あらすじ
障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。
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「こんな夜更けにバナナかよ」の著者の作品。「こんな〜」は数年前に興味深く読んだ。
この本は、「こんな〜」の主人公であった鹿野さんとの関わりを通じて、障害者福祉に関心を深めた著者が書いた作品。
「努力して障害を克服すべきなのは、障害者本人というよりは、まずは社会である、といあ視点でものごとを考えてみることが大切です。」
「それは、障害者に『価値があるか・ないか』ということてはなく、『価値がない』と思う人の方に、『価値を見出す能力がない』だけじゃないかって私は思うんです」
「人は「誰かの(何かの)役に立つ」ということを通して自分の存在価値を見いだす生き物なんじゃないか、という気がします。でも、役に立てる対象(困ってる人)がいなければ、「誰かの役に立つということ自体ができないので、困っている人の存在というのも、社会には欠かせません。となると、「困ってるよ」ということ自体が、「誰かの役に立っている」ということになりますよね。つまり、世の中には「困っている対象者」と「手を貸してあげられる人」の両方が必要なんです。(略)
一生困ったことがない人なんていないんだし、一生困ってる人を助けるだけの人だっていない。それが「平等」ということ。」
抜き書きだが、本当にそうだと思う。
価値を示す方ではなく、見出す方に責任があると私も思う。
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「自立とは、誰の助けも必要としないということではない。どこに行きたいか、何をしたいかを自分で決めること」
何ができないかより「何ができるか」が大事だと、勇気をもらいました。
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雨宮処凛の相模原事件の裁判傍聴記に、著者について言及があった。10年以上も『こんな夜更けにバナナかよ』を読もうと思いながら積読。そうこうしているうちに映画化されてしまい、あらら映画になっちゃった、でも映像じゃなくて自分で読みたいから映画は見ない、と決めていたので、鹿野さんとボランティアの話は大枠では知っていたけど『~バナナかよ』は読めてなかった。そんな負い目(?)もあり、読んでみようと思った。
一応私も専門職だから、障害について、3章4章に書かれていることは皆ひと通り、歴史や変遷、考え方も含めて学んできたし、それなりに理解しているつもりだった。わかっていたはずのことだけれども、いざ本書で取り上げられている当事者の声に触れると、その本質が深く心に刺さってくる。初心にかえる、ではないけれど、改めて人が社会で生きることについて考えさせられた。
社会や経済は、必要とする人がいて提供する人がいるから成り立っている。どんな人もどちらの立場にもなっているんだということを、現代人は忘れてしまっている。
「人は誰かを支えることによって、逆に支えられている」というのは、その経済的な面を超えて、人の存在意義にも通じている。ヘルパーセラピー効果もつまりはこういうことだし、私自身、誰かを支援するって、究極は自分のためにやっている。支援者として働くことで、金銭的な面以外で、私が受け取っている金銭以上のものが確実にあることを、常々感じている。
本書でも言われている「人間っていいものだな」という感慨を得る機会がたくさんあり、そして、人との関わりが自分に与えてくれる豊かさは、他のなにものにも変えがたい。
海老原宏美さんの、「障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく、『価値がない』と思う人のほうに、『価値を見いだす能力がない』だけじゃないか」という言葉は、真理を突いているよね。かの被告に聞かせてやりたいわ。
さて、今度こそ『〜バナナかよ』を積読から解放しますか。
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今日、インターネット上に渦巻く次のような「問い」にあなたならどう答えますか?
