新谷尚紀のレビュー一覧
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原文と現代語訳、解説が載っていてとてもわかりやすい。遠野物語が古文的な文章で書かれていると知らずに手に取ったが、訳がある本で良かった。
昨今都市伝説やモキュメンタリーがブームだけど、この本に載ってるのは当時の田舎の都市伝説(伝承)みたいな感じだろうか。作り話とも本当のことともしれない話もたくさん出てくる。
山に住むサンカのことは知っていたが、里と本当に接触しないで住んでいた人たちがいたんだろうなあ。いわゆる神隠しも、超常現象ではなく山の人たちの誘拐だったりしたのかも…。神様のいない現代だって、一瞬目を離した隙に行方不明になる子供がいるのだし。
ある日行方不明になった里の少女が、三十年経って年老いた姿で今は山の民と暮らしているが故郷の親戚に会いたいと一瞬だけ里に戻ってきてまたすぐ山へ戻っって行った話とか、不思議な、怪異の話ではなく、誘拐されてたんだ…と思うと悲しい。
また、出会った得体のしれない者は、旅人でない限りえいやと殺しちゃうのも時代的になんかすごいな。
最後の付録には、民俗学は文化人類学の中に位置づけるべきではない、広い意味での歴史学に位置づけるべきである、という柳田國男の主張が紹介されている。この民俗学、文化人類学、歴史学の違いが、大学生の頃からいまいちわからない自分は、柳田がなにに怒っていたのかがわからない。
ただ、この本は著者が言うように柳田民俗学つまり民間伝承学、民俗伝承学の立場から原点であり原典である「遠野物語」を読み解いてみようとしたものだろう。最後の付録まで含めて、この本が柳田の主張に沿って「遠野物語」を読み直す本だったのだと思う。 -
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遠野物語
◯動機
遠野にツレと行くので、現地のキラーコンテンツである世界観を知るべく、どんなもんか読んでみようと思った。
◯印象に残った点
・実話の体裁
これは1920年頃の時点で、柳田氏が遠野の住民である佐々木氏が収拾した話を聞き書きしたものであること。ここをスルーするとよくわかんない断片的な話になってしまうので要注意。
・不思議な存在やできごと
これらが実際に見聞きした人や体験した人からのまた聞きらしいが、話が伝言ゲームになってたりリップサービスで盛られてたりしないのか、疑問に思う。
・遠野の人たち(主に男性)のリスクテイクな気質
でかい男につかみかかる、飲んだ帰りにいきなり相撲を取る、山の中で見かけた不審な事物に対してとりあえず鉄砲ズドンしたり絡みに行ったり。
謎の女にふらふらついて行ったり。
妻に化けた狐を怪異と思ってとりあえず包丁で刺したり。
人間の生存本能に反するリスクテイクなムーブが現代のわたしからすると、怪異より不思議。
・遠野の人たちの価値観
河童の子はとりあえず殺す(狂人はコミュニティに包摂するのに、馬と娘のつがいをオシラサマと信仰の対象にしているのに)
他人の住居(マヨイガ)に無断で入る
河童、猿、異人が女性に手出しするけど狩に行ったりしてる様子が本書からは窺えない。
不思議な話より、現代のわたしからすると価値観も違ってこちらの方がむしろ不思議。
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・新谷尚紀 編著「民俗学がわかる事典」(角川文庫)を読んだ。事典であるから言葉を調べるための辞書ではない。そのやうに使へないこともないが、何しろどの項目も3頁か4頁といふ分量である。索引はない。第1章「民俗学への招待—身近な疑問から —」から始まつて第12章「民俗学に取り組む—民俗学と民俗学者の今昔—」に終はる全12章139小項目からなる。読むための事典であることは容易に察しがつく。しかも、この最初と最後の小項目だけ見ても、民俗学をできるかぎり広い視点から紹介しようといふ意図が分かる。
・第12章は民俗学の今昔である。最初は「民俗学は国学とどのような関係があるのか」である。国学との関係である。当然、本居宣長と平田篤胤が出てくる。2人が民俗学にどのやうな影響を与へたか。よりはつきりといへば、「いわゆる民俗学がその直系の子孫であるか」(474頁)といふことである。答はイエスでありノーである。「国学は江戸時代において『私たちはどうしてここにあるのか』という問いを突き詰めるために日本人の古典としての『古事記』や『日本書紀』を対象として、読み解く作業としての古典研究を続けていった」(同前)。儒教研究の動きに対して、宣長は「『古事記』の研究を綿密に進め」(475頁)る。それが「日本という国の伝統に立ち返る『やまとごころ』を強調し、漢心を排そうとして鋭く儒学と対立する」(同前)ことになる。「さうすると国学は近世日本における『日本』ならびに『日本人』を発見する手段だったとみることができ」(同前)る。