ハンナ・アーレントのレビュー一覧
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ネタバレ1961年4月~にエルサレムで行われた公開裁判を傍聴して著者が報告したもの。1962年に死刑を言い渡されその二日後に執行される。
初版出版は1963年。増強版は1964年。邦訳は、初版が1969年、この増強版の邦訳は2017年、と新しいです。
始めの章ではイスラエル政府による見せしめ裁判ともみなされるような裁判所の様子や一個人に徹底的に焦点を当てることで見えてくる、ナチス政権化の犯罪の実態を浮かび上がらせる。
増強版は技術的な訂正や追記が少しなされたらしい。
執筆時も、まだ明らかにされていないことがあったり、新たな事実が浮かび上がってくる中で報告された模様。
解説では、この本はユダヤ人組織やメディアから声高に非難されたとある。
アイヒマンの罪を軽減し、ユダヤ人をナチ協力者に仕立て上げる有害なものだ、と。
その後のさらなる真相解明や正義の在り方にも影響を与えた裁判とのことで、まさに歴史上の出来事でもあり、その後の歴史にも関わってくる裁判であることが分かるだけではなく、
この本自体も同様に、後世に残る歴史的・社会的影響をもたらしたに違いないと思える。
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Posted by ブクログ
イスラエル・パレスチナ問題、そして関連するテーマについて考えたいと思ってリストアップした中で最初はこれと選んだ本。ナチのホロコースト政策の詳細や関連する裁判等の戦後処理の経緯について細かくは知らなかったので前提知識が足りなすぎてなかなか読むのが大変だったし、有名な本なのである程度の骨子というか位置付けは知っていたけど、それでもやはり読んで良かった。「悪の陳腐さ」という本文最後の一節があまりに有名で、確かに重要なポイントではあるけれど、裁判全体のそもそもの位置付けや検察・弁護側そして判決に対してのアーレントの視点からの考察も重要。アーレントがいま生きていたら、現在のこの事態について、そしてイスラエルについて何を考え、言葉にするんだろうというのが、考えたいことの大きな一つでもあるのでこの後読む本も含めて考えていきたい。本書の段階では最後にアーレントが自身を判事と仮定したアイヒマンへのメッセージ「政治とは子供の遊び場だはないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。(略)これが君が絞首されなければならない理由、しかもその唯一の理由である」について、現在のイスラエルに置き換えるとすると、誰にどのような形で投げかけうるのかを問うてみたい。
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Posted by ブクログ
やっと読み終えることができた。全部読んだ自分に拍手。
訳者である大久保和郎さんの解説、その後にある、山田正行さんの新版への解説の二つを読んで、本編に入ることをお勧めする。基本的にエピローグと追記以外は、アイヒマン裁判を傍聴したアーレントの報告書的な感じなので、彼女の思想だったり、悪って何?みたいな問いは登場しない。最初からそういうのが出てくると思ってた自分は、肩透かしを食らった。なので、二つの解説を読んで、本書の流れ、時代的立ち位置、出版後の論争などを知った上で、読んだ方が数倍面白いはず。
にしても、ドイツ生まれのユダヤ人である彼女が、全く感情的にならずに、どちらかに肩入れすることもなく、客観的な視点で、人間の本来の悪の陳腐さを分析したことが凄まじい。ただ一貫して彼女の文章の背後に、アイヒマンへの並々ならぬ怒り、正確に言えば彼のような人間を作り出した社会システムへの怒り、を感じた。 -
Posted by ブクログ
なんとまぁ438ページ。ぶっちゃけ、エピローグと追記を読めば、筆者の意図はわかる!が、なるほど…となるので、できれば全部読むのがおすすめ。
深井龍之介さんがYouTubeで言っていた本のフルマラソンでいうと、30キロくらいでキツかったぁ…
p.33 もしアイヒマンが殺人の共犯として告発されていたとしたら、果たして、彼は有罪を認めたであろうか?認めたかもしれないが、ただそれには重要な条件がついていただろう。つまり、彼が行っていた事は、遡及的にのみ罪となるのであり、彼は常に法を遵守する市民だったのだ。彼が最善を尽くして遂行したヒトラーの命令は、第3帝国においては法としての力を持っていたからである。(弁護側、アイヒマンの主張の裏付けとして、第3帝国における憲法についての最も光明の研究者の1人で、現在バイエルン州の教育文化相となっているテオドルマウンスの証言を引っ張り出すこともできただろう。彼は1943年に警察の形態と権利の中で、総統(フューラー)の命令は…現行法秩序の絶対的な中心であると言っているのである。
