紀田順一郎のレビュー一覧
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過去の東京に存在した恐るべき貧困の実相を探るのが本書の目的である。帝国主義の時代を脱していなかった当時の国際社会にあって、日本政府が福祉政策に舵を切れなかった事情については、ほとんど考察と言える考察はないが、むしろそういった考察があっては、スラムの実態に対する切込みは甘くなる。本書は、その意味で、贅肉をそぎ落としたスマートなつくりになっている。
本書に描かれたスラムの実態は、現代人の感覚からすると、およそ想像もつかないほどひどい。「残飯」の流通一つとっても、考えただけで吐き気を催すほど。もらい子殺しや娼婦、女工の虐待など、現代社会のどんな凶悪事件と比べても、その残虐性、凶悪性は比類なきものがある。
このような社会が明治、大正、昭和初期の日本に存在したことを、我々は忘れてはならない。非常にショッキングな内容だが、おすすめできる一冊です。 -
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日本における賭博の歴史を解説する本。
貴族の遊びが時間と共に博打になっていき、かつ大衆化されていくという流れが描かれている。
歴史に照らし合わせることで、賭博の様々な側面が見えてくるのが面白かった。
例えば、博打と競技には明確な違いがないという点。
何らかの競技が博打化するのは言うに及ばず、その逆の例も多い。
例えば弓、相撲、茶道など、現代の競技や文化にも、元は博打というものがたくさんある。
そして同時に、競技として(もしくは博打として)成り立たせるために適切なアレンジがなされる。
こういった人間の創意工夫は、実に興味深いものだ。
また人々の博打熱と、社会の安定が連動している点も注目したい。
概ね世が乱れるほど、人は博打に希望を見出し、かつ短絡的な勝負を好むようになる。
逆に社会が安定すれば、博打熱は下火になり、ギャンブルよりもゲーム性を求めるようになる。
なぜなら他に面白いことも、金を稼ぐ方法も、いくらでもあるからだ。
歴史上ほとんどの国家は、博打を禁止、もしくは制限しようとしてきた。
しかしそれでも博打が途絶えることはなく、新たな博打が生み出されている。
きっと人は心のどこかで、博打を求めているのだろう。 -
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・紀田順一郎「古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿」(創 元推理文庫)は旧版の一冊本を分冊にした書である。本書はその1、短編3編が入る。珍しく私は旧版を持つてゐる。買はな くても良いのだが、読み直すのならこの方がはるかに読み易いので買つた。そして読んだ。おもしろかつたのは言ふまでもない。この手の本を読むと私は愛書家ではないといつも思ふ。本好きではあるが決して愛書家ではない。第一、本の数が違ふ。 家の根太がどうのなどと考へることはない。最近は、新刊以外はwebで探すことが多い。以前は結構古書目録を見てゐた。ほとんど買ふことはないが、見るだけは見てゐた。言はば目の保養である。今でも古書目録を 請求すれば送つてくれるはずだが、私は見ない。webでより安い本を探す。本書で問題になるやうな限定版の類には興味ない。言はば安物買ひである。こんなわけで私は愛書家とは言へない。ただし、「愛書家とか蔵書家とはいっても、普段はごく普通の人たちなんですね。」(解説対談「『本の探偵』と愛書奇譚」362頁)とか、愛書家は「まあ、フェティシズムの一種ということなんだろうけれど。」(同前)とかの瀬戸川猛資の言がある。これからすれ ば、愛書家といつてもごく普通の人であるのに、「現実生活とはおよそ無縁なものに、とほうもない情熱と精力を傾ける」ところがあるといふ点は、私にも似たところはあると言へよう。
・巻頭の「殺意の収集」の依頼人津村恵三は、「本探しの極意は熱意ではない、殺意だと思います。」(22頁)と言ふ人である。これが私家版2部のうちの1部を入手したといふことから物語は始まる。「カンと殺意」(29頁)で見つけた私家版はいかなるものかといふのを、書肆・蔵書一代といふ古書店主の須藤康平が推理する物語である。津村はサラリーマンで「要領がよく、言動にムダがないという感じで(中略)いつも整然とした話し方に感心させられ」(17頁)るやうな人である。およそ「殺意」を抱いた愛書家とは見えない。「無用の人」の依頼人尾崎朋信は「銀行の人」(293頁)で、「おれのポストは重要な、忙しい仕事なんだ」(349頁)と自ら言ふ人であるから、こちらもそんな愛書家とは見えない。ところ が「書鬼」の依頼人風光明美の祖父となるとさうはいかない。 本は「それはもうものすごいものです。そのころだって、書斎から廊下へ、玄関へとあふれて いて云々」(191頁)と明美が言ふほどである。しかも身分を明かしていない須藤に、「本を盗みに来おったのだろう」(259頁)と言ふほどに本に対する執着がある。本を動かされたらその場所が分かるかとの問には、「『わかる』言下に答が発せられた。」