老川慶喜のレビュー一覧
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幕末から明治(正確には1906年の鉄道国有法の公布まで)の日本の鉄道の歴史を扱う。鉄道一本に絞っており、これまでの政治経済通史的な理解では得られなかったニッチな分野に光を当てている。
鉄道をもたらしたのも実はペリーで蒸気機関車の模型を持ってきた。これを佐賀藩や薩摩藩が作り直すところから歴史は始まる。
そこから有名な新橋〜横浜間の列車に繋がっていくが、この時点では、路線計画、敷設、車両など技術は西洋頼り(お雇い外国人)。そんな状況を鉄道局長たる井上勝が変えていく。具体的には教育機関を作って教えて現場に出すことを繰り返して日本人の手だけで作ることができるようになった。
その後、官と民が併存しながら、大きな幹線を優先的にやるという大方針はあり、民間鉄道事業は許可制なるも、雨後の筍のように官と民の鉄道が乱立。統一的に整備運営する観点から国有化がなされて9割の路線と客を持つ国鉄が登場。イノベーションを阻害するとの観点からの批判も相当あった模様だが、貴族院での大幅修正や衆議院での乱闘国会を経ながら1906年に成立する。
しかし、ストーリーとして面白かったのは鉄道で変わる社会。例えば、横浜・鎌倉が首都からの日帰りツアー圏になったり、日光や松島に盛んに観光鉄道が運行される。瀬戸内海などでの船との顧客争いも面白い。また、影の面として、昔の宿場町の衰退、鉄道が遅い山陰地方の発展の遅れなど「裏日本」概念が生まれたり、早く開通しても首都圏の経済衛星国のようになって搾取される青森県の状況、中間の中都市から大都市への人口流出など鉄道は様々な光と陰をもたらしつつ、社会を急速に変容させていった。
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堤康次郎の人となりの印象はどうしても「父の肖像」を始めとした、辻井喬の著作群での描かれ方に大きな影響を受ける。
家族としての視点に加え、後継した経営者としての分析(しかもどちらも卓越した経営能力を持ち)、その上辻井の文才まで含めると著作群以上の評伝は生まれるべくもないとは思うのだが、そこで本書である。
本書は著者が「はじめに」で断っている通り、(経営に関わる閨閥形成を除いた)家族関係には言及していない。終章で後継者に触れているが、家産と事業の分離とそれぞれの後継という視点は本書の締めくくりに必須だと思う。
論点を本来の実業家としての堤康次郎に絞り込む事により論点となるのは、結局は「土地の堤」、そしてそこから派生して交通網を確立させた鉄道会社社長としての経営の過程となる。土地活用のアイデアと、そのアイデアを実行する為の資金調達、そして運用を経ての拡大再生産、これを終生やりきった堤は現代日本の都市形成の立役者の1人である事は間違いない。
又、本書では土地や鉄道に隠れがちだが、化学や建築等、堅実にグループを支えた事業についても触れており、論点を絞った事による深掘りの結果、実り多い一冊となった。
因みに、衆議院議長にまでなった堤の政治活動にスポットを当てた本を寡聞にて知らないのだが、要は事業や家族関係に比べてつまらない(大した事はやってない)という事なのかな?
