渡辺一史のレビュー一覧
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ネタバレ鹿野さんは筋ジストロフィーでありながらも一人暮らしをするため、沢山のボランティアを育成し、交代で入らせているという取り組みをしていました。ボランティアは揉めることも多かったそうです。鹿野さんが好き勝手な欲求(だけど体が自由なら誰もが意識しないままできてしまう、例えば真夜中にバナナを食べたいというような)を、ボランティアにどんどんぶつけていたからです。
鹿野さんの家は、人間関係のぶつかり合いの場だったと文中にありました。色々な思いでボランティアに参加する人がいて、介護に自分の存在意義を見出そうとしてくる人もいたし、逆に鹿野さんが女性ボランティアに告白して困惑させることもあったとのことです。
著者は、鹿野さんとボランティアたちが互いの要求を拒絶したり、対立したりする様子を見て、これこそが介護される側とする側の対等で健全な関係性だと思ったそうです。それに完全に同意するかと言われれば、そうでもないのですが、著者の視点は私にとって新機軸だったので、星5をつけました。 -
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「こんな夜更けにバナナかよ」の著者の作品。「こんな〜」は数年前に興味深く読んだ。
この本は、「こんな〜」の主人公であった鹿野さんとの関わりを通じて、障害者福祉に関心を深めた著者が書いた作品。
「努力して障害を克服すべきなのは、障害者本人というよりは、まずは社会である、といあ視点でものごとを考えてみることが大切です。」
「それは、障害者に『価値があるか・ないか』ということてはなく、『価値がない』と思う人の方に、『価値を見出す能力がない』だけじゃないかって私は思うんです」
「人は「誰かの(何かの)役に立つ」ということを通して自分の存在価値を見いだす生き物なんじゃないか、という気がします。でも、役に立てる対象(困ってる人)がいなければ、「誰かの役に立つということ自体ができないので、困っている人の存在というのも、社会には欠かせません。となると、「困ってるよ」ということ自体が、「誰かの役に立っている」ということになりますよね。つまり、世の中には「困っている対象者」と「手を貸してあげられる人」の両方が必要なんです。(略)
一生困ったことがない人なんていないんだし、一生困ってる人を助けるだけの人だっていない。それが「平等」ということ。」
抜き書きだが、本当にそうだと思う。
価値を示す方ではなく、見出す方に責任があると私も思う。 -
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映画を観てからこの本を読んだ。
映画やアニメを観ると、その原作を読みたくなるタイプだ。
正直、今の私に刺さるものが多かった。
映画以上に学びがあった。
医療機器や福祉サービスなど、知らなかったことが多かった。
親を遠ざけたくなる気持ちなど、共感できることも多かった。
私は、彼ほどストレートに発言したり、感情を出したりはできない。
それでも、見習うべきところが多いと思った。
私は今現在、入院中である。
呼吸器こそ必要ないが、寝たきりになってしまったし、吸引器も欠かせない。
「家に帰りたい!」と言い続け、やっと明日、家に帰れる。
「いつでも救急車で戻ってきたらいい」などと言われたが、できる限り在宅生活をしていきたい。
訪問看護と訪問医、ヘルパーさんたちにお世話になる。
訪看さんたちとは、1年以上の付き合いだが、訪問医やヘルパーさんとは初めましてだ。
私に関わる人たちはボランティアではないけど、これからみんなで、いかにして在宅生活をしていくか、試行錯誤が始まる。
鹿野さんのように、自ら行動を起こしてきた人たちのおかげで、今の福祉や制度になってきたことを知り、本当に感謝している。
まだまだ制度が足りず、苦労することも多いけど、10年前、20年前に比べれば、かなり良くなっているんだろうことがわかった。
「主張すれば与えられる。主張しなければ与えられない」
本当にそうだなと思うことが多々ある。
ダメ元で、主張してみる。
私も自立できるように、自分の人生をどうしたいか考え、行動していきたい。 -
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真剣に生きる1人の障碍者の生き様 筋ジストロフィー患者の鹿野靖明は6歳で発症し、20歳まで生きられないと言われた。
筋肉の力がだんだん弱まっていく病気のため、寝返りもうてない。体位を交換するためには介助が必要で、その介助にはボランティアがあたる。
医大生の田中とその彼女、美咲は鹿野のボランティアを通して自分の生き方や様々な困難を乗り越えていく。
