五来重のレビュー一覧

  • 熊野詣 三山信仰と文化

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    和歌山のことをもっと掘り下げて知りたいな、と思ってこの本を手に。
    自分が歴史に関する知識が乏しいために、難しく、後半に進むにつれて頭に入ってこないところが多かったです。
    が、熊野という地が、信仰的にどう変遷していっていったのか、深く入り込んで書かれています。
    もう少し、日本史や宗教史などを勉強してから再挑戦したいと思います。

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    2026年08月21日
  • 四国遍路の寺 下

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    五来 重
    (五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て[1]、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業[2]。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業[3]。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」[4]。以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。同大学を拠点として広く仏教民俗学を講じた。1962年には、文学博士の学位を取得した[5]。1978年、大谷大学を定年退職、同名誉教授。1980年、勲三等瑞宝章を授与される。退職以降も「日本宗教民俗学研究所」を主宰し[注 1]多くの後進を育成した。柳田國男の京都帝国大学での集中講義に感銘を受け[6]、従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観に基づく考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績を残した。山折哲雄は五来を評して柳田國男、折口信夫に次ぐ、日本民俗学の第三走者とする[

    「禅定すると、はじめて十二因縁というものが考えられる。根本の仏教の信仰に思い至った。そのもとが滅すれば、苦はなくなって解脱することができる。その方法は六波羅蜜という六つの道があるということを覚ったといいます。四聖諦と十二因縁というものとを覚って仏教が始まったというのが禅定です。苦行よりも禅定です。そこに智慧の宗教としての仏教のあり方を説いています。  日本の山岳修行者も山の中を歩いて行道すると同時に、禅定するわけです。すなわち非常に行動的な修行と静的修行とを合わせて修行を完成させるのです。」

    —『四国遍路の寺 下 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「 大乗仏教という仏教では菩薩を信仰対象にしています。羅漢は小乗仏教の理想の仏です。小乗仏教では自分が覚るということが大事で、人を覚らせたり人を救うということはまずしません。すべての人が覚りを開けば社会全体が救われることになりますが、座禅をしたり、山の中に入って一人で修行したりすることはなかなかできませんから、結局、菩薩による一つの往生という簡単な覚りになってしまいます。  釈迦の覚りを開くということは、日本ではほとんどありえません。ただ、雲水の場合は僧堂にいて、三年なら三年という修行をするので羅漢の覚りを開けます。雲水になると地下石上といって、石の上に座ってじっと瞑想をして覚りを開きます。それが羅漢というものです。お釈迦様の五百人のお弟子さんは、お釈迦様から「お前は、覚った」ということで、授記といういわば覚りの許可状のようなものをもらって羅漢になりました。ですから、釈迦崇拝がすなわち五百羅漢の崇拝になるわけです。」

    —『四国遍路の寺 下 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「御詠歌は「色も香も無比中道の藤井寺  真如の波の立たぬ日もなし」です。無比は実際には無非と書かないといけません。「色も香も無比中道」というのは、華厳経の中にある文句で、中道を説いた部分に「一色一香無非中道」という文句が出てきます。  中道というのは、実践することによって、いいとか悪いとか、あるとかないとかという対立概念をすべて超えてしまうということです。中道という覚りを覚りきらないときは、それぞれ区別があって、これは好きだとか嫌いだとか、いいの悪いのという差別をもってしまうけれども、中道という覚りを覚ってしまうと、すべてが平等になり、差別を超えてしまうというのです。「一色一香」は、色と香だけをいっているのではありません。色・声・香・味・触という人間の五感が、それぞれ中道になるという意味です。われわれが見たり聞いたり触れたりするものが、すべて覚りになるわけです。  仏教という宗教が言葉をもてあそぶといわれる所以は、言葉がきれいすぎて上滑りするのではないかとおもいます。お説教でも学問のある和尚さんの話よりも、木訥な人の話のほうがよく身にこたえます。」

    —『四国遍路の寺 下 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「キリスト教にも地獄の絵があって、こういう罪の人はこういうことになるんだという絵があります。日本の場合も、罪が重い人は死後の苦しみが多いというので、亡くなったあとで供養してあげるわけです。灌頂滝も、ここで水をくんできて灌頂したというのではなくて、そこで死者のために罪をそそいでやるという信仰が、こういう山での灌頂の意味であろうとおもいます。『四国徧礼霊場記』は、この断崖の途中に木製大卒塔婆があり、大師自らが立てたと述べています。どうして立てたかわからないほど高いところに、非常に大きな木製の卒塔婆があります。外国の場合は、こういうような人の行けないところに十字架を立てます。中部フランスのロカマドールの場合も、高いところに大きな木製十字架をどうにかして立てたのだろうとおもいます。  ロカマドールも上へ上へとあがっていく洞窟寺院です。敦煌の洞窟寺院ほど規模は大きくありませんが、上へ上へと岩を掘っています。その石段を罪ある人は、懺悔のために足に大きな鉄の鎖をつけて登ります。現在では行われていませんが、かつては膝であがったといわれています。」

    —『四国遍路の寺 下 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「空也は、阿波と土佐の境にある湯島で生身の観音を拝もうとします。湯は、清めるという意味です。斎を「ユ」と読みますから、湯島は潔斎をする島です。そこでいろいろと修行しました。ここは海からよく見えますから、火を焚けば、もちろん太平洋を通る船から見えたとおもいます。」

    —『四国遍路の寺 下 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「遍路・巡礼をして亡くなった人は、あらかじめ罪を滅ぼしておきますから、あの世に行ってもあまり苦しまないですみます。ところが、遍路を済まさない人が亡くなると、あの世で火の山の苦しみを受けます。それを遺族が代わって罪を背負ってやるというのが遍路・巡礼の大きな目的でした。  あるいは罪を犯した人が罪滅ぼしに回るということもあります。鉄道の機関士をした人が、定年になると回るのが四国巡礼だといわれています。やはり自分の職務の間に投身自殺があったりしますから、そういう自分の罪を滅ぼすと同時に、亡くなった人の罪を滅ぼします。そうすると、位牌をもって回りますから、十王堂が必要です。三十三所もたいてい十王堂がありますが、平等寺は十王堂が完備しています。平等寺を経て、二十三番に入ります。」

    —『四国遍路の寺 下 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「自分は仏教にひかれるけれども、自分の親戚の者は親に孝行であるという五常の索をもって束縛する、親に孝行するということは大学を無事に出て役人になって出世することだ。しかし、自分はあえてそういうものを捨てて、またいろいろの欲望も捨てて、修行者になって山岳修行をするようになったと書いています。  さらに、儒教や道教よりも仏教が優れている、三つの教えの中で仏教がいちばん優れている、いちばんの帰結になるものは仏教だ、ということを説くために『三教指帰』を書いたのだということが、序文の中で述べられています。それから先は、仏教と道教を比較したり、仏教と儒教を比較したりして、仏教が勝ちだというのが、『三教指帰』の内容です。」

