ダロンアセモグルのレビュー一覧
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国がどうやって繁栄するのか、なぜ衰退するのか、を色んな角度から説明してくれる本。
経済的な制度と政治が重要だとはわかった。文化的や地理的な説も多いが、それは違うとも言っている。日本で生まれたことは恵まれたことだなぁ、私は自由だなぁと感じられた部分もあった。今の私レベルだと「へぇ~そうなんだ〜」という感じだが、いつか何かのきっかけでこの知識を思い出せたらと思う。
とはいえ、翻訳だと一文が長くて、なかなか読みにくい。うーん、くどいかも。内容は魅力的だから、この本をもとに池上彰さんとか日本語を平易に使ってくれる方に再編集してもらって、図録付きで出版してくれたら、と思ってしまった。もっと軽快なテンポで進むかと思ったが、論文めいた硬派な本だった。私の勉強不足です、トホホ。日本の繁栄については、下巻に書かれている模様。期待したい。 -
Posted by ブクログ
つまり、当時のテクノロジーは、それらが排除した機会と同じだけ、労働者向けの機会も創出したのだ。これは、自動車産業における大量生産に関して見たのと同じ理由からである。通信、輸送、製造のテクノロジーの改善によって、ほかのセクターが活気づけられたのだ。だが、より大切なのは、 これらの進展は、それが起こったセクターでも新しい雇用を創出したことだ。数値制御やほかの自動機械が人間の操作者を完全に排除することはなかった。というのも、一つには、それらの機械は完全には自動化されておらず、生産を機械化するにつれて多様な追加作業が発生したためだ。
あるレベルでは、なにが起こったのかは明らかだ。戦後の共有された繁栄には二本の柱があった。 オートメーションに伴い、あらゆる種類の労働者に対して新しい機会が創出され、堅調なレント・シエアリング(生産性の向上と利益の増加を労使間で分かち合うこと)が賃金を上昇させ続けた。ところが一九七○年ごろ以降、とりわけアメリカで、どちらの柱ももののみごとに崩壊した。
状況が最もよい時ですら、テクノロジーと高賃金の方向性はぶつかり合う。好き勝手にさせておけば、経営者の多くは、賃上げを抑制すると同時にオートメーションを最優先して人件費を削減しようとするだろう。自動化が進めば、労働者は一部の業務から排除され、その交渉力は弱くなる。 これらの傾向がイノヴェーションの方向性に影響を及ぼして、テクノロジーはますますオートメーションへと向かうことになる。第七章で論じたように、これらの傾向は、第二次世界大戦後の数十年間は団体交渉によって部分的に抑えられており、労働組合はさらに、新しい機械とともに、よりスキルを必要とする仕事と体系的なトレーニングを導入するよう企業を促した。
過去数十年にわたる労働運動の衰退は、繁栄の共有にとって二重の痛手となった。賃金上昇が減速したのは、アメリカの労働組合が弱体化し、労働者にとって同じ条件を維持できなかったのが一因だ。 さらに重要な点は、強い労働組合がないため、テクノロジーの方向性に関する労働者の発言権が失われてしまったことだった。
さらに二つの変化が労働力の衰退と格差を増幅した。第一に、労働運動による対抗勢力がないので、企業と経営者はまったく異なるビジョンを描くようになった。人件費の削減が最優先となり、生産性向上を労働者と分かち合うのは経営陣にとって失策に等しいと見なされるようになった。企業は、賃金交渉で強硬路線をとるようになったのに加え、アメリカ国内の労働組合のない工場に生産を移し、 海外へもますます進出するようになった。多くの企業は奨励給を導入した。これは、経営陣と高い成果を出した者に報いたが、その犠牲になったのはスキルの低い労働者だった。もう一つのコスト削減戦略として、アウトソーシングも流行した。カフェテリアの仕事、清掃、警備など、多くの低技能の業務は、かつてはゼネラルモーターズ(GM) やゼネラル・エレクトリックなどの大企業の従業員が担っていた。これらの従業員は、同社の労働者が享受していた全体的な賃上げの恩恵を被っていたものだった。ところが、一九八○年代以降のコスト削減ビジョンでこの慣行は無駄と見なされ、経営者はこれらの業務を安い外部業者にアウトソーシングした。こうして、労働者にとってもう一つの賃金上昇のチャンネルが断ち切られたのだ。
