小野正嗣のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
読書開始日:2021年8月29日
読書終了日:2021年9月1日
所感
内容や構成は、視点が頻繁に変わるためかなり難解ではあったが、
怒哀表現が完璧だと感じた。
自分が感じたことのある心情が、包み隠さず詳細に描かれていた。
本書は題別で話が進行していくと思っていたが、全てがつながっていくという自分好みの構成。
ただやはり純文学ということもあり複雑で、しっかりとした繋がりは見せてくれない。
ただ人間関係なんてそんなもので、実はつながっていても知らない、気づかない、思い出さないなんてざらだ。
リアルに即していると思う。
ここからは個人的な解釈だが、
さなえは、過去のみっちゃん姉に救いを求めた。
さなえの現状を乗り越えた先が、みっちゃん姉だと思いたかった。
さなえはいまにも負けそうだった。
「とにかくそんなものから解放されて自由になりたかったのだ」がかなり痛烈。
本物の希敏を、理解が及ぶ希敏を見たいあまり、無理に引っ張り出す際にできるあざ。
経験したことはないが、共感せずにはいられない。
自分を通して生まれ落ちた天使が、到底理解の及ばないものとしたら、誰でもその心境になるはず。
そして、みっちゃん姉もやはりさなえと似たような時を過ごしたのだろう。
カナダへ訪れた際、教会での「九年前の祈り」はまさしく、伽=タイコーに対しての祈りだった。
人一倍祈っていたのはそのためだ。
その祈りが通じて、伽=タイコーは、立派に成長をした。
「生きていくうちに摩耗し消えていくはずの驚き」に付きまとわれながらも、人に尽くした。
そして千代子を救った。
悪の花の題、千代子の題で、かなり熱中して読み進めた。
真鶴に似た鳥肌が立った。
さなえの祈りも届けばいいと切に願う。
九年前の祈り
あんパンの皮だけ食べるような会話だった
額には玉の汗
苛立ちと怒りがざらつく熱風となってさなえの顔を焼いた
怒りの表現がうまい
発酵、腐敗
みっちゃんねえの顔に明るい色の花が、嬉しそうな笑みがパッと広がった
美しい天使の中に埋もれた本物の息子
無垢の世界をそれとして見つめることのできるさなえだけが、皮肉にも無垢から限りなく遠かった
とにかくそんなものから解放されて自由になりたかったのだ
どこの世界に明るいだけんの人がおるんか
意地の悪い優越感
ウミガメの夜
お見舞い
どうせ無駄なことをするのだから
悪の花
目の端に白く濁った汁が滲んだ
生きていくうちに摩耗し消えていくはずの驚きがいまだにタイコーとともにあった
いや、ちがう。千代子の方が、トミという名の最初の妻と同じ道を辿ったのだ
忙しなさと熱意を失っていくにつれて涸れていったあの水
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Posted by ブクログ
小野正嗣さんは、『水に埋もれる墓』『にぎやかな湾に背負われた船』と読んで、興味のある作家となった。どの作品も郷里である大分県のリアス式海岸にある小さな集落に根ざした物語だ。一方で小野さん自身はフランスに長く住んでいてインテリのイメージがある。そのギャップに興味がわく。いまの時代はグローバル化とローカルの再発見が同時進行していると思うのだが、小野さんの小説はローカルに徹底し、血の繋がりならぬ地の繋がりを見据えた先に、人間の悲しさや愛しさが描かれている。特にこの小説は、他界したお兄さんに捧げられている。付録に収録された芥川賞のスピーチが心を打った。
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同じようなありふれた不幸を経験したものとしては、心から共感できるものだった。
子どもに突然訪れた不幸は、もちろん人生を変えるが、その変わり方は親ときょうだいでは違う。親はとことん悲しみ、必死に状況を良くしようと努力する。生きることの中心が不幸な子どものことになる。が、きょうだいはどこか客観的に見てしまう。学校に行ってその不幸を一瞬忘れ、楽しく感じたりもする。親がすがるまじない師を滑稽だと思ってしまう。しかし、いつも100%楽しめるということはないし、自分が普通に生きることについての違和感を抱えながら生きることになる。
そのあたりが、本当にリアルに描かれている。
物語にカタルシスを求める人には薦められないが、きっとたくさんの似た経験をした人(訳者もそうだ)には、同じ後ろめたさを感じている人がいることは、救いになるのではないかと思う。
