渡辺一史のレビュー一覧
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ネタバレ人に迷惑をかけずに生きるのが理想か。
何年か前に映画化もされた話題のノンフィクション。ページは多いが引き込まれて一気に読み切った。鹿野靖明という在宅介護を望んだ筋ジストロフィーの男性とそこに集うボランティアたちの生活を取材して書かれている。著者もいつしかボランティアの1人として痰の吸引など鹿野の世話をしていくうちに、障がい者と社会について、人と人との関わり合いについて、生きることについて、を考え込んでしまうといった内容だ。
ボランティアは何かを求めてやってくる。ボランティアに限らず人はやはりどうしても「してあげる」という上から目線からは逃れられないように思う。鹿野の「ワガママ」に対してボランティアが反論したり離れていったりした描写があったが、こちらの善意を受け取ってもらえないとき、それが大きなお世話であったり受け取る側の意図に反していたりしても、裏切られた気持ちを抱くのは想像にたやすい。「してあげる」ことでいい気持ちになりたいのだから。反対に何か欠けているのを感じていて「させてもらっている」人なら、どんな欲求にも応えたいと思ってのめり込んでしまうだろう。そのような依存から結局離れることを選んだ人がいたことも書いてあった。
健常者と障がい者で、介助する側と介助される側が、対等になれないのはなぜなのか。別に障がい者だけではなくて、女性とかLGBTQとか外国人とか高齢者とかも同じだと思うのだが、なぜ要求を「ワガママ」とされてしまったり、手厚すぎる保護(という名の囲い込み)をされてしまったりするのか。それは属性に過剰に意味を見出して、勝手に解釈するからだ。鹿野の為人はやはり障害あってのものだと思う。人格形成に筋ジストロフィーやそのために経験したことが影響していないわけはない。しかし「障がい者は」という文脈にするものではない。本文中でボランティアの1人が述べていたが、見たままの現実で付き合っていく、過剰に裏側を重視しない、という態度は何においても必要だと思った。「障がい者は」と括らずにそのままの相手と向き合うことが、たとえばちょっと乱暴なまでの態度だったり、タバコやAVなどの要求に応えたり、時に言い争ったり、そういうボランティアたちと鹿野の関係に繋がっているのだろう。
いわゆる健常者であっても生きていくのにいろいろと抱えている時代である。背後の情報だけで人を判断してしまう人間関係から理解は進まない。たとえ生々しくても向き合うことが大切である。それには大変なエネルギーが必要だとしても。しかしそもそも生きるとはエネルギーのいることなのである。鹿野が精一杯生きていたように。 -
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「障害」、「障害者」を考えていくことで、「なぜ人と人は支え合うのか」という根源的でもある深い問いへのひとつの答えがでてきます。
本書の始点と終点はまさにその根源的な問いかけとそれに対する著者なりの答えとなっています。その二点を結び付ける線にあたる部分が本書の大半にあたり、それは思索や当事者たちの経験であり、文章の中に豊かに息づいていました。
はじめに語られるのは2016年に相模原で起こった障害者19名を殺害した事件「やまゆり園障害者殺傷事件」。犯人の植松死刑囚は、「障害者なんていなくなればいい」とその動機を語ったとか。こういった考え方は、本書に登場する哲学者・最首悟さんが「実は多数派かもしれない」と言っています。確かに僕にも、この事件が起きたとき、「間違ったことだ」と思いつつも、はっきりと何がいけないのかを言葉で説明・主張できなかったところがありました。それだけ、社会のシステムが健常者視点で作られていますし、経済ファーストの価値観が浸透しているためなのだろう、と今では考えられるのですが。また、蛇足ではありますが、植松死刑囚は自己愛性パーソナリティ障害及び他のパーソナリティ障害を抱えていると診断されていますし、大麻にも手を出していて高揚した気分で犯行に及んだようです。そして、収監後の接見などでわかったこととして、
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つまり、人に自分の意見は述べる、しかし、相手からの反論は受け付けない。そうした姿勢が植松被告の主張を成り立たせている根幹にはあるようです。
このことは、まず第一に知っておくべき、この事件の重要なポイントです。(p55)
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という性質があげられています(蛇足ついでにもうひとつ言うと、僕の父がこのタイプで、やっぱり差別や暴力のある人なのでした)。
この事件によって、たとえばネットには、植松死刑囚の考え方を是とするような書き込みが増えて見受けられたそうです。
「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」
「どうして強い人間が、弱い人間を生かすために働かなきゃならないんですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では、弱者を救おうとするのですか? すぐれた遺伝子が生き残るのが、自然の摂理ではないですか?」