第二に、テクノロジーの既存のメニューから、企業がいっそうのオートメーションを選んだだけではない。デジタル業界の新しい方向性に沿って、メニュー自体がさらなるオートメーションへと力強く移行し、労働者にやさしいテクノロジーから離れていったのだ。労働者を機械とアルゴリズムに置き換える新しい方法を可能にする大量のデジタル・ツールが現れ、この動きに反対する対抗勢力がほとんどなかったため、多くの企業はオートメーションを熱狂的に歓迎し、労働者、とくに大卒資格がない者に新しい仕事と機会を創出することに背を向けた。その結果、アメリカ経済の生産力(労働者一人当たりの生産量)は引き続き増加していたにもかかわらず、労働者の限界生産力(追加の労働時間によって増加する生産量)はそれに追随しなかった。
機会有用性の試行例
・機械とアルゴリズムは労働者の生産性を、労働者がすでに実行中の業務において向上させられる
・労働者の新しい業務を創出する
・正確なフィルタリングと有益な情報の供給
・新しいプラットフォームや市場を創出する
もっと根本的に、そのような取り組みによって、テクノロジーの進路を修正する具体的政策を立案し、支援することが必要だ。第九章で説明したように、デジタル技術は以下のようなやり方で人間を補完できる。
・労働者の現在の仕事の生産性を高める。
・人間の能力を増す人工知能の助けによって、新たなタスクを作り出す。
・人間の意思決定のために、より優れた有用な情報を提供する。
・異なるスキルとニーズを持つ人びとを結びつける新たなプラットフォームを構築する。
テクノロジーを方向転換させる政策
・方向転換のための市場刺激策
・大手テクノロジー企業の解体
・税制改革
・労働者への投資
・テクノロジー変化を方向転換させる政府のリーダーシップ
・プライバシーの保護とデータの所有
・通信品違法第230条の撤廃
・デジタル広告税
・その他
・富裕税
・再分配とセーフティーネットの強化
・教育
・最低賃金
・学術界の改革
不平等は政治経済学的な探求の中心であり、包括的な制度のもとでは不平等が蔓延しないと考えるのは自然なことである。しかしながら、たとえばトマ・ピケティ 『21世紀の資本」では、「資本主義経済においては、分配の不平等は普通は改善せず、多くの場合は(不正がなくとも) 拡大する」と論じられた。こうした議論が無視しているのは、テクノロジーの方向性や、新しいテクノロジーから得られる利益がどのように共有されるかが、不平等とその軌跡にとって重要かどうかということである。 本書ではここに焦点が当てられる。本書は、歴史を通じて技術革新がどのような状況下で限られた社会エリート層にしか利益をもたらさなかったのか、あるいは、どのような状況下で広く共有された繁栄がもたらされ、より広範な人々の暮らしが改善されたのかを丹念に調査することで、こうした議論に対処している。もちろん分析スタイルや思考法の大枠は変わっていない。経済成長、その中での新技術の開発・選択の在り方に対する制度的枠組み、関係者の利害対立、政治的選択が与える影響を、 ゲーム理論的な観点を踏まえて分析していく、というやり方は、前二著と同様である。しかし今回は技術革新による成長の量的な側面だけでなく、生産性を上昇させて経済成長に帰結する技術革新のありかたが包括的で労働者に優しいか、それとも排他的で搾取的であるかが、その後の生産性と経済成長の改善を理解する上で重要である、とくどいほど強調される。では何に重点が置かれるかというと、 どのような技術が、またどのような仕方で導入されるか、そのことによって関係者――地主、資本家、 農民、労働者、等々――にどのような影響を与えるのか、を多面的にみること、とりわけ生産性の向上の成果がどのように分配されるのかに注意すること、である。このような分配重視へのシフトは 「自由の命運」から予感されていたが、クワックとの共著『国家対巨大銀行」で金融寡頭制を厳しく批判し、また金融エリートのイデオロギー的・政治的影響力に警鐘を鳴らしたジョンソンの貢献も大きいのかもしれない。