「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を救おうとするのですか?」
気鋭のノンフィクションライター渡辺一史が、豊富な取材経験をもとにキレイゴトではない「答え」を真摯に探究! あらためて障害や福祉の意味を問い直す。
障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。
福祉というのは、年をとったり病気になる可能性を秘めた将来の自分自身や家族のための保険であり、不安のない安定した社会を作るための社会投資で、能力差を補い合う支え合いという社会の柱になるもの。
相模原障害者殺傷事件の植松聖被告は、「重度障害者は意思の疎通が出来ない」と断言しているが、筋萎縮側索硬化症の橋本みきおさんは「唇の形から文字を読み取りコミュニケーションする」口文字、植物状態から生還した天畠大輔さんは「あかさたな話法」、障害者は障害を逆手に取って自分に摘したコミュニケーション法で意思疎通している。
介護とは、単純にお世話するされるという関係ではなく、介護される側が自分の意思を介助者に伝えて、介助者と話し合いながら介護内容を決めてより良い人生の過ごし方を模索し実行していくこと。また人生経験豊富な介護される側が、介助者の相談に乗ったり介助について知らないことを教えたりなど、介助される側が介助する側を支えたり教えたりする相互が影響し合う関係でもある。
障害者と健常者の間に明確な線引き出来る境界線が、あるわけじゃない。医療の発展により病気を抱えた状態で何年も生きていられる人が増えている。職場環境に馴染めずストレスを上手く解消出来ず内科の病気やうつ病などになったり、身体的に健康的でも精神的に不安定で生きずらさを引き摺ったりしてうつ病などになり学校や会社を辞めたりして人生が上手くいかないで苦しんだり、植松被告のように「健常者だから生きている価値がある。障害者にはない」というのは一面的で現実的ではなく存在価値というのは簡単に答えが出せるものではない。
その他にも、障害者の絶えない要求と運動によって前進してきた福祉制度と障害者運動の歴史を、駅にエレベーターをつける「交通アクセス運動」や脳性麻痺者の人権や生存権を訴えた「青い芝の会」などを通して描く章や何故世間はかわいそうで健気な障害者には優しく自己主張する障害者に冷たい「あわれみの福祉観」から自由になれないか考察した章など、きれいごと抜きであらためて障害者福祉の意味を問い直すノンフィクション。
「障害者のために駅につけたエレベーターが、老人や大きい荷物を持った人にも役立てているように、障害や老いや病気を個人の問題ではなく社会全体の問題として受け止めて、やがてお世話になる保険として福祉や社会保障を考えることが大事ではないか」
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知的障害者のお子さんを持つ友人がいるのだが、傍から見ると大変だろうなと思うけど、彼女は全然大変そうにしていない。いつも穏やかで、そのお子さんの成長をとても楽しみにしている。お子さんは意味のある言葉をしゃべることはないけど、感情表現が豊かで、悲しい曲が流れると声を上げて泣く。楽しい曲が流れると全身を使って喜びを表現する。友人とお子さんを身近に感じて、この本を読むことでより深く考えさせられた。
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素晴らしい新書だった。いろんな人に配りたい。
障害者の話?と倦厭している人にも「人間のコミュニケーションの話だよ」と強くすすめたい。
福祉とか介護とかの話題には、なぜか偽善的な思い込みがつきまとう。しかし、なぜそう思うのか? なぜ私たちは(本音は)障害者を避けようとしてしまう、あるいは深く考えまいとしてしまうのか?
著者はそんな「普通」の感覚にひとつひとつ向き合い、障害者のリアルを紹介していく。そして、「障害」は障害者自身にあると考えるのではなく、それを受け入れる能力のない社会にこそあるのかもしれない、という考え方があることを鮮やかに教えてくれる。
「障害者は高齢社会の水先案内人」など、社会が障害者と向き合い制度を改善していくことのメリットも多く書かれている。
具体的で豊富なエピソード、データに基づく客観的な意見など、とても建設的な内容となっているのも素晴らしい。そしてまさに「出会いによって人生が変わる」ことが描かれており、読み物としても大変胸が熱くなる本だった。
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購入後に、こんな夜更けにバナナかよ、の著者の著書ということに気づいた。ケアがわかる本として映画を勧められて観たが、さらに理解が深まった。
障がい者のために税金を負担することの考え方など、ライター経験の長い方だからこそ書ける親近感を持てる内容と思う。
長い人生のなか、一度は読んでおきたいと思えた。子どもよりも、むしろ大人に読んで欲しい。
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福祉が芽生える瞬間とは、思わず誰かを支えたいと思って行動してしまう時のことだ。
つまり福祉の定義は「誰かを支えようとした行動」と言い換えることができる。
1章には2020年3月末に死刑判決を受けたやまゆり園事件の植松死刑囚の話が出てくる。
意思疎通のできない人間は「人間」ではない。だから殺した、という植松死刑囚の主張はメディアでも連日取り上げられた。
高い生産性を発揮する人間にこそ価値があるという近代資本主義の考え方に染まっていると、この主張にすぐさま反論することは難しいと思う。自分もそうだった。
だが、この本を通じて、
・障碍者の存在理由は?
・なぜ障碍者に手を差し伸べるべきなのか?