「国学はそれまでの儒学=中国文化=外来文化の影響から解き放たれた日本本来の姿を想定する。(中略)そのため、国学は古典研究としての側面とイデオロギーとしての側面の両面を持」ち、「国学と民俗学の両者は『私たち』は何かという問いにおいて結ばれる。」(476頁)篤胤の系統がイデオロギーを前面に出していたのはよく知られるところ、それでもその根底にはといふより、その根底にさういふイデオロギーがあればこその古典研究であつた。「国学が明治以降の教育制度の中でやがて国文学科と国史学科を生み出す母体となった」(476頁)のは、その研究内容からすれば当然のことであらう。ただし、民俗学に関しては、実は当時のヨーロッパの学問の影響がある。柳田国男はフランスの影響を受けたといふ。それらと並んで「民俗学の祖先の一つは国学だと」(同前)言へる。だからイエスでありノーなの である。国学は、現在の人文、社会科学の広い分野に影響を及ぼしてゐると思はれる。篤胤の神代文字研究は食はせ物であつたから学問的にはほぼ消えたが、妖怪研究は今や盛んである。幽霊や妖怪は身近でもあつたが故に、篤胤以後も途切れることなく続いてきた。 さういふのは他にもあるはずである。次の小項目2はいささか長いタイトルであるが、要するに江戸時代人の民俗への関心は如何とい ふことである。この最後、「江戸という時代は都市の文化の成立によって田舎という概念ができあがり、その田舎への関心の高まりを見せた時代だ(中略)それは『私たちとは異なる』ものへの興味でもあったろう。」(479頁)とある。例へば「偐紫田舎源氏」はパロディーでもあるが、さういふ中から生まれた題名である。敢へて言へば、田舎への関心は昔の文物への興味、研究と同じことでは ないかと思つてしまふ。東京五輪以後の民俗激変期を経た現在、その基本は江戸時代かもしれない。時代の差を考へれば、私たちの興味や関心はそれほど変はってゐないのではないか。実際のところはどうなのであらう。民俗学の成果を知りたいものである。 -
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・新谷尚紀「日本人の葬儀」(角川文庫)は書名通り、日本人の葬儀について3つの観点から論じてゐる。葬儀の深 層、葬儀の歴史、他界への憧憬である。序に代はる文章として「現代人と死」といふのがあり、ここでは尊厳死と脳死といふ死の現代医学的な問題と、葬儀の作法や費用といふ極めて世俗的な問題が採り上げられてゐる。いづれも既に問題となつてゐることばかりである。コロナ禍の現在、葬儀の在り方も変はりつつある。本書は30年前に出てゐる。この間、脳死や尊厳死は日本人に受け入れられたのであらうか。最近あまり言はれなくなつてゐるところからすれば、もしかしたら受け入れられてゐるのかもしれない。しかし、脳死移植は増えず、心臓死後の腎移植もかつての数に及ばない。葬儀の在り方とて一筋縄ではいかない。それでもこれは「序にかえて」であつて本文ではない。私自身もさういふ書としては読まなかつた。本書は極めて今日的な話題で始まるが、本文はさうではない。民俗学の書である。序文代はりの文章の最後、「日本人の葬儀をめぐる大きな変化と混乱のなかにある現在、これからの方向を考えていく上でも、これまで日本の各地に長く伝えられてきた葬送の儀礼や、生と死の思想、他界観などをぜひとも知っておきたいものであ る。」(30頁)とある。本書は正にかういふ書である。本書はどこもおもしろい。葬儀に歴史でも結構つながつてゐる。つながりつ つ変化してゐる。当然だとは思ふが、それが葬儀となると実感できない。具体的なさういふ記述を並べられるとよく分かる。現代の葬儀は「深層」で述べ、過去の葬儀は「歴史」で述べる。かうしてつながるのである。
・その根底に何があるのかを探るのが「他界への憧憬」であらうか。ここにもいくつもの問題が含まれている。「憧憬」といつたところで、それで終はるものではない。最終章は「花いちもんめ」と題されてゐる。「日本人は、この世とあの世との交流をどのように考えてきたのか」(444頁)を「昔話や子供の遊びなどを通してみ」(同前)ようとするものである。だから「三枚のお札」で始まる。よく知られた話である。ここに疑問がある。まづ、なぜ老婆は鬼婆かといふ疑問であるが、結論を言へば、これは女性の持つ「境界」性によるのである。女性は「あの世とこの世との間の媒介者」(429頁)なのである。だから、「あるときには異界へと通じる不気味な力をもつ存在」(430頁)となる。これが鬼婆であらう。では、なぜ小僧は便所から逃げるのか。この便所の民俗を私は知らない。所謂便所神は「実際の生活の中に伝えられていたもの」(448頁)であるといふ。それだけでなく、様々な便所にまつはる習俗がある。結論、「人の誕生や死亡などその魂がこの世にやってくるとき、そしてあの世に行くときに、祀られているのが便所で あ」(451頁)つた。従つて、排泄の場所ではあつても、便所は「人々の意識の深層では、この世とあの世の出入り口だった」 (452頁)といふのである。「三枚のお札」で小僧が逃げたのはあの世であつたといふことか。いや、便所神が現れてお札をくれた のはあの世との境界、小僧はこの世に逃げたといふことであらうか。夜が明けて鳥が鳴くのはこの世であらう。鬼婆はこの世の存在、決してあの世の存在ではない。だからこそ食つた人の骨が散らばつてゐたのである。ただし便所は境界、境界たる存在の女性=鬼婆も この境界にあつては神には勝てぬといふことであるらしい。葬儀に関連して便所が出てこようとは思ひもしなかつた。それだけ昔話等 には隠されたものが多いといふことであらう。おもしろい書であつた。 -
