あらすじ
電子版は本文中の写真を多数カラー写真に差し替えて掲載。
早稲田大学在学中に起業、卒業するや別荘地や住宅地を精力的に開発した堤康次郎。その軌跡は、公務員・会社員などの新中間層(サラリーマン)の誕生や都市人口の増大と重なる。軽井沢や箱根では別荘地や自動車道を、東京では目白文化村や大泉・国立などの学園都市を開発した。さらに私鉄の経営権を握り、百貨店や化学工業も含めた西武コンツェルンを一代で築くが、事業の本分はまぎれもなく「土地」にあった。厖大な資料から生涯を読み解く。
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西武グループ創始者の評伝。西武沿線居住者として楽しく読むことができた。
滋賀県出身、箱根、軽井沢などリゾート地と大泉、小平、国立など学園都市の開発。その他東京の都市の歴史にこの方の存在は大きかった。
その後の堤家の凋落こそあるが、やはり立志伝中の人物であったと思う。
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堤康次郎の人となりの印象はどうしても「父の肖像」を始めとした、辻井喬の著作群での描かれ方に大きな影響を受ける。
家族としての視点に加え、後継した経営者としての分析(しかもどちらも卓越した経営能力を持ち)、その上辻井の文才まで含めると著作群以上の評伝は生まれるべくもないとは思うのだが、そこで本書である。
本書は著者が「はじめに」で断っている通り、(経営に関わる閨閥形成を除いた)家族関係には言及していない。終章で後継者に触れているが、家産と事業の分離とそれぞれの後継という視点は本書の締めくくりに必須だと思う。
論点を本来の実業家としての堤康次郎に絞り込む事により論点となるのは、結局は「土地の堤」、そしてそこから派生して交通網を確立させた鉄道会社社長としての経営の過程となる。土地活用のアイデアと、そのアイデアを実行する為の資金調達、そして運用を経ての拡大再生産、これを終生やりきった堤は現代日本の都市形成の立役者の1人である事は間違いない。
又、本書では土地や鉄道に隠れがちだが、化学や建築等、堅実にグループを支えた事業についても触れており、論点を絞った事による深掘りの結果、実り多い一冊となった。
因みに、衆議院議長にまでなった堤の政治活動にスポットを当てた本を寡聞にて知らないのだが、要は事業や家族関係に比べてつまらない(大した事はやってない)という事なのかな?
三洋堂書店橿原神宮店にて購入。
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今の鉄道網を築いた背景が把握できた。
本音と建前、どこまでが公共性だったんだろう。
次は、息子たちのことも勉強したい。
東京の鉄道史がまとまっている本を読みたい。
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西部グループを一代で築いた堤康次郎の、実業家としての側面に焦点を充てた伝記。
堤氏は、滋賀県出身かつ滋賀県の発展にも貢献した人なので、『成瀬は天下を取りに行く』などの成瀬本の舞台の基盤を作った人だとも言えると思う。その意味で成瀬本ファンは本書の一読をオススメする(かなりマニアックな読み方)。
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飾りのない文章ゆえ読みやすさは人によって分かれるところだろう。
ただ堤康次郎という人を知るには十分な内容。
大正時代から昭和期へ、また戦争前後にかけての時台(人口動態、ライフスタイル)の変わり目を捉えて、感謝と奉仕の精神から事業を発展させる目は、時代を築いた事業家ならではだと感じられた。
首都圏、西武沿線に住む人には、駅や施設の開発経緯がわかるためとても興味深い内容となっている。
Posted by ブクログ
西武渋谷店が閉店になると聞いて、渋谷の再開発とともに西武とはセゾングループとは何だったのかを少し調べてみることにしました。
手始めが西武グループの祖である堤康次郎について。
『ミカドの肖像』にちらっと出てくるので、軽井沢の開発や皇室の土地を買い上げてプリンスホテルにしたことなどは知っているんですが、箱根、目白、渋谷道玄坂、国立、池袋、琵琶湖周辺、西武鉄道、西武百貨店、とまあ、ここでは書ききれないほどの開発事業に今さらながら驚きました。
渋谷、池袋、下落合って私の高校、大学時代の風景はこの人によって作られた土地なんですね〜。
