藤井貞和のレビュー一覧
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古文の助動詞(本書では敢えて「助動辞」という名称を使う)を覚えるのに悩まされた自分としては、高校の時このような本に出会えていたらと思った。
助動詞の成り立ちについて、言葉の深層に迫り、解説してくれる。動詞「あり」が助動辞の成り立ちの根源であることがわかる。
例えば、「き(過去)+あり」から「けり」へ、「つ(完了)+あり」から「たり」へつながるなど、助動辞の成り立ちを考えることで、言葉が立体的に見えてくる。著者は「krsm立体」として、「き(過去)」、「り(現存)」、「し(形容)」、「む(推量)」という助動辞の核となる要素の組み合わせから、文法体系を考える。
現在の橋本文法を規範とした学校文法だけは言葉の芯に迫ることはできない。先人が「あり」を元にして、助動辞を作り上げていった思考を辿ることは無駄ではないはずだ。
無機質に「助動詞」を通り一辺倒に対応する意味だけで捉えることだけではもったいない。藤井文法の視点で血が通った言葉として捉えることで、あらためて先人が日本語を作り上げてきた英知の深さに恐れ入るばかりである。 -
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ネタバレ二巻目に入り、読むのも少しは慣れてきました源氏物語!やはり月に1冊のペースです。一も面白かったけど、二もなかなかでした。
紅葉賀
ここでの青海波が、のちに平家物語の中で維盛が舞う青海波が光源氏みたい!とたとえられる元ネタ、と思うと感慨深さもひとしお…。
花宴
での源氏の衣装の艶やかさ、併読している『源氏物語五十四帖の色』を開いてはうっとり…。
葵
今のところ女君でいうと圧倒的推しの、六条御息所。彼女がふと自分から立ち香る芥子の匂いに気が付いた場面は、ぞわっとしましたし、源氏物語きっての好きなシーンとなりました。ホラー!!
(そして葵が死んで喪に服している間に紫の上に手を出すなよ…)
賢木
野宮神社に行きたすぎる…
須磨
なかなか須磨に下らないので笑いましたが、
身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡の影は離れじ(源氏)
別れても影だにとまるものならば鏡を見ても慰めてまし(紫の上)
の和歌のやりとり最高に好きだった。。
それから別れの日の
生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな、も好きだった
須磨が終わるところで、自分が美しすぎてついに竜王がきたか…ってナルシスト源氏発動してたのも笑いました
明石
明石に手を出しながら、紫の上がやっぱ大事~~って明石からしたらもう身の置き場がなさすぎて、ひどすぎませんか… -
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ネタバレ家に橋本治の源氏があるものの、今まで読んだことのある源氏は『あさきゆめみし』で、いつか・早いうちに読まねば(あまりにも全ての根幹になっているのだし)と思いつつ、手を付けてこなかった。一つには「所詮、男女の恋物語」というイメージがあり、私は好きではないだろうなと思っていたのが大きい。
今年は大河ドラマが「光る君へ」で、かつ初回から面白かったので、やはりこれは今年読むべきご縁だと思い、読みだしました。原理主義者の自分が捨てられないため、現代語訳ではなく岩波文庫で読んでいますが、圧倒的に読むスピードが遅いため、最後まで読み通せるのか今のところ自信がない笑。今年一年かかってでも読めれば、と思っている。
読んでいて面白かったのは、光源氏に対して批判的なコメントがちょいちょい入ること。光源氏はまあ憎めないところもあるが、それよりも女性たちの肖像としてそんなこともあるだろうと面白いこと。また物語として様々な「そういうの好き~~~」という仕掛けがちょいちょい入るので、例えば空蝉の由来とか、素敵すぎる、、やっぱり1000年なまじ読まれているものではないと思い、思ったより面白く、楽しめそうというのが嬉しい。ただ、時間はかかるのだけど…。
そしてやっぱり和歌のやりとりが最高なのです…。
最初の桐壺の和歌「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり」はストレートに歌い上げていていきなりぐっときた。