・障碍者の存在が社会をよりよくした事実
・障害を通じて考える本当の「自立」とは
・他者を支えることで感じる生きがい
・サービスを仕組化(サービス提供者と対価を支払う人の関係)することによる当事者同士の思いやりや本音でのぶつかり合いの欠落
・多様性を認め、気が付かなかった価値を発見しようとする姿勢
などと今まで考えてこなかったことを考えさせられた。
良い本だった。
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あわれみの福祉感、まさに、自分の中にあった障がい者への気持ちを言い当てられた具合の悪さがあった。
確かに、かわいそう、気の毒、頑張ってる、24時間テレビ的な、きれいごとが私の中の障がい者に体する意識としてあった。
後半の海老原さんの人サーフィンして生きる姿はたくましい。
ものを頼むというのは、生きていく中でもっとも神経をすり減らす作業の一つです。という言葉が刺さる。
実際、健常であることは永遠ではない。自分や、身近なひとが障がい者になったとき、
健常でなくなっても、どれだけ同じように他者と関わって行けるか=自分と障がい者の関わり方として考えないと…。
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『なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える』渡辺一史
先日公開されていた映画『こんな夜更けにバナナかよ』(未見)の原作者であり、ジャーナリストの渡辺一史さんによるビギナー向けの新書。
映画の中で描ききれていなかった障害者の自立生活へ向けた運動の歴史、声を挙げる運動あってこそ駅のバリアフリーが普及し、ベビーカーや高齢者も恩恵を被っていること。「障害者・障がい者・障碍者」の表記の議論について。言葉を選ぶことで「いい人(ちゃんと配慮している人)に見られたい」自分を見破られ、戸惑う。
相模原の施設で起きた殺傷事件から、ネットでは見るに耐えない言動が撒き散らされる中、「その人に価値があるか無しかではなく、価値を感じられる人間がいるかいないかだ」とひとり一人に問いかけてくる。
この本についてはあれこれ書けば書くほど嘘っぽくなるので、読んでほしいとしか言いようがない。いろんな事件の中で「役に立つものしか認めない」風潮が見え隠れする、「今」の空気に、流されないためにも。
もう亡くなって数年経つが、直前まで元気だった義母が脳出血で倒れ、あっという間に人の助けがなければ生活を営めなくなった時、福祉が行き届いた社会を作ることは「明日の家族や自分のためでもある」と痛感した。
ゆる夫は、重度の障害を持つこどもたちのデイケアで勤めている。主体的に仕事をしようとしないまま生きてきた彼が、「俺がおらんと(職場が)回らへんねん」と自分の意志で仕事を続けている。
こどもたちの生活を支えると同時に、彼も支えられている。塾講師時代、何度も中学生に教えた吉野弘の詩『生命は』の1フレーズが浮かんでくる。
「生命はすべて/そのなかに欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」
書き手自身が答えを模索する旅に、同行する気持ちで読んだ本だった。
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駅のエレベーターも最初はコスト的にムリ、次に車椅子で来たら突き落とすぞ(すごい言葉…)、と言われていたものが、今ではすっかり普通に。求めなければ与えられない。「社会に生かされているだけでもありがたい…」と遠慮していてはダメなんだと。
障害者は生きる価値がない、というのであれば、あなたにどんな生きる価値があるのかを示してください、という問いがおもしろい。
誰かを支えることで、自分が幸せになれる。一億円積まれてもやらない人はやらないが、一億円積まれなくても「あ、やりますよ」という人間はいる。人間関係というのは単純なものではない、と思いました。
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これだから、福祉の本はやめられないなあ、という本。
すごい人がたくさん出てくる。思いもよらなかった視点を持っていたり、行動力が半端なかったり、忍耐力もすごかったり。
私はいま、心に余裕がないが、社会福祉の最前線を知るたびに、不思議と生きていることへの無前提の肯定が得られる。
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映画の『こんな夜更けにバナナかよ』の作者が書いた本。
相模原の事件犯人に反論することも含めて、障害者の価値
についても書かれてある評論。
とても有意義な内容だと思います。常々私自信も
障害者は、社会のリトマス試験紙というか、生きづらさに
悩む人たちに対する対応は、社会全員に有意義な対応になり
得ると思っています。
こういう考えというか、感じ方ができる人や社会が
作られていけば、本当にいいなあと思います。
皆さんに読んでほしいと思います。
