『ヴィーナスの誕生』(一八六三年)は、ルネサンスのヌード絵画のよき伝統を引き継ぐものと当時は考えられていた。ただしマネとカバネルは、現代では評価は逆転し、マネの『草上の昼食』が名画の誉れ高いのは誰でも知るところだが、一方のカバネルの『ヴィーナスの誕生』は、今日の研究者からは「十九世紀当時のサロンで喝采を浴び、高い評価を受けていたヌードは、カバネルの《ヴィーナスの誕生》がそうであるように、《ウルビーノのヴィーナス》のいわば形骸化した末裔でしかなかった」(三浦篤『ヴィーナス・メタモルフォーシス』三元社)と、「形骸化した末裔」呼ばわりされる始末である。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「では、なぜマネの『草上の昼食』は、当時、その価値を認められなかったのかというと、西洋美術史家の言葉を引用すれば「伝統的な絵画の規範を破り、同時代の風俗を現実のままに描いてしまった」からということになる(高階秀爾『オルセー美術館 1』日本放送出版協会)。マネの絵は激しく批判された。育ちのよいマネは、そんな社会に反発するでもなく、その二年後に訪れる『オランピア』発表時のスキャンダラスな批判と合わせて落ち込んだようだが、詩人で美術批評家のボードレール(一八二一 ~六七年)だけは「状況がよくなっているのに、マネはなぜ、それに気づかないのか」と真逆のことを言っていたという。しかし歴史は、ボードレールの慧眼の通りで、今では『草上の昼食』も『オランピア』も、罵声どころか世界の礼賛を集め、オルセー美術館に鎮座するフランス国家の宝ものとなっている。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「『オランピア』が発表されたのは一八六五年のサロンだったが、描かれたのは『草上の昼食』の直後で、マネが三〇歳のときだった。たいへんな批判が巻き起こり、中には絵の前でステッキを振り回す人もいたという。「芸術への冒瀆だ」というわけだ。しかし、今日から見ると、いったいこの絵のどこがスキャンダラスだったのかわかりにくい。ヌードだからでしょう、ということかといえば、先にも書いたが、当時のサロンにもヌードの絵画はあふれていた。タイトルの「オランピア」という名前が、その頃の通念では娼婦の名前を連想させるもので、だから下品に思われた、という見方もされる。しかし研究者によれば、マネの師トマ・クチュール(一八一五 ~七九年)が一八四七年のサロンで大成功を博した絵も、また娼婦を描いたものだという(三浦篤、同前)。つまり、ヌードだからとか、神話や歴史画でなく現実の娼婦を描いたから罵声を浴びた、というわけではない。そこで、批判の理由の一つは「描法」にあった、という意見もある。マネの先輩格の画家ギュスターブ・クールベ(一八一九 ~一八七七年)は『草上の昼食』は擁護していたというが、『オランピア』に対しては「トランプのようだ」と軽蔑の言葉を送ったというのだ。陰影や空間的な深みがなく、平べったい描写法を見下したのだ。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「ギュスターブ・クールベも、マネと並んで、反抗的な生き方をした画家だった。印象派へと至る西洋美術の近代絵画の歴史は、クールベとマネに始まると考えられるが、両者に共通するのは、古いものへの反抗、それに伴って生じたスキャンダラスな反応である。近代・現代のアートは、けっこうその多くが、「初めはスキャンダラスな批判、そしてやがて礼賛」という道を辿るが、そういう反抗的な画家像の始まりが、クールべとマネだった。その反抗の原因は、古い体質の、しかしアカデミックな権威をもったサロン展などでの落選である。一八五五年、パリで万国博覧会が開催されたが、クールべは自身の作品が選ばれず展示することができなくなる。そこで若きクールベは、万博会場の入り口前に小屋を建て、そこに自分の絵を展示し、なんと万博と同じ入場料を取るという強気に出た。個展というのは、今ではどこでも行われているが、世界最初の個展はクールベのそれだった。