あらすじ
言葉と世界は、再発見に満ちている。
旅に出かけ、見えてきた景色。
2つのレンズを使って英語と日本語の間を行き来する、芥川賞候補作家の初エッセイ集。
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英語を母語としながら、日本語で創作する著者だからこそ見えてくる24の景色
「俺を使わない僕」・・・相手との距離で変わる日本語の〈一人称〉の不思議とは?
「轍」・・・英語と日本語の相互作用が創作に与える影響とは?
「言葉の出島」・・・日本にいながら英語を期待されるプレッシャーとは?
「マイジャパン症候群」・・・日本在住の英語話者コミュニティー独特の症状とは?
「Because Plants Die」・・・この英語、ちょっとおかしい? 言葉が持つニュアンスとは?
and more…
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
グレッグさん(あえてそう書かせていただく)の小説トラジェクトリーを読んだ時に、「外国出身なのにこんなに日本語が堪能なんてすごい!」という(意図せず日本語を母国語とする者の上から目線な感じの)文脈で見ていた自分が恥ずかしくなるくらい、グレッグさんが日本の言葉や文化を何十年も熱心に研究してきたということがよく分かりました。少なくとも彼にとって日本語は「ビジネススキル」というようなレベルのものではなく、生きることそのものに直結しているように見えます。
以下の抜粋の部分を読むと、「外国出身の人にとって日本語がどのくらい難しいか?」などという個人の問題よりずっと高次の、「日本語を操る外国人」として見られる他者との関係や、社会的な振る舞いにまで意識が及んでいることがわかります。グレッグさんの作品はまだ2冊しか読んだことはありませんが、終始圧倒されっぱなしです。
『日本語を母語としない者として日本語を使って物語を書くと、最も難しいのは文法でもなく語彙でもなく、既存の物語との格闘になる。新たな視点から日本のことを見せてほしいという、常にある暗黙の要求にどう対応するか。』
Posted by ブクログ
静かで、美しく、柔らかな光に灯されたような文章。
著者の作品には実は触れたことがなく、装丁の良さと言葉では表せない自分の直感で手に取った1冊だったが、とても大切な書となった。
帯分で強調されているような「英語と日本語を行き来する英語母語話者の作家」だから描くことのできる英語と日本語の差異、が綿密に記されている訳ではない、と私は感じた。ここにあるのは、言葉と世界に対して心を開き、言葉のもどかしさと世界の圧倒的存在の狭間で往生する著者の、繊細で知的な観察日記、のように思える。勿論、彼が英語と日本語の二言語と触れているからこそ見えやすくなる情景もあるのだが、日本語しか話すことのできない日本語母語話者の自分の中にも、共鳴する部分が多々あったように思う。
著者の小説にも、ぜひ触れてみよう。
Posted by ブクログ
いろいろな言語を操ることができる方には尊敬しかない。
畏敬といっても良い。
況して話すだけでなく、
考えたことをまとめ、
文章として出版するとなると、
もう異次元で意味が分からない。
言葉は(少しの物騒さを気にしなければ)
ココロを切り分けるナイフのようなものだと思う。
情報のやりとりだけなら他言語でもたぶん問題ない。
だけれど、自分は、自分のココロを日本語以外の言語で
分けられる気がしない。
なんなら関東弁でも難しい。
そんな他言語による心象風景の再構築のようなところも
言語化されて覗くことができるエッセイ集です。
Posted by ブクログ
言葉は普段使うことを深く意識し過ぎないけど、環境が変わったり、言語が変わる時初めて改めて意識する。ツールでもあるけど、それ以上に思考そのものでもある。
言葉のことを考える時に使うのは結局言葉。言葉の場所も含めて言葉。
Posted by ブクログ
Audibleで『単語帳』を聴き、筆者に興味を持った。
それからこの人のインタビュー動画なんかをみたりした。
観察眼も面白いと思ったし、少し目を伏せながら、物静かに淡々と話すその佇まいもなんか好きだった。
「俺」という一人称への想いとか、自分の贔屓にしていた観光地に欧米からの陽気な観光客を見た時の感情とか、頑張って英語で話しかけてくる係員に英語で答える気遣いとか、この人の視点から見る日常が面白かった。
Posted by ブクログ
大学の先生として日本で暮らす著者が
日々思うこととか
アメリカの子供時代のこと
日本に留学してきた学生時代のこと
いろいろ綴ったもの。
言語に関する話もたくさんあるけど
その合間に書かれている
「昔住んでいた家に間違えて戻ろうとした」
「東京の夜の明るさに慣れている友人は
京都の夜でさえ暗いと感じるようだ」
なんていう部分が興味深かったかな。
Posted by ブクログ
タイトルに惹かれて著者プロフィールを覗いてみたら、この方小説家だったのね。それも母語(英語)ではなく日本語で書かれていて、デビュー作は京都文学賞を受賞されているという…!