Posted by ブクログ
障害については色々あって、割と詳しいのだが、障害の社会モデルや、「役に立たない」論、障害者福祉政策の変遷など、分かりやすくまとまっていた。
同著者の「こんな夜更けにバナナかよ」も映画化され、今までの障害者観が変化しつつある現在、本書で多くの人に障害について知ってもらえたら嬉しい。
Posted by ブクログ
「障害」、「障害者」を考えていくことで、「なぜ人と人は支え合うのか」という根源的でもある深い問いへのひとつの答えがでてきます。
本書の始点と終点はまさにその根源的な問いかけとそれに対する著者なりの答えとなっています。その二点を結び付ける線にあたる部分が本書の大半にあたり、それは思索や当事者たちの経験であり、文章の中に豊かに息づいていました。
はじめに語られるのは2016年に相模原で起こった障害者19名を殺害した事件「やまゆり園障害者殺傷事件」。犯人の植松死刑囚は、「障害者なんていなくなればいい」とその動機を語ったとか。こういった考え方は、本書に登場する哲学者・最首悟さんが「実は多数派かもしれない」と言っています。確かに僕にも、この事件が起きたとき、「間違ったことだ」と思いつつも、はっきりと何がいけないのかを言葉で説明・主張できなかったところがありました。それだけ、社会のシステムが健常者視点で作られていますし、経済ファーストの価値観が浸透しているためなのだろう、と今では考えられるのですが。また、蛇足ではありますが、植松死刑囚は自己愛性パーソナリティ障害及び他のパーソナリティ障害を抱えていると診断されていますし、大麻にも手を出していて高揚した気分で犯行に及んだようです。そして、収監後の接見などでわかったこととして、
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つまり、人に自分の意見は述べる、しかし、相手からの反論は受け付けない。そうした姿勢が植松被告の主張を成り立たせている根幹にはあるようです。
このことは、まず第一に知っておくべき、この事件の重要なポイントです。(p55)
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という性質があげられています(蛇足ついでにもうひとつ言うと、僕の父がこのタイプで、やっぱり差別や暴力のある人なのでした)。
この事件によって、たとえばネットには、植松死刑囚の考え方を是とするような書き込みが増えて見受けられたそうです。
「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」
「どうして強い人間が、弱い人間を生かすために働かなきゃならないんですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では、弱者を救おうとするのですか? すぐれた遺伝子が生き残るのが、自然の摂理ではないですか?」
以上がその一例として記されていました。こういった素朴で露骨な問いには、一見モラルやデリカシーに欠けているかのように思えますが、障害者や健常者問わず、人間の存在意義(質問を発した人たち自身の存在意義でもあります)に対しての大切な省察につながる機会が得られるのではないか、という視点が宿っているとも考えられます。本書はそこから一歩ずつ、思索や考察の道へと踏み込んでいくものとなっていました。
著者は札幌で、鹿野さんという重度身障者を紹介されて、介助も経験することになっていきます。鹿野さんは自分の介助や世話をしてくれるボランティアを探さないと自分が自立して生活していけないため、どんどん学生や主婦などを巻き込んでいく人です。そればかりか、夜中にバナナが食べたい、だとか要求する遠慮のない人でもあります(映画化もされた『こんな夜更けにバナナかよ』は著者によるもので、鹿野さんとの経験が語られた内容だそうです)。
鹿野さんが亡くなったのが、2002年で、42歳でした。僕はその時代学生で、札幌でアルバイトをしていました。バイト仲間の北大生なんかが、こそこそと鹿野さんの話をしていたような気が今思いだすとするのですが、でもまあ記憶違いかもしれません。もしも記憶違いじゃなければ、バイト仲間のなかでもボランティアに誘われた人たちがいたのでしょう。
閑話休題。そんな身障者の生き方から感じられるのは、自分が、障害者って社会に気遣いながら控えめに生きていくものだ、という考え方を知らないうちに身につけているっぽいぞ、ということです。障がい者は我を張ってはいけない、なぜなら健常者や社会の世話になっているから、という強者の論理を、僕くらいの中年世代なんかは無意識に身につけていたりするものではないでしょうか。依存する者、依存される者という立場は固定されていると信じている。また、鹿野さんは呼吸器をつけながらもタバコを吸うからくれ、と要求する人ですが、これについても、介助側から「それはいけない」と拒否してタバコを吸わせないとすると、それはパターナリズムとなります。押し付けなんですね。そういった観点からも、障害者と健常者の関係はとても考えさせられるものですし、それを超えて、人と人との関係とはなにか、にまで繋がる問いにもなっているのでした。
