五来重のレビュー一覧
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・ 殯(もがり)が気になつてゐたのだが、それが具体的にいかなるものであるのか分からなかつた。wikiには、「死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願い つつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終 的な『死』を確認すること。その柩を安置する場所をも指すことがある。」とある。私は後の「柩を安置する場所」のやうに思つてゐた。まちがひではないが、 正確でもなからう。第一、どのやうな場所か分からない。「物理的変化を確認する」にしても、それがどのやうな場所で行はれるのかは重要な問題である。私は、本当に殯とは何かが分かつてゐなかつたのである。五来重「先祖供養と墓」(角川文庫)は、その殯について詳しく書いてある。「今の葬式や墓のことでわからないことは、古代の殯にさかのぼっていくと説明できます。」(11 頁)と五来は言ふ。実際、その通りであるらしく、現代の葬儀は殯との関連でかなり詳しく説明される。要するに、殯といつても一つしかないわけではない。いくつかの種類に分けられる。何しろ、私は墓といつても寺の墓等の集団墓地ぐら ゐしか知らない。寺以外の古い集団墓地ならば殯の類があるのかも知れないのだが、私はさういつた場所を知らない。従つて、殯をイメージできないまま現在に至つたのである。第二章は「殯の種類——殯の残存形態」である。ここではそれが5類型に分けられてゐる。青山型殯、忌垣型殯、等々である。その青山型に出 てくるのが花祭、といふより、花祭の前身たる大神楽の白山である。これは早川孝太郎「花祭」にも出てゐた。これが青山型殯の残存だと言ふのである。「白山の中を地獄・極楽として想定したものですが、その構造は木の枝を四角もしくは円錐形にして囲って」(71頁)あるもので、この中で、「十念を授かって、亡くなっても極楽往生疑いなしという証明を受けて出てくるという儀式が行われ」(同前)るのである。所謂生まれ清まりであらう。白山の中で人は一度死ぬ。さ うして生まれ変はつて出てくるのである。すると、あの白山は確かに殯と言へさ うである。殯の残存形は意外に身近にあるものらしい。
・今一つ、暮露や放下についてである。「放下踊とか暮露は、念仏ですから、浄土宗関係の人がやるものかと思うとそうではなく、放下僧や暮露は禅宗の放浪者です。梵論師ともいいます。」(176頁)とある。この暮露、ぼろんじは徒然草115段にも出てくる。私は梵論師が放下僧につながることを知らなかつた。「放下僧という禅宗の放浪者に対して、芸だけをする放下がゐます。」(同前)放下僧は僧形、放下は俗形である。しかも、「放下僧に何人か何十人の放下が付いて、一つの興行集団をつくって歩いたようです。」(同前)放下の残された絵は俗形である。もともとは放下だけが単独で存在したものではなく、そのまとめとして放下僧がゐたらしい。現在の放下が団扇やヤナギを負うて何人かで行ふのも、もともとの興行形態によるのであらうか。これも葬送の形であつた。この「暮露は、のちには虚無僧になったりします。」(同前)ともある。現在は尺八 だけが独立して明暗寺に属するやうになつてゐるが、もとをたどれば暮露に行き着くらしい。これも葬送から順に派生してきたものであらう。その大本には殯があるといふのが五来の考えであらうか。殯や葬送から考へることのできるものが 多くあるのはまちがひないらしい。「宗教の原点としての葬儀の問題」(11 頁)を述べた本書であるが、それ以外に実に多くのことを教へてくれる書であつた。 -
