グレゴリー・ケズナジャットのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
面白かった。
「鴨川ランナー」と「異音」の2短編構成。
私は京都に大学の時と社会人になってからも少し住んでいたので、街並みの情景が良くイメージできてストーリーに入りやすかった。著者の文章も歯切れが良く、テンポよく読み進めることが出来る点も◎
外国語を習得していく中で、言葉や表現の意味は分かってもどこか上辺をなぞっただけの会話になってしまう所、違和感は自分も英語でコミュニケーションを取る時に感じる。
でも、会話の深みって言語スキルも関係するがその当事者たちの信頼感?というか関係の深さが大きいのでは無いかと思いつつも、続く「異音」で、小百合とのやり取りからガイジンとして見られているという壁もある事に改めて気付かされた。
物語を行き来してしまうが、鴨川ランナーでポールが言った「物事は、本当はそうはっきりとしていないから」という一節は、言葉で表現したいけど、しきれないもどかしい気持ちを明らかにすればするほどドツボにハマってしまうのを救う言葉に思えた。
自動翻訳が発達し言語の壁は以前よりも簡単に乗り越えらても、自分の頭で考えて、言葉で表現するからこそ感じるモノは尊いのだと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレアメリカ南部出身で日本に留学中の男が就職活動前に故郷に里帰りした時の話。
実家は葛に覆われていてイラン人の父は庭と家の修理に汗を流していた。彼は母語(英語)のもつ土着性に辟易していてそこから逃れたく思っていた。父のペルシャ語に憧れを持つも父は英語を学んだことで自由を勝ち得たためペルシャ語の学習を勧めなかった。
彼は当時勢いのあった日本の企業のために作られた日本語学校に通った。日本語を学ぶことで英語という檻から逃れたのだ。そして、久しぶりに帰省した故郷で母語の持つ逃れ得ないその性質をホームセンターに並ぶ客の会話から思い出した。父はホームセンターで買った着火剤と火で葛を燃やした。その煙が棚引いていくのを眺めた。
日本からやってきてアメリカ南部に定着した葛が第二の主役になっている。葛は南部の言語にも生活にも完全に溶け込みきっている。しかしそれは南部アメリカにもとからあった植物ではなく日本から持ち込まれた外来種であったことに彼は日本にやってきて初めて気づいた。そのような外からやってきたものが馴染み生活に完全に定着することもあれば、ペルシャ語・日本語・英語の中で揺れ動く父や主人公ラッセルのようなものもある。 -
Posted by ブクログ
正直「鴨川ランナー」のほうが面白かったけど、、
イラン出身のお父さんとのやり取りがメインに描かれる。父親の話すペルシャ語のこと。
p72 いつでも英語の外へ出て、ペルシャ語へ自由に移動できる父親のことを羨ましく思うことがあった。
p77 「ラッセルは英語が話せる。きみはまだ分かっていないだろうが、それは実はとても幸運なことだよ。外国語を勉強しなくてもどこにでも行ける。どこに行っても、言いたいことを言えない苦しさはない。だから、ペルシャ語なんか学ぶ必要はない。きみは自由だから」
父親の言葉には切実なものがあったが、当時のラッセルは納得できなかった。自由と言われても、母語はむしろ檻のように感じられた。
(略)
母語から抜け出したい気持ちには変わりはなかった。父親が一人だけで入り込んでいたあの不思議な世界を、自分の目で見たかった。だがラッセルは二度と父親にその願いを伝えることはなかった。
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面白い感覚だなあ。母語から抜け出したい。外国語を操ることで違う世界に行きたい、自由になりたいという渇望。著者自身そういう気持ちから日本語を学んだのだろう。面白いなぁと思いつつ、英語学習歴10年のわたしも、確かにそういう面もあるかもなぁという気もする。それは目的ではなかったが、結果として、英語を使うと違う世界を見ることができ、自由を感じることができているから。
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p86 葛が日本語だと知った時の衝撃はいまだに覚えていた。
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葛の木は英語でkudzuなのですって。日本語から来ているのだと。幼いころから家のにkudzuがあったが、日本に来て電車に乗っていてなじみのある蔓(葛)が目に入り、日本語では何というのだろうと調べたら子どものときに使っていた「kudzu」と、その語源である「葛」が隣に並んでいたという。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『鴨川ランナー』よりもさらに複雑に、言語と自己の関わりについて常に考える、考えざるをえない状況を描く。
イラン出身でペルシャ語を母語とし、米国に暮らす父。
アメリカに生まれ英語を母語とし、父とも英語で会話をしてきた自分、は日本へ留学している。一時帰国中。
父の人生にフォーカスしたくなる。
自宅の庭に次々に繁茂する葛、日々それと格闘する父。本当は何と格闘しているのか。格闘してきたのか。
「葛」が「kudzu」であったように、「異」であっても重なるところはある。母国を出て、母語でない言葉を使い、必死に人生を開墾してきた彼が、これから誰かとの重なりを感じられますように。
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『鴨川ランナー』から続けて『開墾地』を読み、著者のことも考えるのだけれど。誰が書いたかということをわきに置いて、とても面白い物語だった。自身の経験から生み出されたものだろうということは意識しながら読んだが、日本語を母語としない人が日本語を使って書く、ということはまるで意識しなかった。それだけ日本語がうまいからだ、なんてことも考えなかった。
1冊の本を読んで、ああ面白かったとページを閉じる。私にとっての面白い基準は一体なんなのだろう。ストーリー、文体、はありそうだ。では著者はどれほど影響しているか。
読む前から絶対に面白いに違いないと思える著者がもちろん何人もいるが、それってバイアス込みで読んでいる?
などなど、面白いと感じる源について、ぐるぐる。