反抗的な若者の、スキャンダラスな行動が生み出した、新しい作品発表の形式、それが「個展」だった。しかしクールベの行動は、無謀な我儘かといえば、そのときに発表された絵は、『画家のアトリエ』(一八五四 ~五五年)や『オルナンの埋葬』(一八四九 ~五〇年)など、今ではオルセー美術館の看板作品として、世界中の人たちをパリに呼び集める力となっている。クールベは、正しかったのだ。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「 話をヌードに限定しても、クールベは革命的といってよい作品を残した画家だった。『泉』(一八六八年)という作品では、醜い体形といっていいほどに太った女性の後ろ姿を描いている。豊満な肉体をもった女性のヌードは、例えばルノワール(一八四一 ~一九一九年)や、あるいはルーベンス(一五七七 ~一六四〇年)などにも見られる。しかしルノワールやルーベンスの女性ヌードは、肉感的と形容できるような、男性の性的嗜好にかなったヌード、という言い方もできる。それに比べると、クールベの『泉』の女性は、醜悪である。いや醜悪という、人の感情を逆なでするようなヌード像でもない。醜悪は、それはそれである批評的な視点をもった表現だ。しかしクールベの描く裸体は、美しいとか、醜いとか、そういう感情を湧かせるのとは異次元の、ただ太った女性の裸体なのだ。そもそもお尻の大きさと上半身の大きさの比率など、人間の体はこうではないだろう、これではまるでミツバチではないか、というような肉体の造形だ。感情を湧き上がらせも、逆なでもしない。リアリズムとは、こういうもののことをいうのか、と思わせる。さらにクールベには『世界の起源』(一八六六年)という、女性の太ももと隠毛だけをクローズアップした絵もある。ともあれ、反抗的でスキャンダラスな画家といえば、マネに先立つ芸術家としてはクールベをおいて他にいない。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「そんなときに、ふと思うことがある。美術の世界には、なぜ、裸の人体が普通にあるのかと。 歴史をたどっていけば、おそらく、その始まりは古代ギリシアだ。大理石に彫られた、裸のヴィーナス像が、パリのルーブル美術館や、ロンドンの大英博物館など、世界の美術館にある。古代のヴィーナス像といえば、たいてい、ヌードだ。先に先史時代のヴィーナス像のことを書いたが、ここでは歴史時代以降のことを取り上げ、先史時代の話は除外する。ともあれ、古代ギリシアのヴィーナス像の話をしたい。 しかし、古代ギリシア美術の歴史の中では、「全裸」のヴィーナスの像というのは、その初期にも、そして最盛期にも、まったくなかった。意外に思えるが、古代ギリシアでは、女性像は、ほぼすべて服を着ていた。全裸のヴィーナスが登場するのは、古代ギリシアも盛りを過ぎ、終わりを迎えた頃だった。あるときヴィーナスは突然、服を脱いだ。それから、裸のヴィーナスは、普通になった。繰り返すが、ヌードのヴィーナスが登場したのは、古代ギリシアも終わりに近い末期、つまりヘレニズム時代(前四 ~前一世紀)のことなのだ。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「『サモトラケのニケ』の Vサイン『サモトラケのニケ』(前一九〇年頃)は、パリのルーブル美術館、ダリュの階段と呼ばれる広く長い階段の上にある。「ニケ」というのは、古代ギリシアで勝利の女神のことで、古代ローマではウィクトーリアとも呼ばれた。つまり英語の「 victory」の語源で、スポーツ用品メーカーのナイキ( Nike)も、勝利の女神ニケのことである。この像は、戦勝の記念としてサモトラケ島のカべイロイの神域に置かれたものだという。勝利を讃える女神なのだ。 今、ルーブル美術館に展示されている『サモトラケのニケ』には腕がない。その彫刻の手の破片が、階段の踊り場の横に展示されている。像に腕はないが、背中の翼が、腕のような効果を果たしている。失われた腕は、勝利のラッパを持っていたとも、あるいはリボンを手にしていたともいわれる。しかし腕がないことで、この彫刻は、腕を翼のように広げた、そんなポーズにも見える。 