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世界遺産に登録された熊野や日光をはじめ、古来崇められてきた全国九箇所の代表的な霊地を案内。日本の歴史や文化に大きな影響を及ぼした修験道の本質に迫り、日本人の宗教の原点を読み解く!
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Posted by ブクログ
山折哲雄さんが柳田國男、折口信夫に次ぐ、日本民俗学の第三走者とした五来重さんの本面白い。神道の八百万の神の中でも山は特別な存在だったから、山の宗教を知ることは日本を知る事に繋がる。 日本人が整形しても原型を留める整形しかしないのは唯物思想では無い所だろうなと思う。日本人は見える物ではなく、魂を重視...続きを読むするから。 五来 重 (五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て[1]、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業[2]。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業[3]。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」[4]。以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。同大学を拠点として広く仏教民俗学を講じた。1962年には、文学博士の学位を取得した[5]。1978年、大谷大学を定年退職、同名誉教授。1980年、勲三等瑞宝章を授与される。退職以降も「日本宗教民俗学研究所」を主宰し[注 1]多くの後進を育成した。柳田國男の京都帝国大学での集中講義に感銘を受け[6]、従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観に基づく考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績を残した。山折哲雄は五来を評して柳田國男、折口信夫に次ぐ、日本民俗学の第三走者とする[7]。 「熊野はたいへん景色のよいところで、昔から次元の違う世界と考えられていました。そして、熊野の話題というと、小栗判官の伝承と遺跡がある小栗街道であるとか、補陀落渡海とか、熊野別当とか、熊野比丘尼とかいうもの、あるいは源氏とのかかわりもあります。 この熊野信仰についてはいろいろの発祥説があります。『日本書紀』には熊野櫲樟日命が出てきます。写本によってはこれはクスと訓んでいますが、楠の霊です。楠と梛が熊野の神木です。新宮あたりには大きな梛があります。あるいは小賀玉木というものも亜熱帯性のものですから、畿内地方にはあまり生えないが、熊野には生えている。そういう植物的な景観からいっても、熊野はどうも違った世界だと昔から考えられてきたのです。 そのほかにも『日本書紀』には、素戔嗚命の子供に五十猛命というのがいて、髭を抜いてこれを吹いたら木になったので、その木の種を熊野に蒔いたことが出てきます。紀国は、もとは木国といって木が多いということですが、和歌山市の東のほうの伊太祁曾神社は五十猛命を祀ったところで、木をもって神体とするところです。そのほかに伊弉冉尊のお墓があると、『日本書紀』に出ています。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「 ずいぶん不思議な話ですが、これの意味するところは、仏教渡来以前から彦山なり熊野なりは開けていたという自己主張で、これがいちばん大事な点です。山岳宗教というもの、修験道というものの発祥は仏教の渡来とは関係がない、むしろ仏教渡来よりも古いということを言っているわけです。じつはそれは吉野修験の主張にもあります。吉野修験のほうは、その発祥を欽明天皇十四年に置いています。そんなにうまく合う話はない。欽明天皇十三年に仏教が伝来して、翌十四年、だいたい五か月ほどのちに、吉野のご神体の楠木が寄ってきて、それを刻んで「吉野放光仏」ということになって、吉野は開けたというのですが、これはだれが考えてもそうでしょうが、欽明天皇十三年としてしまうと、それ以前に仏さんがきていたというのはまずいことになるので、当時の『日本書紀』編纂委員会が考えて、せめて仏教公伝の次の年ぐらいにしようとしたのだと思います。とにかく仏教渡来以前から熊野は開けていた。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「「大湯原」というのは、湯の峰だろうという人がありますが、じつは湯というのは清める、潔斎するという意味です。湯川という名前があるからお湯が出たのだという人がいますが、そうではない。そこの川でお清めをするからです。潔斎の斎をユと訓みます。イとも訓みますけれども、清める意味の言葉です。斎日というと潔斎することです。 そういうふうに水の中に浮かんでいるので、ここへ渡るにはどうしても水の中を越えていかなければいけない。これが「ぬれわらじの入堂」といわれたものです。濡れたままで音無川を渡るのですから。江戸時代には紀州家の寄進によって橋が架かっていたけれども、それが壊れたままになっています。いま旧社地へ行こうとすれば、川にあまり水はないので濡れるほどではないけれども、とにかく徒渉しなければならない。そこへ行ってみると、じつに別天地のような清浄な世界です。そういう水を隔ててある世界というのは、いつも穢れがない、きれいなところということになっている。その三つの川の合流したところが「大湯原」です。