阿満利麿のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
国家を相対化する試みを日本における宗教、思想、およびそれらの歴史を通して模索した本。国家の必要性を認めつつも、国家のために私たちは生まれてきたわけではない、と説く阿満氏。その記述は偏ることなく、誠実に考える姿が読む者にも伝わってきます。
このような、ややもするとこのような本を政治イデオロギーの問題として片付けてしまいそうな、時代の趨勢っていったい何なんだろう。
「他国が攻めてきたら・・・」
ボクはこの質問に答えられない。もしかしたら、戦うしかないのかもしれない。しかし、ちょっと待てよとも言いたくなる。どうしようもないのかもしれないが、罪のない人々のことを思うと心苦しい。
然し、日本という国においては歴史的な流れ、その特性から考えるに、国家を相対化するなど永遠に無理な試みではないだろうか、と思えて仕方がない。
内容は学芸文庫だけあってかなり充実しています(読むのに一苦労しました)が、それだけに、またそのテーマ性もあってとてもレビューが書きにくかったです。
(2006年01月23日) -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
水子地蔵、閻魔が死者を裁く地獄、妻帯する僧侶、神仏の併用、そしてお葬式…インドに発し中国を経て伝来した仏教は、わが国独特のすがたに変容し、定着した。
こうして日本人の心情に深く根ざした仏教は、では、どのような民族的精神風土の上に受け容れられたのか。
また、仏教とふれることで、日本人の宗教意識にどのような変化が生まれたのか。
日本文化のはらむ「業」、その光と影を透徹した思惟で見定める一冊。
[ 目次 ]
第1章 地蔵の頭はなぜ丸い
第2章 「地獄」はいつの間にか「極楽」に
第3章 日本の僧侶はなぜ肉食妻帯なのか
第4章 日本人に親しい仏たち
第5章 神さま仏さま
第6章 葬式仏教
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
ネタバレ■ 1行要約
日本人は「無宗教」なのではなく、豊かな「自然宗教」を持ちながらも歴史や「日常主義」によって覆い隠してきただけ。人生の土壇場で絶望や限界に直面したとき、人は先人の教え(宗教)と出会い直す。
■ 本書のロジックと要点
「無宗教」の正体:
神仏を否定する無神論ではなく、単に「特定の宗派(創唱宗教)の組織・教義に縛られたくない」という意味。根底には、お墓参りやご先祖様・大自然を敬う「自然宗教」が強く染み込んでいる。
儒教の浸透の仕方:
中国から入ってきた儒教は、神への信仰というより「社会での生き方・対人関係のマナー」として定着したため、日本人はそれを「宗教」と意識せずに吸収した。
明治政府と歴史の歪み:
「神社参拝は宗教ではなく国民の習わし(国家神道)」とする政策や廃仏毀釈によって、千年以上溶け合っていた神社と寺が分断され、日本人の伝統的な宗教観が矮小化(痩細)してしまった。
「日常主義」という日本の壁:
日本人は「毎日の平穏な暮らし(尋常)」を守ることを最優先にする。波風を立てず、悪は水に流す「プラマイゼロ」を好むため、本来は激しかった仏教すらも「葬式仏教・年中行事」として日常の中に安全に組み込んでしまった。
「回心」と現代人:
大病や身内の不幸など、日常主義が崩壊するほどの不条理にぶつかったとき、人は自分の限界を知り、神仏にすがって生き方を転換する(回心・二度生まれ)。現代の日本人に「無宗教」が多いのは、単にいまの日常が平穏で、回心を必要とするほどの深刻な挫折に直面していないからに過ぎない。
■ 自分なりの気づき・感想
「自分は無宗教だ」とラベルを貼って思考停止するのではなく、先人たちが遺してくれた豊かな智慧や教えを、人生を納得して生きるための「選択肢」として持っておくことの大切さを学んだ。
ウィリアム・ジェームズの「一度生まれ/二度生まれ」の考え方が非常にしっくりきた。今は平穏な「一度生まれ」の状態でいられていることに感謝しつつ、人生の大きな壁にぶつかったときに自分を支えてくれる「心の軸」について深く考えさせられる名著だった。 -