以上がその一例として記されていました。こういった素朴で露骨な問いには、一見モラルやデリカシーに欠けているかのように思えますが、障害者や健常者問わず、人間の存在意義(質問を発した人たち自身の存在意義でもあります)に対しての大切な省察につながる機会が得られるのではないか、という視点が宿っているとも考えられます。本書はそこから一歩ずつ、思索や考察の道へと踏み込んでいくものとなっていました。
著者は札幌で、鹿野さんという重度身障者を紹介されて、介助も経験することになっていきます。鹿野さんは自分の介助や世話をしてくれるボランティアを探さないと自分が自立して生活していけないため、どんどん学生や主婦などを巻き込んでいく人です。そればかりか、夜中にバナナが食べたい、だとか要求する遠慮のない人でもあります(映画化もされた『こんな夜更けにバナナかよ』は著者によるもので、鹿野さんとの経験が語られた内容だそうです)。
鹿野さんが亡くなったのが、2002年で、42歳でした。僕はその時代学生で、札幌でアルバイトをしていました。バイト仲間の北大生なんかが、こそこそと鹿野さんの話をしていたような気が今思いだすとするのですが、でもまあ記憶違いかもしれません。もしも記憶違いじゃなければ、バイト仲間のなかでもボランティアに誘われた人たちがいたのでしょう。
閑話休題。そんな身障者の生き方から感じられるのは、自分が、障害者って社会に気遣いながら控えめに生きていくものだ、という考え方を知らないうちに身につけているっぽいぞ、ということです。障がい者は我を張ってはいけない、なぜなら健常者や社会の世話になっているから、という強者の論理を、僕くらいの中年世代なんかは無意識に身につけていたりするものではないでしょうか。依存する者、依存される者という立場は固定されていると信じている。また、鹿野さんは呼吸器をつけながらもタバコを吸うからくれ、と要求する人ですが、これについても、介助側から「それはいけない」と拒否してタバコを吸わせないとすると、それはパターナリズムとなります。押し付けなんですね。そういった観点からも、障害者と健常者の関係はとても考えさせられるものですし、それを超えて、人と人との関係とはなにか、にまで繋がる問いにもなっているのでした。
といったところでも本書の導入部までではあるのですが、以下からは引用とそれへのコメントで書いていきます。
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これは往々にしていえることですが、私たちの社会は、「かわいそうな障害者」や「分相応で控えめな弱者」に対しては、とてもやさしい面(温情)があるのですが、社会に対して毅然と主張してくる障害者や、弱者の枠をハミ出すような側面がかいま見えたとたん、平然と冷たくなる特質があります。こうした「あわれみの福祉観」というものから、私たちはなかなか自由になることができません。(p137)
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→この続き部分にもあるのですが、あわれみでみられているということは、なければないに越したことはない存在、という目でみられているということになります。これを解消するための試みをするためには、次に引用しますが、「障害の医学モデル」と「障害の社会モデル」という視座の違いが大きく関係してきます。
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つまり、障害とは、病気やケガなどによって生じる医学的・生物学的な特質であり、障害の重さは、手帳の等級によって示されます。こうした考え方に代表されるような障害のとらえ方を、「障害の医学モデル(または、個人モデル)」といいます。(p139)
つまり、障害者に「障害」をもたらしているのは、その人が持っている病気やケガのせいというよりは、それを考慮することなく営まれている社会のせいともいえるわけであり、こうした障害のとらえ方を「障害の社会モデル」といいます。(p140)
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→社会モデルの方は、社会が健常者のためだけに作られていることに問題を見出すものでしょう。点字ブロック、駅のエレベーター、スロープ、または手話を使える人が増えることなど、社会の側にあるバリアの解消のほうが大事だととらえています。そこには、健常者も障害者もその立場は本来フラットであるものなのだという人権尊重の考え方があります。
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とはいえ、財政難を理由に、給付をしぶり、サービスをできるだけ抑制したがるのは行政のつねです。重度障害者が地域で「普通」に生活するためには、自ら声をあげて介護支給を「勝ち取る」という涙ぐましい努力をしなくてはならない点は、現在でも変わっていません。(p178)
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→世の中の現状維持の力ってとても強くて、そこで自分の権利を主張して認めてもらうためには、多大なエネルギーが必要になるものだということは、法律学の入門書にも書いてありました。仕組み上、そうならざるをえない世界なんです。そんな世界で、権利を「勝ち取って」きた障害者の人たちの努力、労力、そして気持ちの強さには頭が下がると同時に、自分もできるだけそっちの人間でありたく思うのでした。
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あるのは、「価値のある人間・ない人間」という区別ではなく、「価値を見出せる能力のある人間・ない人間」という区別です。(p208)