といったところでも本書の導入部までではあるのですが、以下からは引用とそれへのコメントで書いていきます。
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これは往々にしていえることですが、私たちの社会は、「かわいそうな障害者」や「分相応で控えめな弱者」に対しては、とてもやさしい面(温情)があるのですが、社会に対して毅然と主張してくる障害者や、弱者の枠をハミ出すような側面がかいま見えたとたん、平然と冷たくなる特質があります。こうした「あわれみの福祉観」というものから、私たちはなかなか自由になることができません。(p137)
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→この続き部分にもあるのですが、あわれみでみられているということは、なければないに越したことはない存在、という目でみられているということになります。これを解消するための試みをするためには、次に引用しますが、「障害の医学モデル」と「障害の社会モデル」という視座の違いが大きく関係してきます。
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つまり、障害とは、病気やケガなどによって生じる医学的・生物学的な特質であり、障害の重さは、手帳の等級によって示されます。こうした考え方に代表されるような障害のとらえ方を、「障害の医学モデル(または、個人モデル)」といいます。(p139)
つまり、障害者に「障害」をもたらしているのは、その人が持っている病気やケガのせいというよりは、それを考慮することなく営まれている社会のせいともいえるわけであり、こうした障害のとらえ方を「障害の社会モデル」といいます。(p140)
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→社会モデルの方は、社会が健常者のためだけに作られていることに問題を見出すものでしょう。点字ブロック、駅のエレベーター、スロープ、または手話を使える人が増えることなど、社会の側にあるバリアの解消のほうが大事だととらえています。そこには、健常者も障害者もその立場は本来フラットであるものなのだという人権尊重の考え方があります。
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とはいえ、財政難を理由に、給付をしぶり、サービスをできるだけ抑制したがるのは行政のつねです。重度障害者が地域で「普通」に生活するためには、自ら声をあげて介護支給を「勝ち取る」という涙ぐましい努力をしなくてはならない点は、現在でも変わっていません。(p178)
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→世の中の現状維持の力ってとても強くて、そこで自分の権利を主張して認めてもらうためには、多大なエネルギーが必要になるものだということは、法律学の入門書にも書いてありました。仕組み上、そうならざるをえない世界なんです。そんな世界で、権利を「勝ち取って」きた障害者の人たちの努力、労力、そして気持ちの強さには頭が下がると同時に、自分もできるだけそっちの人間でありたく思うのでした。
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あるのは、「価値のある人間・ない人間」という区別ではなく、「価値を見出せる能力のある人間・ない人間」という区別です。(p208)
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→脊髄性筋萎縮症の当事者である海老原宏美さんが2017年、長年の障害者自立を支える活動が評価されて表象された際に、小池都知事にあてた手紙のごく一部分がこの引用です。重度障害者が人目につくことで、彼等の存在意義とはなんだろう? という問いが生まれます。そうして考える機会を人々に与えているのだから、それだけでもまず存在価値がある、とする主張でした。そのうえでさらに存在価値を考えて答えを出していけると、さらに重度障害者の存在価値は高まるでしょう。ここには、相模原の事件へのカウンターの意味があります。p230にもあるのですが、障害者や老人を通して、人と人の繋がりを知れること、繋がり方が学べることってあります。そういったところにも、価値を見出せるか見出せないか、なんですね。
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人は「誰かの(何かの)役に立つ」 ということを通して自分の存在価値を見いだす生き物なんじゃないか、という気がします。でも、役に立てる対象(困ってる人)がいなければ、「誰かの役に立つ」ということ自体ができないので、困っている人の存在というのも、社会に欠かせません。となると、「困ってるよ」ということ自体が、「誰かの役に立っている」ということになりますね。(p242)