本書はノンフィクションと原作を基にした映画の脚本のため様々な脚色がなされている。
しかし、病院でただ世話されるだけの人生を否定し、自宅で自分の思うがままの人生を送りたいと願い、実際にそのように振る舞う鹿野の言動はいつも真剣で、自分の生に正直過ぎるぐらい正直である。
その姿をわがままと見る人もいるのは仕方がない。そんなことは鹿野も承知だ。ただ、どう思われようとも「障碍者が幸せに生きてはいけない」ことなんてないのだから、幸せを真っ直ぐに追い求める姿は日々の日常を漫然と過ごしている健常者よりも健全で眩く輝いて映る。
そして初めはそれに振り回される人々も、鹿野の生きる真剣さに熱をうつされ、鹿野の願いを叶えてあげたいというボランティアの願いを持つようになる。
生き方に迷っている人、今の生活に張りがない人、そしてボランティアの在り方に興味を持つ人にオススメの一冊だ。 -
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ネタバレこれまで、「障害者」と触れ合う機会がなかった私にとって、いい意味で固定観念が覆される本であったと感じた。
鹿野さんのボランティア(鹿ボラ)として働く人々にもその人たちなりの悩みがあり、いわゆる健常者と障害者が密接に関わるシカノ邸は様々な葛藤や価値観のすれ違いが生じながらも精神的にも身体的にも他のどこよりも"前進"ができる場所であったと確信できた。人によって"普通"の基準は異なるが、障害者と健常者の間のそれは著しく異なる。鹿ボラの1人である斎藤さんはその"普通"境界を均すことが障害者を理解するということであるとした。長年ボランティアとして鹿野さんを支えてきた者でもそれを理解するだけでも長い年月を要してきたのに、ベテランと新米の入れ替わりが激しいこの地でのすれ違いを阻止する術はない。
ボランティアとして取り上げてきた幾人の人々の中でも考え方が異なる。国枝さんと斎藤さんがその両極端に位置するならば、その間にそれぞれのボランティアの考え方があるというのには強く同感した。
障害者を神聖な者として扱ったり捉えたりする人は少なくない。現に私もそう捉えてきた人の1人である。遠藤さんにはその考え方がなく常に鹿野さんを1人の人として付き合ってきた。例えば、鹿野さんが口にするわがままを全て受け止めずに拒否をする時は拒否をする。こうした遠藤さんらの態度は鹿野さんにとっても嬉しいものなのではないか。これまで健常者が享受してきた一般的な教育を受けてこなかった障害者にとって、どこでどのように自分の気持ちを制するのか、どこでこのように接すると人間関係が上手くいくという私たちにとってのいわゆる"普通"は通じない。それをどこまで教えるのかというラインは非常に難しいものであるが、壁を感じさせないようにする試みは必ずしなければならないものではないか。
思いのままに綴ったが文章がまとまらないので、推敲はまた別の機会にしようと思う。 -
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雨宮処凛の相模原事件の裁判傍聴記に、著者について言及があった。10年以上も『こんな夜更けにバナナかよ』を読もうと思いながら積読。そうこうしているうちに映画化されてしまい、あらら映画になっちゃった、でも映像じゃなくて自分で読みたいから映画は見ない、と決めていたので、鹿野さんとボランティアの話は大枠では知っていたけど『~バナナかよ』は読めてなかった。そんな負い目(?)もあり、読んでみようと思った。
一応私も専門職だから、障害について、3章4章に書かれていることは皆ひと通り、歴史や変遷、考え方も含めて学んできたし、それなりに理解しているつもりだった。わかっていたはずのことだけれども、いざ本書で取り上げられている当事者の声に触れると、その本質が深く心に刺さってくる。初心にかえる、ではないけれど、改めて人が社会で生きることについて考えさせられた。
社会や経済は、必要とする人がいて提供する人がいるから成り立っている。どんな人もどちらの立場にもなっているんだということを、現代人は忘れてしまっている。
「人は誰かを支えることによって、逆に支えられている」というのは、その経済的な面を超えて、人の存在意義にも通じている。ヘルパーセラピー効果もつまりはこういうことだし、私自身、誰かを支援するって、究極は自分のためにやっている。支援者として働くことで、金銭的な面以外で、私が受け取っている金銭以上のものが確実にあることを、常々感じている。
本書でも言われている「人間っていいものだな」という感慨を得る機会がたくさんあり、そして、人との関わりが自分に与えてくれる豊かさは、他のなにものにも変えがたい。
