斎藤慶典のレビュー一覧
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教え子に紹介されて読んだ。その子はいじめが原因で不登校になった。この本に出てくる、いじめの哲学を知って、楽になったと言う。
集団でないと生きていけない人間は、敵をつくることで、自分たちの結束を強める。外部に敵がいない時は、内部からはじき出される者(スケープゴート)をつくってしまう。これがいじめの構図。いじめをなくすためには、自分自身が集団に依存せず自立した存在になり、集団を正しくリードする強さをもつことだ。
この教え子はよく読書をしていたが、物語よりも哲学のほうが夢中になって読めたと言う。ちょっと難しいけど、保健室に一冊置いておこうかと思う。 -
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ネタバレ『レヴィナス 無起源からの思考』斎藤慶典著
おもしろかった。久しぶりに「哲学」書を読んだ、という気持ちである。哲学の説明書ではない。本当の哲学書である。
「思考」の書である。
読んでいると、「思考」が進んでいく。この「思考」というのは、普段頭の中で巡らしている「思考」ではない。
朝起きて、ベッドから立ち上がることを、「運動」と呼ばないように。普段、頭で思いめぐらすことは、「思考」ではない。
本書は、思考について思考する。それは「思考しえないもの」についての「思考」である。
いいや、思考しえないものを思考するということが、思考ということの本質なのである。
「思考」は「目覚め」である -
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素晴らしい。久しぶりに大絶賛したい内容でした。
難解な問題であり、内容も難解なのだけれど
それを読みやすくわかりやすい内容にて語られていく。
そこには、宗教のもととなる考えがあったり。
本質があったり、本当に純粋な気づきがあったり。
私の周りのすべての人に読んでほしいと思いました。
哲学をしっているわけではありませんが。この本は
すべての哲学をふくんでいるのではと思います。
また、すべての宗教の発端がこの本の語りに
現れてくるものではないかと思いました。
200P弱の短い本ですが。。。
特に子どもには、読んでほしい。わかりにくくても
なんどでも繰り返して読めば必ずわかるし、わかれば
考え -
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ネタバレ著者は慶應大学文学部教授で、去年まで系列の中学校の
校長先生を兼任していた哲学者。
難しいことを噛み砕き、心を尽くして
子どもたちに語りかけてきた数年間の記録です。
人生を輝かせるために「本当の自由」を手に入れなさい
と繰り返し語られています。
とっかかりとなる題材は「短すぎるスカート丈」
「なぜ勉強するのか」「いじめはなくならない?」など。
『スカートを短くしたい君はなぜそうしたのかな?
他人にかわいいと思われたいからかな。
(略)ゆくゆくはパートナーの彼に出会いたいからこそ、
君はスカート丈を短くしたんだ。
(略)赤ちゃんを産み、育てるのは、
人類の存続のための「命令」だ。
「スカ -
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身近なところで若者が自ら命を絶った。著者からこの本を贈られたのは、その十日後だった。亡くなった若者とこの著者の二人から「メメント・モリ(死を思え)」と言われたような不思議な気持ちで読み始めた。
哲学者である著者が、慶應義塾中等部(中学校)の校長を務めたことから生まれた著作。
全編を通して、「まだ見ぬ時間」に向けての問いかけに溢れている。「このことを忘れないでおいてください」「最終的には、君たちの手に委ねられている」「ぜひ覚えておいてください」「その時まで・・・」。第五章「死と自由」には、「のっぴきならない死の手前にのみ、みずから選び取ることのできる可能性というかたちで、自由の余地が開かれ -
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[ 内容 ]
「世界が現象する」とはどういうことなのか。
フッサールの問題系に気鋭の哲学者が挑む。
驚きに満ちた「現象学」解説の、そしてフッサール解体の試み。
[ 目次 ]
第1章 たび重なる「転回」―数学から超越論哲学へ
第2章 事象そのものへ―「現象」への還元
第3章 記号と意味―「現象」の内実
第4章 身体と私―「現象」の媒体
第5章 世界―「現象」の場所
第6章 時間と他なるもの―「現象」の外部へ
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆ -
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「意識と本質」を1回読んでからの参考書として入手。イスラムの源泉はギリシャにあるなど、井筒さんが言いたかったことを端的にまとめていて役に立つ本だった。
斎藤慶典さんは、「私の専門は現象学だ」と言っている。
最後の「今ここで=現に」という章が現象学的見地からのものなのかもしれない。井筒さんには故意かどうかは不明だが、無視した範疇があるというのだ。井筒批判?
