弥生時代から古墳時代のどの本よりも詳しい考古学的解説書。
松木武彦氏の研究の集大成。
弥生時代からの各地域圏での氏族の始まりから、大王、ヤマト政権へ至る流れ。
ヤマト政権の確立とともに徐々に畿内は古墳の縮小、消滅へとむかう。
・1-2世紀
北部九州:外交と交易の先進地帯、甕棺墓がなくなる、原の辻貿易。
山陰:日本海交易の拠点、四隅突出型墳丘墓。
北近畿:貿易技術立国。
瀬戸内:内海航路と農業生産。
近畿中央部:農業社会の伝統と変革。
東海:肥沃な三日月地帯の要衝。
北陸:倭国乱の焦点。
関東:弥生の新開地。関東と東海にわたりアヅマの醸成。
・3世紀
古墳は氏族のシンボル、東日本で発生した。個人の墳丘墓。遠距離交易と水田開発を主導した新興氏族のシンボル。
ヤマト:イガやイセをへて東海・関東大地方圏へ、アワウミをへて日本海大地方圏へ、カワチをへて瀬戸内大地方圏につながる地理的条件。3世紀前半。
西方へも古墳がひろがり、古墳を築く氏族が各地に発生する。
共同体の伝統社会が東から伝わった氏族主導の社会へ入れ替わる。
250年ごろ、箸墓古墳。長さ280m、高さ30m、3段の後円部、イズモの葺石、キビの円筒埴輪。長大な割竹形木棺を竪穴式石室で包む厳重なこしらえ。
天にそびえる頂上に主人公の遺骸を祀り上げる。
共同体に変わり新しく社会の主役にたった氏族の儀礼と権威誇示の場。政治的な性格。
同じ頃、東アジア全体に有力者の墳墓をモニュメント化する動き「東アジア墳墓文化」(日本以外は遺体は地下に埋葬される、埋葬後に盛土)
3世紀後半から纏向に門閥氏族が。纏向、萱生、柳本。全面3段の前方後円墳。
ヤマト周辺にも広がる。
・4世紀
ヤマト盆地南部の本家と北部の分家に。北部の門閥氏族が儀礼を上書き。各地の有力氏族とよしみを築く。
ヤマトが日本海、九州南部、太平洋への影響を強める。
金官伽耶との外交関係を樹立。
・5世紀
370年前後、倭と百済との通交。七支刀。
渋谷向山陵(景行天皇?)か五社神陵(神功皇后?)か津堂城山古墳。
375-400、カワチの門閥氏族が武装の革新をすすめた。
391-404、伽耶から百済へ兵力を出し高句麗と衝突。
400、カワチの2つの門閥氏族が巨大化(古市と百舌鳥)
375ごろ、各地の氏族が大氏族へと再編され始める
375-425、西日本で男系大氏族への統合が進む
425、東日本にも男系大氏族への統合
425、応神新体制が確立。国際的緊張を背景にした軍事連合政権。
425-475、軍事連合政権としてのありさまが古墳として表現される
・古墳時代の地域・社会・暮らし
地方におけるムラ・マチ・古墳のありかた。キビ地域社会のようす。
気候や環境や疫病などの大変動が4世紀の中頃から後半にかけて起こった。
4世紀前半から中頃と推定される崇神天皇5年の疫病による半数が死亡という記事、12年の寒暑が乱れ疫病が多発という記事。
ミマキイリヒコ(崇神天皇)、山辺道勾岡上陵、柳本行燈山古墳。
社会不安の増大により、古墳の被疑の変化、アイテムの種類や量の増強、氏族の守護を期待。
造山古墳、減って分散した人口を再び集約し地域社会の復興と再生を行うためのモニュメントとして築かれた。キビの諸氏族の長あるいはカワチ門閥氏族の分派により、弱体化した諸氏族を一つの強力な男系大氏族へと統合。
・古墳時代はこうして終わった
450-475、古市と百舌鳥の2つの門閥氏族が挫滅していく=ワカタケル(雄略天皇)による抗争で、実力を持った後継者がいなくなる
475-500、応神新体制が解体。4世紀以来、1世代に数百両もつくられて埋納された鉄製甲冑の生産が一斉に停止。国際関係としての軍事政権への意向がうすれ、冊封体制に入ろうという意思が弱まる。競争を象徴化した古墳の大型化も変化。
500-575、大王と大王家が確立。6世紀の歴代の大王、それを支えた「大伴氏」「物部氏」などの氏族。
律令制の前段階のマエツキミ制に。鉄やその他資源の朝鮮半島からの輸入をやめ、列島内各地の資源開発や大和への集約を進め、古墳とは関係のない経済・社会へと変化。
ヲホド王(継体天皇)531年没、大阪府高槻市今城塚古墳。
その庶子墓の勾大兄(安閑天皇)536年没、大阪府羽曳野市高屋築山古墳。
同母弟墓の檜隈高田(宣化天皇)539年没、奈良県橿原市鳥屋ミサンザイ古墳。
継体天皇嫡子の天国排開広庭天皇(欽明天皇)571年没、奈良県橿原市五条野丸山古墳(墳丘長300m超、堅塩媛を合葬)。