阿満利麿のレビュー一覧

  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    [ 内容 ]
    いまや日本人は自分たちを「無宗教」と規定してなんら怪しむことがない。
    しかしほんとうに無宗教なのだろうか?
    日本人には神仏とともに生きた長い伝統がある。
    それなのになぜ「無宗教」を標榜し、特定宗派を怖れるのか?
    著者は民族の心性の歴史にその由来を尋ね、また近代化の過程にその理由を探る。
    そして、現代の日本人にあらためて宗教の意味を問いかける。

    [ 目次 ]
    第1章 「無宗教」の中身
    第2章 「無宗教」の歴史
    第3章 痩せた宗教観
    第4章 日常主義と宗教
    第5章 墓のない村

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

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    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

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    2014年10月27日
  • 宗教は国家を超えられるか ──近代日本の検証

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    1994年に出版された『国家主義を超える』が原題でそれを文庫本の形式で再販したのがこの作品。

    明治維新から始まる天皇を中心とした国家構造に神道が「非宗教」という宣伝を伴って国民に対して教化・強制されたことを通じて、昔から土着的に存在していた日本人の宗教観を破壊したという点を根本に置きながら、信教の自由そのものが近代日本においていかに打ち砕かれてきたかを論じます。

    特に印象的な指摘は、ヨーロッパを中心にギリシャ時代から脈々と受け継がれてきた政治体制を人体にたとえる有機体的見解は王権神授説や専制君主制が人民による革命の力で打破されたことで近代に突入した一方で、日本はそれとは真逆に近代に突入したときに政治体制が天皇を現人神として国家の中心にすえる有機体的見解が現れたことが大きな違いを生み、その結果が信教の自由という人権の根幹に関わる部分を破壊してしまったことのつながるとの部分です。

    八百万の神を信仰する気風のあった日本が、明治以前の日本に存在していた風習や伝統を明治政府にたくみ使われることによって天皇中心の絶対的構造が作り上げられるにいたったかを解説しています。廃仏毀釈、教育勅語、現世主義、朱子学、本居宣長、こうした点を中心に展開しています。

    宗教に対する理解や不気味さのようなものを現代に生きる人々が、オウム事件や新興宗教、靖国問題などを通じて信教とは何かを考え直す上でも参考になるところの多い本です。

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    2009年10月07日
  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    日本人は無宗教だと言われている。実際には葬式等で神社仏閣等でお世話になるので薄らと神様とか仏様という形の本著でいう日本ならではの宗教には皆入っていることだろう。それらも自然宗教(土地や祖霊、家の神々などを自然に敬う等)の一部なのであろう。同時に日本人は創唱宗教(キリスト教や仏教、イスラム教などの教祖や教義に基づく)には関心が無いだけであり、創唱宗教側から見たときに日本人は無宗宗教と見られるのであろう。
    さて、私たちは日本人として生まれた時に土地や家など既に自然宗教の中に生きている。創唱宗教へ親が何かに熱心に信仰しているものもあるだろう。それらは構わない。それらは親の信仰であり子に強制されるのは信仰では無い。子の判断で分別がわかった段階でそれを信仰するかを決めることが望ましいだろう。宗教を脅しや恐怖に縛るだけの信仰とはそれは逆にその信仰をする何かへ失礼だと思うのだ。
    日本人はアニミズム(自然信仰)として、ゲーム、推しやアニメ、アイドル、インフルエンサーなどに課金をする。これもコンテンツの宗教だろう。解釈を如何様にも広げ柔軟に捉えれば目の前に信仰する何かがいるのだ。それは飽きられ消えることもあるだろう。それは宗教でも同様であり、廃業して解散していく宗教は多い。
    宗教は気温や気候、場所によっても性質を大きく変える。日本は四季があり多様な文化が日本という海洋国家として機能しているからこそ、自然宗教が出来上がったのだ。
    今ある何かを不必要に強いられて信仰することはない。それは信仰ではなく虐待に入る。本当の信仰というのは引き寄せられるように自分の中から生まれるものなのだ。宗教という言葉に縛られることなく、日常という今を生き感謝出来ることが出来たとすればそれもまた立派なあなただけの宗教となり得るだろう。

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    2025年10月14日
  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    ネタバレ

     創唱宗教と自然宗教という概念はとても勉強になり、無宗教という言葉に対しても味方が変わった。
     天皇制という言葉がたびたび出てきたのは気になったが、、

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    2023年04月29日
  • 法然入門

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    「専修念仏」の立場を説いた法然の思想について、著者がみずからの解釈を提示している本です。

