アンドレジッドのレビュー一覧
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地の糧
著:アンドレ・ジッド
訳:今 日出海
出版社:新潮社
新潮文庫 シ 2 5
見城徹氏の本を読み返していると、「地の糧」のおすすめがあったので、手にとりました。2023年に再版があったことも、調べていくうちに知りました。難解な書であるかとおもい、ちょっとたじろきました。
あとがきに、欲望解放の書とあります。主人公の心境が変わっていく姿、そして、旅。旅に出るたびに、主人公は変わっていく。
頭で覚えたものを忘れる旅、ナタナエルには、あらゆる書を焼いてしまえといっている。過去の自分から離別ととらえました
糧よ、私はお前を待ち望んでいる、と3度叫んでいる。
飢えは、半端なところで、たたず -
Posted by ブクログ
再読。前回は感想を書いていませんでした。うっかり。
ナタナエルに語りかける場面から始まる。
彼の体験談(旅の話)やそこから辿り着いた思想をナタナエルに伝える。
旅に行ったことが瑞々しく鮮明に表現されている。様々な種類の果実が出てきた。食べると酔う熟れた葡萄とか。甘いジャム食べたり。美味しそう。明日の朝は葡萄のジャムをパンに塗ろう。
彼は知覚過敏なのでしょうか、果実が冷たくて歯が痛いと言っていました笑笑(p94)違ったらごめんなさい笑
ただ、地名の名前が書かれていても私は分からないので、その都度検索をして、追体験出来るように工夫しなければならなかった。また、知らない漢字も多く難しかった。勉強に -
Posted by ブクログ
ネタバレ祖母の家にあったので読んでみました。
フランス文学だけあって難しかったですが
アリサの
「死ぬってものはかえって近づけてくれるものだと思う。生きているうちに離れていたものを近づけてくれるもの」
その文章に惚れました。
この文章から彼女は心底ジェロームを愛してたのだなと感じました。
彼女は母親の不倫などで徳を積むことばかりを考え妹の幸せすら願った。けれど本心はジェロームへの恋のために徳を積もうとしてたかもしれない。
最後の日記には彼に当ててる文章が多く神ではなくジェロームを求めてることがわかり胸が痛くなりました。
彼女は狭き門ですら彼と行こうとも考えてもいました。
亡くなった彼女は離れていたもの -
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ネタバレ昔に書かれた作品で、読みにくいかなと思っていたがそんなことはなかった。
それと、名著ということもあるのか、内容は共感できる文章が多かった。
書くと長くなるので全てを載せないが、特に共感できたのはこれだ。
「 おそらくそれは、その幸福がいかにも実際的なものであり、たやすく手にはいり、しかも《注文どおり》にできているために、それが魂をしめつけ、窒息させるように思われる」
自分自身、こんなことで喜んでいいのかと生きていて感じることがあり、アリサと同じく、最高の歓喜を求めていたのだ。それを見つけるのは、正に、"狭き門"だけど。
でも、そんなものばっかり求めていると、アリサ同様身 -
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ネタバレアリサの美しさ、挙動、そのすべてが繊細なガラス細工のように描かれている。本当に、主に導かれるかのように、天上に召されてしまった。幸福に手を伸ばすこともできたろうに、そうしなかったアリサ。ジェロームを思うと、ジュリエットを思うと、まぁなんとも言えない複雑な思いになるのだけれど、きっとアリサは母の不義を自らの原罪のように感じてしまったのではあるまいか。私はキリスト教徒ではないのではっきりとしたことはわからないがやはりりっぱだったと思わずにはいられない。そして今まで興味を持てなかったヨーロッパ庭園の美しさの片鱗を垣間見ることができた。華やかな表面だけを見ていたが、そこには華やかさと喜びとともに、やっ
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“力を尽くして狭き門より入れ”
愛とは何か、を深く考察させられた作品でした。
ただ、肉体は決して交わらないが、互いを常に思い合うプラトニックな愛で、狭き門へと入ることを試みたアリサとジェロームは一体真実の愛、そして幸福を手に入れられたのでしょうか。
実際に読んで考えてみて、答えは否だと思います。
一方、好きではない人と結婚致しましたが、子を作り、実世界を真剣に生きているアリサの妹ジュリエットは非常に魅力的で幸福に暮らしています。
この作品の主題に対極的に書かれていると考える、D・H・ローレンスのチャタレイ夫人の恋人では、むしろ肉体的な愛を称揚されておりますが、それは事実、生物として生きている人 -
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ジッドの生育歴や人柄とよく重ねられて作品が語られるが、ちっともそんなものとは関係なく、彼一人が考え、向き合ったものが言葉として語りだされている。
作品の発表にとても年月を要するのも十分納得できる。真実を書くということは、生半可な覚悟ではできない。言葉では真理を捉えきることができないから。
これほど、キリストの言葉をその教義を超えてそのまま受け取れているひとのように感じる。彼は決してキリストの教えを捨てていない。真理は捨てることなどできない。
愛とは、すべての人を自分と同じように愛せなければ、それはほんとうの愛ではない。相手を堕落させるものなら、それは愛ではない。そこへの門は誰に対しても開かれて -
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先に『女の学校』『ロベール』を読んでおけばよかつた。
ひとつの家族のそれぞれから描いた一連の作品の中でも、娘からの書簡といふ形式である。
社会的には女性のどうこうといふもののやうであるが、それ以上にひとを愛するといふ彼が生涯通じて求め続けたひとつの形であつたに違ひない。
ひとが愛しあふと結婚して家庭をもつ。それが彼には不思議で仕方なかつたのだ。さうでなくてもひとを愛し生きてゆける。
誰かを愛することと、結婚して一緒に暮らすといふことは別のことなのだ。彼の描く文脈の中でボードレールを眺めると、『旅へのいざなひ』や『戀人の死』に描かれるたゆみない愛への渇望が呼び起される。
与へ続けることでしか満た -
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「これ神は我らの為に勝りたるものを備へ給ひし故に、彼らも我らと偕ならざれば、全うせらるる事なきなり。」
(ヘブル書11:40)
この聖句は、比類ない「青春の書」、ジッドの『狭き門』において、アリサが従弟ジェロームに残して去った、最後の言葉である。この書を読まれた読者諸氏は多かろうが、ここでの恋愛経過は19世紀的どころか、現実に存在し得ない類のものである。悲劇的な結末を迎えるが、これは実に読者を陶酔させ、恍惚境へと誘い入れる。
女主人公アリサがここでは聖女のごとく、あまりにも美しく描かれている。この小説の主人公であり物語の語り手でもあるジェロー