    —『四国遍路の寺 下 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

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    2026年03月23日
  • 四国遍路の寺 上

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    西行について詳しくなりたい

    五来 重
    (五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て[1]、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業[2]。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業[3]。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」[4]。以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。同大学を拠点として広く仏教民俗学を講じた。1962年には、文学博士の学位を取得した[5]。1978年、大谷大学を定年退職、同名誉教授。1980年、勲三等瑞宝章を授与される。退職以降も「日本宗教民俗学研究所」を主宰し[注 1]多くの後進を育成した。柳田國男の京都帝国大学での集中講義に感銘を受け[6]、従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観に基づく考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績を残した。山折哲雄は五来を評して柳田國男、折口信夫に次ぐ、日本民俗学の第三走者とする[

    「四国の巡礼の話をすることになりました。四国は非常にユニークな巡礼地でして、一つの指定されたコースを一めぐりする。つまり徒歩で百日もかかって回るというところに、特別の意味があるようにおもわれます。  ヨーロッパ大陸ですと、普通は十日とか一週間で回れるようなところが多いようです。しかしながら、メッカだけを目当てに、あるいはエルサレムへの巡礼、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまでと、遠路はるばる訪れることは、ご承知のとおりです。  これまで西国三十三所の観音の巡礼のお話をしましたが(角川ソフィア文庫『西国巡礼の寺』)、観音巡礼はいささか信仰的には薄れております。納経を集めること、それに観光ですね。札所がいろんな品物を売る。ちょっと梵字が入ったり「南無阿弥陀仏」と入ったハンカチから、ネクタイやブローチまで売られています。本ぐらいは私も納得できるのですが、あのおびただしい商品はいかがなものでしょうか。」

    —『四国遍路の寺 上 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「ところが、人間が内陸に住んで土地を耕すようになりますと、山が宗教的な聖地として機能してきました。ただ、海で生活する漁師たちは、龍神さんや夷様のような海の神様を拝んでいましたから、一種の退化した宗教として海洋宗教は存在しました。」

    —『四国遍路の寺 上 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「『風土記』などにも、海のかなたからいろいろなものがやってくるという話が出てきます。いちばんよくやってくるのは弥勒と夷です。夷は、のちになると恵比寿というめでたい字を当てたために違った感じになりますが、遠いところから来た者、つまり外国人ですから、やはり海のかなたから来るわけです。そして、陸にいる者が魚がたくさん欲しいとおもえば豊漁をもたらし、豊作にしてほしいとおもえば豊作の神になりました。お金が欲しいという要求に応じてくれるのが十日戎の戎様です。夷は民衆の要求に応じていろいろな働きをすると考えられました。」

    —『四国遍路の寺 上 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「志摩には八王子がたくさんあります。八王子は祇園社の牛頭天王の八人の王子だといわれていますが、そうとすれば海とは関係がありません。私は「初王子」がなまったものだと考えています。今年の正月に志摩に行ったときに、八王子があるだろうとおもって聞いてみたら、「カツ王子」といっているそうです。「カツ王子」は初王子のなまりです。初王子なら、一の王子、つまり初めての王子です。一の王子の若宮ということで若一王子ができるわけです。  熊野では「ニャクイチ王子」ではなくて「ワカイチ王子」と呼んでいます。そういういろいろな点からいって、八王子はすなわち初王子であり、一王子であり、若一王子だと推論ができます。『四国徧礼霊場記』には、次のような縁起が書かれています。」

    —『四国遍路の寺 上 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「四国参りは業病をもった人が行くという意味がありますが、島はすべて本土から見ればあの世です。また島から本土を見れば、それもあの世です。つい最近まで伊予の北半分では、人が死んだら厳島の弥山にいくといわれていました。  遍路には、弘法大師の恩寵をいただく、ご利益をいただくという目的があると同時に、何か不幸なこと、悪いことがあった場合に罪滅ぼしに行くということがありました。昔の人は業病にかかるのは罪の結果だと考えたので、罪滅ぼしに行くのです。  キリスト教の巡礼は神の許しを請いに行きます。やはり罪滅ぼしです。近代になると罪の意識がなくなってきて、もっと積極的に御利益をもらおうと考えますが、昔はいいものをもらおうというのではなくて、罪を滅ぼせば平和が来る、不幸がなくなると考えました。昔は災いをとってもらおうという宗教的要求のほうが強かったので、それが巡礼や遍路の大きな目的でした。  ヨーロッパの最近の巡礼は飛行機で行ってしまうようですから、どちらかといえば観光です。しかしそうしたなかで、カトリックの人が歩いてエルサレムへ行くという巡礼があります。通過する国々の人たちとの対話によって精神的融和を図ろう、キリスト教とマホメット教とユダヤ教が融和しようという運動になっているようです。巡礼をして泊めてもらって、お話をして融和を考えないといけないのではないかという動きがあります。  巡礼をする人は、馬小屋や牛小屋や農具小屋のような藁の積んであるところに泊まります。次の日は仕事を手伝って草引きをしたり、野菜の選別をしたりして、また次のところに行って泊まるようです。」

    —『四国遍路の寺 上 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「白峯寺は谷を寺地にしています。山門は非常に高いところにあって階段を下りて一度低いところに出てから本堂のあるところに上がっていきますから、水の信仰がありました。そこで、大和の室生寺あるいは高野山と同じように弘法大師が如意宝珠を埋めたので、水が湧きだすようになったという伝承が生まれます。白峯寺も弘法大師が宝珠を埋めたということをまずうたっていますが、のちに智証大師がこの山の山上の瑞光を見た、山の神に導かれてこの山に寺を開いたと伝えています。したがって、山の上で光が輝いたこと、あるいは火を焚いて海岸から見えるようにしたことがわかります。  白峯寺には、もう一つ、瀬戸内海の海上に光を放つ流木があったので、それを引き上げて千手観音を刻んで本尊としたという話があります。流木を上げたという伝承の場所が、白峯寺の海の辺路のほうの霊場です。そこが奥の院といわれています。」

    —『四国遍路の寺 上 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

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    2026年03月23日
  • 仏教と民俗 仏教民俗学入門

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    五来重、京大で柳田國男の講義で感銘を受けて民俗学を目指した話良いな。

    民俗学の本読んでるんだけど、質の高い世捨ては文化を産むって書いてあって、私は質の高い世捨て人目指したいと思った。

    五来 重
    (五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て[1]、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業[2]。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業[3]。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」[4]。以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。同大学を拠点として広く仏教民俗学を講じた。1962年には、文学博士の学位を取得した[5]。1978年、大谷大学を定年退職、同名誉教授。1980年、勲三等瑞宝章を授与される。退職以降も「日本宗教民俗学研究所」を主宰し[注 1]多くの後進を育成した。柳田國男の京都帝国大学での集中講義に感銘を受け[6]、従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観に基づく考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績を残した。山折哲雄は五来を評して柳田國男、折口信夫に次ぐ、日本民俗学の第三走者とする[