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→これも、海老原宏美さんの言葉ですが、だからこそ、世の中には、困っている人と手を貸せる人の両方が必要だというのでした。ほんとそうだと思います。まあ、義務とかではないし、そうしないと肩身が狭くなるものだといけないのですけど、そういった手を貸す人と借りたい人が偏見にさらされないことは大切だろうなあと思うところでした。
他、困っている同志だとか、障害者当事者同士、障害者家族同士などでの相談会、家族会などでやっていることが「ピアカウンセリング」と呼ばれることを本書で知りました。ほんとうは、資格を持ったカウンセラーにも参加してもらうといいんですよ。でも、経済的な理由から、それは難しいのかもしれない。でも、介護の現場を経験している身としては、主張していきたいことだったりします。
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「こんな夜更けにバナナかよ」の著者による一冊。相模原の事件を冒頭に、障害者たちがどう生きているか、またどう自立生活を文字通り『勝ち取って』いったか、さらにはその制度に甘んじてしまういまの障害者/介助者世代への危機感も書かれている。わたしは自分がASD・うつ病のふたつの障害を持っており、(運良く)自活していることもあって、読みながら「この人は何をいいたいんだ?」とまだるっこしく思うこともあったが(本書に描かれる人たちはほとんどが身体の障害者、というのもあったかもしれない)、振り返ると、人と人との付き合いというものについて、丁寧に論を運んでいた感じがあった。
ニーズがないと「居ない」と思われる。それがいちばん刺さった文言だった。……ただ、それとはまたべつに、守られていなくても、あるいはたとえ「守られていて」いるとされる範疇にあっても、ひと/自分が閉塞感を感じたときそれを打破しようとすることを妨げない/られないことが全体に必要であり、また、実際の付き合いを大切にしていくことの重要性もひしひしと感じた。
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『こんな夜更けにバナナかよ』の渡辺一史さんの著書。3章までは夜バナにもあった記載の要約的な側面も強いが、相模原の事件を踏まえて書かれているし4章障害・障がい表記問題や5章の海老原さんの話は面白かった。
何よりこの本がちくまプリマーにあることが大切な本。
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筆者の渡辺一史さんは、「こんな夜更けにバナナかよ」の作者である。「こんな夜更けにバナナかよ」は、筋ジストロフィーを患う鹿野靖明さんと、彼が亡くなるまで、彼の介護者として関わった多くのボランティアの物語だ。私は、つい先月に読み、大いに心を動かされた本だ。
「こんな夜更けにバナナかよ」は2003年の発行。本書「なぜ人と人は支え合うのか」は、2018年の発行であり、"バナナ"から15年間が経過している。本書を書いた理由を、渡辺さんは、「それから15年の歳月が流れ、あらためて当時の体験を、もっと広い視野でとらえ返してみたいと思って取り組んだのが本書です。」という説明をしている。
第1章は、神奈川県相模原市で起きた「やまゆり園障害者殺傷事件」を取り上げ、植松被告の主張を実際の障害者の例をひきながら、丁寧に考察している。
第2章は、上記の鹿野さんおよび鹿野さんボランティアの人たちとの出会いを振り返っている。
第3章では、「"障害者が生きやすい社会"は誰のトクか?」と題して、障害者福祉の進展の歴史をさかのぼっている。
第4章では、障害者の表記の問題、「障害者」なのか「障がい者」なのか「障碍者」なのか、ということを、これも丁寧に検討している。
第5章は、総括として「なぜ人と人は支え合うのか」ということについての渡辺さんの現時点での考えが述べられている。それは、支え合うことによって(というか、もう少しシンプルに触れ合うことによって)、人は、また、人と人との関係は変り得るし、成長し合えるからということだと理解した。
渡辺さんは寡作の作家だ。
私の知っている渡辺さんの著作は、「こんな夜更けにバナナかよ」の後は、「北の無人駅から」と本書「人と人はなぜ支え合うのか」だけである。"バナナ"が2003年の発行なので、約20年間に3冊である。書いておられるものを読むと、決して多作にはなれない作家ということは分かるが、もう少し書いて欲しいな。
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筋ジストロフィーを患った重度の身体障害者と彼を支えるボランティアの生活を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』で2003年にノンフィクション作家としてデビューした著者の3作目(20年弱に渡る活動の中で著者が3作しかないというのも凄いが、それは著者の過去2作がどれだけ凄い作品であるかということの証明でもある)。