幸いにしてこういう経験はしないで大人になった読者は(あんまりこういう本を読みたくならないような気もするが)、こういう人も自分の身近にきっといる、学校でなんだか嫌なことばっかり言ってた嫌われ者にも、もしかしたら深いわけがあったのかもしれない、と考えてくれたらいいな。 -
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胸が苦しくなった。著者の実体験に基くとわかっているからなおさら。後書きを読んで、著者も翻訳者も私と同い年であることを知り、さらに苦しくなった。ここに描かれていることが、私が生きてきたのと同じ時に起こった真実の出来事であるということ。何の前触れもなく、その日、その時が来てしまい、そこから一家の人生が暗転してしまったこと。毎朝、新たな一日を迎えても、絶望的な状況が変わらないこと。それを負っているのは、特別ではない一家だということ。この作品を書き起こすこと自体にも、どれほどの心の痛みが伴ったのだろうと思う。今年一番心に響く本に出会ってしまったかもしれない。
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第152回芥川賞受賞作。
芥川賞というと、合う合わないがスパーンと訣れることが多いのだけど、この作品の重みは好き。
いわゆるムラ社会色の強い熊本の小さな集落に、カナダ人とのハーフである息子、希敏(ケビン)を連れて出戻ってきたさなえ。
彼女は同じ故郷に住む「みっちゃん姉」と呼ぶ、かつて共にカナダを旅した初老の女性に逢いに行こうと思い立つ。
ともすれば、ムラ社会のしがらみを強く意識させる母と、反する生き方を選んでしまうさなえのドロドロになりそうなのに、この「みっちゃん姉」の存在が作品世界の色そのものを変える。
まださなえが若い時分、集落の女性達が、ジャックという先達を伴ってカナダ旅行に行く。
旅の中でさなえは、年の離れたみっちゃん姉の中にある、明るさに潜んだ哀しみを見つける。
その時は声のかけようもない「感じ」を、巡り巡って自分の影の中に見出したとしたら。
一概に共感とは言えない複雑な重なりの中で、だからこそ、さなえは彼女を追い求めているように見えた。
他の話とも繋がりのある短編集。
どの話でも、一番逢いたい人には逢えないままに筋が進んでゆく。
逢おうと思い立ったその感情は、逢えるその瞬間までに、思い出を伴って濃いものに変化してゆく。
そうか。逢うことだけが大切なのではないのか。
そこに至る過程の中で、その人との距離や時間を相対化しながら、改めて自分を見つめる時間が生まれる。
その過程を、とても快く感じた。 -
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映画「誰も知らない」を彷彿とさせる都会の子捨ての話を背景に、だが作家は人と社会の温かさを信じている人だ。
何があったか、詳細はわからぬまま、厳しい経験を経た10歳の尊はいま、消息の知れない母の故郷、南の小さな漁村にいる。
いつまでも続くかのような夏休み、掃き清められてしんと静かな神社、老人が毎日参る墓、縁側で食べるスイカ、遠慮なく出入りする近所の人たち。
都会に暮らし外国でも暮らした作者が故郷を思う時の風景はこういうものなのだろうか。
そして、母がつぶやいていた「こんなところ、早く出て行きたかった」という言葉もまた作者の言葉か。
幻を見る尊の目から彼らが消える日はくるのか。
なまなましい暗さをたたえながらも見えるものは明るい、この作品の続きが読みたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ国籍や宗教などをはじめ様々なアイデンティティを人は持っているが、アイデンティティが侵されたと感じるときに過剰な防衛反応を引き起こし、時に殺人に行き着き、それを正当化するまでになる、という問題提起がまずある。だがアイデンティティは必要なものでもある。多様なアイデンティティを持つことによって紛争から距離を置くこと、グローバル化・西洋化の功罪、グローバル化の中でどのように少数民族・言語・宗教などのアイデンティティを守っていくか…などの議論が続く。
これを1998年に書いているというのは本当にすごいと思うが、現在は状況がぐるぐる巡って変わってしまったというか、移民問題からの右派政権が増えたりという状況になり、西洋化・グローバル化が滞りなく進んでいくという状況でもないのかな?と思ったりする。
