あらすじ
数字は単語、数学記号・数式は文章
数学は仕事のツールとして使える!
「論理的に考える・表現する」の本質に迫る
数学的に考えて表現するというのは、数式や証明はもちろん、普通の日本語を使う、総合的なコミュニケーションである。そして数学的に「話す・書く」ためには、まず自分のまわりで起きている状況を客観的に整理すること。それを、誰にでも理解できるように明確に構成することがスタートとなる。「数学的に考える」ことは、ありのままを見て、都合の悪いことに目をつぶらず、もっとも適切な解を探し、オープンに議論をすること。それは、いまの私たちと社会にもっとも求められていることだと思う。
「なぜ、仕事に数学が必要になったのか」「『解答がない問題』にどう取り組むか」……
正解でなく、数学の本質がわかる1冊。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
1980
曽布川拓也(ソブカワ タクヤ)
早稲田大学グローバルエデュケーションセンター教授
1992年慶應義塾大学大学院理工学研究科後期博士課程修了。博士(理学)。高校数学教員を経て岡山大学教育学部に21年間勤務の後、2014年4月より早稲田大学グローバルエデュケーションセンター教授。研究分野は函数空間論、実函数論、数学教育。専門の数学を講じるほか、高校まで数学を十分に学んで来なかった学生のための、単なるリメディアル教育を超えたフルオンデマンド講義「数学基礎プラス」シリーズの一翼を担う。一方で「ロジカルシンキング入門」「英語と数学の読み方」といった講義も担当し、「論理」「英語」「データサイエンス」「情報」などが日本人の一般教養になることを目指す。著書に『基本 線形代数』『基本 微分方程式』『演習と応用 微分方程式』(いずれも共著、サイエンス社)がある。
山本直人
1964(昭和39)年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。博報堂に入社。2004年退社、独立。2023年8月現在マーケティングおよび人材育成のコンサルタント、青山学院大学経営学部マーケティング学科講師。著書に『電通とリクルート』など。
就職した広告会社は文系の牙城のように見えるかもしれない。しかし、ある先輩が「広告は科学とアートの結合」といっていたことが的を射た表現だったと思う。
旧友と久しぶりに会えば、思い出話や近況のこととなるのだろうが、なぜかこのとき「社会人に本当に必要な教養は何か?」というテーマになり、ピタリと意見が一致した。 僕は、どんな学部でも数学的な思考をもう一度学ぶべきだと思っていたのだが、彼はまさにそのために早稲田大学へと転じてきたのだった。
私たちが普通に仕事をしていく上で、「数学的思考」の重要性が、じわじわと高まっています。「エンジニア」の人手不足はずっと続いていますし、また、「統計」はビジネス上で必須の知識といわれるようになりました。大学のいわゆる「文系学部」でも、入試に数学を必須化したり、統計学などを必修の授業とする動きも出てきています。
それにしても、いつからビジネスの世界で数学的思考が求められるようになってきたのでしょうか。もう少し俗な表現だと「理系的人材」へのニーズがとても高まってきたのはなぜでしょうか。 まず、思い当たるのは「デジタル技術が発達したから」ということです。たしかに、オフィスのパソコンが「1人1台」になり、自宅にパソコンが普及したのは、1990年代後半以降のことです。
そして、同じようなことはあらゆる業界で起きています。戦後多くの文系学部の卒業生を採用した金融業界などでも、理系学部出身のトップが増えてきました。 そう考えたとき、高校の途中までしか数学を学んでこなかった者は、これからどうするべきなのか。そして、文系人間の存在意義はどこにあるのでしょうか。
そんな特殊な戦後昭和の「常識」が、実はまったく通用しないことは、1990年代後半から多くの人が気づいてきたのだと思います。しかし、変化のスピードは遅く、ようやくあらゆるビジネスで数学的思考の重要性が認識されて、そこにデジタル化の波が重なってきたのです。 こうして考えてみると、文系の牙城のように思われていた金融業で理系のトップが誕生することも、ごく当然のことなのでしょう。そもそも、数学的思考ができなければ、金融ビジネスは成り立ちません。
したがって、いま多くのビジネス現場で数学的思考が求められるのは、ある意味「普通の状態」になったともいえるのです。