    著者は、親鸞にくらべて徹底性を欠くと評価されることのある法然のことばを検討し、「対機説法」という観点からその解釈を試みています。また、武内義範や田村圓澄らの解釈を参照しつつ、法然が世俗的倫理とは異なる立場における倫理を示していたと主張しています。著者は、念仏を唱えることにおいて阿弥陀仏が私のなかで働くことになると考えており、そのうえで「念仏に出逢う」ということが、みずからの悪業に気づき懺悔をおこなうことによって開始されると述べます。「出家」とは、そうした念仏と出逢い阿弥陀仏の悲願がみずからにおいて実現されることの「シンボル」であると主張しています。

    宗教への関心が希薄になってしまった現代に生きる人びとにとって専修念仏の教えがもつ意味をわかりやすく解説することが、本書のねらいだといってよいでしょう。そうした著者のねらいは十分に果たされていると考えますが、その一方で、法然の思想を彼の生きた時代のなかで解釈するという立場からは、やや逸脱している叙述があるのではないかという印象もいなめないように思います。

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    2020年02月29日
  • 仏教と日本人

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    日本の仏教が、伝統的な自然信仰とのかかわりのなかで、どのように変容し、現在のかたちになっていったのかということを論じている本です。

    民俗学における「異界」の観念にもとづいて地蔵信仰の意味を読み解き、僧侶の肉食妻帯において日本人の宗教へのかかわりを考察します。また、地獄の観念や葬式仏教などのテーマにかんしても、仏教の本来の思想からの逸脱と思える日本の信仰のありかたをしりぞけるのではなく、日本に土着の宗教的関心とつながっていることを明らかにしています。

    おおむね本書の議論は、五来重や高取正男の宗教民俗学の成果に依拠しているようですが、単にそれらの研究を紹介するのではなく、現代の日本人の信仰のありかたを特定の仏教思想に依拠して裁断することなく、そこに生きている信仰のかたちをありのままに見てとろうとする著者のスタンスに、共感をおぼえました。

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    2019年03月10日
  • 法然入門

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    親鸞よりも史料が少ないから、いろいろと書きづらいんだろうね。
    法然の言語の一貫性のなさあたりの記述は、「いやいやそれちょっと無理があるのでは?」という解釈が多かった。

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    2017年12月23日
  • 人はなぜ宗教を必要とするのか

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    ネタバレ

    ○一方、「自然宗教」とは、「自然発生的」な宗教という意味です。自然を崇拝するという意味ではありません。「自然宗教の特色は、「創唱宗教」と比べるとはっきりします。つまり、教祖とよばれるような人はいないし、聖典にまとめられるような明確な教義もありません。たとえば、日本の「自然宗教」では、人は死ねば、一定期間子孫の祭祀を受けることによって「ご先祖」になることができるし、その「ご先祖」は、やがて孫や子となって生まれ変わってくるとか。このように、人は死んでも「ご先祖」になることができる、そして年中行事を通じて子孫と交流することが出来る、と信じられている所では、人は死後に大きな不安を抱くこともなく生きていくことが出来る。

    ○日本人の言う「無宗教」は、無神論のようにけっして宗教の全面的否定ではないのです。むしろ無宗教を標榜する人は自然宗教のきわめて熱心な信者であることが多い。そして興味があるのは、こうした「無宗教」を標榜する多くの人が、創唱宗教には距離を置く傾向が強く、しばしば創唱宗教には無関心になりがちだということです。

    ○このようにムラの和を第一とする考え方に立つ以上、創唱宗教に関心をもつことは、ムラの和を乱す行為につながることになります。したがって普通は人々は先祖伝来の習わしの中で暮らす道を自然と選ぶことになり、無宗教になることが当然だということになる

    ○しかし、自然宗教がいつまで生き続けることが出来るのか、ということになると大いに疑問です。つまり、今まで通り、自分たちの精神生活を無宗教の一言ですますことは、だんだんと難しくなっているのではないかと思います。もしそうだとすると、無宗教に代わるなんらかの新しい精神生活のありかたを、模索する必要があるのではないでしょうか

    ○人はどのような考え方であれ、それによって人生の意義や死後の安心が納得できるのであれば、その考えに従うものなのです。死ねば無になる、というのも、一つの納得の仕方なのです。死ねば一切が無になる、ということが科学的だから、という方もいらっしゃるでしょうが、果たして科学的に証明できることがらでしょうか。