    「昭和の初年に、仏教経済学の名で大いに論陣を張った矢吹慶輝博士(一八七九─一九三九)の講演を、私は学生時代にきいたことがある。どのような計算をしたのかしらないが、博士は仏教の名において所有されている寺院の土地・建物・財産や文化財の総計は、世界のいかなる金持の財産よりも大きいだろうという。ということは、無欲・無我をといた釈尊が、実は世界一の金持になったことだというのである。  これは日本の資本主義が無反省な膨脹をつづけていた時代の話で、金持であることが何よりも善とされていたから、このような講演がいたるところでうけていたのだとおもう。金持になりたければ、仏教に帰依して無欲・無我になりなさい、といわんばかりの話であった。博士はまた人間のもっとも欲しいものはお金だから、その欲しいお金を寺へあげることは、一番簡単な無欲・無我の実践だともいった。私はこの巧妙なパラドックスに、なにか釈然としないものを感じたことをおぼえている。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「明治以後になると教団組織の再編と僧侶養成機関の充実などで、下級僧侶はすべて消滅するか、あるいは大学教育をうけてインテリ化し、素朴な庶民の宗教的欲求を、迷信とか俗信とかいって蔑視するようになる。私の知っているある僧侶は、祖父の代まで山伏をしていたが、檀家と田畑をもつ寺に入って祈禱も山伏修行もやめ、その孫の現住職は大学を出て教員をしている。したがって寺と檀家はもう邪魔だというのである。  このようにして僧侶はインテリ化して修行と祈禱と葬式をきらい、ホワイトカラーの職業の方を正業とするかぎり、もはや仏教は庶民の宗教ではなくなっている。したがって庶民は寺院経済にも責任をもたなくなったから、本山は寺宝を売却したり、境内地の丘を切売りするほかはなくなったのである。このようになっても、まだ何々御所や門跡や院家・勅願所・御菩提所などの由緒と格式を後生大事にまもり、大僧正ばかりやたらにつくるのが本山である。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「円空や木喰の芸術も歩く旅の所産であった。かれらは庄屋やお寺からは追いだされることはあっても、村人や漁民の好意にささえられて、村のお堂や祠や荒寺で、庶民にしか理解されない仏像、神像をせっせとつくってあるいた。  京都や奈良や高野山には工房をかまえて職人をやとい、大寺院の注文に応ずる仏師はいたのだが、庶民のための仏像はつくらなかった。  私は円空や木喰の芸術は、いわゆるブルジョア的芸術論の尺度ではかるべきものではないとおもっている。それは粗野ではあるが生命力にあふれた庶民精神の表出として、ブルジョア芸術と異質の美をもっている。ということは「歩く文化」のヴァイタリティの生みだす美であり、放浪の聖をあたたかくむかえた庶民のホスピタリティとの合作でもあったのである。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「「かわいい子には旅させよ」の思いで、きょうこのごろ東京や京都の学校へ息子や娘を送ろうとする親も多いことだろう。現代の若者たちには「青雲の志」や「笈を負うて」遊学する悲壮感はないけれども、修学のために郷関をはなれて旅をするという点では、昔も今もかわりはない。  しかも一方では現代の旅はレジャーであり、レクリエーションだといって、無目的な放浪やばか騒ぎの観光旅行もまた花盛りである。所得倍増と交通機関の発達が、このような旅を現代人の生活必需化してしまった。それでは一体現代人にとって旅とは何なのだろうか。  私などが僻地の農山村をあるいて心を打たれるのは、路傍や辻やお堂の広場に苔むして立つ多くの巡拝碑である。それは過ぎし日の庶民の哀歓を、子孫や旅人にかたりかけるように立っている。西国三十三所観音霊場や西国・坂東・秩父百観音の巡礼碑があるかとおもうと、四国八十八か所遍路や大峯・出羽三山登山の石碑がある。大乗妙典六十六部日本回国碑は六十六か国の一の宮に、法華経を一部ずつ納めたという放浪者の記念碑である。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「旅そのものが学ぶための道場であり、人間性をゆたかにするものだからである。これは短い旅によって歴史をまなび、美術を鑑賞し、詩囊をゆたかにすることと、本質的にはおなじものであろう。現代人の旅の思想はこの意味でつねに旅に学ぶことによって、機械化社会や既成の社会から解放され、人間が真実の人間性を発見する場をもとめるものということができる。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    名古屋で近鉄に乗り換える。新幹線の車中で五来重『日本人の仏教史』(角川ソフィア文庫)を読み進める。むちゃ面白い。日本人の信仰心の根底には山がある。その上で仏教が受容されていく。五来さんの本を風景とともに読めるので、関西に越してきてよかったなと。都市と山を行ったり来たりするために、山への解像度を高めたい。