Posted by ブクログ
阿満利麿が書いた法然の専修念仏・浄土教についての論考は全編に気迫がみなぎり、わかりやすく読みやすい文章で要領よくまとめた傑作である。
「法然・親鸞を一体とみた日本精神史のなかでの専修念仏の異端性、そして倫理道徳、政治、死者祭祀、神祇崇拝などから超越した宗教的価値の絶対性を主張した点と救済原理がすべての人々に開かれた普遍性を持っているということで、法然をもっとも革命的なラディカルな人物とみる」と「はじめに」でいう。
先ず、日本の仏教伝来から紐解く。
538年か552年、百済国の聖明王から「釈迦仏」の仏像等を送られた欽明天皇は自ら祀ることの可否を臣下に問う。多くが「国つ神」を恐れて反対、蘇我大臣稲目だけが賛成したので天皇は彼に祭らせる。仏教が天皇家に正式に受け入れられるのは100年後、推古の次、舒明天皇になってからである。欽明が早速に受け入れず傍観者、中立の立場をとり舒明まで歴代曖昧な態度をとったことで「神仏習合」を生む。
仏教は祖霊信仰や祖先崇拝の一翼に組み込まれ、従来の祭祀にはない威力を発揮するものとうけとられた。一方、今までの神々にはない高い神性を持つものとも意識された。身近で親しみのある特殊な神と普遍的な神仏の二重構造で成り立ち、「人々は仏に直接祈願するよりも、神を通して仏に接しようとし、仏もまた衆生に直接示現するよりは神を通してその慈悲を垂れようとする」、平安中期には本知垂迹論が生まれる。
この二重構造を破り、仏教が普遍に直結することを教えたのが法然の専修念仏であった。
今生きている自分の究極的な安心を解き、この解脱には特別の修行や積善や能力は問わない(苦行主義との決別)という。法然はすべての人に開かれた易行の専修念仏とその念仏の背後にある阿弥陀仏の本願という救済原理を明らかにした。
彼は中国の善導に傾倒して阿弥陀仏の誓いを信じて念仏をする教えを開く。本願念仏ではじめて道徳、倫理など世俗の一切の価値を超越した「宗教」を手にすることになった。<宗教的価値の絶対化>であり、法然の革命的意義である。
悪を犯さずには生きられない人、我執の欲望が渦巻く煩悩の人、自己に執着し快楽を求めて生きる人などの凡夫を救済するのが主眼である。「法華経」読誦の人は「善人」であり、凡夫の自覚が足りず自己本位の悪に気づくのはよほどの自己凝視がないと不可能である。知識人や政治家、努力家のような自負心の大きな人も凡夫の自覚を持ちにくく、自己認識の甘さが作善を許し専修念仏を妨げる。作善主義との決別である。
阿弥陀仏の本願に順じた念仏だけが凡夫の往生を保証する。臨終の時は阿弥陀仏が観音をはじめもろもろの菩薩を引き連れて来迎するので「おおいなる喜び」が生じる。法然浄土教は呪的人師「人神」を原理的に克服した日本におけるはじめての宗教である。
呪術的思考は人間の欲望の直接的な投影であり限りない不安を生み続け不自由で暗い。阿弥陀仏の本願には人間の欲望が関与できる余地は初めからまったくなく、人間がそれを信じるか信じないだけである。
取引の余地などなく超越的なのだ。
道徳的抑圧からの解放、そもそも阿弥陀仏の本願の無条件絶対性に道徳的条件をつけるのが間違い。
親鸞の「自然法爾じねんほうに」の法語について。
自然は「おのずからしからしむ」、念仏者の往生は阿弥陀仏の誓願によるもので、人間の力ではない。
法爾は「名号の徳がしからしむ」、南無阿弥陀仏という名号の力で凡夫が往生するさまをいう。
阿弥陀仏は凡夫が「無上仏」という根本原理にいたる手段である。
これは仏教真理の二重性で、人間が宗教的要求に応じる形象をもっていることと人間の認識の及ばない超越性のあり方で、大乗仏教の典型的な思考法である。
仏教の教える根本真理のありようが「自然」で人間の分別を超えている。つまり人間の思惟、認識が及ぶことができないという意味で「超越的」ということである。「自然」のはたらきは仏の知恵をもってのみ理解できる性質のものであり、凡夫にとってはどこまでも「不思議」(思議することができない)といわねばならない。