ただし、解剖学的にいえば、もちろん腕と翼はちがう。人の腕は、肩甲骨の先にある肩関節に付いている。いっぽうの翼だが、もちろんニケや天使など、羽のある人体などというものは実在しないから、解剖学的に、どこの骨に翼が付いているのが正しい、とはいえない。ただニケは、鳥の翼とちがって、腕もあるから、肩の関節から、腕と翼が一緒に生えている、というのも変だ。 では、ニケや天使の翼は、解剖学的にどこに付いているのがいいかというと、肩甲骨の内側縁というところに、翼の付け根を付けると、胴体と翼の位置関係が自然になる。つまり、翼というのは(鳥のものではなく、天使やニケの翼は)、肩甲骨が後ろに伸びて広がったもの、ということもできる。天使やニケの翼などは架空のものだが、しかし体のどこに付けるかは、解剖学的な構造を踏まえたほうが自然なものになる。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「パリという都市の力は大きい。この彫刻が、今のような世界中の誰もが知っているという「地位」を得るということだけでいえば、パリは正解だった。たとえば日本の芸能界での成功を夢見る少女が東京に行くように、中心に行くことは成功に近づくことになる。スペインの若者ピカソも、パリに行って成功したし、日本人の画家・藤田嗣治も、フランスにいって「フジタ」になった。『ミロのヴィーナス』も、ルーブル美術館に展示されることで、あの『ミロのヴィーナス』となった。『サモトラケのニケ』もそうだった。 しかし、もちろんいちばん大切なのは、単に人の集まるところで、人に注目されることではない。いったい、その彫刻は、芸術としてどのような造形的な魅力があるのか。 ギリシア美術研究の第一人者、澤柳大五郎氏は、その著『ギリシアの美術』(岩波新書)で、このように書いている。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「プラトン(前四二七 ~前三四七年)が、『饗宴』で愛について書いたとき、人はそもそも、男男と男女と女女がいた、その男女の体が切り離され、男と女ができた。だから人は、自分の片割れである異性の肉体を求める。そういうことを書いた。その考えを極端に押し進めれば、「両性具有」の世界へと至る。『ミロのヴィーナス』の造形にも、そんな思いが隠されているかもしれない。女性なのに、男性にも見える。それは両性具有的な身体でもある。 話が両性具有の身体になったので、もう一度、ルーブル美術館にある、両性具有のヘルマフロディトス像について書きたい。ルーブル美術館で、この彫刻の前では、多くの人が立ち止まり、意味ありげな笑みを浮かべて、写真を撮って去っていく。背面からみると、特に特徴もない、凡庸な横たわるヴィーナスに見える。ところが前に回ると、その股間に男性器が付いている、あの彫刻だ(第一章)。『ミロのヴィーナス』の、両性具有的な雰囲気の肉体が、やがて両性具有神そのものへと至った、という図式で単純に語ってはいけない。しかしヘルマフロディトス像は、ギリシア末期の到達点なのだ。それは、退廃の姿とも見える。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「この彫刻は「メディチ」という名が付いているくらいで、メディチ家が活躍したフィレンツェのウフィツィ美術館に今はある。ボッティチェリもフィレンツェで活動し、『ヴィーナスの誕生』があるのも、ウフィツィ美術館だ。ボッティチェリがこの彫刻を参考にして『ヴィーナスの誕生』を描いたことは、十分に考えられる。近代以降のように、職業モデルというものがいない時代、画家とはいえ女性の裸体を見る機会は得にくい。恋人や妻がいたとしても、長時間、明るい所でポーズを取る、ということをしてくれるかは別の話だ。そこで、古代の裸体彫刻を見て、女性の裸体を写した。いや裸体を写したのではない。彫刻を写した。そのお手本となったのが、たとえば『メディチのヴィーナス』なのではないか。 このヴィーナス像は、かつてはギリシア美術の代表格的な人気を誇っていた。