    「私の京都遊学はあたらしい日本仏教史研究のためには、西田直二郎教授(一八八六─一九六四)の日本文化史の方法が必要だとおもったからであった。しかし私はここで日本仏教史の研究には、もう一つ別の方法があることを知ったのである。私はその時まで迂闊にも民俗学の存在を知らなかったが、柴田實先生(一九〇六─九七)のすすめで柳田国男先生(一八七五─一九六二)の京都大学での講演「盆と行器」をきいて民俗学の虜になった。昭和十二年(一九三七)の二月十九日であった。柴田先生はその頃、講師として史料講読を担当しておられたが、われわれには西田文化史の直接の指導者で、史跡見学などにもよくつれてあるいていただいた。丁度その日三井寺から近江京址のあたりをそここことあるきながら、今日三時から柳田先生の講演があるがとさそわれて、その講演を何の気なしにきいた。その講演は、われわれが常識的に外来の仏教行事や仏教用語とおもっていたものが、実はそれとは何の関係もない民族固有のものであったことを明らかにしたもので、私にとってはコペルニクス的転回ともいえるほどのおどろきであった。私は今でも「盆と行器」以前の私がもったとおなじ「常識」のあやまりを説得するのに苦労しているが、これは私に柳田先生ほどの論旨の明快と表現の妙がないためとあきらめている。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「信仰とは日常的なものである。  それはエリートのための深遠な学問や教理ではなくて、庶民のための日常的な生活のリズムである。  一日には一日のリズムがあり、一年には一年のリズムがある。また一生には一生のリズムがあり、神社や寺院や墓や仏檀や神棚がこれにアクセントをつける。  もちろん、宗教には異常な宗教体験や、高度の論理がある。しかしそれが庶民の心に定着するためには、生活のリズムにとけこみ、日常化、すなわち民俗化しなければならない。  しかし一方には信仰の日常化は宗教のマンネリズムだという論もある。伽藍仏教とか葬式仏教というのは、そうした日常化を軽蔑したものであろうが、お寺詣りもせず、墓参りもせず、仏檀に手も合わせぬ生活から、どのような信仰が生まれてくるであろうか。  宗教や仏教を専門に研究するエリートたちの前で仏檀や墓の話をすると、かならず冷笑される。ことによると石屋さんや仏具屋さんのまわし者かと勘ぐられるかも知れない。それはエリートたちから見ると、まことに「次元の低い」話だからである。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「私たちは社会なり宗教なりの問題をかんがえる場合、なにか先進国と称する外国の思想や原理で判断したり批判したりすることを、もうやめなければいけないのではないだろうか。それよりもわれわれ庶民の先祖がのこしてくれた生活の智恵や、原理にまなぶ態度があっていいはずである。それはなにも戦前の懐古的民族主義を指すものではない。戦前の排外的な民族主義は、貴族や武士階級の生活や思想を日本的原理ときめた民族主義である。しかし現在は底辺の庶民の生活や信仰から、日本人の思想や原理をまなびとらなければならないのである。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「はじめにのべたように多賀大社は淡路の伊弉諾神宮とおなじように、伊弉諾尊の幽宮であり、そのたたりやすい荒魂をまつったことが、鎮魂の芸能奉納と「みさき喰い」すなわち先食台と先食行事であきらかになる。これは熊野もおなじことで、伊弉諾尊の幽宮であり、その荒魂をまつったことからはじまる。多賀も熊野も伊勢神宮の天照大神の親神であるということから、三社にまいることが、中世に伊勢信仰の庶民化とともに一般化した。このことをしめすたしかな史料が伊勢四日市富田善教寺の、阿弥陀如来胎内から発見された「藤原実重作善日記」である。彼は一二二四年から一二四一年までの信心と奉賽物を記録にのこしたが、毎年の正月一日にはかならず伊勢と熊野と多賀に米を奉納している。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「日本仏教はよく「家の宗教」といわれ、家単位に宗派をきめ、何宗かの寺を菩提寺として先祖供養をする。これは家族制度という日本社会の基礎構造に、封建時代の宗門改めという宗教統制がくわわってできたもので、かならずしも日本人の宗教形態とはいえない。そうかといって、宗教は個人の自覚だといって集団を否定することも正しい形ではない。むしろ日本人は宗教の名において集団をつくり、集団ぐるみの救済をかんがえる民族だとおもう。講というのはまさしくそれであり、融通念仏の原理も集団ぐるみの往生である。  先祖供養も家毎に仏檀をつくり、家族だけのお盆や法事をするのは、比較的あたらしいと私はかんがえている。お盆の施餓鬼といって地域社会全部が寺にあつまって、合同の先祖供養をするのが日本宗教本来の姿だったのである。これを、も一つ大きくすると、霊場の位牌堂や納骨堂を中心に、地域と宗派をこえた普遍的な信仰集団が結成されることが日本仏教の理想でなければならない。高野山や比叡山や善光寺はそのような意味での日本人のあこがれとして発展した。ちかごろは東北地方の恐山や山寺立石寺なども注目され、宗派をこえて納骨したり供養したりする。恐山に供養の積石の累々たるを見、立石寺の奇岩に無数に戒名をほりこんだ位牌形の岩塔婆を見るとき、私は日本の庶民の心と、その心が生んだ日本仏教の真の姿を見る思いがする。そこでは、我が家の死者への悼みを霊場におくりしずめることによって医すとともに、そこにつどう三界万霊への供養もあわせおこなう美しい心を見るからである。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「わが国では古代の宗教者はすべて遊行者であった。かれらは総じて聖とよばれ、仏教化すると念仏聖や勧進聖、あるいはそのまま遊行聖・回国聖となった。そして庶民信仰や庶民文学、庶民芸能の伝播者として、日本文化史上の大きな役割をはたしたのである。  ちかごろでは空也聖の鉢叩や、笈を背負った淡島願人、あるいは六十六部回国聖のすがたを見かけることがなくなった。しかし第二次世界大戦のはじまるまでは、田舎町の埃っぽい街道の昼下りなどに、家々をおとずれるかれらのすがたがよく見られたものである。それどころか大戦がすんで間もなくのこと、私はいま住んでいる京都の郊外で、くたびれはてた淡島願人が笈を地べたにおいて、路傍の石に腰をおろしているのに出会ったことがある。また昭和四十五年(一九七〇)にも北九州の田川市内で、布切をたくさん下げ笈を負った淡島願人にであった。よほど気まぐれな放浪者であったのか、あるいはなにか事情があって、彼をそのような姿で放浪させたのか、それは知る由もなかった。しかしそれはうたがいもなく、古代の聖が神を背中の笈に奉じて、旅から旅へ遊行する庶民宗教者すなわち聖のすがたにほかならなかったのである。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「ところが、このような不安感、危機感、無常感を、現代人は哲学や文学や宗教として深層化するかわりに、刹那的な快楽に転化する。もし現実逃避だけを「世捨て」というなら、マージャンやゴルフや、ボウリングにダンス、そしてレジャー旅行も世捨ての一形態といえるだろう。しかしそこに平安末期の世捨て人たちのような宗教も文学もなければ、それは動物が危険から身をまもるために、繁みにかくれるような逃避にすぎないのである。  もちろん鴨長明といえども「世を遁れて、山林にまじわるは、心を修めて道を行わむとなり」という理想をもって世を捨てながら、人間の煩悩をすて去ったわけではない。「すがたは聖人にして、心は濁りに染めり」とみずから反省して、「不請の念仏」両三遍となえる観照の心をうしなわなかったからこそ、すぐれた隠者文学を創造しえたのであろう。「世捨て」は単なる逃避でなくて、現実よりもっと大きい価値を追求する、積極的で意欲的な実践でなければならない。思想も宗教も現実否定から出発する点では、世捨てとおなじ志向性をもっている。しかしその現実否定は、より大きい肯定を目ざしてはじめて、未来の創造、現実の矛盾の解決につながることができるであろう。  そのような意味で、わが国の古代から近世までの世捨て人が、どのような思想で隠遁と遊行の生活をおくり、どのような文化を創造したかを追って見よう。ことに行基や空也のような古代の遊行聖から、西行の風雅の遊行、中世の念仏聖たちと、近世の円空や木喰の放浪など、多くの世捨て文化の創造者をとりあげて見たい。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「 西行の芸術は「世捨て文化」の典型であり、その世捨ては貴族や官僚の管理社会から脱出して、自然界と庶民のなかにとびこむことによって達成された。だから彼の世捨ては孤独になることではなく、隠棲にも遊行にも妻子や友人をともなっていた。吉野の西行庵なども、現状こそ人里はなれた淋しい一軒家であるが、明治維新の廃仏毀釈と修験道禁止までは、むくつけき修験山伏のあつまり住む、喧噪の巷だったところである。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「日本人にとって山登りはスポーツよりも宗教であった。それが男として一人前になるための通過儀礼になる以前は、厳粛な宗教的実践だったのである。すなわち山に登ることは苦行であって、この苦行によって罪や穢を消滅させるのである。口先だけの懺悔でなくて、身をもって懺悔し贖罪するのが山の宗教であった。しかもこの懺悔贖罪は個人のためというよりは、社会全体または村落共同体に代わってするのであって、これを代受苦という。すなわち代参が立って、共同体の安全のために、災の原因になる罪と穢をはらってくるのであった。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著