p232 その「尽力」を以って世界を時間として開く「機能」を有する「我」と名指されたそれは、いかなるものと考えればよいのか。この問いに、井筒が正面から向かい合った形跡はない。
この批判が客観的に該当するのかどうか、私にはわからないが。
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井筒俊彦の思想を読み解きながら、著者自身の「存在」と「認識」にまつわる哲学的な思索を展開している本です。
著者の本はこれまでも何冊か読んだことがありますが、フッサールを論じても、デカルト、あるいは西田幾多郎を論じても、つねに著者自身の考える問題へと立ち返っていくことになるので、じつのところ既視感をおぼえるところもありました。ただそれでも、井筒の言語哲学、とりわけその言語アラヤ識に著者自身の考える「充満する空」をかさねあわせ、そこから井筒のテクストにおける道元の「有事」にかんする言及などに含まれている可能性を押し広げることで、存在が「いま・ここで=現に」というしかたで一瞬ごとに開披されるという -
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デカルトの解説書としては134ページと比較的薄くて、しかも発行日が2022年2月8日と比較的新しいため、手に取りやすい(ただし、あとがきにて「本書はデカルトの解説書ではない。」と明記されているため、この評価も適切ではないかもしれない。)。
本書では主にデカルトの有名な言葉「私は考える、ゆえに私は存在する(我思うゆえに我あり)」について、『方法序説』『省察』『哲学原理』からの引用を使って、主張の経緯や「我」とは何か、そしてデカルトによる神への言及への見解について述べられている。一方で方法序説で有名な4つの規則については特に言及されていないため、デカルト哲学の中でも一段と哲学らしい領域にフォーカス -
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著者が、「哲学」と呼ばれる思索の営みの始まりから、「存在」そのものを問う形而上学への歩みを読者の前で実演して見せた本です。
著者は、世界に対する当惑から「どうして?」という問いが始まるとき、「哲学」と呼ばれる営みが開始されることになると論じています。「どうして?」という問いは、理由や根拠、意味や本質への問いかけを含んでいますが、とりわけ「存在とは何か」という世界全体への問いかけがおこなわれるとき、われわれはそれを「形而上学」と呼ぶと著者はいいます。
その上で著者は、「存在とは何か」という問いは果たして可能なのだろうかと、改めて問いかけます。ライプニッツは「なぜ世界は存在するのであって、むし -
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読み終わったがとても眠かった。
非常に丁寧に説明しているのだろうと思う。「ある(イリヤ)」の段階から亡霊、享受する糧、顔、理性、倫理、そうして無限責任と正義へ言及。ただし論の筋は行ったり来たり(後ほど説明する、がしばしば登場する)、もとから特殊な言葉遣いをする分野なので仕方がない部分はあるかもしれないが用語も括弧書きに太文字がこれでもかというほど登場して集中力がいる。わかりやすい言葉で、難しいことを一生懸命説明しようとしているのを感じた。例えでわかりやすく説明しているのだが、接続詞を見るとぎちぎちに文章が詰めてあって、一度集中が切れるとまた数ページ遡らなければならず、少々しんどい。 -
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第1章では、心理学主義と論理学主義のはざまの道を歩もうとしたフッサールの努力が、たいへんわかりやすく整理されている。第2章以下では、フッサールの思索した道を著者自身の哲学的思索を通じてたどりなおしている。著者の議論はたいへん明晰だが、「現象学的」と呼ぶにはやや思弁的な性格が強いように思う。
フッサールは、世界の一般定立に判断停止を施すことで、「現象」と呼ばれる領野に立ち返ろうとする。これが「超越論的還元」である。しかしフッサールは、こうした方法による超越論的現象学が、「超越論的自我論」としてのみ可能だと考えていた。著者はフッサールの自我論の構想にはしたがわないで、すべてが「現象する」ことから