あらすじ
古墳時代の歴史は日本列島とその周辺だけで完結するものではなく、世界史ないしは人類史の一部であることを強く意識したい。古墳時代が始まって終わる紀元後一千年紀は、古墳時代の地球規模の気候環境の変動にも影響され、(中略)人びとを束ねる枠組みとシステムとが大きく組み替えられた段階である。ユーラシア大陸の東の端の沖合に浮かぶ日本の島々に巨大な古墳が現れて、王や有力者の政治組織が台頭したのは、この世界史的組み換えの一環とみなされる。歴史の動きをグローバルにとらえるこのような視点は、近年、国際的に盛んになってきた。また、グローバルな歴史の動きを導いた一因とみられる気候変動が、ここ十年来の高精度古気候復元の研究の進展により、一年ごとの乾湿や寒暖の変化として、具体的に把握されつつある。こうした視点や成果を取り込んで、世界史の一部としての古墳時代史を叙述することを、この本の第三の目標にかかげる。社会全体や世界の動きを視野に入れ、文献史学の成果も取り込んだ、考古学による古墳時代の編年史の総合的叙述。この本でしたいことは、それである。
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Posted by ブクログ
弥生時代から古墳時代のどの本よりも詳しい考古学的解説書。
松木武彦氏の研究の集大成。
弥生時代からの各地域圏での氏族の始まりから、大王、ヤマト政権へ至る流れ。
ヤマト政権の確立とともに徐々に畿内は古墳の縮小、消滅へとむかう。
・1-2世紀
北部九州:外交と交易の先進地帯、甕棺墓がなくなる、原の辻貿易。
山陰:日本海交易の拠点、四隅突出型墳丘墓。
北近畿:貿易技術立国。
瀬戸内:内海航路と農業生産。
近畿中央部:農業社会の伝統と変革。
東海:肥沃な三日月地帯の要衝。
北陸:倭国乱の焦点。
関東:弥生の新開地。関東と東海にわたりアヅマの醸成。
・3世紀
古墳は氏族のシンボル、東日本で発生した。個人の墳丘墓。遠距離交易と水田開発を主導した新興氏族のシンボル。
ヤマト:イガやイセをへて東海・関東大地方圏へ、アワウミをへて日本海大地方圏へ、カワチをへて瀬戸内大地方圏につながる地理的条件。3世紀前半。
西方へも古墳がひろがり、古墳を築く氏族が各地に発生する。
共同体の伝統社会が東から伝わった氏族主導の社会へ入れ替わる。
250年ごろ、箸墓古墳。長さ280m、高さ30m、3段の後円部、イズモの葺石、キビの円筒埴輪。長大な割竹形木棺を竪穴式石室で包む厳重なこしらえ。
天にそびえる頂上に主人公の遺骸を祀り上げる。
共同体に変わり新しく社会の主役にたった氏族の儀礼と権威誇示の場。政治的な性格。
同じ頃、東アジア全体に有力者の墳墓をモニュメント化する動き「東アジア墳墓文化」(日本以外は遺体は地下に埋葬される、埋葬後に盛土)
3世紀後半から纏向に門閥氏族が。纏向、萱生、柳本。全面3段の前方後円墳。
ヤマト周辺にも広がる。
・4世紀
ヤマト盆地南部の本家と北部の分家に。北部の門閥氏族が儀礼を上書き。各地の有力氏族とよしみを築く。
ヤマトが日本海、九州南部、太平洋への影響を強める。
金官伽耶との外交関係を樹立。
・5世紀
370年前後、倭と百済との通交。七支刀。
渋谷向山陵(景行天皇?)か五社神陵(神功皇后?)か津堂城山古墳。
375-400、カワチの門閥氏族が武装の革新をすすめた。
391-404、伽耶から百済へ兵力を出し高句麗と衝突。
400、カワチの2つの門閥氏族が巨大化(古市と百舌鳥)
375ごろ、各地の氏族が大氏族へと再編され始める
375-425、西日本で男系大氏族への統合が進む
425、東日本にも男系大氏族への統合
425、応神新体制が確立。国際的緊張を背景にした軍事連合政権。