まとめてみよう。繰り返しになるが『国家はなぜ衰退するのか』においてはリベラル・デモクラシーと自由な市場経済の包括的制度セットへの強い信頼が表明され、楽観的なトーンが支配的だったと言えるのに対し、『自由の命運』ではこの組み合わせの実現が非常に歴史的な偶然、幸運の所産であり、再現可能性が低いかもしれない、という認識が提示され、トーンはやや悲観的になった。それに対して今回の本書では、「それぞれの国の制度的コンテクストの下で、どうすれば成長は可能になるのか」、から、「技術革新と成長の成果は社会の中でどのように配分されるのか/より公平な分配を実現するにはどうしたらよいのか」へと論点が更に深められている。
『国家はなぜ衰退するのか』における包括的制度セットにおける好循環論は、リベラル・デモクラシーの下での安定が自由な市場経済を可能にし、自由な市場経済の下での経済成長、豊かさがリベラル ・デモクラシーへの支持を固める、というものであったが、ただ単に豊かさだけでは足りず、分配の不平等が(市場における経済活動の自由を全面的に破壊することなしに)抑制されることが必要である、ということへの気づきは、『自由の命運』で見え隠れしていたが、今回はそれが前面に出て主題化されたと言える。技術革新が労働者に突きつける困難や、人工知能の進歩の人々の暮らしに対する潜在的な脅威は、貧富の差にかかわらず、すべての国にとって世界的な関心事である。そのため本書の議論は、後発経済国が直面する問題に焦点を当てた『国家はなぜ衰退するのか」と対照的に、より技術革新の先端にいる国々にとっても有意義である。それは規制のないアメリカ金融がリーマン・シヨックを引き起こしたという「国家対巨大銀行』でのジョンソンの指摘ともリンクしている。今問われているのは、アメリカのハイテク産業によって、中産階級にどの程度の押し下げ圧力がかかっているのかということである。 -
Posted by ブクログ
進歩のバンドワゴン
テクノロジーの進歩は共有利益をもたらすという楽観主義の根底には、「生産性バンドワゴン」というシンプルで強力な一つの考え方がある。これは、生産性を高める新しい機械や生産方法は賃金をも上昇させるという主張だ。テクノロジーの進歩につれて、バンドワゴン〔パレードの先頭を進む楽隊車)が、起業家や資本家だけでなくあらゆる人を引っ張っていくというのである。
説得する力は絶対に堕落する
たとえ、われわれが権力者のビジョンに行き着く可能性があるとしても、彼らのビジョンが十分に包摂的で開放的となることを、少なくとも希望することはできるだろうか?というのも、彼らが自分たちの構想を正当化する際に、とりわけ公益に訴えることが多いからだ。もしかすると、彼らは責任を持って行動するかもしれない。そうなれば、熱心に押し付けられる自己中心的なビジョンがほかの多くの人びとにコストを課すとしても、われわれはその帰結に苦しむ必要はない。これは希望的観測になりそうだ。イギリスの歴史家にして政治家だったアクトン卿が一八八七年に述べた有名な言葉がある。
権力は腐敗しやすく、絶対的権力は絶対に腐敗する。偉大な人物は、権威ではなく影響力を行使する場合であっても、ほとんどの場合悪人である。権威による腐敗の傾向や確実性を考慮に入れれば、なおさらだ。権威ある地位がその座にある者を神聖化することほど、悪質な異端はない。
アクトン卿はカンタベリー大主教を相手に王や教皇について議論していたのだが、絶対的権力を持つ支配者が絶対的に不正な振る舞いに及ぶ例は、歴史的にも現代においても枚挙にいとまがない。
だが、彼の格言は説得する力にもよく当てはまるし、自分自身を説得する力もそこに含まれる。簡単に言えば、社会的権力者は往々にして、重要なのは自分のアイデア(また、しばしば自分の利益) であると自分自身を納得させ、ほかの人びとをないがしろにすることを正当化する方法を見つける。
