斎藤慶典のレビュー一覧
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教え子に紹介されて読んだ。その子はいじめが原因で不登校になった。この本に出てくる、いじめの哲学を知って、楽になったと言う。
集団でないと生きていけない人間は、敵をつくることで、自分たちの結束を強める。外部に敵がいない時は、内部からはじき出される者(スケープゴート)をつくってしまう。これがいじめの構図。いじめをなくすためには、自分自身が集団に依存せず自立した存在になり、集団を正しくリードする強さをもつことだ。
この教え子はよく読書をしていたが、物語よりも哲学のほうが夢中になって読めたと言う。ちょっと難しいけど、保健室に一冊置いておこうかと思う。 -
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素晴らしい。久しぶりに大絶賛したい内容でした。
難解な問題であり、内容も難解なのだけれど
それを読みやすくわかりやすい内容にて語られていく。
そこには、宗教のもととなる考えがあったり。
本質があったり、本当に純粋な気づきがあったり。
私の周りのすべての人に読んでほしいと思いました。
哲学をしっているわけではありませんが。この本は
すべての哲学をふくんでいるのではと思います。
また、すべての宗教の発端がこの本の語りに
現れてくるものではないかと思いました。
200P弱の短い本ですが。。。
特に子どもには、読んでほしい。わかりにくくても
なんどでも繰り返して読めば必ずわかるし、わかれば
考えが突き抜けていく感じがする本だと思います。
他者の死
(二人称の死。三人称の死)(疚しさ)
私の死
さしあたり、まだ
いつか必ず
(いつか、必ず、その先が無い、私のとって、ありえないもの、理不尽)
生
『ない』の光に照らしだされた『ある』
『もう、ない』『いま、ある』が『まだ、ない』
『いま、ある』ことの晴れやかさ
読んだ後に感動的な想いも生じる本でした。 -
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ネタバレ著者は慶應大学文学部教授で、去年まで系列の中学校の
校長先生を兼任していた哲学者。
難しいことを噛み砕き、心を尽くして
子どもたちに語りかけてきた数年間の記録です。
人生を輝かせるために「本当の自由」を手に入れなさい
と繰り返し語られています。
とっかかりとなる題材は「短すぎるスカート丈」
「なぜ勉強するのか」「いじめはなくならない?」など。
『スカートを短くしたい君はなぜそうしたのかな?
他人にかわいいと思われたいからかな。
(略)ゆくゆくはパートナーの彼に出会いたいからこそ、
君はスカート丈を短くしたんだ。
(略)赤ちゃんを産み、育てるのは、
人類の存続のための「命令」だ。
「スカート丈を短くしたい」という君の思いは
そもそも君の自由に属するものでなく、本能の命令によって君はそう思わされていることにならないだろうか』
と、この話は、自由が本物の自由なのかはいつでも疑いうるということ、また自由の及ぶ範囲が自由自身にまで広がっている、という途方も無い問いかけにつながっています。
始業式にいきなり「君のスカートが短いのは本能の命令だ」と聞かされた中学生たちの反応を考えると(笑)
現在の自分の状態で特に心に残ったのは以下です。
『あまりにつらい体験は、消化することもできないまま、
異物のようにそこにありつづける。
それでも、それらとともにしか私たちの人生はないのです』
『ほかの何ものからも命じられたわけではないことを、
自分自身の力で実現する。そうやって自由を手に入れる
プロセスこそが学ぶこと。それはいつか必ずや失われる人生を輝かせるための方法』
言い回しに独特の味わいがあります。知的刺激を受けると同時に温かい気持ちになる本です。こんなお話が聞ける中学生たちがうらやましいと思いつつ、一度聞いたきりで理解できた中学生はほとんどいなかったのでは、と心配にも。
文字で出版されたことでお話をじっくり味わい、なぐさめを得たり、勇気を思い出したりするひとは多いと思いました。
また、宇宙のおわりはどうなってるの?といったことを考える仕方を教えてもらえたのも収穫。 -
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身近なところで若者が自ら命を絶った。著者からこの本を贈られたのは、その十日後だった。亡くなった若者とこの著者の二人から「メメント・モリ(死を思え)」と言われたような不思議な気持ちで読み始めた。
哲学者である著者が、慶應義塾中等部(中学校)の校長を務めたことから生まれた著作。
全編を通して、「まだ見ぬ時間」に向けての問いかけに溢れている。「このことを忘れないでおいてください」「最終的には、君たちの手に委ねられている」「ぜひ覚えておいてください」「その時まで・・・」。第五章「死と自由」には、「のっぴきならない死の手前にのみ、みずから選び取ることのできる可能性というかたちで、自由の余地が開かれている」とある。ここにも、時間の哲学が顔を見せている。清々しい中学生の瞳がこうした言葉を呼び寄せたのだろうか。(そもそも、人生を語るとは、時間を語ることなのかもしれないが・・・)