『細木数子 魔女の履歴書』に出てきた細木数子の実家の飲み屋があった渋谷百軒店も堤康次郎が建設。かつては銀座天賞堂や資生堂など有名店が出店する「小綺麗な商店街」だったとか。
池袋駅前の闇市から土地を買収し、復興する過程のうちに西武百貨店が開設したこと。
箱根は小田急のイメージが強かったけれど、箱根開発において、ライバル五島慶太と箱根山戦争をくりひろげたこと。
盛りだくさんな内容がすっきりまとまっていて大変おもしろかったです。
軽井沢や品川にスケートリンクを作っていたりするので、日本のフィギュアスケートの発展に実は大きな役割をしているんじゃないかと予想してみたり。(荒川静香はプリンスホテルの所属だったし)
堤康次郎は1964年に急死。西武百貨店は次男の堤清二、国土計画興業、西武鉄道は三男の堤義明に継承。(実はこの2人の区別が私にはよくわかっていなかった)
その後の西武グループの発展と失脚はいずれも堤康次郎時代からの遺産でもあるのだなと思われます。
実業家としての堤康次郎を語っている本なので、あきらかにドロドロである女性関係と家族の確執とか、その後の西武については多くは語られていません。ライバル五島慶太も渋谷に絡んでくるので、ここらへんも調べてみたい。
(256ページ)
式典に参列した康次郎は、「これを作ったのは、現在世界的水準にある日本の水泳界の水準を更に高めることと、青年の溢れるエネルギーをデモ活動などにではなく、自然な形で発散させて貰いたいためである」とあいさつをした。
以下、引用
36
碓氷馬車鉄道
10人乗りであったが、今の電車のように乗客が向かい合って座るのではなく、車体の中央に長い板の仕切りがあって、互いに背中合わせに外側に向かって5人ずつ、合計10人が座るようになっていた。
91
目白不動園の分譲が成功すると、箱根土地会社は早稲田大学に売却した土地5046坪を買い戻すとともに、目白不動園の隣接地1万5033坪を買収し、1923年5月25日から第二文化村として分譲した。そして、それになぞらえて目白不動園の分譲地を第一文化村と呼んだ。
102
康次郎は、1923年(大正12)年、渋谷道玄坂の旧豊後国岡藩主中川久任伯爵邸跡3448坪を買収し、百軒店という商店街の建設に着手した。
105
百軒店の入居商舗は表3-5のようで、1924年10月の時点で87店が入居していたが、銀座などからの有名商店の出店が多かった。
銀座天賞堂売店
銀座資生堂チェーンストーア
銀座木村屋パン店
エビスビヤホール
しかし、関東大震災からの復興が進むにつれて下町に引き上げる店が増え、1925年には値下げや年賦償還の方法も講じたが、26年1月に突然売りに出された。
1926年4月には、百軒店では75軒が空き店舗となっていた。
107
1924(大正13)年9月、箱根土地会社は、四谷区番衆町35番地(現・新宿区新宿5丁目)に新宿園という約1万坪の面積を擁する遊園地を開園したのである。
花月園(鶴見、1914年5月)
荒川遊園(西尾久、1922年5月)
玉川児童園(二子玉川、1922年7月)
多摩川園(田園調布、1923年12月)
谷津遊園(習志野、1925年11月)
豊島園(練馬、1926年9月)
向ヶ丘遊園(登戸、1927年4月)
京王閣(調布、1927年6月)
218
東京都の糞尿輸送を引き受けた武蔵野鉄道と旧西武鉄道は、専用貨車の製造や発着駅の貯留槽の建設工事を急ぎ、8月ごろから糞尿電車の深夜運行を本格化させ、1日に約5500石(100万人分)の糞尿を農村に還元するという計画を立てた。
236
復興社のもう一つの大きな事業は、戦後スラム化した国電池袋駅東口の土地区画整理事業であった。
248
1946年3月、池袋駅東口の焼け跡のなかに闇市(ブラックマーケット)が立ち、復興の兆しがみられた。池袋は交通の要衝で、東口の駅前には闇市が立つのに必要な、適度な広さの焼け跡があった。
康次郎は、闇市でにぎわう池袋の復興を頭に描いて、戦後まもなくから池袋駅東口界隈の土地の買収にとりかかった。
253
西武百貨店の前身は、1940(昭和15)年3月に武蔵野鉄道の社長であった康次郎が設立した武蔵野デパートで、京浜急行電鉄が1933年に開業した京浜デパート(のちの京浜百貨店)の一分店として、武蔵野鉄道の池袋駅ぎわで営業していた「菊屋デパート」に端を発している。
254
康次郎は、1940年3月、このような菊屋デパートを買収し、商号を武蔵野デパートと改称した。
255