海老原宏美さんの、「障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく、『価値がない』と思う人のほうに、『価値を見いだす能力がない』だけじゃないか」という言葉は、真理を突いているよね。かの被告に聞かせてやりたいわ。
さて、今度こそ『〜バナナかよ』を積読から解放しますか。 -
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ネタバレ壮絶な生き様だと思った
そういう人生を選んで生まれてきて、他人の心を美しくするために生まれてきたような人
私にはそんな感じがするけど、美化してはいけないと、シカボラのメンバーさんが言っていたのでそうなのかなぁ
著者のあとがきにも、堂々めぐりと書かれていたけど、けっこう堂々めぐりだなーとは思いながら読んだ
実際答えがなくて、重度身体障害者福祉の考え方や社会としてのあり方、人としてどう生きるか、人としての主体性をどこに保つか、など考えはじめたら、無数の答えがあると思う
だからノンフィクションとはいえいろいろ堂々めぐりだった
知らないことだらけど、普通に知ることからはじめればいいのだと思う
知らせないから、海外のようになれない日本がいるのではないかとも思う
本人も、家族も、知らせて助けを求めて、そして助け合っていけたらいいなと思う
きれいごとみたいだけど
鹿野さんの生き様通り、そんなに日本人は悪い人たちではないと感じるから
最後まさか旅立つと思っていなかったからだいぶ泣いてしまった
ボコボコにされただろうと思うけど会ってみたかった
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今日、インターネット上に渦巻く次のような「問い」にあなたならどう答えますか?
「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を救おうとするのですか?」
気鋭のノンフィクションライター渡辺一史が、豊富な取材経験をもとにキレイゴトではない「答え」を真摯に探究! あらためて障害や福祉の意味を問い直す。
障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。
福祉というのは、年をとったり病気になる可能性を秘めた将来の自分自身や家族のための保険であり、不安のない安定した社会を作るための社会投資で、能力差を補い合う支え合いという社会の柱になるもの。
相模原障害者殺傷事件の植松聖被告は、「重度障害者は意思の疎通が出来ない」と断言しているが、筋萎縮側索硬化症の橋本みきおさんは「唇の形から文字を読み取りコミュニケーションする」口文字、植物状態から生還した天畠大輔さんは「あかさたな話法」、障害者は障害を逆手に取って自分に摘したコミュニケーション法で意思疎通している。
介護とは、単純にお世話するされるという関係ではなく、介護される側が自分の意思を介助者に伝えて、介助者と話し合いながら介護内容を決めてより良い人生の過ごし方を模索し実行していくこと。また人生経験豊富な介護される側が、介助者の相談に乗ったり介助について知らないことを教えたりなど、介助される側が介助する側を支えたり教えたりする相互が影響し合う関係でもある。
障害者と健常者の間に明確な線引き出来る境界線が、あるわけじゃない。医療の発展により病気を抱えた状態で何年も生きていられる人が増えている。職場環境に馴染めずストレスを上手く解消出来ず内科の病気やうつ病などになったり、身体的に健康的でも精神的に不安定で生きずらさを引き摺ったりしてうつ病などになり学校や会社を辞めたりして人生が上手くいかないで苦しんだり、植松被告のように「健常者だから生きている価値がある。障害者にはない」というのは一面的で現実的ではなく存在価値というのは簡単に答えが出せるものではない。
その他にも、障害者の絶えない要求と運動によって前進してきた福祉制度と障害者運動の歴史を、駅にエレベーターをつける「交通アクセス運動」や脳性麻痺者の人権や生存権を訴えた「青い芝の会」などを通して描く章や何故世間はかわいそうで健気な障害者には優しく自己主張する障害者に冷たい「あわれみの福祉観」から自由になれないか考察した章など、きれいごと抜きであらためて障害者福祉の意味を問い直すノンフィクション。
「障害者のために駅につけたエレベーターが、老人や大きい荷物を持った人にも役立てているように、障害や老いや病気を個人の問題ではなく社会全体の問題として受け止めて、やがてお世話になる保険として福祉や社会保障を考えることが大事ではないか」 -
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筋ジストロフィーを患う鹿野靖明さんと、彼が亡くなるまで関わった多くの介助ボランティアの人たちとの物語である。