三洋堂書店橿原神宮店にて購入。 -
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本書は、1854年二度目の来航を果たしたペリーが蒸気車模型を幕府に献上してから、1906年鉄道国有化法が通るまでの日本の鉄道史を書いた本です。私は鉄道よりも明治時代の産業発展に興味があったのですが、まさに鉄道の目線を通じた産業発展および社会の変化が、当時の新聞記事の紹介など、わかりやすい形で示されていました。
特に鉄道が地域にもたらした影響が極めてリアルに書かれていて興味深かったです。村の産業全体が壊滅状態になるところもあれば、日光のように観光客数は増えたものの(鉄道によって日帰りできるようになって)宿泊客が減少すると言ったように、当時の日本人に与える影響が全国津々浦々いかに大きかったか、とてもよくわかりました。
またこれは本書の主題ではないのですが、改めて鉄道(線路と車両)というシステム自体を考え出したイギリス人の発想力というかイノベーション力はすごい。急速にキャッチアップしていった日本もすごいが、改めて本書を読んでイギリスもすごいと感じました。本書を読んで、日本の鉄道史自体の理解も深まりましたが、改めて別の興味もわいてきたので満足しています。 -
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「幕末・明治篇」に続く老川日本鉄道史の第2弾。鉄道国有化から敗戦までを描く。本書においても,近代日本経済史を,鉄道を中心に見ることで,従来の通史とは異なる新たな解釈が思い浮かばれる。
とりわけ興味深かったのは,日本経済ないしは北東アジア経済におけるウラジオストックの位置づけだろう。従来の植民地史研究や帝国日本研究サイドに立脚すると,日満間の結びつきは朝鮮半島を軸にしてしまうが,ロシアを視野に入れることで,東京―米原―敦賀―ウラジオストック―満蒙というルートが日本の鉄道史に与えた影響力の大きさに,改めて目を奪われよう。
「キセル乗車」(174頁)のエピソードは微笑ましく感じられたし,敗戦翌日の1945年8月16日においても「国鉄は時刻表のとおりに動いていた」という最後の一文が,日本の鉄道史を一言で集約できているといえるのではないだろうか。
なお本書(初版)においても,JR相模線が「JR相模原線」(204頁)と記されていたのは看過できない誤字である。 -
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近代日本の交通・流通史の第一人者である著者によって語られた鉄道を軸とした日本経済の通史。それだけに,単なる鉄道の経営・技術開発史ではなく,外交や出資,社会生活との関係性をも記している点で,鉄道ファンでなくとも親しみやすい。
従来,明治日本経済史における鉄道の役割は,新橋―横浜間の開通に始まり,殖産興業期における「開港場路線」としての限界,松方デフレを経て企業勃興期における鉄道建設ブーム,明治23年恐慌によるその終焉,日露戦後経営期の鉄道国有化と,主に明治政府による経済政策の変遷にあわせて段階的に描かれてきた。しかし,本書ではその間隙を縫うかの如く,東と西をつなぐ幹線鉄道としての「中山道鉄道の敷設」の意義や,鉄道敷設法体制下における小規模私設鉄道の濫立と広軌鉄道問題などに焦点を当てることで,明治期の鉄道史を連続的に表すことに成功している。
こうした連続的な明治鉄道史像を描写することによって,当時の人物に対する評価も変化してくる。これまで「長州ファイブ」(20-21頁)の中では「いぶし銀」的存在だった鉄道庁長官・井上勝は,井上馨や伊藤博文らを脇役へ追いやって,「鉄道のテクノクラート」(144頁)として主役の座を勝ち取っている。また,渋沢栄一は,「金本位制採用論争」に続いて,大蔵省の阪谷芳郎ら鉄道国有論賛成派に対する反対論を唱えるが,結局のところ日露戦後期には国有化を主張するように転換してしまう(193-195頁)。こうした鉄道に携わる人間模様も活発に語られているのが,本書の面白さだといえよう。
ただ1点気になったのは,97頁(初版)の記述である。高崎―横川間の官設鉄道が1885年10月に開業したことで,途中の磯部駅には湯宿が軒を並べており,「外務卿の井上馨らが別荘を建て,三菱の岩崎弥太郎もしばしばこの地を訪れるようになった」と書かれているが,弥太郎自身は同年2月7日に没している。おそらく,岩崎弥之助の間違いであろう。 -
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西武渋谷店が閉店になると聞いて、渋谷の再開発とともに西武とはセゾングループとは何だったのかを少し調べてみることにしました。
手始めが西武グループの祖である堤康次郎について。