    ○明治の宗教哲学者で、親鸞の仏教を近代に甦らせた清沢満之とおいう人は、宗教と科学がぶつかる場合には、科学は科学の立場で、宗教は宗教の範囲において、それぞれが解決するように試みるべきだと述べています。

    ○つまり、地獄・極楽の問題は、今日ではもっぱら非科学的だと頭から決めつけて取り合わないということが一般的です。しかし、問わねばならないのは、どうして昔の人々がこのような地獄・極楽という世界を必要としたのか、ということでしょう。

    ○佐藤によると、自然の悠久に比べたとき、自己のあまりのはかなさに愕然とした人間が、その悲劇を自然との一体感によって越えようと努力するところに生まれる境涯が、風流にほかなりません。風流はときにもののあわれ、とか無常感ともよばれてきたと佐藤はいいます。

    ○現代社会が、思想・信条の自由を前提にする限り、またそれがこれからの国際社会の約束である限り、宗教に対する正確な理解が欠かせないことはいうまでもありません。自分が無宗教であっても、そしてもはや宗教入らないと高言していても、宗教がどのようなものであるのか、十分な知識と共感がなければ、宗教の信者との共存はもちろん、多様な価値観の持ち主たちとの共存も、むつかしいことになるでしょう。

    ○因縁話が他罰から自罰への切り替え点になっている、という指摘は重要です。私の見るところ、内省こそ、すべての宗教の出発点。自らの内部の悪や罪、無力を自覚することなしに、宗教的世界は開かれることはありません

    ○それは、インチキ宗教とそうでない宗教とのちがいは、その宗教に近づいてみて精神が明るくなれば真正の宗教であり、逆に精神が暗くなれば、間違いなくインチキ宗教だということです

    ○呪術は、願いごとの実現のためには、神仏であっても脅迫するのです。神仏を脅かしてでも自己の願望を遂げようとする、その飽くことのない欲望実現の精神こそ、呪術の本質なのです。そこには自己を内省する精神はありません。自己はなによりもかわいい存在であり、その欲望の追求にはなんの疑問も発せられません。ひたすら欲望の実現だけを目指す宗教では、やがて人々は欲望のぶつかり合いの中で疑心暗鬼に駆られてくるでしょう。

    ○しかし、すでにのべてきたように、宗教は非常の言葉に耳を傾けることから始まるのです。非常の言葉に耳を傾ける人は、常識の立場に踏みとどまっている人から見れば弱い人に映るだけでしょう。弱いという判断は、あくまでも常識が下すものです。

    ○耐えるだけの世界!それは苦しみの世界です。この忍土である世間を、どのように耐えていけばよいのか。移ろうことなく、動揺することのない、確固とした基盤が必要ではないのでしょうか。そうした基盤に足をおいて初めて、耐え難い世間も耐えてゆけるのではないか。こうして老人は、本当にたよりになるものを求めて長い遍歴の旅に出たのです

    ○死が宗教への踏切板になるのは、死によって鮮明となってくる人間の有限性や、そうした有限性を自覚することがないところに生じる種々の苦や悲劇に逢着し、そうした苦や悲劇から抜け出たい、と切実に希求する場合なのです。そもそも、宗教は、絶対的な救済の原理を提示するものです。死の問題も解決はするが、それがすべてではありません。むしろ死によって象徴される、人間の有限性に発する苦の解決にこそ、宗教の役割があるのです。つまり、死はそれだけでは宗教への十二分な踏切板にはならないとおいうことです。

    ○大切なことは、人がそれぞれに固有であるのは、ひとえにその人が背負っている「業縁」が個別であるからだ、ということなのです。

    ○日頃、常に忙しく動き回っていて、手持無沙汰が一番恐ろしい人は、どのような心持なのでしょうか。本当は、心を紛らわせる手段をもたずに、ひたすら独りでいることがのぞましいのですが。世間に従っていると、心は世俗の塵にまみれて、迷いがちとなりますし、人と交際すると、発する言葉も他人のことばかり気にして本心をあらわすこともありません。人と面白く戯れたと思っても、争いとなっていることもしばしば。恨んだと思うと喜んだり、心はなかなか一定しません。また、思惑がやたらにはたらいて、損得ばかりが気になることです。そうした様は、迷っている上に酔っているようなものであり、その酔いの中でさらに夢を見ているというに等しいものです。忙しく走り回っているかと思うと、呆然として大事なことを忘れてしまっている、これが人の常態というものなのです。ですから、大切なことは、まだ「まことの道」には通じてないとしても、心身を悩ます条件となるようなことから身を遠ざけて、静かにし、世事に関与することなく、心を静かに保つことなのです。

