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科学的世界観の浸透によって、近代人は聖なるものの喪失という不自然な生を強いられている。世俗化する時代にあって、救済はいかにして可能となるのだろうか。本居宣長や夏目漱石、柳田國男などの作品と人生に近代における求道の跡をたどり、聖性を希求してやまない人間の宗教意識の根源に迫る。
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Posted by ブクログ 2011年08月19日
科学的世界観が広く浸透することで、現代の人々は「あの世」への信仰や超越的な価値などを含む宗教的世界観を受け容れられなくなっている。現代の宗教は、「葬式仏教」という言葉に象徴されるように、生きている者を心理的に慰撫する役割しか持っていない。だが、人は意味を求める動物であり、もはや素朴に宗教を信仰できな...続きを読むくなってもなお究極的な意味を求める衝動はやむことがない。著者は、「現世主義」のゆきわたった現代の人々が、自己の安心を求めながらも宗教を信じることもできないという苦悩の中にいることを指摘し、そうした時代における救済のあり方を求めて、柳田国男、折口信夫、本居宣長、夏目漱石、清沢満之、曾我量深といった人々の思索をたどってゆく。 著者は、柳田国男と折口信夫の「たましい」理解の違いについて考察している。柳田が死んだ祖先をまつることで生きている者の心理が満足することに「先祖教」の救済の意義を認めていたのに対して、折口は宗教の意義をそうした心理的な効果を超えたところに求めていた。著者は折口の宗教的要求に深い意義を認めている。 その上で著者は、柳田の「先祖教」の考えを支えていたのは彼の本居宣長への傾倒だったという考えを提出している。宣長は、死後の世界についてとやかく論じる「作為」を退け、悲しい死をひたすらなき悲しんできたのが古代の日本人だったと考える。こうした宣長の考えは、現代の「現世主義」と深いところで通じ合うものがあると著者はいう。だが、そうした現世主義に徹するところに宣長の宗教がある。現世に生きる人間が折に触れて心が動くことを宣長は重視する。そうした、たえず変転する「人情」にどこまでもつきしたがってゆく中に、彼は「安心なき安心」を見ようとしていた。 著者は、こうした宣長の発想を可能にしたのは、彼が若いころに親しんだ浄土教であったと主張する。そして、もしそうであるならば、現代においてますます広まっていく「現世主義」から出て新しい救済原理を見いだす道があるのではないかと著者は述べる。そして、近代化の進行から目を背けず、むしろありのままの現世を見つめ続けることで心の自由を求めようとした夏目漱石や清沢満之、曾我量深の思索の内に、新たな救済原理の手がかりを見いだせるのではないかと論じている。
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