    「山の宗教の庶民性は、その信仰内容に庶民信仰のすべての要素を包含しているところにある。代受苦精神もその一つであるが、山を神霊のこもるところとして礼拝するのも、庶民信仰のあらわれである。これは一般に原始宗教の自然崇拝と考えられているけれども、日本人の山岳崇拝は、自然現象としての山そのものを神とするのでなく、その山に鎮まる霊を神とするのである。  従ってこれは霊魂崇拝の一種ということができる。修験道の山には神をまつる神社と、山にあつまってくる霊をまつる寺院が共存していたのはそのためである。また山中に地獄や浄土や賽の河原を設定したのも、この霊魂信仰から来たことで、単に神仏習合などといって片付けられない。日本人の心の秘密がここにあらわれているといえよう。  ちかごろ欧米人に修験道研究者がきわめて多いのは、このような日本人の精神構造を、山の宗教を通してあきらかにできることがわかって来たからである。かれらの話ではヨーロッパでは山には妖精が住むということは信じられているが、これを神とすることも、霊魂のあつまる世界、すなわち地獄や浄土とする信仰もないということであった。従って山を征服する近代的登山術が生まれたが、山に登って神と対話し、神秘的な宗教体験をえようという山の宗教は生まれなかったのである。」

    —『仏教と民俗 仏教民俗学入門 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

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    2026年03月23日
  • 山の宗教 修験道案内

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    山折哲雄さんが柳田國男、折口信夫に次ぐ、日本民俗学の第三走者とした五来重さんの本面白い。神道の八百万の神の中でも山は特別な存在だったから、山の宗教を知ることは日本を知る事に繋がる。

    日本人が整形しても原型を留める整形しかしないのは唯物思想では無い所だろうなと思う。日本人は見える物ではなく、魂を重視するから。

    五来 重
    (五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て[1]、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業[2]。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業[3]。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」[4]。以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。同大学を拠点として広く仏教民俗学を講じた。1962年には、文学博士の学位を取得した[5]。1978年、大谷大学を定年退職、同名誉教授。1980年、勲三等瑞宝章を授与される。退職以降も「日本宗教民俗学研究所」を主宰し[注 1]多くの後進を育成した。柳田國男の京都帝国大学での集中講義に感銘を受け[6]、従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観に基づく考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績を残した。山折哲雄は五来を評して柳田國男、折口信夫に次ぐ、日本民俗学の第三走者とする[7]。