もうひとつの印象は、自然科学を越えた(踏まえたではなく)格調高い哲学(メタ・フィジクス)の言葉に満ちていること。ニュートン力学は言うに及ばず、素粒子論から天文学まで登場する。「生命と環境」では、エントロピー増大の法則まで援用されていて圧巻。自然科学と哲学の見事な融合を目の当たりにして、その美しさに感動を覚える。
読み終えて、谷川俊太郎の詩の一節を思い浮かべた。
本当の事を言おうか
詩人のふりはしてるが
私は詩人ではない
この詩をもじって言えば
本当の事を言おうか
この著者は「哲学者」のふりをしてるが
「詩人」であり
「自然科学者」であり
「教育者」である -
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[ 内容 ]
「世界が現象する」とはどういうことなのか。
フッサールの問題系に気鋭の哲学者が挑む。
驚きに満ちた「現象学」解説の、そしてフッサール解体の試み。
[ 目次 ]
第1章 たび重なる「転回」―数学から超越論哲学へ
第2章 事象そのものへ―「現象」への還元
第3章 記号と意味―「現象」の内実
第4章 身体と私―「現象」の媒体
第5章 世界―「現象」の場所
第6章 時間と他なるもの―「現象」の外部へ
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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「意識と本質」を1回読んでからの参考書として入手。イスラムの源泉はギリシャにあるなど、井筒さんが言いたかったことを端的にまとめていて役に立つ本だった。
斎藤慶典さんは、「私の専門は現象学だ」と言っている。
最後の「今ここで=現に」という章が現象学的見地からのものなのかもしれない。井筒さんには故意かどうかは不明だが、無視した範疇があるというのだ。井筒批判?
p232 その「尽力」を以って世界を時間として開く「機能」を有する「我」と名指されたそれは、いかなるものと考えればよいのか。この問いに、井筒が正面から向かい合った形跡はない。
この批判が客観的に該当するのかどうか、私にはわからないが。
「井筒さんの論はすばらしいが、実際の世の中の役にたっていない」と言っているように聞こえる。
しかし、私は井筒さんのすべての本は「人類にとっての宗教の定義」を考察しているとおもうので、それはそれで完成されていると思う。 -
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井筒俊彦の思想を読み解きながら、著者自身の「存在」と「認識」にまつわる哲学的な思索を展開している本です。
著者の本はこれまでも何冊か読んだことがありますが、フッサールを論じても、デカルト、あるいは西田幾多郎を論じても、つねに著者自身の考える問題へと立ち返っていくことになるので、じつのところ既視感をおぼえるところもありました。ただそれでも、井筒の言語哲学、とりわけその言語アラヤ識に著者自身の考える「充満する空」をかさねあわせ、そこから井筒のテクストにおける道元の「有事」にかんする言及などに含まれている可能性を押し広げることで、存在が「いま・ここで=現に」というしかたで一瞬ごとに開披されるという考えを展開しているところは、読み応えがあります。
井筒の言語アラヤ識論には、丸山圭三郎の欲動論と同様に、ある種の神秘的な生命論へと回収されてしまう危険性があるように感じていたのですが、本書はそうした問題点を明確にしながらもそれを乗り越えるような思索の方向性を切り開いているように感じます。こうした本書の解釈が、井筒自身の思想を正しく把握しているものなのかどうかという点にかんしては留保したいと考えますが、いずれにしても興味深く読むことができました。 -
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デカルトの解説書としては134ページと比較的薄くて、しかも発行日が2022年2月8日と比較的新しいため、手に取りやすい(ただし、あとがきにて「本書はデカルトの解説書ではない。」と明記されているため、この評価も適切ではないかもしれない。)。
本書では主にデカルトの有名な言葉「私は考える、ゆえに私は存在する(我思うゆえに我あり)」について、『方法序説』『省察』『哲学原理』からの引用を使って、主張の経緯や「我」とは何か、そしてデカルトによる神への言及への見解について述べられている。一方で方法序説で有名な4つの規則については特に言及されていないため、デカルト哲学の中でも一段と哲学らしい領域にフォーカスしていると言える。
序章と第一章の最初までは読みやすかったが、第一章の中盤から第二章になると主張や表現がよくわからなかった。「シリーズ・哲学のエッセンス」の性質上、著者がデカルトに対する理解と論を書きたいように書いたものになっており、デカルトの解説という立場ではわかりづらいものになっているように思う。著者のファンであれば前向きに読めるだろう。
