ヴィトゲンシュタインの中期作として捉えられるべき作品。
彼はあらゆる哲学的探求、会話は言葉ゲームであると云っているが、個人的には「そんなことを考えてどうするのか」と思わせるところも多い。
ただ、人であれば一度は考えることも多いし、「云われてみれば」と思わせるあたり、ヴィトゲンシュタイン哲学の魅力があ
...続きを読むるのだろう。私一個人としては、「そういう考え方を人もいる」程度のものでしかない。
彼の考え方に触れたのは、「他人の心を知ることはできるか」という箇所であるが、これは大学の講義で知ったことで、かつ彼の後期作「哲学探究」の中課から引用するものである。仮に「『リンゴ』や『歯痛』という単語が共有されている以上、どう表現しようとも、その言葉を把握している以上、他人の心を把握できているに違いない。」と。文理としては分からなくもない。
彼は語の定義に関する回答は、あらゆる例示によってのみ解消されるとする。しかしこれは、いままでのソクラテス的回答「しみじみと何かを語りつくす」ことに対する挑戦である。ただ、私も思うのは、哲学はそれによってあらゆる要素が混沌とし、難解にしてきたのも確かだ。分からなくもないが、20世紀初頭ですでにこの考えを主張する、というのも、哲学のいったんであろうけども・・・。
かのデカルトは、スコラ哲学に関して「その問い自体がなんであるかを考えないのか。」と云って修道院を抜け出したとされる。ヴィトゲンシュタインも、デカルト、ベーコン、カント...という近代哲学の系譜に対する「哲学的挑戦」をけしかけているのかもしれない。「語に対する探求」から「語を使うことによる探求」へと逆立ちさせたあたり、彼は俗的だが、云いえて妙な説を展開する。
読めば読むほど、「そんなことを云っても仕方ないだろう。話を振り出しに戻したいのか。」と云いたくなってくる。ただ、それはそう言わしめるくらい、哲学が複雑すぎることへの反発だ。