研究室における実験では、ケルトナーらの研究チームは、富裕層や社会的地位の高い人ほど、なにかを不当に奪ったり要求したりして、不正を働く傾向が強いことも発見した。また、金持ちほど貪欲な態度を示す傾向も強かった。これは、彼らの自己申告によって確かめられただけではなかった。被験者が不正を働いたり、その他の非倫理的行動に走ったりするかどうかを追跡できる実験を設計した場合も、結果は同じだったのだ。
われわれは、対抗勢力を作り出すことによって、とりわけ、支配的なビジョンを相殺するものとして、多様な声、関心、視点を確実に生み出すことによって、未来を再構築する必要がある。より広範な人びとへのアクセスを保証し、多様なアイデアがアジェンダに影響を与える経路を生み出す制度を築くことによって、さもなくば一部の人びとが享受することになるアジェンダ設定の独占を打ち破ることができる。
ビジョナリーそれは、同様に(社会的) 規範――社会がなにを許容できると見なし、なにを考慮に値せずとして反発するか――の問題でもある。それは、普通の人びとが、エリートや先見者にかける圧力の問題でもあるし、支配的なビジョンに囚われず、自分自身の意見を持とうとする意欲の問題でもある。
われわれはまた、利己的で自信過剰なビジョンを抑制する方法を見つけなければならない。傲慢さは、交渉のテーブルで唯一の声でなくなると、その力を弱める。無視できない有効な反論に直面すると、勢いを失う。傲慢さが認識され、嘲笑されることで、傲慢さは(うまくいけば)消えていくのだ。
民主主義の成功にはもう一つ理由がある。耳障りな声こそ、民主主義の最大の強みかもしれないのだ。政治的・社会的選択を唯一の視点から支配することが難しい場合、対抗する勢力や見解が現れ、 人びとがそれを望んでいるか、そこから利益を得ているかとは無関係に押し付けられる利己的なビジョンを弱める可能性が高い。
進歩というものは、その方向性がより包摂的に計画されない限り、多くの人びとを置き去りにしてしまいやすい。この方向性によって、誰が勝ち、誰が負けるかが規定されるため、それをめぐってしばしば争いが起こり、社会的権力によって、誰にとって好ましい方向性が優先されるかが決まる。
本章では、現代社会においてこうした決定に重要な役割を果たすのは、経済力、政治力、強制力にも増して、説得の力なのだと論じてきた。レセップスの社会的権力は、戦車や大砲によってもたらされたわけではなかった。また、彼はとりたてて裕福でもなければ、官職に就いていたわけでもなかった。そうではなく、レセップスは説得する力を持っていたのだ。
テクノロジーの選択ということになれば、説得がとりわけ重要である。他人を説得できる人のテクノロジーのビジョンが優位に立つ可能性が高いのだ。
われわれは、説得する力がどこから来るのかについても検討した。アイデアやカリスマ性はもちろん重要だ。しかし、組織的な力もまた、説得する力を形成する。アジェンダを設定する能力のある人、 つまり、典型的には社会的地位が高く、権力の回廊にアクセスできる人は、 権力の回廊にアクセスできる人は、説得する力を手にする可能性が高い。社会的地位や権力の回廊へのアクセスは、社会の制度や規範によって形成される。最も重要な決定がなされる際、こうした制度や規範によって、交渉のテーブルに多様な声や利害が反映される余地があるかどうかが決まる。
われわれの議論が強調するのは、次の点だ。つまり、こうした多様性は、対抗勢力を築き、思い上がった利己的ビジョンを封じ込める最も確実な方法だからこそ、きわめて重要な意味を持っているのである。これらの考察はすべて一般論ではあるが、ここでもまた、テクノロジーという観点でとりわけ重要になる。
さらに、説得する力がいかにして、強力な自己強化の力学を生み出すかを検討した。人びとがあなたの話に耳を傾ければ傾けるほど、あなたはますます高い社会的地位に就き、ますます大きな政治的 ・経済的成功を手にする。こうして、あなたは自分のアイデアをいっそう強力に広め、説得する力を増幅させ、政治的・経済的資源をさらに増強できる。