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→脊髄性筋萎縮症の当事者である海老原宏美さんが2017年、長年の障害者自立を支える活動が評価されて表象された際に、小池都知事にあてた手紙のごく一部分がこの引用です。重度障害者が人目につくことで、彼等の存在意義とはなんだろう? という問いが生まれます。そうして考える機会を人々に与えているのだから、それだけでもまず存在価値がある、とする主張でした。そのうえでさらに存在価値を考えて答えを出していけると、さらに重度障害者の存在価値は高まるでしょう。ここには、相模原の事件へのカウンターの意味があります。p230にもあるのですが、障害者や老人を通して、人と人の繋がりを知れること、繋がり方が学べることってあります。そういったところにも、価値を見出せるか見出せないか、なんですね。
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人は「誰かの(何かの)役に立つ」 ということを通して自分の存在価値を見いだす生き物なんじゃないか、という気がします。でも、役に立てる対象(困ってる人)がいなければ、「誰かの役に立つ」ということ自体ができないので、困っている人の存在というのも、社会に欠かせません。となると、「困ってるよ」ということ自体が、「誰かの役に立っている」ということになりますね。(p242)
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→これも、海老原宏美さんの言葉ですが、だからこそ、世の中には、困っている人と手を貸せる人の両方が必要だというのでした。ほんとそうだと思います。まあ、義務とかではないし、そうしないと肩身が狭くなるものだといけないのですけど、そういった手を貸す人と借りたい人が偏見にさらされないことは大切だろうなあと思うところでした。
他、困っている同志だとか、障害者当事者同士、障害者家族同士などでの相談会、家族会などでやっていることが「ピアカウンセリング」と呼ばれることを本書で知りました。ほんとうは、資格を持ったカウンセラーにも参加してもらうといいんですよ。でも、経済的な理由から、それは難しいのかもしれない。でも、介護の現場を経験している身としては、主張していきたいことだったりします。 -
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最初にこの本を読み始めたときは、わがままな鹿野の介護ボランティアをなぜするのだろうと思った。鹿野は「さらけ出さないと他人の中で生きていけない」と言っていたが、あまりにもボランティアの人の上に立とうとしていたので疑問が大きくなった。そこで、ボランティアの人に目を抜けると、自身がなく「父親が尊敬できないと自身のない子に育つ」という人や楽しそうだからや何かしたいという思いからやっている人まで様々だった。それを作者は、
「ボランティアをする若者は2000年以前は市民運動熱を持った人、2000年は自分探しの人である」と述べていた。
現在、ボランティアをしているのはどのような層なのかと疑問に思った。
この本では、西村秀雄という人が紹介されていた。戦後、戦時中に反戦主張をしていた東大総長に誘われ、東大教官になり、その時にシンポジウムを開いて障害者に接し、障害者を締め出していた事に気づき北海道の身体障害者施設で働き始めた。若者であった鹿野の意見を否定せずにどうしたいかをきいて深く相手を知ろうとした。また、障害者が無視されていたときに障害者に意見を求めるだけでなく、可能性も見出していた。その後、障碍者団体が泣きたいときに1人で泣ける部屋が欲しいという要望がでたため、西村は数々の協力を行った。北海道民政部は危険で法律上できないと言っていたが、実際に生活をしてみることで行政を動かすことに成功した。
このような活動の最前線にいた鹿野が
「主張すれば与えられる。主張しなければ与えられない。だからこそ、主張することを恐れてはいけない」という言葉に感銘を受けるのも納得であった。
本を読み進めていくうちに鹿野が自立を目指すわがままを言うのは当然だという感想を持ち始めた。ここの自立とは誰の助けも必要としないことではなく、自分が決定権を持つことである。そのために自分の生死を握るボランティアを頼るけども同時に憎む、アンビバレントな感情も持つだろうなと思った。
この本を読み切っても障碍者のわがままの範囲の明確な答えは出ていなかった。しかし、これに対処するために自分の常識でダメなことはダメと言いつつも、自身の常識を疑う2面性をもつ必要性がこの本を通して身近に理解できた。
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ネタバレ「こんな夜更けにバナナかよ」の著者による一冊。相模原の事件を冒頭に、障害者たちがどう生きているか、またどう自立生活を文字通り『勝ち取って』いったか、さらにはその制度に甘んじてしまういまの障害者/介助者世代への危機感も書かれている。わたしは自分がASD・うつ病のふたつの障害を持っており、(運良く)自活していることもあって、読みながら「この人は何をいいたいんだ?」とまだるっこしく思うこともあったが(本書に描かれる人たちはほとんどが身体の障害者、というのもあったかもしれない)、振り返ると、人と人との付き合いというものについて、丁寧に論を運んでいた感じがあった。