阿弥陀仏の誓願を信じわが身の往生を確信し、なにものにもさえぎられない精神の自由を手にしたものが、現実社会でどのように生きていくかということこそがそもそもの問題なのである。
「神祇不拝」、阿弥陀仏以外の仏や神々を拝むことは否定する。日本人は法然の出現によってはじめて伝来の神およびそれと習合した仏教のあり方を原理的に否定することになる。
法然の専修念仏は鎮魂慰霊の念仏と決定的に異なる。しかし死者祭祀を否定したのではなく死者との新しい関係を見出した。死後自分を弔う人がいたとしてもその人間の供養をあてにしなくてもよい。自分のための念仏に精をだすことで自分のなかにすべての人を自在に救いたいという願いがあることに気づくのである。
両親のために念仏を唱えない、自力の念仏の無効性こそ従来の鎮魂慰霊の念仏を否定する根拠である。
法然浄土教の思想と哲学的考察が克明に解説されている。関連の本を少し読んでいたこともあり、法然と浄土宗の理解が大きく進む論考であった。
読むほどに、浄土教教義の論理的で精巧な全体系に
他力の絶対基準で組み立てられた壮大な建築物を見上げる気分になる。その前でそびえる天蓋に目が眩む
自己存在の卑小さも痛感させられる。
わかることと信じること、哲学や思想と宗教について、人生にとっての意味を考えさせる作品である。 -
Posted by ブクログ
【要約】
・歎異抄とは、親鸞の教えが異なって広まっていることに対して、正しくする書物
・ただ「南無阿弥陀」と唱えることで成仏できる。なぜなら普通の人は厳しい修行に耐えられないから。
・善人=厳しい修行に耐えられる人。悪人=凡夫。
・自ら修行して勝ち取るものではなく、全ては仏に任せる。全ては自然に流れていくから。自己と思うと辛くなるだけ。
・南無阿弥陀と意識し、全てが自然とあると考え、必ず成仏できると考える。その結果、今に余裕をもたらす。
【感想】
・自意識を強く感じていた。だから辛い時はとことん辛くなる。それを自然の流れ、仏からの宿業と思うことで気楽に生きていこうと思う。
・特に今は仕事がうまくいかなかったり、転職もできていない。恋人も思うように作れない。自責も大切だが、タイミングが違うと思って、今を生きていることに感謝。 -
Posted by ブクログ
宗教学者の阿満利麿が法然や親鸞の浄土仏教についてやさしく解説したものである。とくに法然の南無阿弥陀仏の専修念仏や他力本願(本書でこの言葉は使っていない)の思想を親鸞がどのように引き継ぎ深めたかを分析している。
親鸞の凄まじい生涯を貫いた信仰の形成・実践過程を繙く価値ある一冊であった。
「はじめに」で、人は誰でも普段の考えではどうしようもない手に余る問題を抱えている。その解決に正面から向かう場合には「宗教」という「物語」(新しい説明とか意味付け)が必要になる。死を恐れるのも断末魔への恐怖や肉体的苦痛よりも自己が死ぬという事実を納得する「物語」が見えないからである。死をふくめてさまざまな限界状況に対して「意味づけ」をする、しかも「究極的な意味づけ」をするのが宗教の重要な役割で、「心底」納得できる「意味づけ」、それが「宗教」なのだという。
それまでの仏教は鎮護国家で国家(天皇)に奉仕するものであったが、法然の浄土宗は国家から独立した最初の宗派であった。法然は中国の浄土教思想家善導(道綽の弟子)を研究・傾倒し、遊蓮房円照の臨終に立ち会い専修念仏の真理を悟る。一切の生きとし生けるものが仏になる道を阿弥陀仏の本願に見出した。
親鸞は聖徳太子ゆかりの六角堂で救世観音のお告げにより、妻帯を認める真の菩薩=法然に出会う。
以後「愚禿親鸞=僧にあらず俗にあらず」の在家仏教徒の道を歩む。末法時代の唯一の仏教の道は阿弥陀仏信仰であるとする道綽の思想を体現し、法然の教えを引き継ぎ身をもって発展させた。
深刻な「煩悩」に正対(自覚・考察)し、「煩悩」から逸れられない「凡夫」こそ南無阿弥陀仏を称えて仏になる。正法や像法の時代は修行をして悟りを開く聖道門(従来の仏教、聖人修行者のための仏教)だったが、末法の時代は在俗の愚かな人間こそ阿弥陀仏を称えれば仏になれる浄土門が相応しい。