戦後、池袋駅周辺では闇市が出現したが、康次郎は同駅東口で土地を買収し、豊島園にあった旧陸軍の格納庫用のテントを活用してテント張りの店舗を設け、1945年12月に食品の小売販売を始めた。そして、1946年12月に木造2階建ての仮説店舗を建設し、47年3月には商号を武蔵野デパートに戻すとともに帝都百貨店を吸収合併し、49年4月に商号を西武百貨店と改めた。
1954年9月、康次郎は次男の清二を営業部付で西武百貨店に入社させた。
1960年の池袋をみると、東口に西武・丸物、西口に東横・東武の各百貨店が並立し、さらに東口近くには三越百貨店も進出していた。このように、駅をはさんで5店の百貨店が競合するのは全国でも池袋だけであった。
256
康次郎は、池袋と品川を中心に、東京都内にプール、スケートセンター、ボウリング場などの、市民が手軽に楽しめるスポーツ施設を建設した。
1960(昭和35)年 池袋スケートセンター
1962年 品川スケートセンター 南リンク
式典に参列した康次郎は、「これを作ったのは、現在世界的水準にある日本の水泳界の水準を更に高めることと、青年の溢れるエネルギーをデモ活動などにではなく、自然な形で発散させて貰いたいためである」とあいさつをした。
263
1959年4月には、田無町(現・西東京市)にも公団住宅が完成した。ひばりが丘団地と呼ばれ、総面積は10万坪にも及び、保谷・田無・久留米の3町にまたがって162棟・2236戸の住宅が建設され、1万人の入居が予定されていた。
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獅子文六『箱根山』
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1946年8月 グリーンホテル営業開始
1947年3月 観翠桜 営業再開
1947年9月 千ヶ滝西区の入り口にある朝香宮の別荘を買収してプリンスホテルと命名した。
1949年11月 矢ヶ崎にあった根津嘉一郎の別荘を買収、1年後には茶人としても知られる根津の「青山」の号をとって晴山ホテルと命名して開業した。
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著者は立教大学名誉教授。西武コンツェルン創設者の生涯を「土地」を軸として描く。日本三大ターミナル駅の一つ、池袋に立地する大学の教授としては、地域の興隆に大いに貢献した堤康次郎にはひとかたならぬ思い入れがあろう。
一般に、鉄道沿線の開発ビジネスは阪急鉄道の創始者・小林一三がその嚆矢であるとされる。すなわち都市中心部のターミナル駅を起点として、百貨店や遊園地などのレジャー施設を鉄道で連結し、その間の沿線に住宅地を開発していくというものだ。しかし著者によれば、堤康次郎の取った戦略はそれとは対照的であり、先に観光地開発や宅地開発を行い、それから鉄道を敷設していく、若しくは既存の鉄道会社や道路会社を買収していくというものであったという。確かに、本書で語られる西武コンチェルンの歴史は軽井沢や箱根、国立などの行楽地や都市郊外における開発が先行し、西武池袋線とその後背地の発展がそれに続く形になっており、沿線開発の典型とは順序が真逆になっている。
この土地で成長にドライブをかけるスタイルは、康次郎の死後も後継者の義明と清二に受け継がれるのだが、面白いのは康次郎の思想を正当に継承したのは通説とは逆に義明ではなく清二であると著者が記述をしているところだ。康次郎が残した〈家産〉すなわち名義株の形で大量に保有していたグループ各社の株式を受け継いだのは確かに義明だったが、真の〈遺産〉すなわち「広く大衆に住宅地やリゾート地を安価で提供する」という経営理念を受け継いだのは清二だというのだ。確かに、セゾングループや今日の良品計画など清二のレガシーには大衆文化の尊重に重きを置くスタンスが見て取れるように思える。しかしその清二も父康次郎同様、土地の魔力から逃れられずに本懐を遂げずに終わったのは、誠に皮肉めいた話ではある。
Posted by ブクログ
堤康次郎の生い立ちから、事業の立ち上げ、その拡大と現在の西武グループの構成までがよくまとまっている。
利益に向かって貪欲に突き進んでいたのは間違いないが、堤康次郎にも彼なりのこの国や市民生活をどのようにしていくかという理想があり、それに突き進んでいたように感じた。
それは形を変えながらもセゾン文化、プリンスホテルというブランドにも引き継がれていたともいえないだろうか。
それにしても、この世代の政治、経済での大物といわれている人物のエネルギーはどこから来ているのか。その力は単純に肯定出来るものではないし、それが今の時代にもマッチするとは思えないが、今の日本に足りないものなのかもしれない。