ところが一九世紀に『ミロのヴィーナス』が発見されてから、その地位はパリのルーブル美術館に展示された『ミロ』のほうに取って代わられてしまった。だから、今ではよほどの美術愛好者でない限り『メディチのヴィーナス』のことは知らない。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「しかし、人の心が、美しい女性のイメージを求めるのは、どの時代、どの国、どの文化でも変わりはない。男性目線からはもちろんのこと、女性であっても美しい女性の、その美に憧れ、自分と重ねようとする。そうやって、消えたヴィーナスに代わる、新しい女性像が生み出されることになる。それがキリスト教における、聖母マリアだった。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「ヴィルヘルム・ハンマースホイは、一八六四年、デンマークのコペンハーゲンに生まれた( ~一九一六年)。一〇代のときからコペンハーゲンの王立美術アカデミーで学び、二一歳のときに描いた妹の肖像が話題となる。しかし話題になるといっても、ネガティブな反応で、当時の絵画のしきたりを逸脱したものだったせいでスキャンダルになったのだ。それは、後ろ姿の妹を画面一杯に描き、しかも画面はシンプルな色の面で分割されている絵だった。もちろん、そこに「ハンマースホイの絵画」の特徴が表れていて、まさに新しい画家の登場を告げる作品ではあった。何よりも、ハンマースホイは、その後「後ろ姿の画家」になったのだ。しかし当時、誰もそんな絵を描いていなかった。人物とは前から、あるいは少なくとも横顔を描くものであり、後ろを向いた女性が画面の真ん中にいる、などということはありえなかった。それに色彩を塗った面の扱いも、配色のトーンも、その時代の絵画観からすれば、まったく唐突な異質なものだった。 今では、ハンマースホイは、静かな室内にいる、後ろ姿の女性を描いた画家、として知られている。コペンハーゲン国立美術館で、その裸婦の絵があった部屋にも、よく知っているハンマースホイの絵(数年前、上野の国立西洋美術館でのハンマースホイ展で見た)が展示されていた。その部屋は、ハンマースホイの絵ばかりを集めたコーナーだったのだ。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「ロダンにもっとも大きな影響を与えた彫刻家としてイタリア・ルネサンスの巨匠ミケランジェロがいる。ロダンは、『青銅時代』の制作直前にイタリアを旅した。とくにフィレンツェに長く滞在して、ミケランジェロの彫刻を研究し、魅了された。『ダヴィデ』や『囚われ人』などを見たと思われる。またルーブル美術館にある『囚われ人』(第三章)も、ロダンは研究し、それらの影響のもとに、『青銅時代』を制作した。そしてロダン、ミケランジェロと、男性像の人体彫刻の歴史を遡っていけば、その先にあるのは古代ギリシア彫刻だ。古代ギリシアの彫刻は、ロダンの死後に発見されたものも多く、ギリシア美術の全貌を、ロダンもミケランジェロも知っていたわけではなかったが、やはりロダン彫刻のルーツであることに変わりはない。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「2.モディリアーニ時代の空気とルネサンスの伝統 エコール・ド・パリの画家、モディリアーニ(一八八四 ~一九二〇年)には、どんな印象をおもちだろうか? あるいは、あなたはモディリアーニの絵画はお好きだろうか。もしあなたの友人が、「モディリアーニは好きだ」と言ったら、あなたは、その友人の芸術的センスをどのように思うだろうか。 モディリアーニというと、昭和風の喫茶店の、壁に貼ってある絵(ポスター)とかいうイメージがあって、今では時代遅れな感じがある。またピカソ(一八八一 ~一九七三年)やマティス(一八六九 ~一九五四年)と違って、「真の革新性を持たぬ底の浅い画家」と評されてきた、という声もある(マルク・レステリーニ『モディリアーニ展』カタログ、二〇〇八年、国立新美術館)。 