テクノロジーの選択に関して言えば、こうしたフィードバックはさらに重要である。テクノロジーをめぐる状況は、誰が繁栄し、誰が低迷するかを決めるだけでなく、誰が社会的権力を握るかにも決定的に影響する。新たなテクノロジーによって富を築いた者、あるいは名声や発言力が高まった者は、 より大きな力を持つようになる。テクノロジーに関する選択は、それ自体が支配的なビジョンによって規定され、テクノロジーの軌道を決めるビジョンの持ち主の権力と社会的地位を強化する傾向がある。
こうした自己強化の力学は、一種の悪循環だ。歴史や政治経済学の研究者たちはこの種の力学を強調し、富裕層が政治的な影響力を増す経路と、この追加された政治的権力によって彼らがさらに裕福になる過程を記録してきた。同じことが、新たなビジョン寡頭制にも当てはまる。それは、現代のテクノロジーの未来を支配するようになっているのだ。
抑圧する力と比べれば、説得する力に支配されるほうがはるかにましだと思うかもしれない。多くの点で、それは正しい。しかし、現代の状況においては、二つの意味で、説得する力は同じく有害なものとなりかねない。まず、説得する力を持つ者は、自分自身をもこう説得する。つまり、こうした選択とそこから生じる付随的被害に苦しむ人びとなど無視するように、と(なぜなら、説得する者は歴史の正しい側にいるのであり、公益のために働いているからだ)。さらに、説得する力によって広められる偏った選択は、暴力に支えられた選択ほど明白ではないため、無視されやすく、修正されにくい可能性がある。
これが、ビジョンの罠だ。ひとたびビジョンが支配的になると、人びとはその教えを信じてしまう傾向があるため、その束縛を脱することは難しい。そしてもちろん、ビジョンが制御不能に陥り、過信が助長されて誰もがそのコストに目を向けなくなると、事態はさらに悪化する。 うちがい
テクノロジー・セクターの埒外にいて、現代の権力の回廊とは縁遠い人びとがフラストレーションを感じるのは理解できる。だが、実を言えば、彼らはこうしたビジョンの罠に対して無力なわけではない。人びとは代わりとなる物語を支持し、より包摂的な制度を構築し、この罠を弱める社会的権力の別の源泉を強化することができる。
テクノロジーは順応性に富んでいるため、それが進むべき別の道を支持する魅力的な物語には事欠かない。テクノロジーに関する選択肢はつねに数多く存在し、その帰結も実にさまざまだ。われわれが一つのアイデアや偏狭なビジョンから抜け出せないとしたら、たいていの場合、それは選択肢が足りないからではない。そうではなく、アジェンダを設定し、社会的権力を振るう人びとがそれを押し付けているからなのだ。こうした状況を正す鍵の一つは、物語を変えることにある。影響力のあるビジョンを分析し、現在の進路のコストを明らかにし、ほかにありうるテクノロジーの未来に時間を割いて思いをめぐらし、注意を向けるのだ。
普通の人びともまた、アジェンダ設定の能力を拡大すべく、民主的な制度の構築へ向かって努力することができる。さまざまな集団が交渉のテーブルにつく資格を持っているとき、経済的不平等や社会的地位の格差が限られているとき、多様性や包摂性が法律や規則に明記されているとき、少数の人びとの視点がテクノロジーの未来を乗っ取ることは難しくなる。
実際、制度や社会の圧力が、少なくともときとして、ビジョンや進歩の方向性をより包摂的なレベルへ推し進めてきたことは、のちの章で述べる通りだ。われわれが提案していることは、これまでも行なわれてきたことであり、これからもできることなのである。
これらの考え方を現在の状況に当てはめる前に、以下の三章では、テクノロジーの変化の複雑で、 ときには貧困を招く役割について論じる。まずは産業革命以前の農業を、次に産業化の初期段階を取り上げる。いずれの場合も、公益の名の下に、偏狭なビジョンがイノヴェーションと新たな技術の応用を推進したことがわかるだろう。テクノロジーを支配する者が利益を手にする一方、多くの場合、 人口の大半は恩恵に浴するどころか、むしろ損害を被った。強力な対抗勢力が発展して初めて、繁栄を共有するのにより好ましい、異なる進歩の方向性が現れはじめるのである。 -