    ○これからの時代は、無宗教というだけでは十分な精神生活が展開できないのではないか、実際、自然宗教の基盤であったムラ社会が崩壊している今となれば、ますます、無宗教でやってゆくことは困難となるのではないか、その上で無宗教に代わる道へのステップを模索することにした。

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    2017年02月26日
  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    日本人の「無宗教」の意味を、歴史的経緯をたどりながら明らかにしています。

    著者は、「創唱宗教」と「自然宗教」を区別します。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱え、それを信じる人たちによって構成される宗教のことを意味し、キリスト教や仏教、イスラム教などが該当します。他方「自然宗教」とは、特定の教祖をもたず、無意識に先祖たちによって受け継がれて現在にまでつづいている宗教のことを意味します。著者は、日本人が標榜する「無宗教」は、創唱宗教に対する無関心を意味していると考えます。

    そのうえで著者は、日本人の宗教意識の低さを象徴する「葬式仏教」という形態がどのように生まれたのかを明らかにし、そこには日本人のうちに根づいた自然宗教の考え方が浸透していると論じています。元来は死者祭祀を重視しない仏教は、日本に伝来すると先祖祭祀に利用されるようになり、徳川時代に入ると寺請檀家制度が成立することで、「家」ごとに先祖の例を供養するという「葬式仏教」が定着しました。著者はこうした日本の仏教受容史のなかで、儒教の道徳思想からの影響や、現世享楽的な江戸の庶民の「浮き世」観などが果たした役割にも触れています。

    明治時代に入ると、「天皇崇拝」を中心とする「国家神道」のイデオロギーが整備されていきました。ただし政府は、近代国家の体裁を整えるために表向きは「信教の自由」を認めなければならず、「神道非宗教論」という戦略がとられることになります。また、島地黙来らの浄土真宗の僧侶が、宗教的真理と俗世の真理を区別する「真俗二諦」論によって、世俗生活では世間の支配者にしたがい世間の秩序を守り道徳を遵守する生き方を説きました。こうして真宗は明治政府の「神道非宗教論」を推進する大きな役割を果たすようになったのです。そのうえで明治政府は、国家神道のイデオロギーに基づいて全国の神社を「天皇崇拝」に取り込む「神社合祀令」を制定しました。

    著者は、身近で親しい名もないカミガミが信仰の対象からはずされ、地域に根づいた人々の信仰心が失われてしまったといいます。現代の痩せた宗教観はこうした歴史的経緯によってつくられたのです。著者は、地域に根づいた信仰を掘り起こす民俗学などの試みを参照しつつ、豊かな「無宗教」のあり方を取り戻す方途をさぐろうとしています。

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    2017年12月03日
  • 人はなぜ宗教を必要とするのか

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    『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)の姉妹編ということですが、前著が日本人の「無宗教」的宗教観の歴史的経緯をくわしく解説しているのに対して、本書は著者自身が考える「無宗教からの宗教」がストレートに語られているように思います。

    著者はとくに浄土宗・浄土真宗の「凡夫」という発想に共感を寄せており、その考えを現代の信仰をもたない人びとにもわかりやすく説明しようと試みています。

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    2017年12月03日
  • 人はなぜ宗教を必要とするのか

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    「日本人はなぜ無宗教なのか」に続く本。

    タイトルとは違い「なぜ宗教を必要とするのか」では
    なく、「無宗教と言われる日本人の宗教観」と「宗教心
    を持っているであろう日本人がこれから既存の宗教と
    どのように関わり合うか」について書かれた本と言える
    のではないか。

    「宗教」への道のりを示すガイドブック的内容でもある
    のだが、その役割を果たすには新書というボリューム
    では、圧倒的に足りないという気がする。

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    2015年01月05日
  • 親鸞

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    「信心」(まことのこころ)を中心に、親鸞の生涯と思想をわかりやすく解説している本です。

    本書では、親鸞の「信心」を唯識思想によって解釈した曾我量深の考えにしたがって解説がおこなわれています。唯識思想では、「迷い」の原因である「識」(心)について精緻な理論が展開されています。そこでは、法界から流れ出る教えを聞くことで「識」が「智慧」に転じる「聞薫習」が説かれます。そして著者は、阿弥陀仏の本願を「聞く」ことがまさに凡夫にとって「信心」を開発することにほかならないというのが、親鸞の教えだったと解しています。

    さらに、「信心」を獲得することで、自分の心のなかに生じてくる善悪を引き受けながら阿弥陀仏の事業に参加することが念仏者の生きがいになると述べられ、二種廻向論へのつながりが示されます。そして、必ずしも教団の形をとることのない、「信心」の「ともがら」の間に生まれる「宗教的倫理」の可能性にまで、説きおよんでいます。