ウクライナやガザ、中国を見ていると、西洋的人権や民主主義は絶対に尊重されるべき価値観であり、それは世界共通の認識であるはず、という著者の持つ認識もどこか虚しく見えてしまう。みんなが言語を3つ持とう、という提言には、世界平和のために勉学に励む時間と環境が保証されている恵まれた人間たちしか見えてないのかな、といううすら寒い気持ちになったりもした。
予想もつかない時代の変化やリベラルっぽい視野の狭さはあるのだが、全体的なアイデンティティの作用の考察や特定の宗教集団が起こした事件について教義を非難することを否定したりするところは素晴らしく、今の時代でも通用していると感じる。今この時代の流れを著者はどう感じているのだろう? -
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人間のアイデンティティとは、自分の奥底に眠るたった一つの本質的な帰属などではなく、生まれ育った環境から後天的に得られる要素も含めた、複合的な帰属から成る。しかし人は数多くの帰属の内どれか一つが脅威にさらされるだけで自分のアイデンティティが侵されたと感じ、その帰属を共有する者たちでコミュニティを作り、攻撃者に対する反撃を開始する。
グローバル化、すなわち西洋化は、非西洋の国々にとっては独自の文化が西洋文化に置き換わる運動であった。自らの文化という帰属を侵された者達の拒絶反応が、近年のナショナリズムや人種差別に繋がっているのかもしれない。
多様性を認めようという本書の主張は、近年ではダイバーシティとして一般に浸透しつつある考えだが、原書がフランスで出版された1998年の時点ではまだ馴染みがなかったはずであり、時代を先取りした作品だったのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
このグローバル社会を考えると、人を一つの帰属、一つの象徴とする言葉でアイデンティティを考えることはもうできなくなってきていると思う。日本に住んでいると、様々な異なるバックグラウンドや、混ざり合ったバックグラウンドを持っている人に出くわすことは少ないが、やはり海外に行ってみると、国の中に様々な、いくつかのアイデンティティを持つ人がたくさんいる。異文化を勉強していく中で、日本人としているために、いわゆる日本らしい、日本的考え方、性格やキャラクターの中でおさまろうとしている自分もいた。しかし、世界の人々を見渡してみると、混在するアイデンティティを持つ人がたくさんいて、日本人という単一のアイデンティティに収まろうとする必要はそんなに重要でないかもしれない。ほかの文化や考え方も取り入れて、アイデンティティの越境をしてもいいのではないかと考えた。
自分自身が帰属意識を強く持てば持つほど、ほかの民族や文化背景、宗教の人を攻撃してしまうきっかけにもなってしまう。様々な帰属があるからこそ、双方どちらも理解することができたり、仲介役になることができると思う。
どのようなアイデンティティも特殊なケースである。人類全体が特殊なケースからしかできてないし、人生とは差異を生み出すものである。仮に「再生産」がなされるのだとしても、決して同じものは生まれない。誰のものであれ、アイデンティティは例外なく複合的なものなの。アイデンティティとは、複雑で、たった1つしかなく、取り換えがきかず、ほかの誰の者とも混同されない。
しかし、現実では、全然違う人々を一つの言葉でひとまとまりにしてしまうし、安易に、そうした人々に犯罪やら集団的行為やら集団的意見を負わせる。他者を偏狭な帰属のなかにとじこめるのは私たちのまなざしであり、他者を解放しうるのもまた、私たちのまなざしである。
人は、一気に自分自身になるのではない。自分自身が何者であるのかを「気づく」だけではなく。その自分になる。自分のアイデンティティに「気づく」だけではなく、それを一歩一歩と獲得してく。
人間のコミュニティはどんなものでも、侮辱されたり、脅されたりしたと感じれば、殺人者を生み出す傾向がある。自分たちは当然のことを行ったと思う傾向にある。だから、重要なのは、その殺人者になってしまうような心の怪物がでてきてしまう条件を抑制すること。
歴史を通じて、支配的であった諸々の考え方が数十年先も支配的のままだとは限らない。新しい現実が出来するとき、自分たちの態度や、習慣を考え直す必要が生じる。そうした新しい現実が出現するのが早すぎると、私たちの心性はついていけず、気づけば火事を消そうとして可燃物を注いでいる。
