森本 あんり
(もりもと あんり、1956年10月19日[1] - )は、日本の神学者、牧師[2]、国際基督教大学名誉教授。2022年4月1日より東京女子大学・第17代目学長[3][4]。神奈川県生まれ[2]。父親は画家・グラフィックデザイナー[5]。1975年東京都立小石川高等学校卒業[6]、1979年国際基督教大学教養学部人文科学科卒業[7]。1982年東京神学大学大学院組織神学修士課程修了[7]。1982 - 1986年日本基督教団松山城東教会牧師[7]。1991年アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国プリンストン神学大学院博士課程修了(組織神学)、Ph.D[7]。1991年国際基督教大学牧師、1997年同凖教授、2001年教授、2012年-2020年[4]同大学学務副学長[7]。2022年4月1日より東京女子大学・第17代目学長(任期は4年間)[3][4]。
「その背景には、増大する所得格差や教育格差、グローバル化による低賃金競争の圧力、中国の台頭によるアメリカの相対的地位の低下、移民の大量流入と福祉支出の増加などが挙げられている。かつてアメリカは開かれた機会の国であった。自由と繁栄を求めて努力すれば、誰もが報われる社会であった。しかし今、「子どもは親よりもよい暮らしができるか」と尋ねられると、四人のうち三人が「そんな自信はない」と答えるのである。人びとは、「アメリカン・ドリーム」がただの夢にすぎなかったことに気づき始めている。 前世紀末から緩やかに進行してきたこの変化を、うすうす感じ取っていた人もいる。だがそういう人も、これまでのリベラルな常識が妨げになり、表立って移民排斥や保護主義の声を上げることはできないでいた。トランプは、政治環境の変化に戸惑っていた人びとの屈折した本心を読み取り、それを小気味よく代弁してくれたのである。イスラム教徒排斥発言で物議を醸した際には、彼の人気は陰るどころかさらに高まった。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「もともとアメリカ人は、自力でのし上がってきた人物を好む。世襲のカネやコネによらず、自分の才覚で成功をつかんだ人が、自分で稼いだ資金を使って自由に発言し行動するのは、正しいことで美徳なのである。この価値意識は、「成り上がり者」や「にわか成金」を冷たい目で見る日本やヨーロッパとは少し異なるところである。メディアへの対応を心得たトランプは、一般大衆がそのような大舞台の立役者を待望していることを肌感覚で悟っていた。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「 要するに、「異端であることの代償が小さくなった」のである(ナイム三二五頁)。人びとは正統である必要を感じず、正統であろうと努力することもない。「みんな違ってみんないい」のであって、正統であろうとする努力こそ、自分や周囲に抑圧をもたらす根本悪なのである。多様性を認める社会は、たしかに多くの人にとって居心地のよい社会かもしれない。だが、それぞれが「自分ファースト」の小集団に閉じこもり、既存の体制や組織が疑問に付され、公共機関や司法制度に当然のものとして前提されてきた正統性が失われることは、どこまで社会の健全性と両立するのだろうか。貨幣制度が人びとの信認の上に成立しているように、政治制度も民の信なくして立つことはできない。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「発足当初から見通しが不透明だったこの試みはしかし、六〇年代を通しての努力でも救い出されることがなかった。元来日本の天皇制や国体には、聖書にあたるような教典もなく、教義にあたるような信条もなく、教会にあたるような組織もない。正統の枠付けをするものがなければ、逆に異端を審問し異端として定義づける手続きも成立しようがないわけである。キリスト教史から入手した諸概念を参照枠組みに用いることの問題点もはじめから意識されており、後述するように中国古典や江戸儒学における漢語としての用語法も検討してはいたが、分析が進むにつれてこの制約はいっそう明らかになった。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「何事も聖書へ立ち返って確認すれば解決できる、とする素朴な聖書主義は、すでにこの順序からして成り立たないことが明らかである。プロテスタンティズムは、「聖書と伝統」を啓示の二源泉とみなすカトリック教会に対し、「伝統」を否定して「聖書のみ」を旗印に掲げた。しかし、プロテスタントにも伝統はある。プロテスタントはそれに従って聖書を読んでいるにすぎない。 もう少し言うと、聖書という「書物」を重視し、そこに書かれた文字を「読む」という作業を重視すること自体が、近代の偏見である。