阿満利麿のレビュー一覧
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宗教について深く考えたことがなかったので
良い足がかりになると感じました。
以下メモがわり。
著者は自然発生した民間信仰,民俗宗教とも呼ばれる「自然宗教」と
教団,教祖,経典を有する(キリスト教,仏教のような)「創唱宗教」と
を分けて考えている。
日本人のいう「無宗教」は自然宗教のことをさし、
無神論のように、論理を尽くした宗教の全面否定ではないと述べている。
宗教がもともと与えてくれた「人生の意義」や「死後の安心」について
時代が進むにつれて代替品が現れたことが無宗教の心理の形成の準備となった。
人生の意義については、室町時代の儒教の教え,さらに江戸時代の「浮き世」という世界観から。
死 -
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ネタバレ宗教には「自然宗教」「創唱宗教」とに分かれる。あなたの宗教は何かと聞かれ無宗教と答えると人間であることを否定することになる。無宗教という言葉は実は自然宗教をさしており、日本列島に属しているので無宗教という言葉で済ますことができる。初詣に80百万人も出かけるのは日本人の多くが自然宗教の信者であるから。お盆のときに大混雑という苦行の中、多数の人々が故郷に帰る。
では自然宗教とは何かというとご先祖様を大切にする気持ちやむらの鎮守にたいする敬虔な心。人は死ねば一定期間子孫の妻子を受けることでご先祖になることが信じられているし、やがて村の神様ともなりときには孫となて生まれ変わることができる。盆に帰省する -
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法然の説く浄土宗の入門書であるが、宗教そのものにあまり関わる機会がなかった人向けに書かれている。阿満氏は冒頭で、「あの世」の実在を信じなくて久しい現代の文明社会においてなお、なぜ宗教が必要かを述べる。
曰く、人は物事に「意味」づけを求めるものであり、それは親しい人の死や自らの不治の病という「納得」が容易でない不幸に対しても同様である。そこで、生と死、幸福と不幸といった人間の営みに「納得」を与える「物語」が求められ、宗教がこれにあたっているのだという。この考え方には同意できる。
浄土宗の与える「物語」のうち私なりに「納得」感が得られたのは、「死後は平等」という浄土の姿と、平等であらんが故に -
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「宗教は国家を超えられるか」副題は近代日本の検証という本である。
第1章 古式とタブー、第2章 つくられた「ナショナル・アイデンティティー」、第3章 現世主義と云う内容で、明治国家が日本人を臣民化するのに腐心してきたかという意図、プロセスが解明されている。
また、第4章は「国家を超える」ということで、幸徳事件を参照しながら国家権力の陰湿さを説く。
最後の西谷修氏の解説「阿満利麿の求道」で、ジョルジュ・バタイユ、ピエール・ルジャンドルの考え方との比喩が面白い。
ただ単なる、日本国で起きている宗教と国家との関係性ではなく、阿満氏の普遍的なアプローチが感じられる著作でありました。 -
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人間とは、限界状況に近づくほど意味を求める存在であり、だからこそ人々にはひとつの主観的事実としての宗教が求められると著書に述べられています。日本では無宗教の方がむしろ普通であることのように思われますが、大切な人を亡くし、死後の世界を考えるにつけ、今をどう生きるべきかを深く考えさせられます。それを宗教と呼ぶのか分かりませんが、ひとつの物語=宗教としての親鸞の教えに興味を持ち、本書を手にとってみました。
人の心にある我執や我欲は人間の性であり、煩悩に支配されているもの。親鸞は、そんな自分のダメなところを素直に認めながら、法然との出会いによって念仏の教えに遭い、「信心(まことのこころ)」を説いたそ -
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[ 内容 ]
私たち日本人は、宗教について浅薄な知識しかもたぬままに「無宗教」を自認しがちだ。
だが、信仰を得ることで精神的に豊かな暮らしを営む人びとも少なくない。
はたして真の宗教心とはどんな生き方をひらくものだろうか?
本書は、日本人に最も親しまれてきた宗教書『歎異抄』を、無宗教者の視点から読み解くことで、無力な自己が自由自在の精神をつかむ過程を明らかにし、「宗教とはなにか」に簡明率直に答える。
宗教に関心を抱きながらも距離を感じてしまう現代人必読の入門書。
[ 目次 ]
第1章 宗教はなぜ「難しい」のか―『歎異抄』を読み解くために
第2章 宗教は人を「幸せ」にするか―三つの問答(打算と -
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[ 内容 ]
いまや日本人は自分たちを「無宗教」と規定してなんら怪しむことがない。
しかしほんとうに無宗教なのだろうか?
日本人には神仏とともに生きた長い伝統がある。
それなのになぜ「無宗教」を標榜し、特定宗派を怖れるのか?
著者は民族の心性の歴史にその由来を尋ね、また近代化の過程にその理由を探る。
そして、現代の日本人にあらためて宗教の意味を問いかける。
[ 目次 ]
第1章 「無宗教」の中身
第2章 「無宗教」の歴史
第3章 痩せた宗教観
第4章 日常主義と宗教
第5章 墓のない村
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆ -
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1994年に出版された『国家主義を超える』が原題でそれを文庫本の形式で再販したのがこの作品。
明治維新から始まる天皇を中心とした国家構造に神道が「非宗教」という宣伝を伴って国民に対して教化・強制されたことを通じて、昔から土着的に存在していた日本人の宗教観を破壊したという点を根本に置きながら、信教の自由そのものが近代日本においていかに打ち砕かれてきたかを論じます。
特に印象的な指摘は、ヨーロッパを中心にギリシャ時代から脈々と受け継がれてきた政治体制を人体にたとえる有機体的見解は王権神授説や専制君主制が人民による革命の力で打破されたことで近代に突入した一方で、日本はそれとは真逆に近代に突入 -
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日本人は無宗教だと言われている。実際には葬式等で神社仏閣等でお世話になるので薄らと神様とか仏様という形の本著でいう日本ならではの宗教には皆入っていることだろう。それらも自然宗教(土地や祖霊、家の神々などを自然に敬う等)の一部なのであろう。同時に日本人は創唱宗教(キリスト教や仏教、イスラム教などの教祖や教義に基づく)には関心が無いだけであり、創唱宗教側から見たときに日本人は無宗宗教と見られるのであろう。
さて、私たちは日本人として生まれた時に土地や家など既に自然宗教の中に生きている。創唱宗教へ親が何かに熱心に信仰しているものもあるだろう。それらは構わない。それらは親の信仰であり子に強制されるのは -
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「専修念仏」の立場を説いた法然の思想について、著者がみずからの解釈を提示している本です。
著者は、親鸞にくらべて徹底性を欠くと評価されることのある法然のことばを検討し、「対機説法」という観点からその解釈を試みています。また、武内義範や田村圓澄らの解釈を参照しつつ、法然が世俗的倫理とは異なる立場における倫理を示していたと主張しています。著者は、念仏を唱えることにおいて阿弥陀仏が私のなかで働くことになると考えており、そのうえで「念仏に出逢う」ということが、みずからの悪業に気づき懺悔をおこなうことによって開始されると述べます。「出家」とは、そうした念仏と出逢い阿弥陀仏の悲願がみずからにおいて実現さ