    「熊野はたいへん景色のよいところで、昔から次元の違う世界と考えられていました。そして、熊野の話題というと、小栗判官の伝承と遺跡がある小栗街道であるとか、補陀落渡海とか、熊野別当とか、熊野比丘尼とかいうもの、あるいは源氏とのかかわりもあります。  この熊野信仰についてはいろいろの発祥説があります。『日本書紀』には熊野櫲樟日命が出てきます。写本によってはこれはクスと訓んでいますが、楠の霊です。楠と梛が熊野の神木です。新宮あたりには大きな梛があります。あるいは小賀玉木というものも亜熱帯性のものですから、畿内地方にはあまり生えないが、熊野には生えている。そういう植物的な景観からいっても、熊野はどうも違った世界だと昔から考えられてきたのです。  そのほかにも『日本書紀』には、素戔嗚命の子供に五十猛命というのがいて、髭を抜いてこれを吹いたら木になったので、その木の種を熊野に蒔いたことが出てきます。紀国は、もとは木国といって木が多いということですが、和歌山市の東のほうの伊太祁曾神社は五十猛命を祀ったところで、木をもって神体とするところです。そのほかに伊弉冉尊のお墓があると、『日本書紀』に出ています。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「 ずいぶん不思議な話ですが、これの意味するところは、仏教渡来以前から彦山なり熊野なりは開けていたという自己主張で、これがいちばん大事な点です。山岳宗教というもの、修験道というものの発祥は仏教の渡来とは関係がない、むしろ仏教渡来よりも古いということを言っているわけです。じつはそれは吉野修験の主張にもあります。吉野修験のほうは、その発祥を欽明天皇十四年に置いています。そんなにうまく合う話はない。欽明天皇十三年に仏教が伝来して、翌十四年、だいたい五か月ほどのちに、吉野のご神体の楠木が寄ってきて、それを刻んで「吉野放光仏」ということになって、吉野は開けたというのですが、これはだれが考えてもそうでしょうが、欽明天皇十三年としてしまうと、それ以前に仏さんがきていたというのはまずいことになるので、当時の『日本書紀』編纂委員会が考えて、せめて仏教公伝の次の年ぐらいにしようとしたのだと思います。とにかく仏教渡来以前から熊野は開けていた。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「「大湯原」というのは、湯の峰だろうという人がありますが、じつは湯というのは清める、潔斎するという意味です。湯川という名前があるからお湯が出たのだという人がいますが、そうではない。そこの川でお清めをするからです。潔斎の斎をユと訓みます。イとも訓みますけれども、清める意味の言葉です。斎日というと潔斎することです。  そういうふうに水の中に浮かんでいるので、ここへ渡るにはどうしても水の中を越えていかなければいけない。これが「ぬれわらじの入堂」といわれたものです。濡れたままで音無川を渡るのですから。江戸時代には紀州家の寄進によって橋が架かっていたけれども、それが壊れたままになっています。いま旧社地へ行こうとすれば、川にあまり水はないので濡れるほどではないけれども、とにかく徒渉しなければならない。そこへ行ってみると、じつに別天地のような清浄な世界です。そういう水を隔ててある世界というのは、いつも穢れがない、きれいなところということになっている。その三つの川の合流したところが「大湯原」です。そこで熊野の神が見つかった。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「ここは平生は山伏はおりません。それは羽黒修験の入峰修行で、夏峰にだけ登るのです。よく山には「山開き」というのがありますが、あれは修験が登るときのことです。もとは山伏がまず山へ登って、その後から一般の人々が登ったのです。またあとで話しますが、たとえば石鎚山は、七月一日から十日間が山開きになります。その山開きの十日間は女人禁制でした。最近(昭和五十四年現在)では一日と二日だけというふうに聞いておりますが、だんだんと消えてしまうだろうと思います。その間を山開きといっているので、山へ入るだけが山開きではない。そういう山が開かれて、四月八日から七月十五日までの夏峰の期間に、山伏が出てきます。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「山というものは、昔は宗教生活の場としてあった。そのときに上げる賽銭もハナといっております。だから登った人は花を上げるけれども、山伏のほうもそんな常磐木をいっぱい上げられたってありがたいことはないのですから、お金で上げてほしかったのでしょう。あるいはお米を上げてほしかった。それでハナというのがお金の代名詞になりました。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「なぜこういうことになったかという問題は、一つは、亡くなった人の霊が富士山にいくという信仰があったことを証明するものだと思います。もともとは、そういう霊の去来は馬によってなされるわけです。だからお盆のときにはガツギ馬といい、わらの馬を作る。いまはみんな民芸品になってしまいましたが、わらやこもで作った馬とか、なすやきゅうりでもって馬や牛の形を作る。そういう霊の乗物が馬であるということで、それと聖徳太子の霊験とが結びついて「黒駒太子」の信仰ができたものと考えられます。  そうすると、富士山はほかの山と同じように、やはり霊のいく世界である。したがって山を管理するのは山伏であったので、山伏は霊を司るものだった。だいたいその山の神のもとの姿は死者の霊ですから、山伏というのは、それを司るものだった。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「 もう一人、富士山に登った人として役行者がいます。役行者が富士山に登ったという伝承は、『日本霊異記』に出ています。いろいろの神通力を持った役行者が、最後には葛城の一言主神の讒言の託宣によって伊豆国に流される。しかし役行者は、陸地を歩くように海の上を歩いた。それから万丈の崖の上にくぐまっておって、崖の上から飛ぶ。そうすると、さながら鳳凰のように飛ぶことができた。どうもこれを見ると、地面からは飛べなかったもののようです。アホウドリみたいに、高いところから飛ばないと飛べなかったみたいです。そして伊豆の島にいて、夜は駿河の富士峰へ行って修行をした。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「ところが富士山には特別の信仰ができてくる。富士山信仰史の上で、江戸時代の文化・文政(一八〇四─三〇)のころに富士信仰がたいへん流行りました。「富士講」というのができて、いたるところに富士山をつくります。高いものは一〇メートルくらいもある。駒込の富士神社の富士山はそのくらいあるでしょう。たいてい、一メートルか二メートルぐらいで、三歩も登って下りてしまうのです。それで富士山へ登ったことにする。  いま、八十八か所の「お砂踏み」といって、十歩ほど踏んだら四国ぜんぶを回ったことになったり、西国三十三か所も同じようなことが行なわれますが、そういうものが流行って、なおさら一般化したのですが、そのいちばんもとになったのは中世の富士行者です。  どうしてそんなに流行ったかというと、長谷川角行という人が人穴に入定したことが一つです。永禄三(一五六〇)年から富士の人穴に籠り、そこから出て諸国を遊行したりしながら、じつに百六歳までそこに籠っておった。そして正保三(一六四六)年に百六歳で亡くなっていますが、この角行が富士行者の修行方法をはじめました。この角行の伝統をひくのが、村山光清で、山伏の村山派というものができた。それに対抗するために、もう一人の食行身禄という富士行者が出て、両方が行力を争うわけです。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「富士山には人穴というのがたくさんあります。いまいちばん観光の対象になっているのは、西の白糸滝のほうから入る人穴ですが、ほかにもたくさんあります。風穴というのも人穴と同じようなものです。富士の溶岩が噴き出しまして、流れてくるときに中に空気が入り、空洞ができるそうです。ところが、それがだんだんと圧縮されてきますと、いくところがないから、パッと穴を開けて外へ出るそうです。山のおならみたいなものです。その跡が人穴になるわけです。だから非常に奥の長いものです。中へ入って懐中電灯をうっかり消したりすると、壁が冷気のために多少湿気を帯びているので、なにか映ります。それが富士の人穴の幻想の一つにつながったのだろうと思います。『吾妻鏡』の建仁三(一二〇三)年六月四日の条に、新田四郎忠常、別には仁田四郎忠常が、源頼家から御剣をもらい中へ入っていくと、恐い地獄があって、そこで怒られて帰ってくる話があります。仁田四郎忠常は、中へ入って激流を渡ったりしていくのですが、中に浅間大菩薩がおったというのですが、どうもそれは冥界の主のようです。それに怒鳴られたら自分についてきた侍が全部死んでしまった。そして剣を持っている自分だけが助かった。そうしたらその剣を置いてゆけといわれて、それを浅間大菩薩のおります前の川に投げ込んで帰ってきたと報告をしています。人穴の中は地獄で、その中に六道がある。地獄から天道までの六道があり、六道奉行というのがいたということが書かれています。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「白山は日本海側随一の分水嶺であり、手取川と九頭竜川が日本海へ流れています。手取川は金沢の西を流れて海へ注ぎ、九頭竜川は福井の東を通って三国港へ流れ込んでいます。それに対して、長良川は太平洋水系として伊勢湾に流れ込んでいく。流域の広さ、長さではおそらく日本随一でしょう。  白山修験は修験道の上でも、熊野修験に次いで日本の修験道界を支配しました。いつも熊野の修験と羽黒の修験は提携していました。弁慶は伝説上の人物ですが、歌舞伎の「勧進帳」では熊野から羽黒に帰るのだといって、安宅関を越す設定になっています。このように提携がありますが、いつもその中間に立ち塞っていたのは白山修験でした。日本歴史の表に武士の争覇というものがありましたように、裏には山伏の争覇がいつもあったのです。それに武家の争いとが絡み合って、非常に複雑な動きをしていました。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「日本人は物が生きているのではなくて、物の中に霊があると考える。同じようで実は違うのです。ですから肉体を日本人は意外に粗末にします。その中に入っている魂のほうが価値があるわけです。  ところがギリシャ的な考え方をずっと継承しているヨーロッパの考え方からいえば、肉体が非常に大事です。  日本人は人が亡くなっても肉体は簡単に捨ててしまう。それは霊魂だけを祀ればいいのですから。  ところがヨーロッパでは、アメリカでもそうですが、ベトナムで何十万人という人が死にましたが、死体はエンバーミングという死体保存の方法を講じてアメリカへ空輸された。日本人はそれがいいか悪いかはともかく、石一つだけが壺や箱の中に入ってきた。そういう違いがあります。  これは物を主体にするか、あるいは霊を主体にするかということです。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「 九州の修験の特色は洞窟信仰です。どこへ行っても九州には洞窟信仰があります。これには大陸の石窟寺院の影響があるだろうと考えていますが、求菩提にも彦山にも窟があります。南のほうは宝珠山、東のほうは求菩提山、西のほうは宝満山、北のほうは福智山というふうに、彦山を中心に勢力範囲がある。宝珠山から少し下がると日田です。ここのお祭りの「御田祭」は三月十四日です。四月の大祭は修験行事が神道化したものです。四月十四日から十五日が「神幸祭」です。ほんとうは、これは二月の十三、十四、十五日の「松会」というので、十五日に松会の御田祭がすむと入峰しました。宝満山に向けて山伏は入った。十一、十二日は「増慶御供」といいますが、現在はありません。文献でいっているだけです。増慶社というのがあったのですが、それもない。こういうものぐらい、いくら神道化しても遺したらいいと思いますが、神仏分離になると前のものをことさら破壊してしまいました。それでも戦後は修験道を再興しようという神主さんが多くなってきている。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