なお、巻末のデカルト小伝と読書案内の章はシンプルに情報がまとめられており、デカルトの入門者に広く有益と思われる。 -
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著者が、「哲学」と呼ばれる思索の営みの始まりから、「存在」そのものを問う形而上学への歩みを読者の前で実演して見せた本です。
著者は、世界に対する当惑から「どうして?」という問いが始まるとき、「哲学」と呼ばれる営みが開始されることになると論じています。「どうして?」という問いは、理由や根拠、意味や本質への問いかけを含んでいますが、とりわけ「存在とは何か」という世界全体への問いかけがおこなわれるとき、われわれはそれを「形而上学」と呼ぶと著者はいいます。
その上で著者は、「存在とは何か」という問いは果たして可能なのだろうかと、改めて問いかけます。ライプニッツは「なぜ世界は存在するのであって、むしろ無ではないのか」と問いましたが、パルメニデスが主張したように、「あるものはある、ないものはない」のであれば、「無とは何か」と問うことができないように、「存在」そのものを問うこともできないように思えます。しかし著者は、そのような仕方でわれわれは「存在」の外部の「無」に触れてしまっているのではないかと反問します。
さらに著者は、パルメニデスにしたがうならばけっして移ろうことも分割することもない「存在」の中に、時間と空間、さらには概念の象りによって「距離化」ないし「疎隔化」が生じて、「あるものはある、ないものはない」という空虚な充満でしかない「存在」の中に「何か」が生まれてくる機序を解き明かします。そのうえでカントの「超越論的統覚」に関する思索を手がかりにして、そうした「何か」が生まれてくる場に居合わせる「私」のあり方を論じ、西田幾多郎の「場所」の思想を手がかりにして、「何か」が「私」や「他者」たちによって述語づけられることでそれが「何か」を十全に示すようになることについて考察を展開しています。
本書を通じて、「存在そのもの」を問う思索の「途方もなさ」に触れることができたような気がします。 -
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読み終わったがとても眠かった。
非常に丁寧に説明しているのだろうと思う。「ある(イリヤ)」の段階から亡霊、享受する糧、顔、理性、倫理、そうして無限責任と正義へ言及。ただし論の筋は行ったり来たり(後ほど説明する、がしばしば登場する)、もとから特殊な言葉遣いをする分野なので仕方がない部分はあるかもしれないが用語も括弧書きに太文字がこれでもかというほど登場して集中力がいる。わかりやすい言葉で、難しいことを一生懸命説明しようとしているのを感じた。例えでわかりやすく説明しているのだが、接続詞を見るとぎちぎちに文章が詰めてあって、一度集中が切れるとまた数ページ遡らなければならず、少々しんどい。 -
Posted by ブクログ
第1章では、心理学主義と論理学主義のはざまの道を歩もうとしたフッサールの努力が、たいへんわかりやすく整理されている。第2章以下では、フッサールの思索した道を著者自身の哲学的思索を通じてたどりなおしている。著者の議論はたいへん明晰だが、「現象学的」と呼ぶにはやや思弁的な性格が強いように思う。
フッサールは、世界の一般定立に判断停止を施すことで、「現象」と呼ばれる領野に立ち返ろうとする。これが「超越論的還元」である。しかしフッサールは、こうした方法による超越論的現象学が、「超越論的自我論」としてのみ可能だと考えていた。著者はフッサールの自我論の構想にはしたがわないで、すべてが「現象する」ことからしか始まらないという事態に目を向け、その仕組みを解明することをめざしている。
著者はまず、現象する「何か」が「何か」であること、つまり自己自身に等しいことは、どのようにして可能なのかと問う。あらゆるものは時間の中に成立し、現象するや否やただちに流れ去ってゆく。そこでは、たえず不在へとみずからを譲り渡してゆくことの中で、はじめて現象が成り立っているのである。著者はこうした現象の仕組みを支えているのは、もはやないものを現象へと取り集める「想像力」だと考える。
次に著者は、想像力が「私は……をなしうる」(Ich kann ...)という「能力性」として、私の身体に根を下ろしていることを明らかにする。しかも、そうした私の身体の運動=感覚に相関して、そのつど世界が「地」の上の「図」として描き出されることになる。フッサールのいう「地平」、世界のこうした構造を意味していたのだと著者は述べている。
最後に著者は、「すべては現象する」ということからしか何ごとも始まらないにも関わらず、そのような事態が可能になっているのは、「すべて」が外部の「無」に接してしまっているからではないかと考える。そしてこのことは、すべての始まりである「現象すること」がその「起源」をみずからの内にもっておらず、その底が「無起源」へと抜けてしまっていることを意味する。著者は、晩年のフッサールの「生き生きした現在」をめぐる思索が、まさにこうした「無起源」をめぐる問題圏に触れていたのではないかと論じている。