425-475、軍事連合政権としてのありさまが古墳として表現される
・古墳時代の地域・社会・暮らし
地方におけるムラ・マチ・古墳のありかた。キビ地域社会のようす。
気候や環境や疫病などの大変動が4世紀の中頃から後半にかけて起こった。
4世紀前半から中頃と推定される崇神天皇5年の疫病による半数が死亡という記事、12年の寒暑が乱れ疫病が多発という記事。
ミマキイリヒコ(崇神天皇)、山辺道勾岡上陵、柳本行燈山古墳。
社会不安の増大により、古墳の被疑の変化、アイテムの種類や量の増強、氏族の守護を期待。
造山古墳、減って分散した人口を再び集約し地域社会の復興と再生を行うためのモニュメントとして築かれた。キビの諸氏族の長あるいはカワチ門閥氏族の分派により、弱体化した諸氏族を一つの強力な男系大氏族へと統合。
・古墳時代はこうして終わった
450-475、古市と百舌鳥の2つの門閥氏族が挫滅していく=ワカタケル(雄略天皇)による抗争で、実力を持った後継者がいなくなる
475-500、応神新体制が解体。4世紀以来、1世代に数百両もつくられて埋納された鉄製甲冑の生産が一斉に停止。国際関係としての軍事政権への意向がうすれ、冊封体制に入ろうという意思が弱まる。競争を象徴化した古墳の大型化も変化。
500-575、大王と大王家が確立。6世紀の歴代の大王、それを支えた「大伴氏」「物部氏」などの氏族。
律令制の前段階のマエツキミ制に。鉄やその他資源の朝鮮半島からの輸入をやめ、列島内各地の資源開発や大和への集約を進め、古墳とは関係のない経済・社会へと変化。
ヲホド王(継体天皇)531年没、大阪府高槻市今城塚古墳。
その庶子墓の勾大兄(安閑天皇)536年没、大阪府羽曳野市高屋築山古墳。
同母弟墓の檜隈高田(宣化天皇)539年没、奈良県橿原市鳥屋ミサンザイ古墳。
継体天皇嫡子の天国排開広庭天皇(欽明天皇)571年没、奈良県橿原市五条野丸山古墳(墳丘長300m超、堅塩媛を合葬)。
丁寧な解説
年代と出来事の関係を明らかにしてゆく資料は少ない中で、この本は実に丁寧に追いかけられているために、因果関係の追跡の手がかりとして、大変参考になりました。
Posted by ブクログ
これは面白い。
邪馬台国と大王家という二つのくだりが今一つ説得力がないというか、粗いので★評価を一つ下げましたが、科学的に考えるとはこういうことなり。
そう考えると、調査不可の墳墓、記紀への基本的な依拠など、大王家を奉る発想は非常に根深く、それが教科書をはじめとして教育の根幹に置かれているのだから、日本社会においてその呪縛から逃れるのは至難。
この点についても興味深いなと思った次第。
Posted by ブクログ
松木先生の遺作。古墳時代の流れや、地域ごとの門閥が割拠しつつ、物や当時の最新技術(鉄、武具)が広い地域に行き渡った動きを経年的に整理されており、分かりやすい。加えて、世界の当時の動きや文化の成り立ちも踏まえて語られており、世界の流れにも興味を持てる。
Posted by ブクログ
考古学的アプローチによる古墳の解説、私の愛読するジャンルの一つであるが、未解明な部分が多すぎるが故に、それぞれの学者は一つの研究テーマについて緻密に研究を進め、発表する。読み手はその情報を読んで知識を蓄え、その充実した内容に満足するわけだ。しかし研究者による古墳へのアプローチの幅はとても広く、一冊の本から与えられた知識からは全体像が掴めない。だからこそたくさん読むのだが、読めば読むほど新たな疑問が湧いてきたり、一度吸収したはずの情報が記憶から抜け落ちてしまったりして、自分の中の古代へのイメージがどんどんぼやけていってしまうことに気づいた。