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・昔話といふと直ちに関敬吾と思ふ。実際、五来重「鬼むかし」(角川文庫)でも柳田国男と関敬吾に何度も触れてゐる。それは肯定的な見解を述べる場合よりも否定的な見解を述べることの方が多い。ごく大雑把に言へば、五来にとつて関の方法や考察は不十分なのである。五来は、「神話は、その民族の文献以前の生活と民族宗教が、説話化して伝承されたものである。それは神々の言葉や行為として語られているけれども、これを人間の世界に世俗化すると、昔話になってしまう。」(12頁)とか、「神話と、これが地域に密着した伝説と縁起が、民間伝承として分裂し、単純化して昔話になった」(同前)と昔話を規定する。神話から昔話である。私などは、神話と昔話は重なるところがあつても、やはりどこか違ふのではないかと考へてゐた。五来に言はせれば、むしろ「これを子供向きにして動物説話にしたり、隣の爺さん型の教訓話にしたのが、現代の昔話だ」(同前)といふことになる。本書は雑誌連載を経て平成3年に出た。私にはこの考えは新鮮であつた。ところが小松和彦「解説」によれば、五来は「鬼や天狗、山姥などの原質は祖霊であり、『鬼むかし』にはその特徴がたくさん見出されるから取り上げたのであって、そうでない昔話には関心がなかった」(296 頁)のであるらしい。更に、五来は「手元に古代神話がなければ昔話を分析できなかった」(298頁)とある。私が新鮮だと考へたのは五来のそんな視点ではあるが、それは決して完璧なものではないらしい。五来は確かに神話をもとに昔話を分析している。それは さういふ道筋を通つて現代の昔話につながると思はせてくれる。小松のやうに妖怪研究をしてきた人には突つ込みどころ満載であつても、私のやうな素人にはこれはこれで十分におもしろい書である。
・例へば、どこでも良いのだが、「安達ヶ原の鬼婆」を見る。これは市川猿之助の有名な「黒塚」である。後ジテで正体を見破られて媼は鬼となる。この媼の家の閨の様子を、「平安時代に描かれた『餓鬼草紙』の、鳥辺野といわれる葬場の風葬のありさまを思わせるものがある。」(46頁)と書き、「空也がそのような風葬地の死骸をあつめて火葬に付した事績」(同前)があると書く。更にあだし野といふ地名にも触れる。さうして、「安達ヶ原に鬼女が居るという昔話の根源は、『あだし原』に死霊が彷徨していて、そこを通 る者に取り憑いて害するといふ恐怖観念にほかならない。」(50頁)その死霊が鬼女になるには、「山姥は『山の神』の形象化されたもの」(同前)といふ根本認識を踏まへて、「その恐怖的な面が強調され(中略)餓鬼などの姿で形象化されるとますます恐ろしい存在となった」(50〜51頁)といふ。「その上、この山神的な鬼は、始祖霊としては女性で表現される。(中略)昔話や仏教の唱導説話では、そのような中途半端な性格では面白い話にならないので、徹底的に恐怖性を強調し、人間を食べてしまうという物凄い人食鬼をつくりあげてしまった」(同前)といふことになる。ここには五来の基本的な考え方がよく出てゐる。小松も指摘するやうに、これが本書のあちこちに出てくる。他ではともかく、神話はここでは天照大神が少し出てくるだけである。これだけで小松の指摘が正 しいかと思はれる。ただ、山の神から鬼、鬼婆へといふ過程だけで鬼を説明するのは無理があると私だとて思ふ。さうも言へるが、さうではない場合もあるはずである。小松によればこれに対する五来なりの答へもあるやうだが、やはり山の神が目立つ。山の神はそれほどの存在であつたのかと改めて思ひつつ本書を読むのであつた。
・実は、五来重「鬼むかし」(角川 文庫)を書いた時は一度だけですますつもりでゐた。まだおむすびころりんや瘤取 り、桃太郎の最後の3章を読んでゐなかつたのである。小松和彦「解説」を読めば山伏の延年が瘤取りに出てくる(299頁)ことは 分かるのだが、それが一体どのくらゐの比重で書かれてゐるのかは分からない。へえと思つても、とりあへず書いてしまへば終はりだと考へて書いた。書き終へてから続きを読んでみると、ここには芸能的な要素が実に多くあるではないか。花祭はもちろん、田楽も出てくる。しかもきいたことのない説明である。これは一度きちんと書いておいた方が良いと思つて書くことにした次第。
