阿満利麿のレビュー一覧
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日本人が「無宗教」を標榜するのは、「創唱宗教」に対して無関心なだけで、「自然宗教」は信奉していることが多い。そして、日本人が「創唱宗教」に関心を持たないのは、現実主義的な儒教の普及と、葬式仏教による死後への安心感によって生まれた日常主義(あるいは「浮き世」の観念)が、日常と緊張関係を持つ創唱仏教と相容れなかったためである。
丸山の「日本の思想」と同じくらい勉強になる本だった。下手な歴史書よりも、こういう平凡な人々の歴史が知れる本が好きだ。
それにしても、人の宗教観なんてものは、明治のゴタゴタのような、権力者が作った構造のもとで、いとも簡単に変わってしまうのだと思うと恐ろしい。 -
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大学に入る際に読まされたがあんまり内容を覚えていなかったので再読。
宗教学や民俗学に興味を持ち始めた今現在読んだらとても面白かったし幾つかの発見もあったので本は読みたいと思ったタイミングで読むのが一番と再認識させられた。
「創唱宗教」と「自然宗教」の違いや歴史を追っていくなかでそもそもこの括りを私たちの中で曖昧にしているからこそ祭や風習を楽しむのに「無宗教」という言葉を使うのではないかとこの本を読んで感じた。ただ、これらの宗教を雑に纏めてしまうことに対して仕方のないことなのかもしれないなとも思う。それは多くの物事に対して細かいところまで区別し主張するのにはそれに対するプライドやこだわりのような -
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結論から言うと、浄土宗のみならず真宗の方も読んでほしい。法然上人がお念仏一つといわれたことの勢いと強さを『選択本願念仏集』から読むというか感じる本。
本の言葉そのままではないが、自分の言葉で書く。
法然上人は、大悲(衆生を救うという仏の慈悲)は必ずあるはずだ、それは今自分にも届いているはずだ、どうしても三学による仏法を求め続けられない自分にも届くはずなんだと「信じて」多くのお経を読んでいかれる。そして「彼の佛願に順ずるが故に」にたどり着かれる。
自分は、「信じる」話が好きではない。科学的ではないからだ。それはどうしても、その人が勝手に信じているだけではないかと思うのだ。それは自分が冷た -
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日本人の無宗教の由来を徹底的に掘り下げている。その中で、社会に無宗教(自然宗教)がもたらす安定性と危険性をえぐり出した力作である。最終章の沖縄の離島の信仰と真宗の信仰の事例は心打たれる「回心」論である。
・自然宗教は創唱宗教のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な教化手段を持っているといえるのであり、人々もそうした年中行事をくり返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができるのである。
・創唱宗教への恐怖心とは、厳密に言えば、それらの宗教の教えが怖いのではなく、その前提である人生を疑ったり否定せざるを得ない営みへのおそれとい -
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日本人はなぜ無宗教なのか
タイトルと著者の阿満利麿先生に仏教を教わったことのある自分としては、非常に内容が頭に入ってくる良書だと思いました。
宗教を「自然宗教」と「創唱宗教」の二つに分けて考えることから始まり、「無宗教」というのはその二つの間に属するような、折衷案の言葉である。
ムラ単位で存在していた排他的な自然宗教が仏教の広まりや、生活水準の向上などで、他のムラとのつながりが増えたり、現世を享楽的に生きていこうとする考えと結びついたりしながら、自然宗教が世俗化していった。
自然宗教の世俗化とは、一例をあげるならば「葬式仏教」のようなものである。しかし仏教は本来、死者に対して葬儀を行い、お墓を -
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2014年99冊目。(再読)
「絶望」は「自己愛」から生まれる。
自己主張が叶わないところに生まれる。
完全に独立した自己「エゴ・セルフ」から、見えない繋がりも含めた無数の因・縁を感じる「エコ・セルフ」にシフトする必要があると説く。
私たちは「凡夫」であるという謙虚さが、末世の時代でも絶望を乗り越える力を与えてくれる。
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2012年12冊目。(2012年2月12日)
絶望は自己愛から生まれる。
その絶望を希望に転換する方法を説く。
曰く、
■自らが「凡夫」であることを認める
■因縁果の無数の繋がりの中の自分を自覚し、独立した自我という考え方をなくす( -
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ネタバレ日本人の無宗教観の理由を考える書。
近代化の過程で、国家神道が宗教ではなく国家祭祀であるという名目の反面、宗教は心にとどめるもので社会性を持つ宗教(キリスト教など筆者は創唱宗教という)は「信教の自由」に反するとした。
また、近代の国家神道をつくる過程で多くの神社の再編統合により縮小された結果人々の親しみのある神の多くは、国家の正統のものではないと見なされ、よき臣民たるには国家神道を尊重し、実質「無宗教」性が要請された。それが残っている。
一方で筆者はムラ社会からの日常主義をこの無宗教性に作用したという。
一神教などは時に国家権力と緊張をもたらすが、ムラ社会の日常主義は、日常生活に問題を