とはいえまだ少女の紫の上に、10代とはいえ大人である源氏が、「ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを」と渡したのは、普通にドンびきましたが……あと夕顔が死んだときの発言も自己中心的すぎるやろ…とか思ったり、ちょくちょく冷静になれる瞬間があってよかった笑。じゃないと、超スーパーイケメンに惑わされてなんでも許したくなってしまうので笑
次の二も楽しみですー! -
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物語が「何」を示すのかそれ自体・物語の「読み方」ではなく、
物語というものを構築する言葉に関心のある人向け。
実践的な面では、四人称の理解や、古典を読む=本文を読み、「研究訳」を作る・注釈を付すための心得などを、わかりやすく学べる。
個人的に好感度が高かった箇所。158頁
「アイヌ語に文字はあるかと聞かれたら、どう答えるか。すこしまえまでなら、「ない」と答えるのがたしかに正解だった。また、アイヌ語は滅びゆく言語だという言い方をする人がいる。この言い方そのものが、成り立たない不可能な意見、つまり背理である。その言語を使わない人々だけがそのように言うことができるのであって、言語はそれを使う人にとって、肉体そのものを抹殺されたり、言語で考えることをやめさせられたりするのでないかぎり、亡びようがないのだから。」
ことばそのものに耽溺するのではなく、それを語る「ひと」への眼差しがある真摯な学問の姿を見ました。 -
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返却期限がきたから一旦泣く泣く返す…
難しく、
とばしとばし読んでいたがインタビュー形式の章は
目からウロコというか
とても納得できた。
現実に不倫や浮気は
軽蔑すべきものとする考えが一般的なものの、
不倫を題材にした歌やドラマ、小説、漫画の
人気がある理由が
"結婚"は社会を円滑に動かすためのあくまで"制度"であるからだということ、
古語の似ているがニュアンスが異なる2つの言葉から"愛"という言葉が許容する意味の幅の広さを
導き出すくだりが
非常に面白かった。
人間の心は
社会制度の枠に
おさまらないくらいに、
情緒豊かで複雑で魅力的である。
それは今も昔も同じなのだと改めて感じた。 -
Posted by ブクログ
「ものがたりをするとは、人と人とが向き合っての座談や、複数の人物による談話のたぐいをもともと意味した。」p.22
「「かたり」という語に「もの」を冠して、話題のとりとめなさをそこにこめているのだ」p.23
「ふることは、文字どおり『古事記』などの歴史叙述であって、助動辞で見ると「き」を用い、過去のこととして出来事を語る。…ふることという語は、古い固定的な詞章をさしたり、古歌、古詩、あるいは決まった伝承をさしたり、というような語として後代にまでずっと生き続ける」p.31
「古代の叙述はけっして一枚岩的なものでなく、「ふること」という「かたり」の世界と、そうでないくだけた感じの「ものがたり」との、二方向からなる、と見ることができる。」p.32
「句読点は古くより、漢文訓読や物語読者の営為であったのが、印刷技術や作家たちの成立とともに、読者たちから書き手がその権利をうばって、句読点をみずから打つようになってしまう。私は読者の営為を取り戻すために、古文に句読点をほどこすテクスト作りをする」p.54
p.58 時枝の「詞」と「辞」
「七と言い、五と言い、すべては文化的、歴史的所産ではないのか。自然の成立ではなく、詩的な形態のために内在的にえらびとられる成立だなのだというに尽きる」p.63
「『源氏物語』などの物語文学にしても、その構造上、よほど神話性を希薄にしてゆき、『源氏物語』などは現世物語、世話物語と認定されるにもかかわらず、それでも光源氏という主人公の家の起源から語られるように、けっして神話性から無縁になりすましているわけではない。物語の舞台は現実に似た社会だとしても、そのそとがわには神話的世界が包むように広がっている」89
「…沖縄や奄美地方に、またアイヌ語文化において、こんにちにあっても、語りの演唱やうたの形態をとって、神話の実態だ、といわざるをえない口頭伝承が見出される。それは演唱であり、あるいはうたであって、神話をそういう装置で保存するならば、いつまでも生きられる。」101
「説経という見方から眺めると、貝祭文…が講談のようであろうと、あるいはわれわれの親しんできた浪花節にしても、江州音頭や河内音頭にしても、各地の盆踊りでの語りのたぐいにしても、淵源はそこにあると知られる。」128
「…九州各地の盲僧たちが差別ゆえに「平家」を語らせてもらえなかった代わりに、豊富な種類の叙事語りを現代にのこしてくれた」130