・瘤取りには「瘤取り鬼と山伏の延年」といふ章題がついてゐる。これだけでも延年に相当の比重が置かれてゐると知れる。しかも最初のあたりにかうある、「この型の昔話ぐらい深山の神韻縹渺たる雰囲気をただよわす、詩的な口承文芸はないとおもうのだが云々」(191頁)。深山は分かるのだが、「神韻縹渺たる雰囲気をただよわす、詩的な口承文芸」といふのはちよつと違ふのではと思つてしまふ。そもそもこれがまちがひであるらしい。五来は能勢朝次や本田安次の延年研究を批判するが、それは「修験道の視点を欠くからであ」(206頁)つた。五来は、延年は「修験道の視点からならば、かなり解明されることが多い」(同前)と書いてゐる。その最初(?)の例として鬼の酒盛りがある。その酒盛りでの舞に関連して、「原始呪術を芸能化するためには、アクロバティックなはげしい身心の錬磨を必要と」(207頁)し、「足踏や跳躍や旋回を美的に構成するには、軽業曲芸的散楽を導入することがもっとも有利である。」(207〜208頁)と書いてゐる。この足踏みが花祭の榊鬼のヘンベ、反閇につながるのは言ふまでもないし、跳躍や 旋回は花祭の舞には不可欠である。また折敷の舞は花祭の花の舞盆の手であるといふ。「延年酒盛りの座についた大衆に給仕する稚児が、給仕用の折敷またはお盆をもって即興舞をするようになった」(208頁)ことから来るらしい。花の舞は扇、湯桶、盆が基本である。かういふ視点から花祭を説明するのは新鮮である。これが現在どの程度受け入れられてゐるのか知らない。延年の作法がこのやうに関はつてゐるらしいのはおもしろい。しかも花の舞は即興舞から来たといふ。これが瘤取り爺さんの飛び入りの舞になるらしい。 「今も奥三河の花祭(山伏神楽と延年)では、見物人である『セイトの聚』が飛入りで舞うことができる場面がある。」(209頁) セイト衆がゐなければ花祭は成り立たない。これが瘤取り爺さんのなれの果て(失礼!)かと思ふ。そして、鬼はなぜ山奥に出るかといふことがある。これは、鬼は山の神の化身だからですみさうである。「山神は、また眷属と称するお伴をつれて歩く」(212頁) とあるが、これも花祭の役鬼と伴鬼である。役鬼が出るまでは伴鬼が舞ひ、役鬼が終はると鬼一同で舞ひ、最後は「見物人も飛び出し て鬼と一緒に踊る」(同前)、これは言はれてみれば確かに瘤取りである。従つて瘤取りは、「鬼面をつけた山伏の舞を日常見ることのできた人々に語り継がれながら、昔話化したものであ」(同前)るといふ。瘤取り爺さんがかういふ形で花祭と関はつてゐようとは 考へもしなかつた。かうして瘤取りの説明はまだまだ続く。そこには藤守の田遊びや鳳来寺田楽が出てくる。鳳来寺田楽では、「多くのすぐれた芸能史研究家が毎年おとずれるのだから、その原形を指摘してもよさそうにおもわれる。」(218頁)と書いてゐる。延年を忘れてゐるのであつた。 -
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原始信仰、神道、仏教、その他派生した信仰を詳しく解説しながら、仏教がいかに日本に広まり、なぜ定着したのか、なぜ日本人に受け入れられたのかを解説する。仏教の布教の特徴(既存の信仰や習俗に合わせる)やベースとなる土壌(古くからある習俗、信仰、儀礼)を予備知識のない人にもわかりやすく説明している。
文章は読みやすく、量も文庫でちょうど良い。しかし内容がしっかり盛り沢山なので、一度読んだ後他の本や資料で知識をつけた後で再読するとさらに吸収できるかもしれない。
霊魂観
古代あるいは庶民は死というものは「集団のなかのひとりのの死」と捉えられる。現代の個人の死のように寂しさ懐かしさの対象だけではなく、恐ろしい災害のもととなる荒魂という存在となる。
恐ろしい災いをもたらさないように魂を鎮める儀式をする。
水死者を拾うと幸運
水死者を海で拾って供養すると豊漁となる言い伝えがあるが、その拾う機会の多いのは死者供養のために流したものを拾っているからである。
確かに、台風の後のような時ならともかく普通そんなに偶然に流れてくることなんてないかと納得した。
熊野信仰
熊野詣の参道では死者に会うことができる。なつかしいと思ってよく見たら3年前に死んだ人だったというような話が伝わっている。(幻想的な雰囲気。ぜひ歩いてみたい。)
烏が神聖視されること、古墳がほとんどみつかっていないことから、水葬あるいは風葬の卓越したところであったと考えられる。(なるほど!)