それ以前の長い歴史を生きた大多数のキリスト教徒からすれば、聖書は「読む」ものではなく「聞く」ものであった。聖書は、コーランのごとく「朗唱されたもの」、つまり教会で識字者が読み上げるのを聞くものだったのである。そして、それを読む者は、個人の立場ではなく自分の属する集団の精神においてそれを読む。そこには、意識されていようといまいと、伝統の仲介がある。そのような仲介なしに、まったく独りで聖書という書物に向き合い、その文字を読むだけで信仰に至った、という人は稀である。「信仰は聞くことによる」(「ローマ人への手紙」一〇章一七節)。人は、聖書から直接に信仰を得るのではなく、他者との出会いを通して、つまり何らかの伝統を介して信仰を得るのである。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「教会は、権威のないところに新たな権威を創出することはできない。すでに存在している権威を追認することができるだけである。優れた彫刻家は、素材の中にあらかじめ完成像が隠れているのを見て、それを彫り出してゆくと言われる。同じように、教会は何もないところに自分で正典を作り出したのではなく、すでに人びとの間で承認されている正典の権威に基づいて、それを形にしただけである。 キリスト教自体も、はじめは特異な新興宗教集団として出発した。ユダヤ教の指導者たちは、不安な面持ちでこの新奇な宗教の興隆を見つめていたに相違ない。あるとき、最高法院の議員たちがいきり立って議論をしていると、ガマリエルという律法学者が立ち上がり、次のように語って同胞を諭した。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「キリスト教を「外来」宗教と見る日本では、アメリカやヨーロッパをキリスト教の「本場」と見なす傾向がある。だが、歴史を振り返れば明らかなように、キリスト教はそれらの地域においても「外来」の宗教であった。序章や第一章で見たように、キリスト教はアメリカでは極度に「アメリカ化」し、国家や文化との見分けがつかないほどに「土着化」してしまっている。同じことは、ヨーロッパのキリスト教についても言うことができるし、近現代だけでなく中世や古代にも言うことができる。ハルナックの講義は、そのような変質がすでにキリスト教の揺籃期であるギリシア時代に起きていた、ということを示した点で、人びとに大きな衝撃を与えることになった。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「カトリック教会のカテキズム(入門者用解説書)では、聖書への信仰ですら、教会の権威がなければ成り立たない、とされている。まず教会を信じなさい、その上で、教会が(つまり聖職者が)解説してくれるままに聖書を信じなさい、ということである。聖書の権威は教会の権威に依存し、その意味は教会が解釈する通りに解釈すべきなのである。 「万人祭司制」を唱えるプロテスタントは、このようなカトリック的な権威体系を嫌うが、すでに述べたとおり、プロテスタントにもプロテスタントなりの聖書解釈の伝統が備わっており、教会ではほぼそれに沿って聖書が読まれている。「聖書のみ」という彼らの聖書理解そのものが、プロテスタント的な伝統に準拠したものだし、宗教改革者たちも教会を「聖なる恵みの施与施設」( Heilsanstalt)と位置づけていたので、構造的にもこの点はさほど異なるわけではない。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
森本あんり『異端の時代』を読み終えた。なかなか示唆に富む本だ。考える糧になる。正統の定義。「どこでも、いつでも、誰にでも、信じられてきたこと」という定義。これはある意味、日本の野党、リベラルな学者に対する痛烈な批判にもなっている。
森本あんり『異端の時代』に厳格な教義を守るものしか受け入れないのが「異端」で、それによって異端は自ら滅んでいくみたいなことが書いてあったのを最近よく思い返す。「正統」が続くのはその間口が広くてユルいから、ということらしい(それはおかしい、と言い出す人が異端として分離していく)