『ミカドの肖像』にちらっと出てくるので、軽井沢の開発や皇室の土地を買い上げてプリンスホテルにしたことなどは知っているんですが、箱根、目白、渋谷道玄坂、国立、池袋、琵琶湖周辺、西武鉄道、西武百貨店、とまあ、ここでは書ききれないほどの開発事業に今さらながら驚きました。
渋谷、池袋、下落合って私の高校、大学時代の風景はこの人によって作られた土地なんですね〜。
『細木数子 魔女の履歴書』に出てきた細木数子の実家の飲み屋があった渋谷百軒店も堤康次郎が建設。かつては銀座天賞堂や資生堂など有名店が出店する「小綺麗な商店街」だったとか。
池袋駅前の闇市から土地を買収し、復興する過程のうちに西武百貨店が開設したこと。
箱根は小田急のイメージが強かったけれど、箱根開発において、ライバル五島慶太と箱根山戦争をくりひろげたこと。
盛りだくさんな内容がすっきりまとまっていて大変おもしろかったです。
軽井沢や品川にスケートリンクを作っていたりするので、日本のフィギュアスケートの発展に実は大きな役割をしているんじゃないかと予想してみたり。(荒川静香はプリンスホテルの所属だったし)
堤康次郎は1964年に急死。西武百貨店は次男の堤清二、国土計画興業、西武鉄道は三男の堤義明に継承。(実はこの2人の区別が私にはよくわかっていなかった)
その後の西武グループの発展と失脚はいずれも堤康次郎時代からの遺産でもあるのだなと思われます。
実業家としての堤康次郎を語っている本なので、あきらかにドロドロである女性関係と家族の確執とか、その後の西武については多くは語られていません。ライバル五島慶太も渋谷に絡んでくるので、ここらへんも調べてみたい。
(256ページ)
式典に参列した康次郎は、「これを作ったのは、現在世界的水準にある日本の水泳界の水準を更に高めることと、青年の溢れるエネルギーをデモ活動などにではなく、自然な形で発散させて貰いたいためである」とあいさつをした。
以下、引用
36
碓氷馬車鉄道
10人乗りであったが、今の電車のように乗客が向かい合って座るのではなく、車体の中央に長い板の仕切りがあって、互いに背中合わせに外側に向かって5人ずつ、合計10人が座るようになっていた。
91
目白不動園の分譲が成功すると、箱根土地会社は早稲田大学に売却した土地5046坪を買い戻すとともに、目白不動園の隣接地1万5033坪を買収し、1923年5月25日から第二文化村として分譲した。そして、それになぞらえて目白不動園の分譲地を第一文化村と呼んだ。
102
康次郎は、1923年(大正12)年、渋谷道玄坂の旧豊後国岡藩主中川久任伯爵邸跡3448坪を買収し、百軒店という商店街の建設に着手した。
105
百軒店の入居商舗は表3-5のようで、1924年10月の時点で87店が入居していたが、銀座などからの有名商店の出店が多かった。
銀座天賞堂売店
銀座資生堂チェーンストーア
銀座木村屋パン店
エビスビヤホール
しかし、関東大震災からの復興が進むにつれて下町に引き上げる店が増え、1925年には値下げや年賦償還の方法も講じたが、26年1月に突然売りに出された。
1926年4月には、百軒店では75軒が空き店舗となっていた。
107
1924(大正13)年9月、箱根土地会社は、四谷区番衆町35番地(現・新宿区新宿5丁目)に新宿園という約1万坪の面積を擁する遊園地を開園したのである。
花月園(鶴見、1914年5月)
荒川遊園(西尾久、1922年5月)
玉川児童園(二子玉川、1922年7月)
多摩川園(田園調布、1923年12月)
谷津遊園(習志野、1925年11月)
豊島園(練馬、1926年9月)
向ヶ丘遊園(登戸、1927年4月)
京王閣(調布、1927年6月)
218
東京都の糞尿輸送を引き受けた武蔵野鉄道と旧西武鉄道は、専用貨車の製造や発着駅の貯留槽の建設工事を急ぎ、8月ごろから糞尿電車の深夜運行を本格化させ、1日に約5500石(100万人分)の糞尿を農村に還元するという計画を立てた。
236
復興社のもう一つの大きな事業は、戦後スラム化した国電池袋駅東口の土地区画整理事業であった。
248
1946年3月、池袋駅東口の焼け跡のなかに闇市(ブラックマーケット)が立ち、復興の兆しがみられた。池袋は交通の要衝で、東口の駅前には闇市が立つのに必要な、適度な広さの焼け跡があった。
康次郎は、闇市でにぎわう池袋の復興を頭に描いて、戦後まもなくから池袋駅東口界隈の土地の買収にとりかかった。
253
西武百貨店の前身は、1940(昭和15)年3月に武蔵野鉄道の社長であった康次郎が設立した武蔵野デパートで、京浜急行電鉄が1933年に開業した京浜デパート(のちの京浜百貨店)の一分店として、武蔵野鉄道の池袋駅ぎわで営業していた「菊屋デパート」に端を発している。
254
康次郎は、1940年3月、このような菊屋デパートを買収し、商号を武蔵野デパートと改称した。