筋ジストロフィーは、全身の筋肉が衰えていく進行性の疾患であり、有効な治療法は見つかっていない。筋肉が衰えていくと、歩けなくなり、手が使えなくなり、呼吸に必要な筋肉が衰えて自力での呼吸が出来なくなる。鹿野さんは、自力呼吸が出来なくなり、人工呼吸器を装着している。使える筋肉は、両手の指が少し動く程度なので、日常生活で自力で出来ることはほぼない。唯一、自分で出来るのはしゃべることだけであり、しゃべることによって、自分のして欲しいことを、介助者に伝えることは出来る。
そういった状況のなかで、鹿野さんは、施設や病院ではなく、一人暮らしを選択する。勿論、自分の力では生きていくことは出来ず、24時間の介助を必要とする。その介助者の多くがボランティアなのである。24時間を3交代制で組むと、1日に必要な介助者は3人。実際には負担の大きい夜勤は2人体制を組むので、必要数は最低でも4人となる。1週間で28人。学生のボランティアが多いので、試験期間中や学校の休みの期間中は、人の手配が大変大きな課題となる。人の数だけではなく、習熟度も勿論問題となる。ある程度の知識とスキルがないと、鹿野さんの介助者にはなれない。入れ替わりの多いボランティア1人1人に、そういった知識とスキルを身につけてもらうための教育が必要であり、それは当たり前ではあるが、簡単な話ではない。
その介助の現場は一筋縄ではいかない。鹿野さんはして欲しいことを言葉で伝えるしか出来ないが、気が利く介助者かそうでないかにより、介助の質が大きく異なってくる。自分で何も出来ないからこそ、これは非常に大きなストレスとなる。また、ボランティアの介助者なしには、基本的に1日も生きられないが、介助に必要なボランティアを集めることは容易ではなく、これもストレスとなる。鹿野さんは、遠慮しない人である。ボランティアの介助のうまい下手について、歯に衣を着せずにボランティアに言う。鹿野さんもストレスを感じながら言っている訳であるが、言われたボランティアの方も、非常にストレスを感じる。せっかく善意でやって「あげているのに」と思うが、ボランティアをやっているうちに、それなしでは鹿野さんが生きられないこと、だから鹿野さんが、ある意味命がけでボランティアと接していることを理解する。理解はするが、納得は出来ない。更には生身の人間同士なので、相性の良し悪し等もある。
本書は色々な読み方の出来る本である。例えば。
鹿野さんというキャラの立った人物の物語として読める。鹿野さんの病気で、鹿野さんの症状で一人暮らしをするのは、ある意味では常識外れなことであるが、それを要求し続けることによって実現した鹿野さんの物語。
逆に、ボランティア、あるいは、介助者たちの鹿野さん介助を通しての気づきや成長の物語としても読める。
また、鹿野さんとボランティアを中心とした介助者の人間関係を描いた物語としても読める。
更には、日本の福祉制度に対しての問題提起の物語としても読むことが可能だ。
筆者の渡辺一史は、上記の全てを書いているが、何かに偏った書き方はしていない。本書はあとがきまで含めると546ページに及ぶ大部の本である。何か特定の視点に寄らず、色々な視点で、色々な物語を書いている。だから、分厚い、ボリュームの大きい物語となったのだと思う。
最近読んだノンフィクションでは、一番好きになった本だ。 -
Posted by ブクログ
夢中で読んでしまった。心情的には星7くらいは付けたい。
恐らくこの本の一番のポイントは’バランス’だと思う。
著者・渡辺一史 氏がこの親本を執筆された当時はまだ30代前半から半ば、福祉や医療分野にはさしたる興味や知識があった訳ではなく、「日々を切実に、ギリギリのところで生きている人に会ってみたい」(p13)という動機から取材が始まったとある。
こういった背景だったからこそ、客観的立場かつ’ごく一般的な感覚で’シカノさんやボランティアと接する事が出来たのではないだろうか。
とりわけ難病や障害、福祉を題材にとった文章や取材だと、どうしたって当事者側に寄り添った内容になるのは当然で、ただし、それが入り込み過ぎると過剰な「美談」や障害者や福祉従事者・ボランティアを「神聖視」したものになってしまい、それはそれで偏見に繋がっているという点は改めて納得。(p141、p149、p376)
そういった全てを包括していて、かつポップな印象も感じられる本書のタイトルは実に秀逸な題付けだと思う(実際に国吉氏が発言したかは怪しいらしいが…)。
惜しむらくは、もうシカノさんがいないという事。
が、「俺は死なない」という言葉通り、本作に触れた人の中にはきっと強烈に存在が刻まれる事だろう。
実写映画未視聴だが大泉洋 氏は配役ピッタリだと思う。
小山内美智子氏の著作も読んでみたい。
4刷
2021.8.27