これは何とも、想像以上に繊細な話だと感じさせられて、共に日本生まれの日本人である、両親に育てられた私には、その気持ちを推し量ることが、きっと出来ないであろうと痛感させられ、今回、フィクションとはいえ、こうしたケースも世界にはあるのだろうと窺い知ることが出来て、良かったと思う。
本書の主人公「ラッセル・シーラージ」は、アメリカ生まれのアメリカ育ちで、彼が二歳の時、母親が、ペルシャ語を話す現在の父親と結婚したものの、七歳の時に母親が出て行ってしまい、それ以来、育ての父親と二人で暮らしてきたが、その後、日本の大学へ留学し、それから十年経過した現在、就職活動すべき時期にも関わらず、彼は生まれ故郷に帰ってくる。
こうして見ると、単に生まれ故郷が懐かしくなって、帰ってきたのだろうと思われるかもしれないが、ここにはとても一言では語り尽くせないような複雑さがあり、それは何故かというと、彼自身が、『故郷へ帰ること』という言葉の意味を考えれば考える程、分からなくなっていることにあると、私は思う。
彼はアメリカで生まれたのだから、本来、故郷へ帰ることといえば、アメリカへ帰ることだと思うのだが、そうではないと彼は言っている。これは何故か?
勿論、母親との辛い思い出もあるのだろうが、おそらく、それ以上に彼を苦しめているのは、現在の父親と同じ空間を共有することの出来ない孤独感であり、本来、故郷というのは、決して一人ぼっちではない家族の温かさや、家族で無くても、何らかの素晴らしい思い出を感じさせられるからこそ、帰りたくなるものではないかと思い、だとしたら、それが無いから、『故郷へ帰ること』の意味が分からないのだろうと。
しかし、だからといって、育ての父親は決して、ラッセルに冷たく当たったりはせず、寧ろ、母親が出て行った後には、「俺ときみの関係は一切変わっていない」と言っており、これは父と子が、たとえ血縁で繋がっていなくても、これまで通り、変わらぬ愛情を示すということであるが、それでもお互いの空間が共有されていない点に、ラッセルは真の愛情が果たしてあるのかと、父親に疑問を持っているのであり、ここにお互いの、もしかしたら一生落ち合うことのない、価値観のすれ違いといった、止めどのない不安が生じているのかもしれない。
父親はアメリカで暮らしているが、故郷はあくまでイランであり、それは普段の暮らしの中で、ペルシャ語の音楽を流して歌っている姿を、ラッセルもよく見ており、それが、彼の全く理解できない言語の流れる未知の世界への入り口となって、その父親の故郷へ憧れの気持ちを抱かせるが、父親がそれをラッセルに望んでいるのかというと、それはまた別で、寧ろ、望んでいない気持ちが強く、そこには、アメリカとイランの不仲な関係だけではなく、あくまでも、父親自身の故郷に対するスタンスの問題であって、イランにまた帰りたいというよりは、「俺の故郷は頭の中にある。それだけでいい」ということになるが、かといって、ラッセルの母国での暮らしに物凄く愛着があるようにも感じられない。そこに、ラッセルとの共有できる空間が存在しないのである。
たとえば、父親の英語は、周りの母国の人と比べて、言葉選びが少し違っていたり、独特の訛りが出てしまい、それは他人と話すときに、より強くぎこちなさが現れてしまう、父親自身の性格の問題もあるが、決して言葉が通じないわけではないから、父親自身は他人に対して何の蟠りも感じないのだが(これに不親切な態度を取る自惚れた人もいる)、これを横で聞いているラッセルにしてみたら、まるで、父親を侮辱されているように感じてしまうが、ラッセル自身は当たり前に英語を話すことが出来る。そんな点にも共有できない悲しさ、やるせなさに加えて、父親に対する微妙な疎外感には、ラッセルの母国への印象も悪くなる一方で、彼の言葉のひとつである、『母語はむしろ檻のように感じられた』という気持ちにさせられたのも、母親はいなくなり、父親はイランへの揺るぎない思いがあるから、アメリカへの思い入れが薄いように感じられる、そんな両親の故郷への在り方が、ラッセルを孤独な思いにさせているのではないのか。そう考えると、この物語は親子の在り方を教えてくれるようでもあるが。
そして、その結果、彼は彼だけの居心地の良い空間を探さなければならなかったのだが、それは日本に行ったことで果たせたようにも思えず、未だにはっきりと分からない、そんないつ終わるか知れぬ不安を抱えながらも、生きていかなければならない、この繊細な思いの行き所は、果たしてどこにあるのだろうか?
『英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった』
しかし、終盤には希望も感じさせられて、それは、母親が去ってから自宅周辺に蔓延り続ける、とてつもない生命力を持った葛の手入れを、父親がするようになったことで、日々の忙しさに追われて、現状維持することしか出来ない程度ではあるものの、その現状維持が、今のラッセルの為そうとしている気持ちや、『葛』の言語的共通点とも重なる部分もあり、もしかしたら父との繋がりも、現状維持から改善していくのかもしれない、そんな細やかながらも前向きな気持ちにさせられたのが、私には嬉しかった。
本書の作家「グレゴリー・ケズナジャット」は、英語を母語としつつも、日本語で小説を書かれているのが印象的で、その経緯は、本書に於ける自身の体験と想像力を結びつけて書かれた内容にも、説得力を感じさせるものがあり、そこには、外国で暮らす人の視点から見た、世界中のあらゆる人たちが、あらゆる場所で生きていけるように、母国の人達には、もっと想像力豊かに許容心を持って欲しいといった願いが込められているように思われたのが、とても印象深く、本書の前に書かれた、第二回京都文学賞受賞作の、「鴨川ランナー」も是非読んでみたい。