この「論理性」というのは、まぎれもなく数学的思考の根幹にあるはずです。ところが、文系理系を問わずに、そうした思考がおこなわれていないことは多々あると思います。 なぜ、そんなことがいまだに起きるのかを追求していけば、それだけで1冊の本になるでしょう。実際に、名門企業でも数字の帳尻合わせのために「なんとかしろ」と経営者がメールなどで迫ったことが話題になりました ★ 4。 しかし、本書ではその原因究明には深入りしません。ただし、ビジネス現場の日常で起きているちょっとしたやりとりのなかにも「数学的な思考」の大切さが潜んでいることや、それがついつい忘れられがちになることを見ていこうと思います。
そこで、「数学的に書く・話す」ということの本質を学ぶために、数学者の視点で世の中を見るとどうなるか、というお話を次章では読んでいただくことになります。 さて、どんな世界が出てくるのでしょうか。
数学がわからなくなったときに、学生の頭にもっとも浮かぶ疑問は「なぜ、こんなことを学ぶのか?」ということではないでしょうか。
つまり、1つの定理や公式をどう捉えるかという説明もさまざまなのですが、ぜひその意味を「味わって」ほしいのです。単に暗記するのは、味わうことなく「飲み込む」ことと一緒です。 それでは、おなか一杯になるだけで、数学的思考の本質はわかりません。 味わってみれば、「意外と甘かった」「やっぱり苦かった」と人によって感じ方はさまざまでしょう。しかし、数字と記号の羅列の背後にある意味を味わうことは、きっと私たちの思考を豊かにしてくれると思います。
本書では、現在仕事をしたり、毎日生活しているなかで数学がどのようにかかわっているかを明らかにしていこうとします。そういうわけで、まず数列についての実践例を考えてみたいのですが、これについては「鉄板」ともいえるケースがあります。 それは「金利」です。
それは、ビジネスの世界においてデータの分析をおこない、戦略に反映させることが増えてきたことと関係している。 職場においてデジタル化が進行していくことで、さまざまなデータの可視化がはかられるようになった。そうなると、当然のように対象となるデータ量も増えていく。
多くのものに使えるスーパーツール・数学のなかでは、いったん数として捉えたあとはそれが何を表していたのかは考えません。 同じ次元のベクトルは「数学としては」加えてもよい。
ちょっといいすぎの部分もあるとは思っているのですが、確率は量子力学の見方を備えているといわれています。原子や電子など非常に小さいものを目で見てしまった瞬間、つまり光にあたってしまうと、状況が変わってしまうということが起きる。だから、観察しようと思ってもできない。物理学なのに、観察できないものを考えるという神業的なことをやっているのが量子力学です。 確率も現実にはまだ起きていないことを考えるという点で共通するところがあるわけです。
加えて、志望校への合格確率20% という数字を見た受験生が「このままでは不合格」だと悟り、奮起して、猛勉強を始め、成績が上がってしまえば、合格確率が変わってしまうというようなことがあるわけです。そうした性格をもつ分野ですから、数学研究者の間でも、確率については議論が巻き起こることもしばしばで、どこか確率の話を信用できないと感じている方もけっこういます。現実に起きていないことを議論するわけですから、山本がいうように、人間の願望や欲求といった、エモーショナルな部分が関係している学問といっていいかもしれません。
どうして、「限りなくゼロに近づける」というのが直感的にわかりにくいのか? と感じたときに思い出すのが「アキレスと亀」の話である。 アキレスは亀の10倍速いとしよう。そしてアキレスは亀の100m後ろからスタートする。当然前をゆったり歩く亀をどこかで追い越すと思うのだが、100m走ったときには、亀は10m先にいる。 さらに10m走ると亀は1m先にいる。また1m先に行くと、亀は10cm先にいる。 というわけで、アキレスは亀に永遠に追いつけないというパラドックスである。
数学は、あるところから急速に概念的になっていく。概念的というのは「可視化しにくい」とも言い換えられるだろう。
そして、微分と対になるのが積分である。では、積分はどのように定義されてるのかというと、実にあっけない。 微分してf(x)になる関数をf(x)の不定積分という これを読めば、「つまり微分の逆なんだな」と気づくだろう。「積分することは微分することの逆の計算」と書かれているし、微分を理解すれば、積分の問題を解くことはさほど困難ではないだろう。
こうしたところを「スッと」受け入れるかどうかが、数学的センスの分かれ目になるのではないかと思っています。「スッと受け入れられない」「引っかかった」部分を意識し理解したうえで、ビジネスや生活のなかで、数学が使われているケースを見ると、数学を専門としていない人にとってまず必要なのは「数の世界に対する見通し」なのだというのがわかります。 問題を解くこと、グラフを書くことではなく、「こういう性格の数でできているんだ、だからこういう結果になるんだ」ということが理解できれば、ひとまずよいのではないかと考えるようになりました。