たしかに、古きよき時代のパリの空気を描いた(だけの)、ユトリロ(一八八三 ~一九五五年)と並ぶ画家、それがモディリアーニという芸術家だと思っている方も少なくないと思う。ユトリロがパリのうらぶれた街の風景を描いたのに対して、モディリアーニはパリの人々の憂愁の姿を描いた、と。違いは、建築や道路と、人体、くらいだと。もちろん、モディリアーニの人物画には、あの時代のパリ、世界の中心であった、狂騒のパリを生きる人の心も描かれている。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「アメデオ・モディリアーニは、一八八四年、イタリアで生まれた。生地リヴォルノの美術学校や、フィレンツェ、ヴェネツィアの美術学校で、裸体素描などを学んだ後、一九〇六年、二一歳でパリに行く。 パブロ・ピカソ、マルク・シャガール(一八八七 ~一九八五年)、藤田嗣治(一八八六 ~一九六八年)など、あの時代パリにやってきた若い画家の多くがそうであったように、モディリアーニも異国人だった。ただしモディリアーニの父はイタリア人、母はフランス人で、両親ともユダヤ系という家で、スペイン人のピカソや日本人のフジタとは、まったく同じ状況ということではない。しかし、イタリアで生まれ育ったというモディリアーニの経歴は、本人に大きな影響を残し、故国イタリアのルネサンス絵画をはじめとする西洋美術の古典に対する関心の深さ、という点では際立ったところがあり、それがモディリアーニの芸術の土台になった。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「しかも、モディリアーニの絵画や彫刻には、そういった近代美術、ルネサンス美術だけでなく、さらに奥深い、美術としてのルーツがあった。古代ローマの、さらにその先にある、古代ギリシアの美術たちだ。 たとえば、古代ギリシアの神殿にしばしば見ることのできる、「カリアティード」という彫刻。これは神殿の建築の柱を、円筒形の太い棒ではなくて、人体の形に彫ったものだ。女神である女性の像であるので、日本語では女人柱と訳される。しかしカタカナで、そのままカリアティードと書くこともある。モディリアーニは、このカリアティードの造形性を研究し、それを自身の芸術に盛り込んだりした。 ここでモディリアーニの芸術を、ほぼ年代順に三つのグループにまとめて見ることにしたい。だが、彼の芸術はさまざまな表現が錯綜し、年代によってはっきりと三期に分けられるほどシンプルではない。二つ、あるいは三つのスタイルが重層している時期もある。しかし説明のための便宜として、ここではモディリアーニ芸術の変遷を、三つのグループに分けてみる。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「 第一期は模索期の作品たちである。それらの絵画には、ロートレック(一八六四 ~一九〇一年)の絵画と見紛うほどのもの、あるいはピカソの青の時代の色調や憂愁を連想させるもの、セザンヌの構築性を模倣したと思えるものなど、モディリアーニが同時代というか、一歩先をいっていた画家たちの芸術を吸収し、そこから自分独自のスタイルを見つけようとしていた痕跡がうかがえる。 そんな中で、ようやくモディリアーニが自分の道を見つけかけたのが第二期、先に書いた古代ギリシアのカリアティードの彫刻を研究した時期だ。一九一一 ~一三年にかけて、つまり二〇代後半のモディリアーニは、カリアティードというものの向こうに、ようやく自分の芸術の道を見つける。この頃、美術の技法においても、モディリアーニは絵画から彫刻へと、その取り組みが移行する。しかも粘土で立体造形をするというのではなく、彫刻の中でも最も堅固な素材である石彫に取り組むのだ。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「モディリアーニは、主にイタリアの遺跡や博物館に残されたカリアティードを見たものと思われるが、ともあれ、カリアティードというのは、女神像である前にまず「柱」であった。カリアティードに魅せられたモディリアーニは、その柱としての秘められた力、つまり「支える」という力に造形の美を見いだし、自分の芸術を「それ」と重ねることを模索した。