「昔話のあるものは…いまになお延々と続く口承文学であり、…物語文学…は、日本社会の場合、おもに文字を手にしてからあと、昔話にとって代わるべき、ごく新しいタイプの文化のうちに誕生した」140
「…昔話に出てくる人間や動物には肉体的な奥行きがない。…人体が平面で、人形のようであるなら、たしかに血の流れようがない。」147
「…動物語を人間語へ変えて語って見せるのが、語り手の役割だ。こうしてサケへは繰り返されなければならない。排除的一人称複数で小狼の神が語ることの理由を、そのあたりの事情に求められないか」164
・人称の累進
「…従来、語り手の語りが主人公の視線にかさなる、などと理解されてきた。かさなるのは、なるほど、主人公についての語り=三人称叙述と、人物そのひとの視線=一人称叙述とであることに気づく。」175
=物語人称(四人称)
「アンやアは、みぎに言ったように、日常言語では、引用の一人称に出てくるから、物語全体が長い"引用"だ、と見る見方は見方として成立する」179
「…もしアイヌ語のように包括的一人称複数か、あるいは引用の一人称か、一人称でない人称で表現するならば、それを四人称と認定しようと思う」181
「『源氏物語』のなかに、本来の読み聞かせする女房がおり、本文を作成したという筆記・編集者がいるほかに、作中世界に生き、それを語ってくれる語り手たちである古御達もいる。」190
「紫式部は読み聞かせる女房だった役割を越えて、物語作者になっていった。その、物語が作られて、享受者たち、観照者たちにまでとどけられる過程とシステムとを温存して、作中のそこそこに見せている。というより、そのような過程とシステムとを作中に虚構化することこそが創作の秘密であった」190
「コト(事)=コト(言)という未分化状態から、しだいに出来事と言語とが分離してきた、という考え方が日本古代での言語哲学だと私はこれまで論じてきた。…ロゴスがもし「物語」=説話であり、かつことばでもあるのだとしたら、まさにそれは…コトという語に相当するのではないか。」219
「世界が理解しあえる共有感情を拒否するなら、あとは無理解しかない。」268
272 ゼロ人称の定義
273 無人称、四人称の定義
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「…カタリゴトという語は古代歌謡のなかに、ごく特異な限定的意味を担って使われた語であり、それのみに用例がかぎられるのに対して、…フルコトは、上代から平安時代にかけて、さらには時代がくだる、…ごく基礎的な語彙としてある」33
「動的な文化接触として、文学という文化が漢字使用の圏からおし寄せることに伴い、使いまわされて成立した新式の"大和言葉"なのではないか」34
古語拾遺
「フルコト(=古伝承、古叙事)の遺漏を拾う、という意味に取るなら、中身と命名とのあいだに齟齬はなくなる」41
「最初の天皇であることを褒めたたえる、いわゆる称賛詞として、ぜひともフルコトの表現が必要だった。フルコトは漠とした古い伝承を意味するのではなく、あるいはそういう意味の語の使い方もあるにせよ、中心には、前代から受け継がれて慣用となり、権威をあらわす言語的な詞章として固定する傾向のものを思い浮かべていた、ということではないか。」59
65 古事記は純粋な漢文体ではない→フルコトとして訓めるように
67 古事拾遺には注記がある。文体が理由ではない?
77 あづさゆみ 古事喩
「…和歌を「古事」と「新意」との結合であると見て、さらにはそれらの詩的言語の相互の関係を「喩」と「実」としてとらえるという、特徴ある理解を示す『歌経標式』そのものが重要でないはずはない」78
=81 枕詞の自覚
「「直語」=日常の言語でないものが「古事」だ」85
88 旧辞と本辞
旧辞はフルコトである。旧辞という表記は一種の(作られた)漢語として扱われている。
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「『古事記』はフルコト(=古事)の書であるから、旧辞(=古事)をもとにして作られた…」102
「フルコトは前代の伝承として、固定的な詞章となる傾向をもち、その中心的な部位がとくに印象的な言いまわしとして語句のフルコトとなる…」106
107
☆112 引照表現「語は〜〜に在り」
「語るという行為は文字とたがいに排除の関係にある、ということだろう。文字がないと語ることができ、文字があるとそれは「読む」または「誦む」ことになって、語ることができなくなる。」180
「カタルとは、説話ないし言いあらわしたい事柄や思想について、言語行為としてその話題の全体像に立ち向かい、まさに表現へと積み上げてゆくさまを意味する。」