インターネットをはじめとするITの隆盛により、全ての人間が自由に様々な情報にアクセスできるようになり、言論の自由が確保され、自主的な意思決定が可能となる民主主義にとって望ましい世界が実現する…とかいう牧歌的な理想論を信じる人間は既に存在せず、現実はアテンションエコノミーに支配され、フィルターバブルとエコーチェンバーにより、一方的で偏った情報に認知空間が支配され、行動が誘導される、そういったディストピアが実現してしまった。
そういったディストピアに対し、プラットフォーマーに対する法的な規制により対処していくことも当然考えられるが、著者らは情報的健康という概念を提唱し、健康診断と予防といったより穏健な手法により、ディストピアを緩和していくべきという考えである。
体の健康と同等な、情報的健康を測る尺度の導出とそのためのデータの蓄積が課題であると思われるが、主張に対して異論はない。
技術の進展に対応して、民主主義(あるいはそれに代わる考えでもよいが)を防御・維持していくための技術的な仕組みが必要であり、現在はその過渡期なのだと思われる。
国や、あるいは著者らのような有識者がそういった仕組みを考えるべきなのかもしれないが、民主主義として、主(ぬし)たる国民一人一人が、民主主義としてあるべき情報空間について考えていかないといけない時代なのかもしれない。
話は変わるが、本書を読んでいると、アルゴリズムによりフィルターバブルを作り上げる巨大ITプラットフォームが悪で、テレビや新聞のような従来型メディアの方が良いみたいな風に読めてしまうが、それは本当にそうかなと思う。
私は野球が大嫌いであるが、テレビを見ると、見たくもないのに大谷大谷、プロ野球プロ野球と、見たくない情報を強制的に見せられる、逆フィルターバブルが発生している。
従来型メディアも、一方的に見せたい情報を強制的に見せるという点で、巨大ITプラットフォームと何ら変わっていない。
どちらかが善か悪かという話ではなく、お互いの良さを組み合わせて、人間社会として望ましい情報空間を作り上げていくべきなのかもしれない。