自分のための「信じ方」、この自己中心性から人を解放するのが仏教である。仏教で強調しめざすのは「清浄心」であり、煩悩から解放された心、とりわけ自己中心性をまったくもたない心である。しかし凡夫は自らの意思によっては「清浄心」である「信心(まことのこころ)」を起こすことはできない。それは自分の意思をはたらかして起こす心ではなく、仏から与えられるものであり、あらたに「獲得する」ものである。
煩悩に塗れた自己中心から「仏心」である「信心(まことのこころ)」を得るためには、阿弥陀仏が「我が名を称せよ」と要求している理由を考えること、そのいわれを「聞い」て中身を吟味して心底から「納得」することが重要である。阿弥陀仏の象徴的な物語を貫く道理に頷くという段階が「聞く」ということであり、この過程を経て「疑いのない心」になったとき、それが「信じる」という行為になる。阿弥陀仏の誓願の吟味、心の底からの「納得」が不可欠なのである。
人間は全身をあげて「妄念」のとりこだと自覚したとき、そのような人間にも可能な救済方法として「阿弥陀仏の名を称する」という行があることに思いいたる。
『大無量寿経』四十八願のなかの十八番目の誓い、「わが名を称する者はいかなる存在でも、わが浄土に迎えて仏とならしめる」による。いかなる人間でも、善人・悪人を問わず、老・少、男・女を問わず、「南無阿弥陀仏」と称すれば、阿弥陀仏の浄土に生まれて仏になることができる。
「わが名を聞け」「わが名を称せよ」という方法が普遍的な救済方法となり、阿弥陀仏の人間の心への深い洞察が「南無阿弥陀仏」という称名の仕方を生み出した。
ひとたび「信心(まことのこころ)」に火が灯ると、凡夫といえども、仏に対する絶対帰依の心が生じ、仏道を歩みはじめる。
「南無阿弥陀仏」の「南無」は阿弥陀仏が私をして「帰依せしめる」、あるいは「念仏するように命じる」ということであり、阿弥陀仏の人間の心への深い慈悲心や洞察によるものである。
親鸞は晩年にいたってもなお、「愛欲」と「名利」と「不信」という煩悩に向きあわねばならなかったのは、ひとえに、親鸞において「仏心」である「信心(まことのこころ)」が屹立するようになったからである。
「信心(まことのこころ)」が深まれば深まるほどに、自らの罪業に気づき、深い「懺悔」を繰り返していくのである。親鸞の心はけっして燈明とはいえず、その死相もまた悪相であった。
凡夫の身であっても「信心(まことのこころ)」を得ると、人は関係性のなかにあるという、仏教の根本義である「縁起(あらゆるものは相互に関係しあっているという事実)」に目覚めることができる。それが「ともがら」を支える、もう一つの理念である。
「信心(まことのこころ)」をえたものは、その教えをまだ念仏を知らない人々のために広めたいと思うようになる。
阿満利麿の文章は丁寧でわかりやすい。
親鸞の性欲問題、法然と親鸞の関係、法難の経緯、善鸞の義絶、煩悩に塗れた入寂等々について、
微妙な論点も諸説を意識してバランスよくまとめている。 -
ネタバレ 購入済み
『歎異抄』は難しい…と思う人に
2024年10月読了。
『原始仏教』『大乗仏教』と読んできて、ふと『歎異抄』の事が頭を過った。たまたま自分の
母方が浄土真宗なのだが、浄土真宗は…と云うか、『歎異抄』と云う読み物が何やら≪ヌルヌルして掴み辛い鰻≫の様で、若い頃から何度も解説書を読むのだが一向に『腹落ち』してくれないのだ。
こんな事を言うと信者の方からお叱りを受けそうだが、「ただひたすら『南無阿弥陀仏』と称えなさい」と言われても、それで『日々の暮らしの不安が明るくなる訳でも無し』、何と言うか≪やったぞ!!!≫感が起こらないのが、何とも腑に落ちなくて、さりとて坐禅やらお遍路三昧する様な気力も無く、我ながら「酷い凡夫だ…」と思いながら、いつも空しい空振り三振した気分で本を読み終えるのが常だった。
しかし、本書で初めて知って嬉しかったのは、親鸞の師である法然の時代から≪同様の言い争い≫が起きていた事を知ったことである。鎌倉時代初頭の時代でも『念仏するだけで良いのか』『もっと他に重要な何かしらの行(か真理のような物)が有るのでは…』と、取り沙汰されていた事を知り、「現代を生きる自分と何か(時空を超えて)繋がった思い」がしたのである。