「ついでに触れておくと、パウロも同じように挑発的な発言をすることがある。原始教会の中には、キリスト教とその母胎であったユダヤ教との区別ができず、キリスト教徒になるためにはまずユダヤ教徒にならねばならない、と考える人びとがいた。律法の定めにより、ユダヤ教徒になるためには割礼が必須である。パウロはそういう論者たちに我慢がならず、そこまで固執するなら「あなたがたの 動者どもは、自ら不具になるがよかろう」と言い放っている(「ガラテヤ人への手紙」五章一二節)。もちろん、パウロも実際に去勢を奨励しているわけではない。割礼と去勢はまったく異なる行為だが、割礼を極端に誇張して、その有無を問うことの愚かさを批判しているだけである。だからこれも文字通りに読んではいけない。聖書は、そこそこいい加減に読むに限る。それが正しい読み方なのである。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「教義の制定は、法律の制定に似ている。法律も、ある日いきなり定められるのではなく、その法律によって規定されるべき事態がまず存在し、それを後追いするかたちで制定される。もちろん、制定に際しては現実のすべてが容認されるわけではなく、容認されることとされないこととの区分けがなされ、適法と不適法の線引きが行われる。それでも、そこで正しいと認定されたことは、法律ができたから忽然と正しくなったわけではなく、法律ができる前から正しかったのであり、その正しさが法律によって追認された、というにすぎない。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「なお、カトリック的な「事効論」は、プロテスタント神学では別の意味に解されて批判の対象となった。カトリック的な文脈では、洗礼というサクラメントは神の恵みそのものの力によって有効となる、ということを意味していた。だから「施与者の状態にかかわりなく」作用する、と言ったのである。ところがプロテスタント側は、これを「受領者の信仰なしに」作用する、という意味に解釈した。信仰がなくても作用するなら、それは魔術と大差ないことになる。カトリック神学は、聖遺物のように信仰をモノへと凝縮させて扱う「物化論」に長けているが、「事効論」もプロテスタントには同じ傾向を示す危険な教えに見えたのである。両者に共通した理解をあえてすくい取るならば、信仰は洗礼の「根拠」ではないが「条件」である、というあたりだろうか。 こうして見ると、秘跡論の重要性がよく理解できる。中世カトリシズムからプロテスタンティズムに至る系譜を、この視点から通観することができるからである。そして、おそらくこれは教会の改革だけの話ではないだろう。改革も、時代を制する大きな流れになると、その中に本流と傍流ができる。正統であり続けるためには、そこでも主観的な熱情と制度的な安定性との全体的なバランスを維持した両足歩行で進まなければならないのである。この点は、現代ポピュリズムの問題にも通じているので、終章でもう一段深めて論ずることとしたい。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「アナーキズムの命ずるところに従えば、人間はみな勇気ある芸術家であるべきであって、法則とか限定などには一顧も与えるべきではないという。しかし芸術家でありながら法則や限定を顧慮しないことは要するに不可能である。芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある。キリンを描く時は、ぜひとも首を長く描かねばならぬ。もし勇気ある芸術家の特権を行使して、首の短いキリンを描くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう(チェスタトン六二頁)。 自由は、あるものに本来的に備わっている法則に従うことによって得られる、ということである。制約なしに自由はない。自由になろうと思う者は、みずからに限定を引き受けねばならない。規則を破り、束縛を逃れれば自由になる、と考えるのは中学生までである。無限定で無定形の自由に実質を与え、具体的で手に取ることのできる現実となすのは、その外周を囲う何ものかなのである。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「正統にみる自由と制約の弁証法は、法制史の分野でもつとに指摘されてきた。前章でわれわれが中世秘跡論について参照した堀米庸三は、封建制成立の以前も以後も、自由がそれを護る力による制約と不可分であったことを強調している。社会における自由は、個人の自由の限定なしには存立し得ず、秩序による拘束なしには保護され得ない。そのような制約を受けない自由とは、いわゆる「鳥の自由」( Vogelfrei)、すなわち法を犯して共同体の法的庇護を失った犯罪者が狼のように森を彷徨う、という意味での自由に他ならない。彼に出会う者は誰でも彼を殺す権利と義務があり、その屍は埋葬されることなく鳥の 食に供される、という自由である(堀米一九七六年:二八六頁)。そんな自由を欲しがる人は多くないだろう。中世的な意味における自由は、あくまでも保護者への依存を条件としており、その力と制約の中でしか存在しないのである。だから堀米は、「自由はつねにネガティヴにしか規定されえない」と明言する(同三一四頁)。これは、アナテマによる正統の否定的な定義と同じ表示形式である。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著