多方面から古墳を見つめた学者がこぞって本を出してくれるのはありがたいが、これらの研究成果を編集して一まとめにした画期的な本はないものだろうか、そんなことを思って検索をかけて探してみたものの、条件に合うような書籍はまったくみつからなかった。やはりそれぞれの研究を読むだけではなく、自分自身で情報を取捨選択して編集していくべきなんだろうかと思っていた矢先、この本が出版されることを知った。
実際に手に取って読んでみて驚いた。今まで読んできた書籍の情報がこの一冊に凝縮されているではないか。更に近年明らかになった研究結果も反映されていて、編年体になっているため非常にわかりやすい。膨大な資料による裏付けと世界史的な視点による松木氏による考察は説得力が高く、箸墓古墳が誕生してからどのようにしてヤマトの氏族がこの墓制を各国に広めていったのかが一目でわかるようになっている。古墳の制度が東日本から生まれたという説には最初は疑問を抱いたが、古墳の独自性をその外形に求めるのではなく、群集墳とそれぞれの墳丘の関係性に見出す著者の論述を見て合点がいった。
大陸・半島貿易の拠点としては北九州や出雲、越に比べて明らかに不利な近畿以東の国々が、なぜ強大な力を持つようになったかについての説明も納得のいくものであった。
ここからは筆者の記述からの私の想像になるが、北九州や出雲、越で見つかった激しい戦闘の痕跡や、防御に優れた高地制集落の跡を見る限り、後漢の黄巾の乱と時を同じくする倭国大乱は、大陸・半島貿易の利権を巡る日本海側の国々による争いだったのではないかと思う。その戦乱から離れた位置にありながら豊かな農地と港を持ち、同じく豊かな田園地帯を持つ東国への中継地でもある近畿の諸勢力が倭国大乱以後力をつけていくのは、至極当然の流れであったように思う。
ただ、各地有力氏族の墓制を取り入れて団結力を保ちつつ、ヤマト氏族としてのアイデンティティを保つ目的で作られた前方後円墳、その全国への波及についての論述や、古墳時代の終焉の理由付はやや甘いなと感じた。埋葬に関する秘技を各国と共有して仲間意識を高めるためと氏は説明しているが、各地の氏族の独立性が高かった古墳時代にどうしてそうする理由があったのかが今一わからない。書面の情報で推測するなら、ヤマトの一員であることで交易に関して多くのメリットがあったことを想定し、そのヤマトの一員であることを示す目的で前方後円墳の作りや秘技を真似させたと見ることもできるかもしれない。しかしそれがなぜ「墓」である必要があったのか。それはもっと古代の墳墓に関する根源的な情報が必要になるのだろうか。何れにせよ本書に求められる情報ではないのかもしれない。
またはこう見ることもできないだろうか。4世紀中ごろの崇神天皇の時代、古の天候についての研究によれば冷涼かつ雨の多い時期が続き、稲の不作に陥っていた可能性が指摘されている。また、記紀の記述によれば疫病の蔓延により多くの人々の命が失われたという。
ここで吉備の造山古墳の築造年についての記述が重要になってくる。吉備の古墳は4世紀中頃にその築造の勢いが失せ、その数年後、人口回復の前に築造されたという。
全国的な不作や疫病が続く中、ヤマト氏族が自身も打撃を受けながらもその生産力や交易を周囲に誇示できていたとしたら、その秘密を探るために各国がヤマトの真似をしようとしたとしてもおかしくないとは思う。ただ前方後円墳の広がりは不作前から見られていた現象なので、この仮説は素人の想像の域を出ない。色々考えてみるが、やはりわからない。しかし、こうやって考えることができるだけの情報を松木氏が残してくれたことには心から感謝したいと思う。
所々記述の甘さは見られるものの、この書籍が古墳愛好家にとって有益なものであることは間違いないであろう。個人で研究を進めていく際、現在の学会の流れをおさらいするために読み直しても良いと思う。これほど素晴らしい本は一家に一冊、必ず持っておきたいものだ。