勿論、それは「悪い方向への考え方」であり本書でも否定されてはいるが、いつの時代も考えることはそう変わらない事に、何だか嬉しさを感じたのは、本書を読んでの『収穫』であった。
父方は日蓮宗なので、そちらの勉強も怠ってはいないのだが、幸い私の両親は凡そ「宗教・信心」で喧嘩や言い争いなどしたことも無い、至ってよく有る(?)家庭だったので、五十路を過ぎた今、自分の行く末を考える為にも、仏教書を読む生活は続けたいと思っている。
…と、そのぐらいの理解度・信心の人が読むにはうってつけの書である事、大変読みやすい書であることは、断然保証する。ま、私の保証など意味は無いが…w。
それにしても「日本人の特性」に(日本の)仏教は他のどんな宗教よりも馴染みが良く、『国民性』にも浸透している事が、こうして雑読していても良く分かる。素晴らしいことだ。 -
Posted by ブクログ
親鸞の弟子、唯円が著したとされる歎異抄を、阿満さんが一つ一つ言葉を、用語を、ニュアンスを丁寧に、基本を繰り返しながら語りかけてくれます。信心では2つが大事。阿弥陀仏が凡夫のために創造した念仏を、私が阿弥陀仏の物語を理解した上で選択したその瞬間の他力本願を頼む信心と、念仏を唱えるたびに私のなかに少しずつ蓄積していく阿弥陀仏から賜る仏心というべき信心。生死の限界の中でも摂取不捨を感じながら仏の大事業へと向かって歩みゆけるという安心感。その歩みの中で宗教倫理を自然に実践して行けることのでの世代を超えた社会貢献。南無阿弥陀仏。NHKのドキュメンタリー、こころの時代、の阿満さんを思い越しながら読みました。
-
Posted by ブクログ
人は生きてる限り仕事や恋愛、学業、それに親の介護や子育てなど何らか悩みを抱えながら生きている。それらに一切の悩みなく、全てが順調、経済的にも全く問題なし、というのはどこか石油でも掘り起こしたような遠い国の王族ぐらいであろう。そういった人たちでさえお金の使い道で悩んでいるかもしれないが。人は悩んだり困ったりした際に、カミサマ助けてと心の内で叫んだりする。日常では無宗教を公言しながらも「いざ」という時は「何か」に救いを求めてしまう人が大半だろう。世界の五代宗教と言えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教だがそれ以外にも新興宗教と呼ばれるものが日本でも沢山生まれてきた。日本人の多くは無宗教と言われることもあるが、人が亡くなった際には仏教の宗派のいずれかのお坊さんがいらして経を唱えてくれる。その時初めて自分の家が昔から特定の宗派に属していた事を知る若者も多い事だろう。そうでなくてもクリスマスや端午の節句、お盆に先祖を迎え入れるなど、家や地域によっては更に一年中イベント尽くし、宗教的な行事と一緒に生きているといっても過言ではない。日本の神様、八百万の神そして神道含め、様々な神様に触れて生きているせいで、特定の宗教に属している認識が薄くなった結果、何も属していない無宗教という認識が広がっていったのではないか。
本書はそうした宗教及び宗教的なものに人が惹かれていく理由や過程についてわかりやすく教えてくれる。私個人は多くの人と同様に、特定の宗教には属していないが、質問されたら日本固有の神道を中心としたあらゆる宗教の良いとこどり、とでも答えるだろうか。果たして過去に国内最大のテロを起こしたオウム真理教や、政治との関係性が大きな問題になった統一教会、駅前で毎日の様に勧誘的な行為を繰り返すキリスト教系の宗教団体などを見ていると、なぜそういったものに人は入り込んでいくのか理解が難しかった。
なぜ人は宗教を信じるのか。前述した様に人は悩みを抱えているから、何かにすがりたくなる事はあるだろう。私には自分のことは自分で何とかしろという気持ちもあるから、どこか精神的に弱い部分を補完するくらいの事ではないかと思ったりもする。ただ自分ではなく、自分に深く関係する親や子供の事だったらどうだろう。自分の子供が不治の病に侵されてしまったり、どうにもならない状況に陥ってしまったら、もう自分の力ではどうする事も出来ず、何かに祈りたくなる気持ちも理解できる。そうした自分の力が及ばない事は大きな理由になり得る。