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著者の新谷尚紀(1948年~)は、國學院大学教授で、日本民俗学、民族伝承学を専門とする民俗学者。
本書は、日本の神社や神道とは、むしろ伝統的な文化、伝承的な文化であるとの理解に基づき、日本人にとっての神道を解説しようとしたものである。
本書の趣旨・流れは以下である。
◆日本の神社や神道は、「伝承」でもあり「変遷」でもある。即ち、長い歴史の中で、重要な部分は継承されながらも、時代ごとに大きな変遷を辿ってきた。
◆神道の本質は、「素材」にではなく「形式」にある。時代の変化の中で、その「形式」の中に様々な「素材」を包括してきた。
◆長い歴史の中で変わることなく伝承され、神道を神道たらしめている中核的な「伝承」は、「古代以来、稲作の王としての天皇を中核として伝承されてきている人びとの素朴な自然と生命への感謝の念と禊ぎ祓えの実践によるその信仰の意思表示の体系」である。
◆一方、「変遷」を追うと、古代の神道は、「稲の王」としての天皇の祈年祭・月並祭・新嘗祭を中心とする神祇祭祀という意味。中世の神道は、仏教の如来・菩薩・明王・天部や、道教・陰陽道の諸神や、山岳修験の諸神を含む、それらの神霊の類の混淆と習合の中での、霊威や霊験への信仰と祈願と祭祀という意味。近世の神道は、中世以来の密教や道教・陰陽道の信仰要素を含みながらも、儒学の説く道徳倫理や、国学の説く古代天皇信仰や、幽界霊界の存在への信仰を含むようになった、混淆と習合の中での信仰と祈願と祭祀という意味。近代の神道は、立憲君主国家の天皇崇拝を中心とする、公的な制度と儀礼と社会的な精神統合を教導する信仰と祈願と祭祀という意味での国家神道。現代の神道は宗教法人神社本庁が包括する全国約8万社の大中規模の有名大社から小規模の村や町の氏神や鎮守まで含む、その信仰と祈願と祭祀という意味での神社神道。
一般的に宗教とは、その体系に教祖、教義、教団という主たる構成要素が備わっているものであるが、日本の神道には教祖も教義も存在せず、そうした意味では宗教とは言い難いのかもしれない。しかし、日本人の多くは、大なり小なり神道の影響をうけていることは間違いなく、その神道とは、本書が明らかにしているように、時代の要請に合わせたハコ(形式)として機能し、そのスタンス・考え方は良くも悪くも極めて柔軟・寛容なものであり、それ故か、日本人は世界的に見ても包容力に富む民族である。
世界中で宗教・民族の衝突が絶えない今、日本人として、自らの拠って立つ神道とは何なのか、その「伝承」と「変遷」を改めて認識することは必要不可欠である。そのための一助となる一冊と思う。
(2018年7月了) -
Posted by ブクログ
現代の日本に暮らすわれわれにとって身近な生活の諸現象を民俗学の観点から見なおすことで、そこに畳み込まれている歴史の深さとひろがりを知ることのできる入門書です。
本書の巻頭のインタヴューで、著者の一人である新谷は、「「民俗学で考える」コツは、第一に、現在の私たちの生活がすべてではない、むかしからいままで変化している、そしてゆっくりとでも未来へ向かって少しずつ変化している、ということを考えてみる、ということです」と語り、柳田國男の「比較研究法」の意義を、このような観点からとらえなおしています。
また著者たちは、民俗学の対象として、経済的な伝承・社会的な伝承・儀礼や信仰の伝承・言語や芸能の伝承の四つをあげています。そのうえで本論では、これらの対象のなかで、現代のわれわれの暮らしのなかに生きつづけている考えかたや風習をとりあげ、それらを形成してきた伝統の地盤を掘りさげていくことで、民俗学を学ぶことのおもしろさを読者が実感できるような解説がなされています。
新谷は、歴史学の研究成果も参照しつつ日本人の信仰のありかたについて考察している本を多く刊行しています。それらのなかには新書などの手にとりやすい形式のものもありますが、かならずしも初学者にとって読みやすいとはいいがたいものもすくなくありません。本書は共著であるものの、民俗学の全般をあつかっている入門書であり、新谷の民俗学に対する考えかたを知るうえで興味深い内容だったように思います。