阿満利麿のレビュー一覧
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日本の仏教が、伝統的な自然信仰とのかかわりのなかで、どのように変容し、現在のかたちになっていったのかということを論じている本です。
民俗学における「異界」の観念にもとづいて地蔵信仰の意味を読み解き、僧侶の肉食妻帯において日本人の宗教へのかかわりを考察します。また、地獄の観念や葬式仏教などのテーマにかんしても、仏教の本来の思想からの逸脱と思える日本の信仰のありかたをしりぞけるのではなく、日本に土着の宗教的関心とつながっていることを明らかにしています。
おおむね本書の議論は、五来重や高取正男の宗教民俗学の成果に依拠しているようですが、単にそれらの研究を紹介するのではなく、現代の日本人の信仰のあ -
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ネタバレ○一方、「自然宗教」とは、「自然発生的」な宗教という意味です。自然を崇拝するという意味ではありません。「自然宗教の特色は、「創唱宗教」と比べるとはっきりします。つまり、教祖とよばれるような人はいないし、聖典にまとめられるような明確な教義もありません。たとえば、日本の「自然宗教」では、人は死ねば、一定期間子孫の祭祀を受けることによって「ご先祖」になることができるし、その「ご先祖」は、やがて孫や子となって生まれ変わってくるとか。このように、人は死んでも「ご先祖」になることができる、そして年中行事を通じて子孫と交流することが出来る、と信じられている所では、人は死後に大きな不安を抱くこともなく生きてい
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日本人の「無宗教」の意味を、歴史的経緯をたどりながら明らかにしています。
著者は、「創唱宗教」と「自然宗教」を区別します。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱え、それを信じる人たちによって構成される宗教のことを意味し、キリスト教や仏教、イスラム教などが該当します。他方「自然宗教」とは、特定の教祖をもたず、無意識に先祖たちによって受け継がれて現在にまでつづいている宗教のことを意味します。著者は、日本人が標榜する「無宗教」は、創唱宗教に対する無関心を意味していると考えます。
そのうえで著者は、日本人の宗教意識の低さを象徴する「葬式仏教」という形態がどのように生まれたのかを明らかにし、そ -
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「信心」(まことのこころ)を中心に、親鸞の生涯と思想をわかりやすく解説している本です。
本書では、親鸞の「信心」を唯識思想によって解釈した曾我量深の考えにしたがって解説がおこなわれています。唯識思想では、「迷い」の原因である「識」(心)について精緻な理論が展開されています。そこでは、法界から流れ出る教えを聞くことで「識」が「智慧」に転じる「聞薫習」が説かれます。そして著者は、阿弥陀仏の本願を「聞く」ことがまさに凡夫にとって「信心」を開発することにほかならないというのが、親鸞の教えだったと解しています。
さらに、「信心」を獲得することで、自分の心のなかに生じてくる善悪を引き受けながら阿弥陀仏 -
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120416父三回忌法要の日に 宗教と政治―相反する二つの精神
070609念仏法難八百年を考えるつどい
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国民の統合を前提とする近代国家は、人々の生活や文化のすみずみにまで関与し、そこに国家の意思を貫徹しようとする。しかし私たちは国家を相対化し、対抗する精神を必要とするのではないか―。近代天皇制において日本はどのように国民の「臣民化」をはかったのか。「国家神道」のもとに国民を統合しようとしてきた歴史は、いまの私たちにどんな課題をつきつけているのか。近代日本がつくりあげた文化的枠組みの構造と実態を、宗教という視点から再検討し、国家中心主義を超える道がどこに、どのように用意されていたかを -
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[ 内容 ]
宗教なんてインチキだ、騙されるのは弱い人間だからだ―「無宗教」を標榜する日本人は、たいていそう考える。
しかし、そんな「無宗教」者も、「本当の生き方」を真剣に模索しはじめたとき、また、人の死など身にあまる不条理を納得したいと願ったとき、無宗教ではいられなくなってくるのではないだろうか。
宗教に対する誤解にひとつずつ答え、そもそも宗教とはどういうものなのかを説き、「無宗教」から「信仰」へと踏みだす道すじを平易に語っていく一冊。
[ 目次 ]
第1章 死ねば「無」になる
第2章 「無宗教」を支える心
第3章 「無宗教」者の宗教批判
第4章 宗教への踏切板
第5章 「凡夫」という人間