中村昇のレビュー一覧
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ネタバレ刻復習シリーズ第二弾
ウィトゲンシュタインの思想を前期から後期まで分かりやすく説明してくれる超良書。
前期(論考時代)の哲学は理屈っぽく正直理解が大変な部分があるのだが、本書はサラッと流して後期メインで話してくれる。「家族的類似」や「言語ゲーム」なんかは哲学入門としても非常に分かりやすいだろう。
個人的に「確実性について」が抜けていたせいで、後期の土台を何としているのかがずっと不明だったが、「蝶番命題」の説明なのでようやく分かった…。早く読んでおけば良かったね…。
後期ウィトゲンシュタインのスタンスは徹底した(日常的という意味で)現実主義だ。魂など証明のしようもないもの、存在という驚きに対する態度、我々の「当たり前」からスタートし、深遠な思考を経て「当たり前」の風景に戻ることができる。
少しカッコつけて言えば、彼は再び「ハシゴを投げ捨て」ることを徹底したのだ。 -
ネタバレ 購入済み
セクシーです(*_*)
下着無しの生尻こそありませんが、乳首のツンツンがはっきりわかるショットは、よくやったと絶賛します。結婚した今となっては、二度と見ることのないショットが満載のセクシーな写真集です。
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Posted by ブクログ
元数学者の思想家、ホワイトヘッドさんのものの見方を分かりやすく説明しようと試みている入門書。読みやすく面白い。
禅でいう「さとり」は、ホワイトヘッドが言おうとしていた事を、知覚として直接体験することではないかと、「さとり」を語る根拠を持たないながらも、イメージする。
イメージでいうと、こんな感じ。
砂浜の波は、何億年も同じように打ち寄せ続けてきた。
その波は(その波のしぶき一粒一粒は)、ほとんど同じ現象の反復に見えて、実は同じものは未だかつて一度もない。
広大な浜の無数のしぶきと、繰り返す波をひとつずつ、
統計的にではなく、類型的にでなく、全て見つめる。
しかも、前の波が引いて行くことに影響を受けた次の波がどうなったか、
一見影響がなさそうに見える、浜の両端のしぶきが、
どの様な関係で、影響を及ぼし合っているかもすべて。
そんな不可能な知覚の仕方。
また、別のイメージ。
定点カメラで飛んでいる石を撮影する。
次に、カメラを投げて、飛んでいる石を撮影する。
次に、カメラを投げて、投げたカメラを撮影する。
無数のカメラを同時に投げて、各々が相互に撮影し合う。
そのひとつひとつの映像と、
そのトライアルの総体自体を、
同時並行に知覚する。
また、イメージ。
テレビの台風情報で、台風の軌道を表した線。
あれは、台風自身の指向性と外的要因が影響して必然的に選択された、
二度と描けない軌跡だ。
外的要因の中には、
例えば地形、気温差、他の低気圧が生み出す風がある。
そしてまた、台風自身が起こした風が、地形によって跳ね返って来て、
外的要因としてフィードバックされもする。
現象と存在のひとつひとつが、何ひとつ、個別ではあり得ず、
互いに分かち得ない影響によって因果関係を結んでいる。
一粒の砂と一人の人間には、影響力の強さや存在価値に差はなく、
そもそも比較自体がナンセンスで、
ただひたすらに、すべてが唯一無二の存在・現象だということ。
こんな言葉にしずらい、東洋的なものの見方をくさびとして、
詩のようなやわらかさで西洋の現代思想史に打ち込んでくれた、
ホワイトヘッド先生の思想。
その思想を、なんとか分かりやすく僕たちに伝えようと試みて苦労しているこの本は、お気に入りの大好きな本。 -
Posted by ブクログ
ウィトゲンシュタインは、難解な哲学者である。
が、難解さが、他の哲学者とちょっとちがう。
そもそも、何を問題にしているのか、すら分からないのだ。
それでも、「論理哲学論考」は、まだ、言わんとすることは、なんとなく分かる。
とくに、最後のほうの結論部分は、衝撃的で、「お〜、かっちょいい!」と思う。
どうしてそういうことになるのかという道筋は分からないのだが、結論は分かる。
で、結論にもとづくと、これまでの哲学の諸問題は最終的な解決(?)を得て、もうこれ以上、哲学は必要なくなる。というわけでウィトゲンシュタインは、哲学者をやめて、ひっそりと暮らすことになる。
が、「論考」が最終解答になっていないことに気づき、再び、哲学に復帰し、いろいろ思索した結果をまとめたのが「哲学探究」である。
これが、見事になにいっているのか、見当もつかない本である。その難解さは、「論考」の難解さとはちょっとニュアンスが違う。書いてある一つ一つは読めるし、一応、意味が通じる。ある意味、日常的な文章に近いとさえ言える。が、文章が一つ一つがつながってパラグラフになり、本になっていくと、どんどん意味が分からなくなる。ある一つのパラグラフも、ウィトゲンシュタインの主張なのか、反論しようとしている考えなのかすら、分からない。
というわけで、気になりつつ、手のつけようがなかった「哲学探究」だったのだが、数年前に、どうしたことか、「あれっ?」という感じで、文章が意味をなし始めて、分からないなりに、一通り、読めてしまうということがおきてしまった。