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ネタバレ長期的な経済発展は、地理的、環境条件、社会学的要因、文化の違い、生物学的遺伝的差異でもなく、政治・経済制度の違いにある。
包括的な政治制度と包括的な経済制度の組み合わせが必要。収奪的政治制度と包括的経済制度ではだめ。新自由主義は、その見本。
収奪的政治制度のもとでは、破壊的イノベーションは起きても潰されやすい。既得権益を守るため。規制緩和は限界をむかえる。
中国のような収奪的政治制度のもとでは、経済の自由度が高まっても破壊的イノベーションは起きにくいので、経済成長は持続しない。
収奪的政治制度がデフォルト。
長期的には、自由民主政治と資本主義は不可分。格差があっても、経済強者の交代可能性が必要。
中国とアフリカは、短期的には高度成長しているが、どちらも収奪的政治制度をとっているため、危うい。
アフリカ経済のネックはガバナンスにあると言われ続けているが、修正がきかない。 -
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ネタバレ解説より
自由な市場経済、リベラルな政治は実現と維持は困難。アラブの春、ポピュリズムの台頭、排外主義の台頭。
経済成長とは、量的拡大だけでなく、質的拡大が必要。新しいもの、新しい生産方式など。
テクノロジーの生まれる環境は、制度やビジョンによって形作られる。
技術革新が包括的か搾取的か、多面的に見る必要がある。
高度成長は、見えざる手に導かれたのではなく、労働運動の結果、社会保障制度の充実と福祉国家体制の確率がなければ生まれなかった。
分配の不平等が解決しなければ、経済の発展はない。
データ所有権のアイデアで格差の解消ができるかもしれない。 -
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世界には豊かな国(地域)と貧しい国(地域)があるが、それらを隔てる境界線が「包括的な政治・経済制度」か「収奪的」かの違いにある、という主張。「包括的」という言葉の意味するところは、自由主義や民主主義、多元主義といったイデオロギーを重視する政治であり、私有財産や市場経済を重視する経済制度を指す。
別に目新しくはない。日本の歴史教科書にはこの手のメッセージがすでに散りばめられている。啓蒙思想、西洋史観と言って良いかもしれない。実際に本書には「収奪的な政治・経済制度から包括的なものにうまく変革できた成功例」として明治維新が紹介されているが、その解像度は学校で学ぶ程度のものだった。でも本書には取り上げているエピソードの範囲の広さがある。世界各国の「豊かな国」「貧しい国」の紹介事例の多さだ。
少し残念なのは、各章のタイトルから「いつの時代の、どの国(地域)の、どのような統治制度」について解説してるのか?が判別つかず、また章末に「まとめ」もないので再読し辛いことだ。 -
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国家間の経済発展の違いについて分析された一冊。結論は単純明快で「制度の違い」だ。
隣の国、北朝鮮と韓国を例に挙げるとわかりやすいかもしれないが、収奪的な政治・経済制度と包括的な政治・経済制度のちがいによって、片や経済発展のインセンティブが阻害され、片や経済制度と政治制度が好循環に機能し、経済発展が進んでいく。結局は民主化バンザイってことなんだろう。
ただ、包括的な制度をとっている国においても、諸手を挙げてハッピーかといえば決してそうではない。貧富の差の拡大なんかもあって、包括的な制度と一括りにしても、細部に目を向けるとまだまだ課題は多い気がする。