ニーズがないと「居ない」と思われる。それがいちばん刺さった文言だった。……ただ、それとはまたべつに、守られていなくても、あるいはたとえ「守られていて」いるとされる範疇にあっても、ひと/自分が閉塞感を感じたときそれを打破しようとすることを妨げない/られないことが全体に必要であり、また、実際の付き合いを大切にしていくことの重要性もひしひしと感じた。 -
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2007年09月17日 19:14
どうしてもこういった本は、お涙頂戴になりがちな傾向にあるが本書は全くもってそうではない。
まず、作者が鹿野氏自身ではなく、フリーライター渡辺氏だということに一目置きたい。
作者自身、鹿野氏のボランティアに入り、他のボランティアに徹底的に取材し、ボランティア達が思っていることを書き綴ったところが良い。
また、鹿野氏のわがままとも言わざるを得ない性格がにじみ出ているところも、この本の良いところなのかもしれない。
ただ、いきなり鹿野氏の過去の話になって、小山内氏や「いちご会」が出てきたところなどは困惑する人もいるだろうし、全体的に少し長すぎる。
特にこの過去の部分なんかは削っても良いところがあるような気がした。
後日、この本に感銘を受けた僕は、作者の渡辺氏にメールを出したところ、
お忙しいのにも関わらず丁寧なお返事をいただきました。 -
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筆者の渡辺一史さんは、「こんな夜更けにバナナかよ」の作者である。「こんな夜更けにバナナかよ」は、筋ジストロフィーを患う鹿野靖明さんと、彼が亡くなるまで、彼の介護者として関わった多くのボランティアの物語だ。私は、つい先月に読み、大いに心を動かされた本だ。
「こんな夜更けにバナナかよ」は2003年の発行。本書「なぜ人と人は支え合うのか」は、2018年の発行であり、"バナナ"から15年間が経過している。本書を書いた理由を、渡辺さんは、「それから15年の歳月が流れ、あらためて当時の体験を、もっと広い視野でとらえ返してみたいと思って取り組んだのが本書です。」という説明をしている。
第1章は、神奈川県相模原市で起きた「やまゆり園障害者殺傷事件」を取り上げ、植松被告の主張を実際の障害者の例をひきながら、丁寧に考察している。
第2章は、上記の鹿野さんおよび鹿野さんボランティアの人たちとの出会いを振り返っている。
第3章では、「"障害者が生きやすい社会"は誰のトクか?」と題して、障害者福祉の進展の歴史をさかのぼっている。
第4章では、障害者の表記の問題、「障害者」なのか「障がい者」なのか「障碍者」なのか、ということを、これも丁寧に検討している。
第5章は、総括として「なぜ人と人は支え合うのか」ということについての渡辺さんの現時点での考えが述べられている。それは、支え合うことによって(というか、もう少しシンプルに触れ合うことによって)、人は、また、人と人との関係は変り得るし、成長し合えるからということだと理解した。
渡辺さんは寡作の作家だ。
私の知っている渡辺さんの著作は、「こんな夜更けにバナナかよ」の後は、「北の無人駅から」と本書「人と人はなぜ支え合うのか」だけである。"バナナ"が2003年の発行なので、約20年間に3冊である。書いておられるものを読むと、決して多作にはなれない作家ということは分かるが、もう少し書いて欲しいな。 -
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筋ジストロフィーの鹿野さんがボランティアと共に自立生活を営む姿を描いたノンフィクション。
話の面白い人(著者)が過去に会った面白い人(鹿野さん)を語る時点で面白さは約束されていて、濃厚で、笑えるところもあって、面白かった。
介護という、物理的にも精神的にも人と密接に関わらないといけない現場で、支える側はある種生きる意味を求めて、支えられる側は少しでも自由に普通らしく生きたい、そういう綺麗事じゃないぶつかり合いが人を変える、みたいな。
いや、そういう雰囲気の話じゃないんだけどうまく言えないな…とりあえず、読んで良かったし、とても人に勧めたくなる本。(私も母親に勧められて読んだ) -
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質・量ともに、ずっしりとした一冊だった。
筋ジストロフィー症で42歳で世を去った鹿野靖明さんと、彼の自宅での介護を支えたボランティアをめぐるドキュメンタリー。
次第に症状が重くなっていく彼が、親元ではなく独立して暮らしたいと願う。
制度も十分ではなく、ボランティアに頼って生活する決断をする。
ボランティアなので、いついなくなっても文句は言えない。
プロではない相手に、命を預けることになる。
薄氷の上を歩くような生活、壮絶な挑戦だ。
自分ならー、と思う。
まず、治療法のない神経難病にかかった時点で絶望するだろう。
介護を受ける立場には、将来必ずなる。
おむつ交換をしてもらうとき、申し訳ないと思うだろう。
卑屈になり、生きる気を失うかもしれない。
年老いて受ける介護とはまた違うかもしれないが、自分なら、と思うと、心が平静ではいられない問題だ。
そう考えると、体が弱っていくにつれて、自我が強くなっていく鹿野さんは、只者ではない。
呼吸器をつけていても、トレーニングしてしゃべれるようになるって、いったいどういうこと?