この時期のモディリアーニの彫刻、あるいは絵画をみると、その「支える」という働きそのものが放つ美を、彼は追い求め、それを作品に込めようとしていたことがよくわかる。そして、この「柱」という世界が、後に見るように、モディリアーニの絵画の根幹へと結晶していくことになる。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「展示してあったのは、ヌードの絵画群であった。モディリアーニの展覧会は大人気で、大勢の人が押し寄せた。それに加え画廊のすぐ近くに警察があったために、その混雑ぶりに引きずられて警察がヌードの絵画たちを目にして、直ちに展示を止めるよう介入してきたのだ。画廊のスタッフが理由を尋ねると、女性の陰毛が描かれているからだという。 一九世紀、二〇世紀初頭のパリでは市民権を得ていたものだと私たちが思っている「ヌード」というものが、いかに苦難の道を歩んで来たかを、この事件一つをとっても、うかがい知ることができる。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「「藤田にとって(中略)裸婦こそが西洋美術を象徴するものであった」という。たしかに、フジタがしばしば足を運んだルーブル美術館の展示作品をはじめ、西洋美術の名品というのは、その多くが裸婦像である。他方、たとえば日本美術の歴史をみれば、仏像や山水画はあるが、裸婦像というのは明治以降の近代になるまで(黒田清輝の登場まで)、ほとんど見られない。 そもそも日本の近代美術というのは、西洋美術の移入によって生まれたものであり、近代の裸婦像とは、西洋美術の流れの延長にあるものである。そのような外部環境が、フジタを刺激したことも、裸婦像を描き始めた一因であるだろう。時代が、フジタも裸婦像を描いて当然、という環境を用意したのだ。しかしなぜ、それが一九二〇年だったのか。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「「藤田にとって(中略)裸婦こそが西洋美術を象徴するものであった」という。たしかに、フジタがしばしば足を運んだルーブル美術館の展示作品をはじめ、西洋美術の名品というのは、その多くが裸婦像である。他方、たとえば日本美術の歴史をみれば、仏像や山水画はあるが、裸婦像というのは明治以降の近代になるまで(黒田清輝の登場まで)、ほとんど見られない。 そもそも日本の近代美術というのは、西洋美術の移入によって生まれたものであり、近代の裸婦像とは、西洋美術の流れの延長にあるものである。そのような外部環境が、フジタを刺激したことも、裸婦像を描き始めた一因であるだろう。時代が、フジタも裸婦像を描いて当然、という環境を用意したのだ。しかしなぜ、それが一九二〇年だったのか。」
—『ヌードがわかれば美術がわかる(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』布施英利著
「上手な絵をほめるときに「写真みたい」と評することがあるが、写真が発明される以前は、見たままを表現した絵がもっとも称賛され、「自然そっくり」というのがほめ言葉の典型であった。そもそも美術が発生し、今にいたるまで長く存続した背景には、つねにこうした写実への欲求があったのである。 写真が発明されると、絵画は本物そっくりに写さなくてもよいという考えが普及し、抽象絵画の誕生をうながした。そして写実的なだけの美術は、現在では高く評価されない傾向にある。 しかし、美術に本物そっくりの表現を求める心性は今でも健在である。人は、現実と見まがうほどの迫真的な絵画に接すると快感を覚えるものだ。 こうした絵画をトロンプ・ルイユ(だまし絵)という。油彩技法が完成と成熟を迎えた十七世紀に流行するが、古代から存在したようである。古代ギリシャの画家パラシオスは、画面を覆った布の絵を描き、これを取りのけようとしたライバルの画家ゼウクシスの目を欺いたという。」
—『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著