で、この「入門」を読んでみたんだけど、かなり「なるほど」「なるほど」とさらに意味がつながり始めている。なんとなく、全体の見通しがついて来た気がする。
これって、なんかすごいことだと思う。
ウィトゲンシュタインって、難しげな哲学用語、概念をつかわずに、日常の言葉をつかって、自分の頭で、徹底的に考えようとした人なんだな。だれもが問題にしないほと、当たり前としていることを、本当に具体的にそうなのかということを徹底的に考えた。他の哲学者が以前に考えたようなことは全部無視して、自分で一つ一つ考えていたんだね。
だから、ウィトゲンシュタインの難解さは、他の哲学者の議論をバックグラウンドとして知らないから、というのでは全くない。自分の頭で徹底的に最初から考えていることから出てくる難解さ。そして、自分の頭とウィトゲンシュタインの頭は考え方のくせが大きく違うので、彼が一生懸命考えていることをトレースするのは困難を極めるんだよね。
「哲学探究」
私が読んだ全集版以外にも翻訳がでているので、もう一度、チャレンジしてみよう。 -
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著者は、時間を空間化し、持続の多様性を同質的なものの並置に切り縮めることを批判するベルクソンの議論に注目しています。著者によれば、こうしたベルクソンの議論それ自体が、時間と空間を二元論的に切り分けてしまっているとみなされなければなりません。しかし、こうした時間と空間の区別がそこにおいて成り立つ「場所」を前提とすることで、はじめてベルクソンの考える「持続」が「持続」としてすがたを現わすということに著者は着目し、それについての考察を展開しています。
ひとつの問題が執拗に追及されているところに感心させられたのですが、こうした問題を論じるにあたっては、「本性の差異」と「程度の差異」を切り分けるというドゥルーズの発想が先蹤として存在しているように思います。本書での議論は、「持続」がそれだけで純粋に「持続」として直観されることはありえず、むしろ「記憶」の中での「痕跡」として「純粋持続」が指し示されるという結論へと進んでいきます。
これはこれで、一つの解釈としてはおもしろいのかもしれませんが、この方向でのベルクソン解釈には、ドゥルーズの解釈が示したような豊穣な可能性は期待できないような気もしています。 -
Posted by ブクログ
ウィトゲンシュタインやベルクソンなどの研究をおこなっている著者が、西田幾多郎の哲学にひそむさまざまな問題に取り組んだ本です。
「はじめに」で、「それぞれの章や節を、基本的に一話完結ものとして読んでいただきたい」と述べられており、ひとつのテーマを追求するようなしかたで西田哲学を読み解いたものではありません。それでも、著者の議論には一貫した関心が脈づいているように思えます。
著者は、西田の最初の書である『善の研究』を論じた箇所で、経験の「前面」と「背面」を区別し、「前面」に浮かんでくるものにともなうかたちで、けっして対象化されることのない「背面」が存在しているのではないかと論じています。両者の関係は、著者は直接言及しているわけではないのですが、ちょうどハイデガーの「存在論的差異」のようなしかたで語られており、さらにそれが西田の術語である「場所」や「永遠の今」といった概念に変奏されていきます。
ベルクソンやフッサール、デカルトなど、西田が直接言及している西洋の哲学者はもとより、鈴木大拙や山口瑞鳳、井筒俊彦や清沢満之といった思想家たちの議論をそのつど引っ張り出してきて、さまざまな側面から西田哲学にせまろうと試みられているのが、本書の特徴といえるでしょうか。そのためもあって、若干議論が拡散してしまっている印象もありますが、全体を通じておもしろく読むことができたように思います。 -
Posted by ブクログ
熊野純彦訳が出たからではないが、興味を惹かれて読んでみた。フランスの哲学が嫌いなわけではないが、なぜか今までベルクソンに興味を持てなかったんだよなぁ。
読んだ感じ、ベルクソンってかなりフッサールに被るなぁ、と。読んでいて、ところどころ発生的現象学での議論を思い出した。といってもフッサールよりも言語に対する問題意識が強いのと、記憶という意外に哲学で真正面から取り組まれない概念に取り組んでる部分は面白いかった。ドゥルーズがベルクソンから影響を受けてるのは、この言語と持続のつながりの部分なんだろうなぁ、となんとなく。そして、言語についてはどこかソシュールにもつながる観点もある。
フッサールとベルクソンということで言えば、フッサールが視覚的イメージで考えた一方、ベルクソンは聴覚的イメージで考えたって捉えると分かりやすくなるな。
この本自体のスタンスは、ベルクソンを解説しつつかなり批判的な読み方をしているから、入門書として読むとどこからどこまでがベルクソンの考えなのか分かりにくくなりがちだった。
冒頭から「なぜ生きているのか」という問いに答えられない哲学は無意味だと思う、とど直球で来て最後に著者なりの解答がされるんだが、うーん。この問い自体、個人的に興味を惹かれないのもあるけど、なんか論考の頃のウィトゲンシュタインみたいな答えで消化不良だな...。自我に場をもってきて回収する方向は苦手だわ。
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