私たちのすべてを包含するグローバル化の時代にあたっては、アイデンティティの新しい考え方が必要。
他者に歩み寄っていくと決めたら、両手を広げ、顔をまっすぐあげて進まなければならない。しかし、一歩あゆみだすごとに、仲間を裏切り、自分を否認しているような気がしたら、そのような他者へのアプローチは間違っている。その言語を私が学んでいる人が、自分の母語を尊重してくれなければ、彼の言語を話すことは、自分を他者へと開くことではなく、忠誠と服従の行為になってしまう。
一番印象に残ったのは、どんな教義でも狂信になりうるということ。キリスト教、イスラム教、マルクス主義が「本当に言っていること」を問うたところで意味がないと著者は言っている。肯定的であれ、否定的であれ、自分の中にすでにある偏見を確かめるだけでなく、答えを見つけようとするなら、教義の本質ではなく、それをよりどころとする人々が、歴史の中で取ってきた行為についてこそ見るべきである。
また、著者はキリスト教とイスラム教を対立させる考え方に異議を唱えている。
歴史という大きな展望の中で、人間と、制度のふるまいを評価することが大切。
宗教はそのときどきの社会の姿を映す鏡である。
宗教が人々やその歴史に与える影響は過剰なほど重く見られているのに、人々とその歴史のほうが宗教に与える影響はさほど重要視されていない。しかし、影響というのは相互的なものである。社会が宗教を形成し、すると今度は、宗教が社会を形作る。
私たちは、アイデンティティの重要な要素、例えば言語、宗教、文化などのシンボルが脅威にさらされていると感じられれば反発するものである。私たちの時代は、調和と不調和という二つの徴の下で展開されている。人間がこれほど多くのものを情報や知識、イメージ、言葉を共有することによって、各自が差異を強調するようになっている。
加速するグローバル化がその反動として、アイデンティティの欲求を強くさせている。急激な変化に伴う実存的な苦悩ゆえに、精神的なものへの欲求が強くなっている。この欲求に、宗教的帰属だけが答えをもたらし、そうしようとしている。
p113 宗教への欲求とアイデンティティーの欲求を切り離すこと。
宗教そのものが乗り越えられるべきだと言いたいわけではありません。科学によっても、その他の教義によっても、いかなる政治体制によっても、宗教が歴史の忘却の中に葬り去られることは決してないでしょう。科学が進歩すればするだけ、人間はその目的についてと言うことになるはずです。いかにして?を問う神がいつか消えても、どうして?を問う神は決して死ぬ事はないでしょう。
そして直ちに次のように付け加えたいと思います。私の観点からすると精神的なものへの欲求は、必ずしも信者のコミュニティーに帰属することを通して表現されるべきものではありません。実際、それぞれにいろんな点で自然で正当なものであるけれど近道すべきでない危険な2つの深い憧れが見受けられます。一方には、私たちの人生、苦悩、失望を超越し、生と死に意味を与えてくれる世界観への憧れがあり、他方には、自分を受け入れ、承認し、その中に入れば言葉を費やさずとも理解してもらえるコミュニティーと結びついていたいと言う、人間であれば誰しも抱く憧れがあります。
私が夢見るのは、宗教がもはや存在しないと言うような世界ではなく、精神的なものへの欲求が貴族の欲求とは切り離されているような世界なのです。誰もが信仰や崇拝そして聖なる書物から触発された道徳的な諸価値を維持したまま、宗教を同じくする者達の集団の一員となる必要ももはや感じることのない世界。もはや宗教が戦争状態にある諸民族の接着剤として使われることのない世界。境界を国家から分離するだけでは不十分なのです。宗教的なものをアイデンティティー的なものから分離することも同じくらい重要なのです。そして、このような近道が共振や恐怖や民族紛争に氷を注ぎつけるのを避けようと思うのなら、まさに違うやり方でアイデンティティーの欲求を満たすことができなければならないのです。
今私たちには自分が何も知らないと言うことを認める謙虚さが大切です。歴史のゴミ箱の中に期待していたものが常に見つかるわけでは無いのです。
何かを信じていれば、そして自分の中に十分なエネルギーや情熱や生きる欲望があれば、今日の世界が私たちに提供してくれる様々な資源の中に、自分の夢のいくつかを表現する手段を見つけることができるのです。