    そのほか、84歳になって親鸞が直面しなければならなかった善鸞蘭義絶事件や末法観についても、比較的ていねいに解説がされています。

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    2017年12月03日
  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    新書というボリュームの関係もあってか、やや食い足りない印象は
    否めないが、日本人の宗教観について実に示唆に富む内容の本で
    あった。

    考えてみれば不思議な今の日本人の宗教観について、教わったり
    考えたりする機会が無いのは、実は歴史学において宗教をまともに
    取り扱って来なかったことの表れなのではないか、と思ったりも。

    無宗教と標榜する人でも全く宗教心のない人というのはごくわずか
    だろう。人は何か信仰を持っていないと生きていくことができない。

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    2013年12月14日
  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    なぜ日本人は無宗教なのか?
    その大きな問題について述べている一冊。

    儒教の流入、明治維新後に天皇を神格化するため・・・
    様々な影響で今の日本は”無宗教”となっている。
    しかしその”無宗教”というのは決して真の意味での”無神論者”という”無宗教”とは異なっているのだ。
    無宗教=無神論者と自分の頭の中でおそらく整理されていたことが、違うのかもしれないと考えさせられる一冊。

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    2013年04月30日
  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    宗教を「創唱宗教」と「自然宗教」に分けて考えるところが、ひろさちやの「やまと教」と同じだった。やっぱりいろんな本を読むと理解が深まっていい。日本の歴史、伝統を知れてとても良かった。最後に沖縄の神様が出てきたのもおもしろかった。

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    2012年10月17日
  • 宗教は国家を超えられるか ──近代日本の検証

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    120416父三回忌法要の日に  宗教と政治―相反する二つの精神
    070609念仏法難八百年を考えるつどい
    ---
    国民の統合を前提とする近代国家は、人々の生活や文化のすみずみにまで関与し、そこに国家の意思を貫徹しようとする。しかし私たちは国家を相対化し、対抗する精神を必要とするのではないか―。近代天皇制において日本はどのように国民の「臣民化」をはかったのか。「国家神道」のもとに国民を統合しようとしてきた歴史は、いまの私たちにどんな課題をつきつけているのか。近代日本がつくりあげた文化的枠組みの構造と実態を、宗教という視点から再検討し、国家中心主義を超える道がどこに、どのように用意されていたかを探る。

    阿満 利麿
    1939年生まれ。京都大学教育学部卒業後、NHK入局。社会教養部チーフ・ディレクターを経て、明治学院大学国際学部教授。日本宗教思想史専攻
    ---
    第1章
    古式とタブー(桜のイメージ 「女人禁制」 ほか)
    第2章
    つくられた「ナショナル・アイデンティティー」(「神勅」というフィクション 天皇「機軸」論 ほか)
    第3章
    現世主義 (現世の強大化 平家の落人伝説 ほか)
    第4章
    国家を超える (「事大主義」と「信教の自由」 「信教の自由」への道 ほか)

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    2012年04月16日
  • 行動する仏教 ──法然・親鸞の教えを受けつぐ

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    副題は「法然・親鸞の教えを受けつぐ」
    仏教(浄土仏教)を軸として3.11以後のこの世界での生き方・死生観を説く。
    楽しかったなあ。

    ・南無阿弥陀仏
    ・あの世でなく現実で力を発揮
    ・不如意なことに力を注がない
    ・凡夫という人間観→希望へ

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    2013年09月02日
  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    タイトルの通り、日本人がなぜ無宗教なのか。実際は初詣をし、弔いの行事を行ったりしているにもかかわらず。
    深い回顧などをおこなっているが、古典っぽく、一文一文がさあ過ぎて読みにくかった。
    政治的な背景などさまざまな背景があり、現代の宗教観に至っているとのこと。

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    2011年12月31日
  • 法然入門

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    本人の考えを文字で残さなかった法然には
    多くのひとの法然への思いのこもったものが残されています。
    法然を慕う人との手紙のやり取り
    その思想を受け継いでいった親鸞の言葉。
    ひたむきに念仏のみを薦めた革新家の生き様を探る旅は
    永遠の楽しい旅のように感じられました。

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    2011年10月07日
  • 日本人はなぜ無宗教なのか

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    宗教意識という精神的な面を、史実という事実と絡めて考察したもの。
    宗教を「内」と「外」のものがあるとして、説明されている点はわかりやすい。

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    2011年02月14日