そこで熊野の神が見つかった。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「ここは平生は山伏はおりません。それは羽黒修験の入峰修行で、夏峰にだけ登るのです。よく山には「山開き」というのがありますが、あれは修験が登るときのことです。もとは山伏がまず山へ登って、その後から一般の人々が登ったのです。またあとで話しますが、たとえば石鎚山は、七月一日から十日間が山開きになります。その山開きの十日間は女人禁制でした。最近(昭和五十四年現在)では一日と二日だけというふうに聞いておりますが、だんだんと消えてしまうだろうと思います。その間を山開きといっているので、山へ入るだけが山開きではない。そういう山が開かれて、四月八日から七月十五日までの夏峰の期間に、山伏が出てきます。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「山というものは、昔は宗教生活の場としてあった。そのときに上げる賽銭もハナといっております。だから登った人は花を上げるけれども、山伏のほうもそんな常磐木をいっぱい上げられたってありがたいことはないのですから、お金で上げてほしかったのでしょう。あるいはお米を上げてほしかった。それでハナというのがお金の代名詞になりました。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「なぜこういうことになったかという問題は、一つは、亡くなった人の霊が富士山にいくという信仰があったことを証明するものだと思います。もともとは、そういう霊の去来は馬によってなされるわけです。だからお盆のときにはガツギ馬といい、わらの馬を作る。いまはみんな民芸品になってしまいましたが、わらやこもで作った馬とか、なすやきゅうりでもって馬や牛の形を作る。そういう霊の乗物が馬であるということで、それと聖徳太子の霊験とが結びついて「黒駒太子」の信仰ができたものと考えられます。 そうすると、富士山はほかの山と同じように、やはり霊のいく世界である。したがって山を管理するのは山伏であったので、山伏は霊を司るものだった。だいたいその山の神のもとの姿は死者の霊ですから、山伏というのは、それを司るものだった。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「 もう一人、富士山に登った人として役行者がいます。役行者が富士山に登ったという伝承は、『日本霊異記』に出ています。いろいろの神通力を持った役行者が、最後には葛城の一言主神の讒言の託宣によって伊豆国に流される。しかし役行者は、陸地を歩くように海の上を歩いた。それから万丈の崖の上にくぐまっておって、崖の上から飛ぶ。そうすると、さながら鳳凰のように飛ぶことができた。どうもこれを見ると、地面からは飛べなかったもののようです。アホウドリみたいに、高いところから飛ばないと飛べなかったみたいです。そして伊豆の島にいて、夜は駿河の富士峰へ行って修行をした。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「ところが富士山には特別の信仰ができてくる。富士山信仰史の上で、江戸時代の文化・文政(一八〇四─三〇)のころに富士信仰がたいへん流行りました。「富士講」というのができて、いたるところに富士山をつくります。高いものは一〇メートルくらいもある。駒込の富士神社の富士山はそのくらいあるでしょう。たいてい、一メートルか二メートルぐらいで、三歩も登って下りてしまうのです。それで富士山へ登ったことにする。 いま、八十八か所の「お砂踏み」といって、十歩ほど踏んだら四国ぜんぶを回ったことになったり、西国三十三か所も同じようなことが行なわれますが、そういうものが流行って、なおさら一般化したのですが、そのいちばんもとになったのは中世の富士行者です。 どうしてそんなに流行ったかというと、長谷川角行という人が人穴に入定したことが一つです。永禄三(一五六〇)年から富士の人穴に籠り、そこから出て諸国を遊行したりしながら、じつに百六歳までそこに籠っておった。そして正保三(一六四六)年に百六歳で亡くなっていますが、この角行が富士行者の修行方法をはじめました。この角行の伝統をひくのが、村山光清で、山伏の村山派というものができた。それに対抗するために、もう一人の食行身禄という富士行者が出て、両方が行力を争うわけです。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「富士山には人穴というのがたくさんあります。いまいちばん観光の対象になっているのは、西の白糸滝のほうから入る人穴ですが、ほかにもたくさんあります。風穴というのも人穴と同じようなものです。富士の溶岩が噴き出しまして、流れてくるときに中に空気が入り、空洞ができるそうです。ところが、それがだんだんと圧縮されてきますと、いくところがないから、パッと穴を開けて外へ出るそうです。山のおならみたいなものです。その跡が人穴になるわけです。だから非常に奥の長いものです。中へ入って懐中電灯をうっかり消したりすると、壁が冷気のために多少湿気を帯びているので、なにか映ります。それが富士の人穴の幻想の一つにつながったのだろうと思います。『吾妻鏡』の建仁三(一二〇三)年六月四日の条に、新田四郎忠常、別には仁田四郎忠常が、源頼家から御剣をもらい中へ入っていくと、恐い地獄があって、そこで怒られて帰ってくる話があります。仁田四郎忠常は、中へ入って激流を渡ったりしていくのですが、中に浅間大菩薩がおったというのですが、どうもそれは冥界の主のようです。それに怒鳴られたら自分についてきた侍が全部死んでしまった。