数というのは、無機的に見えますが、実は生き物のように振舞っているように感じます。そのように数の世界を見ていけるようにすることが、数学を学ぶ上で大切なことではないでしょうか。
あらためて見ると、数学とは世の中で起きることを「数学という窓」から見直していく技法であるということがわかると思います。
ところが実際には、本当にまったく新しい発想が必要な数学の問題はほとんどありません。大半は「わかっていることを全部列挙」すればそのなかに方法が書いてあると思っていいでしょう。そのためには、細かく分析し、それを表現すること=数学的に書いてみる=論理的な表現が大きな力を与えてくれるのです ★ 1。
受験勉強のような与えられた問題を解くことは、極端にいえばコンピュータでもできます。AIは何かを「理解している」とはいえないのですが、そんなものでもできるようなことは、人間の仕事ではなくなってくる ★ 3。そのときに求められるのは「問題を発見する力」なのです。
日本人は論理的思考が苦手である。 このことが真実であるかを検証するのは大変難しいでしょう。もちろん自分の身近な経験や、どこかでちらりと読んだ論考をもとに意見をいう人もいます。残念なことにその議論自体があまり論理的になるとは限らないようです。
『学問のすすめ』は冒頭が有名ですが、実は一番最後に味のあることを書いています。 「人にして人を毛嫌いするなかれ」 この最終章は「人望論」と題され、ことに人との交わりの大切さを説いています。
日本人が論理的に考えるうえでの一番の壁は、個々の能力ではなくオープンな議論を避けてしまう風土なのでしょうか。だとすれば、その原因は1人ひとりの意識と行動の問題に求められるのかもしれません。
筆者(曽布川)は長く国立大学の教員養成学部に勤め、小中高の算数・数学を教えるバックグラウンドとしての数学を教えてきた。その間、つねに「なんのために数学を学ぶ必要があるのか」という根源的な問いと向き合ってきた。特に「数学ができる人は理系、できない人は文系」という妙な発想から発展した「文系には数学は要らない」という強固な意見にどう立ち向かうべきなのかは大変悩ましいものであった。
しかし、今世紀に入ってからは、「数学を学んだ人は所得が多い」という研究結果も出るなど、数学に対する人々の見方が「自分が得意かどうかは別として、多くの人にとって少なくとも不要なものではない」というふうに変わってきたような気がする。
曽布川拓也(そぶかわ・たくや) 1992年慶應義塾大学大学院理工学研究科後期博士課程修了。博士(理学)。高校数学教員を経て岡山大学教育学部に21年間勤務の後、2014年4月より早稲田大学グローバルエデュケーションセンター教授。研究分野は函数空間論、実函数論、数学教育。専門の数学を講じるほか、高校まで数学を十分に学んで来なかった学生のための、単なるリメディアル教育を超えたフルオンデマンド講義「数学基礎プラス」シリーズの一翼を担う。一方で「ロジカルシンキング入門」「英語と数学の読み方」といった講義も担当し、「論理」「英語」「データサイエンス」「情報」などが日本人の一般教養になることを目指す。著書に『基本 線形代数』『基本 微分方程式』『演習と応用 微分方程式』(いずれも共著、サイエンス社)がある。
山本直人(やまもと・なおと) 1986年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同年博報堂入社。コピーライター、主席研究員、ブランドコンサルタント、人事局ディレクターを経て2004年9月独立。多くの企業にてマーケティング、ブランディング、および人材育成トレーニングをおこなう。2006年より青山学院大学経営学部マーケティング学科非常勤講師としてキャリア開発、マーケティング、メディア論等を担当。著書に『グッドキャリア』『マーケティング企画技術』(以上、東洋経済新報社)、『50歳の衝撃』(日経BP)、『世代論のワナ』(新潮社)他多数。
Posted by ブクログ
題名に「文系の人も使える!」と付いている通り、数列、対数、ベクトル、確率、行列、微分・積分等、高校で習う数学の単元について日常生活の事例を交えながら楽しく学べ(復習でき)ます。難しい数式は出ませんのでサラっと読めちゃいます。ただ、ちょっと物足りないと感じる方がいるかも。。。
Posted by ブクログ
p.27 「正しいこと」を見つけるには、誰もが理解できることを積み重ねて、冷静に論理的に考えなければなりません。
p.208
•問題を明確にし、目標を はっきり立てること
•状況を分析し、それを整理すること
•使えるツールは何であるかを確認し、その利用の方法を考えること
•行動の戦略(ストラテジー)を立てて実行すること
そしてそれを整理するのにもっとも適しているのが、
論理的に書きだしてみる