風葬
羅生門の上に死体がおかれていたのは風葬のため。(そうだったのか!)
日本人は風葬は高いところに持っていこうとする。埋葬するようになってからも山の高いところへ埋めようとする。それで山の上に霊場ができるようになる。
なおヒルコを流したのが水葬の原型。
追善供養
葬式の時にわらじ脚絆をはかして頭陀袋に穀物と六文銭をいれ、杖を持たせ笠をいれてやるのは永劫の苦しい旅を軽減してやるために行なう。
擬死再生
成年になる儀式として、大峯、立山、白山に登るのは、子どものわれは死んで新しい大人のわれになって出てくるということ。
こういう前知識を持って登るとまた感慨が違うんだろうなぁ。
修験道では人間が生まれ変わって仏になる。しかし庶民信仰では罪と穢れを取り去って健康で清浄な魂としてよみがえるのが擬死再生だと。
なお、火葬場開きをする時にまだ使っていない竈年寄りが入って出てくると後生がよくなる=死ぬ時に迷惑かけず長く苦しまない。というものがあるらしい。
山中他界
特に古代は死者を山に葬った。風葬、野葬、林葬など。
そこから、野辺送りを山行きと言ったり墓を山と言ったりする。死出の山路という言葉も。
地獄谷、賽の河原という地名がつく山は他界信仰のあった山といって良い。
立山、白山にもそれがある。
そして、山の神は川を伝って里に下る。
霊山が源流の川で宗教儀式をやるのはそのためである。
古来の信仰と仏教
地獄と極楽の仏教の教えと黄泉と常世の古代の考えと置き換えられたので仏教がここまで受け入れられた。
死後の世界観も、古来の考えに仏教の地獄と浄土が重なったもの。
中間神霊
火の神、雷の神山の神…これらは皆祟る神で、目的地のゴッドになっていない。
靖国神社
靖国神社の問題にも筆者は触れた。
その賛否ではなく、靖国神社をなくしてほしいというのであれば戦死者を供養する場がなければならない。
そういうものを作ろうとせずに批判してはいけない。
また、本当に鎮魂されるためには浅草の浅草寺や川崎大師のような、誰もが普段着で行ける場にする必要があるという。今のままでは鎮魂が終わらないと。
信仰
なぜ自分がこのような悲劇に遭うのか、に応えるためにはやはり宗教や信仰がこたえていく。それができないときに新興宗教が生まれる。
葬送
死出の旅路のために置いた笠が、由来がわからなくなって墓上構築物ととらえられて、傘を寺に置くようになった例。時間と共に儀式や作法の意味が忘れられてしまい違うことをしている例。
墓の近くに大きな木があるのは、供養のために植えたもの。仏教が渡る以前はそうしていたので神社の近くに墓があるところもある。 -
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山岳信仰についてチョット興味があり、非常に軽い気持ちで購入してみた。が、わりと難しい語句が並んでおり、宗教や歴史の予備知識に乏しい自分にとっては、少し難しい読書となった。
古来日本では山に登ってはいけないという、暗黙のルールがあったそうだ。それは大昔の日本人が、亡くなった人を山の中の洞窟などに置いて、風葬をしていた事に由来するらしい。
そのうち仏教や神道が普及し始め、元々その地に残っていた風習などと重なり、山岳信仰として発展していった。
たしかそんな内容だったと思う・・・
写経の墨に使う水は山の池から汲んでいたとか、曼荼羅は宣伝に使われていたなど興味深い考察もあり、少し勉強してからもう一度読み直したいと思う。 -
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予備知識も何もない状態でとりあえず読み終えた今の理解、
⑴ 熊野は古くから葬送において独特で、天皇家が火葬を採用してひろまるまでは墳墓がほとんどなく、風葬・鳥葬がとりわけ発達していた。
⑵ 人の死骸を啄み、空高く舞い上がる烏を、おそらく古代の人は天の使いのようにみた。熊野ではこれがとりわけ発達していた為に、烏と熊野の印象的な結びつきがうまれた。