    「それから洞窟信仰があります。石窟寺院の洞窟信仰と胎内窟としての洞窟信仰と、納経洞窟、納骨洞窟、入定洞窟、不滅火洞窟、参籠洞窟というように分けることができますが、石窟寺院としての洞窟には、中国の敦煌や雲崗や龍門の伝統があると思います。大陸との繫がりです。  それに対して参籠洞窟は、これは日本で洞窟を住居にした痕跡から、そこにお籠りをすることができたのだと思います。いわゆる穴居、穴に住むといわれるものは必ずしも竪穴だけではありませんで、最初は山の中の横穴が使われた。広島県の帝釈峡で、最近、旧石器人の遺骨が出てきましたが、ああいうところは「岩陰遺跡」といい、住居趾が岩の横穴になって、その上に人が住み、同時に住んだところがお墓になるから骨が埋められる。それでまたその上に人が住んで、またそこで死んだら骨が埋められる。またその上に人が住むようになる。何層にもなって出てきた。そういうふうに岩陰というものは、住居としても墓としても使われますから、それが修験道の伝統になると参籠洞窟になる。ですから石窟寺院も一つは人が住むものですし、現在の四十九窟の中で山内にあるものには建物の遺跡があります。洞窟の中に建物があり、充分そこで寝泊りができるようになっています。」

    —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著

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    2026年03月23日
  • 日本人の仏教史

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    日本の仏教の歴史が語られる際にはどうしても祖師の偉業と宗派の発展や時の政権との関係が中心となるが、それらの要素を成り立たせているにもかかわらず軽視されている庶民のうちに浸透していた信仰やその実践がいかに重要で豊穣であるかを思い知らされた。聖(ひじり)・山伏・遊行者などの名も無き仏教者によって取り入れられた仏教が古代からの庶民の祖先信仰・山岳自然崇拝から置き換わる状況にはならず、その形態を保全・強化していくものとなったことが良く分かった。

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    2023年11月30日
  • 四国遍路の寺 上

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    講義録の形式で四国八十八ヶ所の縁起や四国遍路を解説しているのだが、話の流れが変わっている。総論のあと室戸岬、石鎚山、足摺岬と来て、44番からお寺を紹介する(上巻は86番まで)。これは「弘法大師が確実に土佐を回っているから」で、足摺岬にある金剛福寺から石鎚山を目指す経路上に44番大宝寺、45番岩屋寺がある。実際に歩き遍路を経験した身からは、おやと思うが、お大師様は色んな道をあちこちへと歩いたわけだ。それにしても「集印するのが目的であるかのごとく八十八か所を回るのは、いかがなものか」という一文があるは耳が痛い(116ページ)。

    元々の四国遍路は海洋宗教で、札所はどこも海と関係しているという。例え山中の札所でも、山号(岩屋寺の海岸山)や干満水といった海との繋がりを持つというのが面白い。「辺路信仰の本質は、海のかなたの常世にとどまっている祖先の霊に、聖なる火を捧げること」(49ページ)らしい。本書には五来重自身の説と言えそうな記述が散りばめられている。曰く、弘法大師は通訳者として唐へ渡った、龍燈は龍に向かって炊かれた火である、など。

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    2023年08月08日
  • 日本の庶民仏教

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    ある時から急にむくむくと湧き起こり探求への沼えとハマっていた日本民俗と宗教についての疑問?不可思議に分かりやすく答えてくれる書に出会えた。と思っている。序でに言うと、冒頭記載される「日本の仏教は仏教ではない。」と言う言説とクライマックスっd記載される「全ての現象を日本の言語や民俗で理解するよりも、海外の知識をふりまわすのが、格好いいと思う文化人の習性」と言う著者の態度に僕はいたく共感を覚えた訳である◎充実した読書体験に感謝。良い本です◎

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    2022年10月20日
  • 熊野詣 三山信仰と文化

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    まだ熊野古道が世界遺産になるずっと前の1967年出版と半世紀以上前に書かれたものとは思えないほど、神仏習合・修験道・そして原始宗教の織りなす、総合文化たる熊野を多面的に味わえる名著。

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    2022年04月05日
  • 熊野詣 三山信仰と文化

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    2013.1記。

    世界遺産にもなった熊野古道は、熊野本宮大社をはじめとする社寺を参詣するための道々の総称。

    山と鬱蒼とした森によって隔てられた熊野は「隠国(こもりく)」、すなわち「死者の国」の古語を地名の由来とするとも言う。民間信仰、神道のルーツ的なエリアでありながら、平安期の阿弥陀信仰の盛り上がりにより「浄土」のイメージが重ねられ、日本独特の神仏習合の聖地となっていく。時宗の開祖一遍上人が熊野「本宮」を目指す旅路は一遍上人聖絵という絵巻物の傑作に残され、聖人の内面の葛藤と当時の習俗を今に伝える。

    1960年代に執筆された本書は、市井の怪奇譚から荘園支配を巡る伊勢神宮と熊野仏教勢力の訴訟まで、歴史学・民俗学的に深く検証しながら、同時に著者自身が古道を踏破し見聞きする風景のエッセイを各所に挟み込み、違和感なく共存させている。

    そこを歩けば亡くなったはずの知人とすれ違うとも言われた熊野路の信仰の源流を、著者は深い森、峻嶮な山々、美しい滝など人知の及ばない自然環境にこそ見出す。今は整備された観光地なのかもしれないが、山道の険しさは変わらないはず。主要なルートだけでも一度歩いてみたいものだ。

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    2019年01月05日
  • 仏教と民俗 仏教民俗学入門

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    1970年代に角川選書で刊行された同書名の文庫化。
    思想としての仏教と、民俗、つまり慣習としての仏教との間に違いがあることは、なんとなく理解していても、意識化していない。
    例えば、墓地に葬り墓を建て、家にも仏壇を設け、位牌を置く。当たり前だと思い続けてきた「両墓」が、仏教伝来以前の祖先崇拝によるという指摘は、とても新鮮だった。
    この時代に進められていた既存宗教教団の、仏教の本来の思想としての布教活動を、祖先崇拝を時代遅れと切り捨てていることの、その危うさを著者は警告していた。時代が過ぎて、皮肉にも、結果は真逆で、多くの仏教者は、墓守と化してしまった。それだけ、日本民俗の祖先崇拝の根は、深いということか?
    そう、仏教が新思想としてもたらした時に、祖先崇拝を取り込んで、大衆への布教成に功したように思えたはずが、逆に大衆に飲み込まれてしまったように。