大泉洋の主演による2018年の映画化を受けて、改めて障害者について考えたいという著者の思いをベースに、2016年に発生した相模原での障害者施設の大量殺人事件で犯人が問うた「障害者の存在価値とは何か?(価値など存在しないのではないか?)」という命題が考え抜かれている。
本書の最終章ではこの命題に対するあざやかな回答として、「価値がないと考える人には、価値を見出す能力がないだけではないか」という考え方が示される。我々は単なる地形の隆起に過ぎない富士山に対して、勝手に価値を見出している。自然現象に限らず、芸術もその典型例であろう。価値とは先験的に存在するものではなく、それを解釈して見出す側がいて初めて存在する。物事から価値を見出すというのは人間存在における重要な思考の役割の1つであり、価値を見出せないのならば、自らの思考の浅はかさを呪った方が良いということだろう。
いたずらに結論を急ぐことなく、『こんな夜更けにバナナかよ』以降に著者が考え続けてきたことが、ゆっくりとした筆で語られることで、こちらの内面にも著者の思考が浸透してくる良書。
Posted by ブクログ
重い障害を持つ人の世話をするコスト。そこに使われているお金は我々が払った税金なのか?…国にとってお金は作り出せるもの。需要に対して供給する。その流れを適正にするため通貨は発行されなければならない。徴税感の重さは障害者のせいではなく、政策の問題。政府は国民が幸せになるため政治を行わなければいけない。誰かに対して何かをする。幸福感はそこに生まれる。困っている人がいるから助けることもできる。一見何の役にも立たない大木が、そこにあるだけで威厳をみせる。存在するとは需要であり供給でもある。生きるとは支えあうこと。
Posted by ブクログ
この星に生を受けたモノの1つとして、同じようにこの星に生きているたくさんのいろいろなモノ達と、どんな時もニュートラルな関係でつながりたいと思いました.......。
Posted by ブクログ
なぜ人と人は支え合うのかという大命題を解いていく。といっても答えは載っていない。ちくまプリマー新書だけに示唆的にいくつか障害者との事例を出したり、制度のことや「しょうがい」に当てる漢字についても取り上げている。ちょうど執筆時期(といっても5年かかっているらしいけど)と重なっていたこともあってか、津久井やまゆり園事件についても特に殺害を図った植松聖についても触れている。
私もかつて障害者の家で泊まり込み介助らしきことをやっていたから、渡辺さんと『こんな夜更けにバナナかよ』の鹿野さんとのつき合いの様子などは、当時のことを思い出し、うなずけたり懐かしく思うことが多かった。
「しょうがい」に当てる漢字については、私の今の認識は渡辺さんと似ていて、過剰に意識することなく使えばいいと思っている。何よりも障害者自身が、「障がい」という書き方をそれほど望んでいなかったとは。こういう似非配慮らしきものが世のなかと障害者をよけいに隔絶してしまうのだと思う。
それを思えば、植松さん障害者とかかわっていたわけで、その末の曲解であろうとも、それを障害者にやさしくとか口では言いながら、かかわることなく過ごしている人が非難するのってどうなのって思う。法治国家(?)の日本で人を殺したのだから刑は科されるものだろうけど、彼なりの実体験から導かれた障害者観は、間違った考えと一刀両断にできるものでもないと思う。……この件、この本の感想とは関係ちょっと脱線してしまった。
渡辺さんはたぶん考えはめぐらすけど答えはあえて出さない人のような気がした。答えを出すということは、言い換えれば決めてしまうことであり、その答えにとらわれてしまうと物事を見る目が不自由になってしまうと思う。優柔不断に思われがちだけど、そんなところに勝手にシンパシィを感じ、考えあぐねながら書いたであろう文章にやさしさを感じた。
Posted by ブクログ
P.34 闘争の言語としての足文字
介護するまでが長い
P.76 依存の逆照射
P.82 介護と介助のちがい
P.106 paternalism
P.165 1970 自立生活運動@アメリカ
P.182 障害と障がいという表記問題
P.246 福祉が芽生える瞬間
Posted by ブクログ
著者の障害者と向き合った、体験記をまとめた本。
障害者は本当に不要なのだろか。
人はひとであり、存在しているだけで価値があるのではないだろうか。
障害者がいることで、私たちも恩恵を受けているし、知らないことを教えてくれる。
障害者との関係を考える良いきっかけとなる本だった。
Posted by ブクログ
津久井やまゆり園を例に出して、障害者の存在意義を書いたのだろうが、書かれている障害者の奮闘ぶりは、全て身体障害によるものというのが残念。
「なぜ人と人は支え合うのか」というタイトルなら、三障害を網羅してほしかった。
Posted by ブクログ
障害者とその活動、関わり
意外と障害者にかかる税金は少ないこと
彼らが人を雇い経済を回していること
障害者はある点ではそう分類されるが、身体的個性でしかないこと