⑶ 熊野では、自らの両足を縄でしばり、崖淵に結びつけて跳び下り、宙吊りで果てるという変わった自殺方法をとる信仰が古くからあり、現世で苦しめば苦しむだけ来世では安楽が得られるという信仰もあって、聖が同様の自殺、もとい、捨身をすることもしばしばあった。
⑷ 死者の国として発展していった熊野は、神の国である伊勢と表裏をなすようになり、それがやがて伊勢と熊野の同体説を産んだ。
⑸ 熊野詣には、主に庶民が辿った女道の伊勢路と、主に貴族らが苦行として辿った男道の紀伊路と、二通りあり、伊勢詣から続けて熊野を詣でることも多かった。
⑹ 熊野神道が発展していくと熊野の死者信仰は穢れとみなされるようになったが、那智滝を信仰対象として那智信仰がうまれた後、その奥之院として法華宗の法妙山は熊野古来の死者信仰を引き継いだために、熊野神道から那智信仰における異端とみなされるようになった。
⑺ 浄土教が流行すると、熊野に仏教勢力が跋扈するようになり、更に死者の国の印象と結びついて熊野は浄土そのものであるという信仰が生まれた。仏教浄土である以上、神道の伊勢とは切り離さねばならず、伊勢路はそういった体面的問題からも廃れていったが、それは庶民とは関係のないことであった。
⑻ 浄土の思想が根付くと、海の向こうは浄土であるという信仰も生まれ、丘の風葬・鳥葬に対し、浜の水葬も流行った。
⑼ 熊野は死という穢れを拒まず受け容れてきたことから、一遍を開祖とする浄土教の一派・時宗は積極的にその特性を利用し、癩病患者を中心とする社会から締め出された人々の受け容れを熱心に行い、様々な宣伝を通じて勢力規模を拡大した。現代では、熊野社あるところに時宗寺院ありと研究者が見当をつけるほど、両者の結びつきは強かった。
……と、いうところまでは概ね楽しく読んで、理解もできたつもりだが、そのあとの熊野別当の話はさっぱりわからなかった。笑 中世日本史ほどいみのわからないものはない。仏教が日本独自のガラパゴス化して上から下にまで浸透し、武士勢力が擡頭してから何でもかんでもよくわからない漢字語で表すようになって、厚化粧してブランド物で着飾ったおばさんの素顔くらい嫌悪感を催す代物になってしまった。その心は、近寄りたくない。
ただ、とりあえず当時の熊野には領主として大変権勢をほこる人が君臨し、僧兵や山伏を抱える一大国家的勢力を築いていたということはわかった。それが源平合戦に影響を与えるほどであったということもわかった。それ以外は正直興味すらわかずさーーーと流し目王子もびっくりの流し読みで駆け抜けた。
伊勢路と紀伊路の説明が割と細かいのに地図がないので、えらく不親切な編輯部だなと思って読み終えたら、巻末にしれっと地図あった。これから読む人はまずさきに巻末へ。笑
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著者曰く、初期の浄土教には後の世のチャランポランな浄土宗とちがって、滅罪というとっつきにくく、近寄りづらいものがあったらしい。それは読んで字の如くで、悪いことしたらその分だけ苦しんだり、功徳をつんだりして、身の不浄を洗い落とさないと浄土にはいけないということらしく、「南無阿弥陀仏」(現代語訳:アミダまじエモイ) と口で唱えるだけで浄土にいけると説く親鸞などの浄土宗とは根本的に違ったらしい。それが平安末期になると熊野はチャランポラン浄土宗の説くところの浄土として認識されるようになり、心に余裕のない底辺層、一般庶民をぐっと引き寄せたらしい。ただ、著者は初期浄土教の滅罪信仰を日本独自の罪穢・禊祓の固有信仰に基づくものだというが、中国の清朝宮廷ドラマ(大河ドラマ)にも滅罪思想はよく出てくるから、日本の固有信仰ではないと思う。
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本書の地理案内でしばしば「王子」という地名が現れるので、東京都北区王子が真っ先に浮かび、何かの地形を表す詞なのかと思っていたら、熊野社がいまの北区王子にあったから、王子らしい。東京では八王子をのぞいて「王子」のつく地名は多分ほかにない、と思う、ので、珍しいっちゃ珍しいが、和歌山の熊野一帯は反対に王子様だらけらしい。(本書の情報)
