私の故郷、沖縄の歴史。
王国から、属国へ。属国から、遵奉へ。
与那原良朝という青年が見た8年間。病床に沈む国王、ヤマトと琉球の板挟みに遭う父、些末に罵倒される恩師、報われぬ人生を嘆き絶命する友、戦を止めるために無駄死にした幼なじみ、信じる心を失った自分。
誰もが琉球のために奔走し、琉球を嘆き、恨み、愛して生き抜いた事変。
私は沖縄県民として、県外で暮らし、働いている。
「沖縄の人は優しい」
「沖縄の人は温かい」
とはよく言ったもので、断らず、なんでも引き受けてくれる県民性を、ナイチャー(沖縄県外の人)は悠々自適に扱っている。沖縄県民は優しいのではなく、幼い頃から教育されてきたのだ。
「ナイチャーは信じたらダメだよ」と。
私個人としては、ウチナーンチュ(沖縄県民)もナイチャーも関係なく、人を信じる人間は救われないと思っているので、徹底して拒絶するわけではないが、ウチナーンチュのような海の彼方からやってきた人に対するナイチャーの無知蒙昧を見る目は、常に冷ややかで「馬鹿にしているな」とは感じる。
琉球処分を通達しにきた松田道之も、例に漏れず同じように感じていた。琉球のことを「なんと蒙昧な国家」とうそぶいていたと言われている。日本語を理解できず、社会の変化についていけずに、背を丸めてオドオドする役人を見て、そう洩らしたという。
松田と対面した与那原良朝は「なぜこの人はこんなに速断を求めるのに、政府の通達通りの言葉を貰わなければ動けないのだろうか」と、松田の融通の効かなさを嘆いたそうだ。
行政構文という言葉がある。具体的な例は「私は◯◯と言ったが、◎◎とは言っていない」が上げられる。相手方が解釈を自由にできるようなことをほのめかしておいて、自分自身の発言の足元をすくわれた時に吐く詭弁だ。私は日常の会話でもこれが出てきた相手とは喋らないようにしている。この詭弁は、「私の思っている通りの解釈以外は聞きません」という、会話の破綻を意味しているからだ。
琉球処分時、日本政府と琉球藩との間にはこのような衝突が幾つも起きたと言われている。これは、琉球藩が清国と関わる中で、難解な漢文による書物を『注釈』によって補ってきたから、琉球藩の役人は「書かれていないところは自由に解釈してよい」と認知していたためと言われている。一方で日本政府は「書かれていないことは実行してはならない」とする明文主義的な流れを取っていた。
与那原良朝は遵奉を望んでいた。「それでいいではないか。時代は変わるのだ」と、半ばあきらめにも似た気持ちだった。それなのに、日本政府が沖縄県にしたことは。
私が好きな沖縄の歌で「イラヨイ月夜浜」という歌がある。『世の中の移り変わりは波のようだ。変わらないように見えて、気づいた時には何でも変わっているものだ』という歌だ。
世の中は変化している。常に流転する。似たような出来事の繰り返しかもしれないが、波は砂浜や岩壁を削る。波がある限り、必ず変わるのだ。
人々が抱く偏見も、私が死ぬ頃にはきっと大きく変わるだろう。