阿満利麿のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
日本人は無宗教、この言葉に多少の後ろめたさと違和感を感じていたが、本書を読んでこういう感情がすっきり整理できた。自分は無宗教だという人は、キリスト教やイスラム教のような「創唱宗教」ではなく、「八百万の神々」「山岳や巨石、大樹への畏怖の念」「お天道様が見ている」といった観念を基盤とした「自然宗教」の信仰者なのだ。一方、明治維新後の政策で国家統一のために天皇を神とし、神道と融合した「新宗教を考案」し、それまでの自然宗教を捨て去ろうとしたことが、現代の宗教を意識しない状況を作り出したと言え、こういった背景を理解できたことで、外国人の質問にも答えられそう。
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Posted by ブクログ
本の題名と内容は一致していない。
第四章あたりで、宗教を必要としないで「納得」していく人もいる、という結論が出ているし、「なぜ宗教を必要とするのか」は中心的な議題ではなさそうと感じた。
五章六章は、「どのようにすれば宗教と出会えるか」について。
「はじめに」で書いてあるけれど
ムラの消失や「自然宗教」の衰弱の中で、「無宗教」ではやっていけない。そんな中でどのような道を選ぶか、その一つの選択肢としての宗教の紹介
というのがこの本の内容かと。
(ほかの選択肢として、「無神論」、「無協会派」、「道」、文学、老荘思想、哲学などがあげてある)
(「このような、宗教の代わりになる文化が発達したところでは、なにも、小難しい宗教を選択する必要はなかったともいえます。」p17) -
Posted by ブクログ
宗教について深く考えたことがなかったので
良い足がかりになると感じました。
以下メモがわり。
著者は自然発生した民間信仰,民俗宗教とも呼ばれる「自然宗教」と
教団,教祖,経典を有する(キリスト教,仏教のような)「創唱宗教」と
を分けて考えている。
日本人のいう「無宗教」は自然宗教のことをさし、
無神論のように、論理を尽くした宗教の全面否定ではないと述べている。
宗教がもともと与えてくれた「人生の意義」や「死後の安心」について
時代が進むにつれて代替品が現れたことが無宗教の心理の形成の準備となった。
人生の意義については、室町時代の儒教の教え,さらに江戸時代の「浮き世」という世界観から。
死後の不安に対しては、葬式の時のみ仏教のお世話になる葬式仏教という形式による回避。
その上で、近代化と国家神道の強引な押し付けによって、現在の日本人の、自分は無宗教である、という心理が生まれたらしい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ宗教には「自然宗教」「創唱宗教」とに分かれる。あなたの宗教は何かと聞かれ無宗教と答えると人間であることを否定することになる。無宗教という言葉は実は自然宗教をさしており、日本列島に属しているので無宗教という言葉で済ますことができる。初詣に80百万人も出かけるのは日本人の多くが自然宗教の信者であるから。お盆のときに大混雑という苦行の中、多数の人々が故郷に帰る。
では自然宗教とは何かというとご先祖様を大切にする気持ちやむらの鎮守にたいする敬虔な心。人は死ねば一定期間子孫の妻子を受けることでご先祖になることが信じられているし、やがて村の神様ともなりときには孫となて生まれ変わることができる。盆に帰省するのはもともと先祖たちと交歓するため。
我々が無宗教を口にする要因の一つが習慣となってしまった宗教は宗教ではないという思い込みがある。神道は自然宗教を基盤として生まれたが自然宗教そのものではない。中国の思想によって再構築されたものであり、創唱宗教と自然宗教の中間にある。 -
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法然の説く浄土宗の入門書であるが、宗教そのものにあまり関わる機会がなかった人向けに書かれている。阿満氏は冒頭で、「あの世」の実在を信じなくて久しい現代の文明社会においてなお、なぜ宗教が必要かを述べる。