そして剣を持っている自分だけが助かった。そうしたらその剣を置いてゆけといわれて、それを浅間大菩薩のおります前の川に投げ込んで帰ってきたと報告をしています。人穴の中は地獄で、その中に六道がある。地獄から天道までの六道があり、六道奉行というのがいたということが書かれています。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「白山は日本海側随一の分水嶺であり、手取川と九頭竜川が日本海へ流れています。手取川は金沢の西を流れて海へ注ぎ、九頭竜川は福井の東を通って三国港へ流れ込んでいます。それに対して、長良川は太平洋水系として伊勢湾に流れ込んでいく。流域の広さ、長さではおそらく日本随一でしょう。 白山修験は修験道の上でも、熊野修験に次いで日本の修験道界を支配しました。いつも熊野の修験と羽黒の修験は提携していました。弁慶は伝説上の人物ですが、歌舞伎の「勧進帳」では熊野から羽黒に帰るのだといって、安宅関を越す設定になっています。このように提携がありますが、いつもその中間に立ち塞っていたのは白山修験でした。日本歴史の表に武士の争覇というものがありましたように、裏には山伏の争覇がいつもあったのです。それに武家の争いとが絡み合って、非常に複雑な動きをしていました。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「日本人は物が生きているのではなくて、物の中に霊があると考える。同じようで実は違うのです。ですから肉体を日本人は意外に粗末にします。その中に入っている魂のほうが価値があるわけです。 ところがギリシャ的な考え方をずっと継承しているヨーロッパの考え方からいえば、肉体が非常に大事です。 日本人は人が亡くなっても肉体は簡単に捨ててしまう。それは霊魂だけを祀ればいいのですから。 ところがヨーロッパでは、アメリカでもそうですが、ベトナムで何十万人という人が死にましたが、死体はエンバーミングという死体保存の方法を講じてアメリカへ空輸された。日本人はそれがいいか悪いかはともかく、石一つだけが壺や箱の中に入ってきた。そういう違いがあります。 これは物を主体にするか、あるいは霊を主体にするかということです。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「 九州の修験の特色は洞窟信仰です。どこへ行っても九州には洞窟信仰があります。これには大陸の石窟寺院の影響があるだろうと考えていますが、求菩提にも彦山にも窟があります。南のほうは宝珠山、東のほうは求菩提山、西のほうは宝満山、北のほうは福智山というふうに、彦山を中心に勢力範囲がある。宝珠山から少し下がると日田です。ここのお祭りの「御田祭」は三月十四日です。四月の大祭は修験行事が神道化したものです。四月十四日から十五日が「神幸祭」です。ほんとうは、これは二月の十三、十四、十五日の「松会」というので、十五日に松会の御田祭がすむと入峰しました。宝満山に向けて山伏は入った。十一、十二日は「増慶御供」といいますが、現在はありません。文献でいっているだけです。増慶社というのがあったのですが、それもない。こういうものぐらい、いくら神道化しても遺したらいいと思いますが、神仏分離になると前のものをことさら破壊してしまいました。それでも戦後は修験道を再興しようという神主さんが多くなってきている。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著 「それから洞窟信仰があります。石窟寺院の洞窟信仰と胎内窟としての洞窟信仰と、納経洞窟、納骨洞窟、入定洞窟、不滅火洞窟、参籠洞窟というように分けることができますが、石窟寺院としての洞窟には、中国の敦煌や雲崗や龍門の伝統があると思います。大陸との繫がりです。 それに対して参籠洞窟は、これは日本で洞窟を住居にした痕跡から、そこにお籠りをすることができたのだと思います。いわゆる穴居、穴に住むといわれるものは必ずしも竪穴だけではありませんで、最初は山の中の横穴が使われた。広島県の帝釈峡で、最近、旧石器人の遺骨が出てきましたが、ああいうところは「岩陰遺跡」といい、住居趾が岩の横穴になって、その上に人が住み、同時に住んだところがお墓になるから骨が埋められる。それでまたその上に人が住んで、またそこで死んだら骨が埋められる。またその上に人が住むようになる。何層にもなって出てきた。そういうふうに岩陰というものは、住居としても墓としても使われますから、それが修験道の伝統になると参籠洞窟になる。ですから石窟寺院も一つは人が住むものですし、現在の四十九窟の中で山内にあるものには建物の遺跡があります。洞窟の中に建物があり、充分そこで寝泊りができるようになっています。」 —『山の宗教 修験道案内 (角川ソフィア文庫)』五来 重著
山岳信仰についてチョット興味があり、非常に軽い気持ちで購入してみた。が、わりと難しい語句が並んでおり、宗教や歴史の予備知識に乏しい自分にとっては、少し難しい読書となった。 古来日本では山に登ってはいけないという、暗黙のルールがあったそうだ。それは大昔の日本人が、亡くなった人を山の中の洞窟などに置い...続きを読むて、風葬をしていた事に由来するらしい。 そのうち仏教や神道が普及し始め、元々その地に残っていた風習などと重なり、山岳信仰として発展していった。 たしかそんな内容だったと思う・・・ 写経の墨に使う水は山の池から汲んでいたとか、曼荼羅は宣伝に使われていたなど興味深い考察もあり、少し勉強してからもう一度読み直したいと思う。
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