驚嘆しかない。
筆者の渡辺さんは、取材に訪れ、そのままボランティアの一人となっていく。
ボランティアと鹿野さん、そしてボランティア同士のよくもわるくも濃い関係も、生々しく描かれる。
中には違和感を感じ、離れていく人もいたとか。
その中で、繰り返し介護する側とされる側の関係性が問われていた。
また、ノーマライゼーションとは何か、ということも考えさせられる。
十年後くらいに、もう一度読んでみたい。
この本が自分がどれくらい変わったか、世の中がどのくらい変わったかを知る試金石になるだろう。
ただ、そのころには注の字が小さくて、読む気が失せているかもしれないな、とも思う。
本の作りはもう少し何とかしてほしい。 -
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筋ジストロフィーを患った重度の身体障害者と彼を支えるボランティアの生活を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』で2003年にノンフィクション作家としてデビューした著者の3作目(20年弱に渡る活動の中で著者が3作しかないというのも凄いが、それは著者の過去2作がどれだけ凄い作品であるかということの証明でもある)。
大泉洋の主演による2018年の映画化を受けて、改めて障害者について考えたいという著者の思いをベースに、2016年に発生した相模原での障害者施設の大量殺人事件で犯人が問うた「障害者の存在価値とは何か?(価値など存在しないのではないか?)」という命題が考え抜かれている。
本書の最終章ではこの命題に対するあざやかな回答として、「価値がないと考える人には、価値を見出す能力がないだけではないか」という考え方が示される。我々は単なる地形の隆起に過ぎない富士山に対して、勝手に価値を見出している。自然現象に限らず、芸術もその典型例であろう。価値とは先験的に存在するものではなく、それを解釈して見出す側がいて初めて存在する。物事から価値を見出すというのは人間存在における重要な思考の役割の1つであり、価値を見出せないのならば、自らの思考の浅はかさを呪った方が良いということだろう。
いたずらに結論を急ぐことなく、『こんな夜更けにバナナかよ』以降に著者が考え続けてきたことが、ゆっくりとした筆で語られることで、こちらの内面にも著者の思考が浸透してくる良書。 -
Posted by ブクログ
なぜ人と人は支え合うのかという大命題を解いていく。といっても答えは載っていない。ちくまプリマー新書だけに示唆的にいくつか障害者との事例を出したり、制度のことや「しょうがい」に当てる漢字についても取り上げている。ちょうど執筆時期(といっても5年かかっているらしいけど)と重なっていたこともあってか、津久井やまゆり園事件についても特に殺害を図った植松聖についても触れている。
私もかつて障害者の家で泊まり込み介助らしきことをやっていたから、渡辺さんと『こんな夜更けにバナナかよ』の鹿野さんとのつき合いの様子などは、当時のことを思い出し、うなずけたり懐かしく思うことが多かった。
「しょうがい」に当てる漢字については、私の今の認識は渡辺さんと似ていて、過剰に意識することなく使えばいいと思っている。何よりも障害者自身が、「障がい」という書き方をそれほど望んでいなかったとは。こういう似非配慮らしきものが世のなかと障害者をよけいに隔絶してしまうのだと思う。
それを思えば、植松さん障害者とかかわっていたわけで、その末の曲解であろうとも、それを障害者にやさしくとか口では言いながら、かかわることなく過ごしている人が非難するのってどうなのって思う。法治国家(?)の日本で人を殺したのだから刑は科されるものだろうけど、彼なりの実体験から導かれた障害者観は、間違った考えと一刀両断にできるものでもないと思う。……この件、この本の感想とは関係ちょっと脱線してしまった。
渡辺さんはたぶん考えはめぐらすけど答えはあえて出さない人のような気がした。答えを出すということは、言い換えれば決めてしまうことであり、その答えにとらわれてしまうと物事を見る目が不自由になってしまうと思う。優柔不断に思われがちだけど、そんなところに勝手にシンパシィを感じ、考えあぐねながら書いたであろう文章にやさしさを感じた。