そして人が生物である以上絶対に避けられない死への考え方も同様ではないか。死んだらどうなってしまうのか、死後の世界はあるのか、死に際して自分の生まれてきた存在の意味は何であったのか、こうした解決できない精神的な世界の問題も解きようがない。勿論物理的な肉体は朽ちて自然に還っていくとしても、多くの説明できない霊的な事象に対して私は明確な答えを持っていない。それを否定できない以上は、やはり精神が死んだらどこにいくのかは答えようがない状態にある。もしかしたら私も今医者に余命3ヶ月と宣告されてしまったら、きっと恐らくはそうした疑問を解き明かすために宗教を見つめ直すかもしれないと思う。
そうした自分の力で解決できない(本書では不条理と呼んでいる)悩みや死は宗教に入っていく大きな要因になり得る。そうした人々を「ダメ」だと否定もしないし、何かそうした理由があることを理解できないと、ただニュース報道を見て、だから宗教はダメなんだと判断してしまいがちだ。宗教がある所に理由があり、それを信じる人にも理由があり、そして救われる事実がある以上は存在の価値や意義は十分にあると思う。そうした間接的な理由を知る上でも本書は大変参考になる。 -
Posted by ブクログ
分かりやすく歎異抄を解説してくれている。
人生を100年として、死んだら無になるという考え方ではあまりに寂しいとは同感だ。
世の中では科学的根拠のない宗教とか輪廻転生、前世などはオカルトとして信憑性にかけるものとされているけれども、自分でもコントロール出来ない自我はどこから来ているのかもまた説明が出来ない。なぜ、人は苦しくなるほどの恋愛をするのか、自分を否定した人間にたいして心の底から沸々と沸き起こる怒りはどこから来るのか。このような宿業とは遺伝子の記憶か。説明出来ないことだらけなのに死んだら無になるのだから100年のうちになにか意味を見いださなければならないとあせるのもナンセンスだな、と読んでいて思った。 -
Posted by ブクログ
唯円「 歎異抄 」
阿満利麿 の現代語訳と解説がわかりやすい。宿業についての解説は 悪人正機説の疑問を解決してくれる
全体を読んで 気付いたのは、歎異抄は 大衆向けの啓蒙書というより、法然 や 親鸞 のカリスマ性をベースにして「ここに書かれたことは 時代が変化しても 変えるな」という弟子への行動規範書であるように思った
吉本隆明「最後の親鸞」のような破壊的インパクトはないが、念仏、浄土、宿業について 思想的偏りもなく、平易な文章で書かれており、大衆でも理解し実践できる内容になっている
10章 歎異抄の要
念仏には、無義をもて義とす
*念仏に対する行者の態度を言っている
*無義=自力のはからいを加えない
*義=道理にかなう
*誓願にあるように、ただ念仏さえすればいい
不可称、不可説、不可思議
*その理由〜念仏は称量できない、説明できない、思惟することもできないから
*人間の思慮分別では説明つかない
1章 ただ信心を要とす
*信心=阿弥陀仏の誓願どおりに念仏すれば仏になる
*阿弥陀仏の誓願=大無量寿経〜一切の衆生を仏とするための誓い
2章 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと
念仏=南無阿弥陀仏=仏の道を歩みつつあることを示す行為
3章 善人でさえ往生を果たす、ましてや悪人が往生を果たすことは言うまでもない
*善人=自力で仏になるために仏の教えにしたがう人
*悪人=凡夫=仏になることができない人(道徳的な善悪ではない)=人間はすべて凡夫
*煩悩の本質は自己中心性
13章 宿業
*真面目な念仏者、本願ぼこりの悪人ぶる念仏者ともに批判〜善悪は意志のままに使い分けできるものではない→善悪は宿業である
*善心が生じるのは過去の善業の結果であり、悪心が生じるのは過去の悪業の結果
*人は 因(直接的な原因)、縁(間接的な原因)、果(結果)の大海のなかに浮かんでいる、その事実を宿業という
*宿業=深層意識→宿業の反対語は「心のままになる」