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最後に、気になった一文:
p.65
「……鴨長明の編といわれる『発心集』の……ある禅師……が、……捨身往生をねがって……はじめは身燈(焼身自殺)をしようと鍬を真赤に焼いて両脇にはさんでみたが、大したこともないとやめて、補陀落渡海にふりかえた……。」
真赤に焼いた鍬を脇に挟んで大したことないというその根性で生を全うできんもんだろうか。 -
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その国の文化や価値観を知りたいと思った時に、死生観や、それに基づく葬儀の方法などは、とても興味深い指標になる。日本で火葬が普及する以前は、風葬(特定の場所に置いて風化させる方法)や水葬(船や桶のようなものに入れて川や海に流す)やり方が一般的だったらしい。死者は穢れたものとされ、死亡して間も無くは祟るものとして避けられていた。安置された遺体が白骨化することで穢れがなくなったと解釈されるが、そのための必要な期間が約2年でこれは仏教の3回忌にあたる。それまでは遺体の周りに枝を払った木を植えたり、草で覆い隠したらしいが、これを青山というらしい。なるほど。死を語ることは多くはないが、文化の理解としては非常に面白いと思った。
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複数の論考や講義録を併せて『日本人の死生観』と題したもの。著者の研究が仏教研究から出発していることに留意すると分かりやすい。
以下要点を箇条書きで。ネタバレ注意(?)
・死後の世界=他界 現世の延長・投影 死者の国
山/海・島(常世、理想郷でそこでは歳を取らない)がのちの浄土観念や聖地・霊場形成の基底にある 例: 水葬、風葬、→恐山、熊野、補陀落渡海
正者の国と水平的に観念される場合が多い
・怨霊→和魂/荒神など→神・仏
罪・肉体そのものの穢れが清まらないうちは、死者の霊は荒魂であり、怨霊であるので封じ込めることが葬制・墓制の根本となる 例: 結界、両墓制、トーバ、サンマイ
祭らなければ祟るが祭れば子孫や共同体に恩寵をもたらす
・怨霊: すべての新魂+供養されない霊(=餓鬼)+非業の死を遂げた人の霊魂
・鎮魂の方法:(1)圧えつける…遊部の神楽、相撲、足踏み (2)追い立てる…鎮送、お盆 (3)閉じ込める構造物を作る…殯など
・罪・穢れを生前に減らしておく手続き、少数の金持ち個人よりも多数の庶民が合力した方がすべての人が得る現世・後世の幸福は大きくなるという庶民信仰→行基・空也の社会事業の基底
・擬似再生儀礼: 脱皮のように生まれ変わることで成長するという観念 例: 生まれ清まり神楽、成人儀礼、逆修、入道、往生決定、修験道における即身成仏
・贖罪死という概念
(a) 個人の贖罪死: 自らの罪業を自らの死によって償うことで永遠の安楽を得ようとする ほか苦行など
(b) 集団のための贖罪死: 集団が罪によって受くべき飢饉・疫病などを逃れるため、一人の人間が集団全体の罪を背負って死ぬ 犠牲を素直に受け入れる精神構造→軍人勅諭・徴兵に適合か
民俗学に疎く方法論を知らないため(そんなに断言してよいものか…?)と思いつつも、興味深い。神話学や比較人類学も発展した今はもっと研究が進み精緻化されているのかもしれない。
例えば生まれ変わりとして出てくる成人儀礼・若衆宿的なものは、人類が文明を獲得し他の動物とわかたれた過程を再現する儀礼とも関連するだろう。鎮魂と芸能の関連についての記述は、『イリアス』におけるアポロクロスの葬儀における競技大会を想起させる。
宗教学・民俗学について興味を持たせてくれる一冊でした。