帰化こそされてはいないけど、長年日本に在住され、(講義ができるほどの)日本語を駆使されている外国人と接触する機会がないから、新鮮かつ貴重な読書体験となった。
ジャンルはエッセイ集。
各エピソードの題材は様々だが、基本的には初来日前後の出来事が克明に綴られていた。
タイトルにも見られる通り、言語(主に日本語や英語)に関わるエピソードも多い。ただこの方の書き方は、私にはちょっぴり理屈っぽくて、そんな気楽には読めなかったな…
だからレビューとしては穴ボコだらけで、何の参考にもならないシロモノになっているであろうことを、お許しいただきたい。
でも旅のエッセイは比較的面白く読めた。
アメリカ人留学生同士で、2008年米大統領戦の熱気に沸く小浜市を訪れた話とか。若気のいたりというか野次馬根性のノリで、話題のスポットに繰り出していくところが、普段は気難し屋の著者なだけにとても滑稽に映った。
14歳で日本語と出会い、10代後半から20代の頃には、既に日本に住まわれていた著者。京都から東京への引越し、その他旅行や出張と、彼の人生には旅や移動が付き物だ。
そのためか、旅に関する彼なりの哲学が節々で伺えた。
著者の父親との九州旅を綴った「父のカメラ」(P 44)は、彼らの家庭環境と父親が辿ってきた旅路が強く印象づいた。
イラン出身の留学生だったお父さんは渡米後、イラン革命によって国交断絶の事態に巻き込まれてしまった。10年以上も家族と連絡が取れずにいた父親に対して、同じく留学生だった著者はどのような思いを抱いたのか。
多くは語られなかったけど、これ以上お父さんに孤独を感じさせぬよう、できる限りの孝行(今回でいえば九州旅)を果たそうとしている様子がじかに伝わってきた。
本書のキーワードの一つである「言語」について、ふと思い起こしたことがある。
著者が区役所にて英語で案内を受けた「言葉の出島」(P 73)というエピソード。かつて同僚だった60代のベテラン外国人講師について話が移っていくのだが、それが、私がお世話になった外国人講師と重なったのだ。(境遇が違うので、同一人物ではないと断言できる)
60代のベテランさんは日本語の読み書きができず、恐らくは「本人が日本語を学びたくとも、周囲の日本人から常に英語を期待されていたからでは?」と著者は述べている。
私がお世話になった方も、日本人の奥様が自身の英語力KEEPのため、お子さんの前でも英会話を強いられていたという。おかげで何十年経っても、全く日本語が身につかないでいるそう…。
外国人である前に個人…分かってはいるけど、いざ「ガイジン」を前にすると、そんな考えは吹き飛んでしまう。
彼らのルーツも日本語への学習意欲もバラバラ。でもそこらへんを汲み取っていけば、少しはぎこちなさも緩和されていくのではないか?
このレビュー自体、著者の主張を汲み取れているかは怪しいけど、そうした思いが私の中に残っている。