(同前)といふほどであるから、並みの者ではない。明るくして顔を見れば「人間の顔だろうか。」(264頁)である。従つて書鬼、正に書鬼である。こんな愛書家、蔵書家が出てくる本書で最も気になつたのは次の言葉である。「蔵書一代…人また一 代…かくして皆…共に死すべ し…」(140頁)「書鬼」の蔵書は“紙屑”として「一切合財処分」(同前)されてしまつ た。一軒の家ほどの大量の蔵書も本人以外は無用の長物であつた。津村や尾崎の蔵書、それもかなり高価な限定本の類らしい、も同じ運命をたどるのであらう。何でもさうだが、いかに重要なものであれ、その持ち主以外には無用の長物である。津村の商品たる古書とて同じこと、津村の後にどうなるかは分からない。作者自身「それが結局、本書のテーマになってるということでしょうね。」(374頁)と言ふ。いかにも紀田順一郎らしい。さういふところが好きなんだよなと言つておかう。 -
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ネタバレ貧困層の生活について。後半は娼婦について書かれていて幅広いジャンルの貧困について書かれているかと思い込んでいたため割とざっくりしているんだなと思った。
昔はありとあらゆる概念がなく余裕もないので貧困層を切り捨てるのは当たり前のことなんだと思った。倫理観もなく人権もない。ようやく栄養学というものを知った程度。この状態から今の現代社会までよく進めたと感心するし少しづつ世の中は良くなっているんだなと思った。
他の国ではある残飯屋も昔日本にあったのは納得できる。ただ近親相姦や強姦が日常茶飯事で親子が夫婦になることもあったと書いてあるけど本来の夫婦は離婚するということなのか戸籍がめちゃくちゃなのかそもそもないのかよく分からなかった。深掘りして知りたいところだった。 -
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近代史や書誌をテーマとした評論家で、読書論等の多数の著書を発表している紀田順一郎が、古今東西の書物の中から、「翼のある言葉」(=ドイツ語で“Geflugeltes Wort”。時と場所を超えて胸に飛び込んでくる言葉)を集め、その作者と原典を含む解説を加えたもの。
シュテファン・ツヴァイク『人類の星の時間』より~「一つの国民の中に常に無数の人間が存在してこそ、その中から一人の天才が現れ出るのであり、常に無数の坦々たる世界歴史の時間が流れ去るからこそ、やがていつかほんとうに歴史的な、人類の星の時間というべきひとときが現れ出るのである」
ソロー『森の生活(ウォールデン)』より~「目を内に向けよ。そうすれば心のなかに無数の領域を見つけるだろう。まだ発見されていない領域を。そこを旅し、自分の宇宙誌の大家になれ」
『フランクリン自伝』より~「人間の幸福というものは、時たま起るすばらしい幸運よりも、日々起って来る些細な便宜から生まれるものである」
ほか、『論語』、セネカ『人生の短さについて』、シェイクスピア『ハムレット』、ゲーテ『ファウスト』、ホイジンガ『中世の秋』、フランクル『夜と霧』、岡本太郎『今日の芸術』、小林秀雄『私の人生観』、坂口安吾『堕落論』、カレル『人間この未知なるもの』、サン=テグジュペリ『人間の土地』、『老子』、谷崎潤一郎『文章読本』、『ラ・ロシュフコー箴言集』、アラン『信仰について』、宮本常一『萩の花』、陶淵明『田園の居に帰る』、モア『ユートピア』、南方熊楠『上松蓊宛書簡』、ミルトン『失楽園』、古今亭志ん生『なめくじ艦隊』、吉田健一『乞食王子』、などから、81の名言が紹介されている。
読書家として有名な著者ならではの、名言集としても読書案内としても楽しめる一冊。
(2006年2月了) -
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明治から昭和初期にかけての東京の貧民・貧困を概観する。横山源之助「日本の下層社会」や森光子「光明に芽ぐむ日」など、当時の実態を克明に記した一級の資料を参照し、貧民たちがどのような環境に置かれていたのか、行政や資本家、社会運動家は彼らにどのような対応をしてきたのかを明らかにする。
そうして見えてくるのは、当時の貧困の、現代のそれとは比較にならないほどの過酷さ。極めて過酷な労働、飢え、病。衣食住のすべてが満たされないことが常態化した生活。
こうした人々が、東京には少なくない数存在していた。有名な三大貧民窟だけでそれぞれ数千人の貧民が住み、それ以外大小合わせて100以上もの貧民窟があった。
さらに、行政や社会の貧民・貧困に対する意識もまた、貧民を貧民のまま置くことを選んだ。彼らにとって貧民とは、救うべき対象ではなく怠惰により身を持ち崩した自業自得の人々でしかなかった。そうした無関心・無理解が貧民に対する放置を持続させた。
こういう貧困者への無関心・無理解が現代日本にも繋がっているかと思うと興味深い。生活保護叩きは記憶に新しいし、貧困者への行政援助に対する許容度が先進国では有意に低いことも有名な話。実感値でも統計値でも、貧困者に厳しいのが日本人の実状なんだろう。そういう心性は、100年前から変わらないということだろうか。