曰く、人は物事に「意味」づけを求めるものであり、それは親しい人の死や自らの不治の病という「納得」が容易でない不幸に対しても同様である。そこで、生と死、幸福と不幸といった人間の営みに「納得」を与える「物語」が求められ、宗教がこれにあたっているのだという。この考え方には同意できる。
浄土宗の与える「物語」のうち私なりに「納得」感が得られたのは、「死後は平等」という浄土の姿と、平等であらんが故に成仏の条件を「為心念仏」という極めて容易な行為に求めた合理性である。
「念仏さえ唱えれば成仏」という教えは、浄土宗が爆発的に広まる一因となったが、支持を得んがための大衆化(ポピュリズム)とも見られかねない。しかし、念仏をもって死後の平等が約束されることにより、末期としか思えない現世であっても、前を向いて歩いていこうという気持ちを呼び起こす。来世の「物語」が現世の人に生きる「意味」を与えることこそが、法然の教えの魅力であろうと思う。 -
Posted by ブクログ
「宗教は国家を超えられるか」副題は近代日本の検証という本である。
第1章 古式とタブー、第2章 つくられた「ナショナル・アイデンティティー」、第3章 現世主義と云う内容で、明治国家が日本人を臣民化するのに腐心してきたかという意図、プロセスが解明されている。
また、第4章は「国家を超える」ということで、幸徳事件を参照しながら国家権力の陰湿さを説く。
最後の西谷修氏の解説「阿満利麿の求道」で、ジョルジュ・バタイユ、ピエール・ルジャンドルの考え方との比喩が面白い。
ただ単なる、日本国で起きている宗教と国家との関係性ではなく、阿満氏の普遍的なアプローチが感じられる著作でありました。 -
Posted by ブクログ
人間とは、限界状況に近づくほど意味を求める存在であり、だからこそ人々にはひとつの主観的事実としての宗教が求められると著書に述べられています。日本では無宗教の方がむしろ普通であることのように思われますが、大切な人を亡くし、死後の世界を考えるにつけ、今をどう生きるべきかを深く考えさせられます。それを宗教と呼ぶのか分かりませんが、ひとつの物語=宗教としての親鸞の教えに興味を持ち、本書を手にとってみました。
人の心にある我執や我欲は人間の性であり、煩悩に支配されているもの。親鸞は、そんな自分のダメなところを素直に認めながら、法然との出会いによって念仏の教えに遭い、「信心(まことのこころ)」を説いたそうです。
とはいうものの、親鸞は自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、不明確な事柄が多いなかで、阿満先生(実は自分の大学の学部の教授でした・・)の描いた親鸞像は非常に見事で、特に「信心」についての洞察は、悔いのないように生きていくうえでの原点を気付かせてくれます。
2011年は法然800回忌、親鸞750回忌に合わせての発行なのでしょうか、宗教については詳しくなくても、非常に分かりやすく書かれている点少しでも興味を持たれたら一読に値する良書だと思います。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
私たち日本人は、宗教について浅薄な知識しかもたぬままに「無宗教」を自認しがちだ。
だが、信仰を得ることで精神的に豊かな暮らしを営む人びとも少なくない。
はたして真の宗教心とはどんな生き方をひらくものだろうか?
本書は、日本人に最も親しまれてきた宗教書『歎異抄』を、無宗教者の視点から読み解くことで、無力な自己が自由自在の精神をつかむ過程を明らかにし、「宗教とはなにか」に簡明率直に答える。
宗教に関心を抱きながらも距離を感じてしまう現代人必読の入門書。
[ 目次 ]
第1章 宗教はなぜ「難しい」のか―『歎異抄』を読み解くために
第2章 宗教は人を「幸せ」にするか―三つの問答(打算と信心;エクスタシーと死の不安からの解放 ほか)
第3章 「無力な私」への目覚め―自己中心的思考と宗教(手段としての念仏;信じることと知ること ほか)
第4章 「常識」を超える宗教―親鸞から唯円へ伝えられた信心(救済の条件―阿弥陀仏の名を呼ぶという行為;善悪を超える ほか)
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