    形は何であれ、個として今を生きる上で、生を終える不安、死との直面した時の動転、生きる上で積み重ねてきた小さな嘘や生き物を殺めてきた罪意識、これらの浄化(生きる上での過去清算)をどうするかは、時代ごとに形は変わっても、通時的には、祖先を祀るということで、済ませてきている。その遺伝子レベルでの説明のつかない行動の大きさは地下のマグマのようで制御不能ということか?
    そこに、例えば、なんでもありの日本人的いい加減さ、すべてを水に流す危うさがある。それが、祖先崇拝の象徴として天皇制に結び付き、国家としての集団意識となったときに、ヒステリックな暴力となる、というのは丸山真男の指摘通りかもしれない。
    一方で、祭りを支えるムラの崩壊により、祖先崇拝を執り行う仕組みそのものが喪失し、意味を失った上での、イベント化(茶番劇)が何をもたらすのか? そこにつけ込む、歴史の歪曲と単純化という流れが現在の日本の状況だろう(日本のみならず、民俗主義の台頭という意味でより広範な共時な状況かもしれないが)。それへの批判という意味でも、再評価したい一書だ。
    蛇足ながら、著者の五来重は、茨城県の出自。あとがきに、加波山禅定の一文が散見される。郷土の偉人としても再評すべき人物だ。

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    2018年01月27日
  • 四国遍路の寺 上

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    宮田珠己著「だいたい四国八十八ヶ所」に引用されていた本で、四国遍路に関するガイドブックとして興味深く読み進めた。宮田氏がこんな真面目な本を参考に、あんな緩いエッセイを上梓したギャップが改めて面白い。閑話休題。著者は、四国遍路は海洋信仰から端を発したもので、奥の院に参ってこそ、その真価が理解できると書いている。確かにその説は首肯できて、岩場・鎖場を歩くのも楽しそうだ。その反面、スタンプラリー的に楽しむ遍路もアリなのだという思いも捨てられない。自分だったら、車遍路で御朱印も頂かなかったりしてしまうかも……

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    2017年08月29日
  • 四国遍路の寺 下

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    四国遍路に興味を抱き「行ってみたい」と思うようになったのは、ミーハーながら水曜どうでしょうがきっかけだ。行く! となれば下調べをしてからと思う自分は、当然のことながらガイドブックも買ったが、宮田珠己氏の紀行エッセイから五来氏の著した本書を読むという遠回りな調査を行っている。著者の語り口調は自身の研究に裏付けられた断定調で、言い過ぎな感がなくもないが、むしろ気持ち良いものだ。札所1番からのありふれた解説本と違い、海洋宗教の観点から進められたのも良し。さて、私と家族の悩みを雲散霧消できるような遍路に赴きたい。

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    2017年08月29日
  • 西国巡礼の寺

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    解説で山折哲雄氏が「語る五来重が、ここにいる。」と書いています。カルチャーセンターの講義がもとになったとしたら、飽きさせない展開に拍手したくなります。もっと早く知りたかった。三十三所の旅も違ったものになったことでしょう。もう付箋だらけです。

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    2011年04月21日
  • 日本人の死生観

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    還暦を7月に迎え、死が近づく今、どう生きていくかを考えたくて手に取った。
    結局のところ、死後の自分がないと考えると、この本で語られるすべては意味をなさないということだ。自分以外の人でも、死んだら存在はなきものとするなら、墓に手を合わせることもないだろう。死後の安寧を求めるからこそ、死者を弔う気持ちが生まれるのだろうと思う。
    20歳を過ぎた頃から長く生きることはないと思って何となく生きてきたけど、結婚して簡単に死ねなくなると、どう生きていくかを考えることが増え、結局、この歳まで生きてきた。そして両親が亡くなり、知り合いが亡くなり、もうすぐ自分の番となると、逆にどう死ぬべきかを思わずにはいられない。ただ、緩やかに変な思いを残さずに終わりを迎えたいとは思うので、定期的に両親と妻の父親の墓参りをこれからも続けて、その後の食事を楽しむといった墓参りの小さな生の喜びを糧にしていけば、自ずと余生を緩やかに過ごせるのではないかと思う。そして、ほんの少しだけ惜しまれて死を迎えられれば、私に関わった人にも死に向かう前の小さな生の喜びを与えられるのではないかと思ったりもする。生と死には大きな隔たりがあるのだけれど、ささやかな善きもので埋めていけたらいいのだと思う。

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    2026年09月18日
  • 熊野詣 三山信仰と文化

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     人はなぜ遠くまで歩いたのだろう。
     平安から中世にかけて、多くの人々が険しい山々を越え、熊野を目指した。そこには単なる参拝を超えた切実な願いがあった。都では権力争いが絶えず、庶民の暮らしもまた不安に満ちていた。人々は熊野に救いを求め、現世の苦しみを抱えたまま長い道を歩いた。熊野は死と再生が重なる聖地であり、新たな人生への希望を託す場所でもあった。
     その巡礼の姿に日本人の信仰の原点を見いだす。華やかな寺社よりも、山や川に神仏を感じる心が熊野には息づいていた。
     先の見えない時代に生きる私たちもまた、何かを求めて歩き続けている。熊野詣とは、遠い昔の旅ではなく、人が希望を探し続ける営みそのものなのかもしれない。

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    2026年06月09日
  • 宗教歳時記

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    日本の行事の由来とか、どう行ってるのかとかの勉強にもなるし雑学的に良かったんですが、しばらくすると内容が抜けちゃうので星四で。またゆっくり読みたいな。

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    2025年04月29日
  • 西国巡礼の寺

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    西国33ヶ所の主要な霊場を紹介しつつ、著者五来重の宗教民俗学的視点からの霊場への独自かつ新たな解釈を見出した著作。

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    2023年08月29日
  • 日本人の死生観

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    日本人の死について、民俗的・宗教的視点から人間の死にまつわる思想・文化芸能に関する過去と現在のありようについて紹介した著作。

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    2023年03月21日
  • 石の宗教

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    道祖神、庚申塔、お地蔵さん。道端にある謎の石。たまにおじいさんが拝んだりしている。あれはなんだ?という疑問から読んでみました。著者は、これらは仏教や修験道の影響を受けたデザインや意味をもっているが、もともとは石に祈りを捧げる日本人の素朴な庶民信仰があったのだと説きます。論は説得的で言及する例も面白い。賽の河原の由来や荒魂を塞ぐために石を積んだという話はなるほどと感心しました。最後の解説を読んで初めて著者が日本仏教民俗学という学問ジャンルを拓いたほどの碩学であることを知り納得しました。読んで損はない本だと思います。

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    2022年12月16日