255
戦後、池袋駅周辺では闇市が出現したが、康次郎は同駅東口で土地を買収し、豊島園にあった旧陸軍の格納庫用のテントを活用してテント張りの店舗を設け、1945年12月に食品の小売販売を始めた。そして、1946年12月に木造2階建ての仮説店舗を建設し、47年3月には商号を武蔵野デパートに戻すとともに帝都百貨店を吸収合併し、49年4月に商号を西武百貨店と改めた。
1954年9月、康次郎は次男の清二を営業部付で西武百貨店に入社させた。
1960年の池袋をみると、東口に西武・丸物、西口に東横・東武の各百貨店が並立し、さらに東口近くには三越百貨店も進出していた。このように、駅をはさんで5店の百貨店が競合するのは全国でも池袋だけであった。
256
康次郎は、池袋と品川を中心に、東京都内にプール、スケートセンター、ボウリング場などの、市民が手軽に楽しめるスポーツ施設を建設した。
1960(昭和35)年 池袋スケートセンター
1962年 品川スケートセンター 南リンク
式典に参列した康次郎は、「これを作ったのは、現在世界的水準にある日本の水泳界の水準を更に高めることと、青年の溢れるエネルギーをデモ活動などにではなく、自然な形で発散させて貰いたいためである」とあいさつをした。
263
1959年4月には、田無町(現・西東京市)にも公団住宅が完成した。ひばりが丘団地と呼ばれ、総面積は10万坪にも及び、保谷・田無・久留米の3町にまたがって162棟・2236戸の住宅が建設され、1万人の入居が予定されていた。
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獅子文六『箱根山』
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1946年8月 グリーンホテル営業開始
1947年3月 観翠桜 営業再開
1947年9月 千ヶ滝西区の入り口にある朝香宮の別荘を買収してプリンスホテルと命名した。
1949年11月 矢ヶ崎にあった根津嘉一郎の別荘を買収、1年後には茶人としても知られる根津の「青山」の号をとって晴山ホテルと命名して開業した。
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著者は立教大学名誉教授。西武コンツェルン創設者の生涯を「土地」を軸として描く。日本三大ターミナル駅の一つ、池袋に立地する大学の教授としては、地域の興隆に大いに貢献した堤康次郎にはひとかたならぬ思い入れがあろう。
一般に、鉄道沿線の開発ビジネスは阪急鉄道の創始者・小林一三がその嚆矢であるとされる。すなわち都市中心部のターミナル駅を起点として、百貨店や遊園地などのレジャー施設を鉄道で連結し、その間の沿線に住宅地を開発していくというものだ。しかし著者によれば、堤康次郎の取った戦略はそれとは対照的であり、先に観光地開発や宅地開発を行い、それから鉄道を敷設していく、若しくは既存の鉄道会社や道路会社を買収していくというものであったという。確かに、本書で語られる西武コンチェルンの歴史は軽井沢や箱根、国立などの行楽地や都市郊外における開発が先行し、西武池袋線とその後背地の発展がそれに続く形になっており、沿線開発の典型とは順序が真逆になっている。
この土地で成長にドライブをかけるスタイルは、康次郎の死後も後継者の義明と清二に受け継がれるのだが、面白いのは康次郎の思想を正当に継承したのは通説とは逆に義明ではなく清二であると著者が記述をしているところだ。康次郎が残した〈家産〉すなわち名義株の形で大量に保有していたグループ各社の株式を受け継いだのは確かに義明だったが、真の〈遺産〉すなわち「広く大衆に住宅地やリゾート地を安価で提供する」という経営理念を受け継いだのは清二だというのだ。確かに、セゾングループや今日の良品計画など清二のレガシーには大衆文化の尊重に重きを置くスタンスが見て取れるように思える。しかしその清二も父康次郎同様、土地の魔力から逃れられずに本懐を遂げずに終わったのは、誠に皮肉めいた話ではある。 -
Posted by ブクログ
堤康次郎の生い立ちから、事業の立ち上げ、その拡大と現在の西武グループの構成までがよくまとまっている。
利益に向かって貪欲に突き進んでいたのは間違いないが、堤康次郎にも彼なりのこの国や市民生活をどのようにしていくかという理想があり、それに突き進んでいたように感じた。
それは形を変えながらもセゾン文化、プリンスホテルというブランドにも引き継がれていたともいえないだろうか。
それにしても、この世代の政治、経済での大物といわれている人物のエネルギーはどこから来ているのか。その力は単純に肯定出来るものではないし、それが今の時代にもマッチするとは思えないが、今の日本に足りないものなのかもしれない。