p.46 これは決して静止することがなく、その中では彼のような人間、自分の属する社会的階級からも、自分の家族からも、したがってまた自分の目から見ても既に失敗者としか見られぬ人間でも、元からもう一度やり直して出世することができる運動だった。そして自分がなすべき仕事(例えば、人間を国外に移住させる代わりに貨車に詰めて、私に送り込むと言うような仕事)が、必ずしも彼の気に入るものではなかったとしても、彼が万事はドイツの敗北とともに惨憺(さんたん)たる結末を見るだろうとかなり早くから予想していたとしても、彼の最も心にかけていた計画(ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島に強制移転させる計画、ポーランドのニスコ地方に「ユダヤ人移住地」を建設しようと言う計画、彼のベルリンの事務所の周りにロシアの戦車を撃退するための綿密な防御施設を巡らせようと言う実験)が、すべて水泡に記したとしても、またこれは彼の最大の嘆きと悲しみだったが、彼がついにSS (中佐に相当する階級)以上に小休止得なかったとしても、要するに、あのヴィーンでの1年を除いて、彼の生涯は失意の連続だったとしても、彼はもう一つの人生を選んでいたらどうなっていたかを消して忘れはしなかった。亡命者として惨めな生活を送っていた。アルゼンチンに置いてばかりか、彼の生命は失われたも同然だった。エルサレムの法廷に置いてすら、彼は直も、もし誰かが訪ねたとすればヴァキューム石油会社の出張セールスマンとして平和で平凡な生涯を全うするよりは、退役した中佐として絞首刑にされることを選んだだろう。
p.253 法的には頭ユダヤ人の地位は、他のすべての少数民族のそれと同じものだったが、政治的にはそしてこれこそ決定的なことになるのだが、彼らはこの地方で唯一の自分の強度(ホームランド)を持たない民族集団だった。つまり、彼らは住民中の多数を占める土地がなかったのである。それでも彼らは生生や中央の同胞ほどにはバラバラになって暮らしてはいなかった。そしてそちらではヒトラーの出現以前からユダヤ人をユダヤ人と呼ぶ事は、反ユダヤ主義の印だったのに反して、東ユダヤ人は、味方からも、敵からも他の民族と異なったいっこの民族として承認されていたのだ。このことは、東方の同化しているユダヤ人の地位に重大な影響を及ぼし、何らかの形で同化しているのが普通とされている。西方のユダヤ人のチートの決定的な相違を作った。
p.340 また、暗闇のうちに、死の収容所において、実際に「自らの手で死の道具」動かしていたのは、通常被収容者と犠牲者自身だったと言う奇妙な事実を認めることにもなるのだ。
p.341 概ね直接に死の道具を操った人間から離れれば離れるほど、責任の程度は増大するのである
ゼルヴァーチウス博士の言葉↓
被告は、国家行為を実行したに過ぎない、彼の身に起こった事は、今後また誰に起こるかわからない、文明、世界全体がこの問題に直面している、小嶋は身代わり贖罪者(スケープゴート)である、ドイツの元政府は自分で責任を負うまいとして国際法に背いて、彼をエルサレムの法廷に委ねたのだと。
p.369 1935年のニュルンベルク法は、マジョリティーのドイツ人がユダヤ人少数者に対して以前から行っていた差別を合法化した。国際法によれば、彼らの少数民族方眼国際的に承認された少数民族条約や協定に定められている権利並びに保障に従う限り、ドイツ国民がそれに該当すると、見る住民中のいかなる部分を少数民族と宣言しようとも、それは主権たるドイツ国民の権利だった。
p.370 合法化された差別は、すべてバルカン諸国が行っていたし、大量の追放は数々の革命の後に起こった。新しい罪、人道に対する罪、あるいは、人間の本性そのものに対する罪と言う意味におけるが出現したのは、ドイツ民族は、ドイツ国内にユダヤ人が入るのを好まないだけでなく、ユダヤ民族全体を地球上から抹殺することを願っていると宣言した時だった。追放とジェノサイドとは、2つとも国際的犯罪ではあるが、はっきりと区別されなければならない。前者は、隣国の国民に対する犯罪であるのに対して、後者は人類の多様性、すなわちそれなしには、人類もしくは人間性と言う言葉そのものが意味を失うような人間後の特徴に対する攻撃なのだ。
p.372 ヤスパースは、ある1事だけは確実であると述べた。「この罪は普通の殺人以上でも以下でもある」。しかもそれは戦争犯罪ではないが、「もし諸国家がこのような罪を犯すことを許されていたならば、人類は確実に滅亡する」ことは疑いない、と。
p.376 一度行われ、そして人類の歴史に記された行為は、すべて、その事実が過去のことになってしまってからは、長く可能性として人類の下にとどまる。これが人類の行うことの性格なのである。かつていかなる罰の人間が罪を犯すのを妨げるに足る抑止力を持たなかった。反対に、どのような罰が行われたにせよ、これまでになかったある罪が一度行われてしまえば、それが再び行われる可能性は、最初に行われる場合よりも大きいのだ。街が犯した罪が繰り返される可能性を支持する。特殊な理由の方はもっとはっきりしている。現代の人口の爆発的増加と、オートメーションによって進行の大きな部分を労働力の先から行っても、余計なものにする技術手段の発見とは、時を同じくする。しかも、この技術手段は、核エネルギーによって、ヒトラーのガス殺設備も、それに比べれば、子供のおもちゃみたいに見える道具を使って、この余計な人口の脅威を解決することを可能にする。この恐るべき位置は我々の旋律せしめるに十分であろう。
前例のないことも一旦出現してしまえば、将来のための前例になるかもしれない。人道に対する罪に触れる。すべての裁判が、今日ではまだ理想でしかない基準に従って行われなければならないのは、基本的にはその理由による。もしジェノサイドが本当に将来の可能性として存在するならば、地球上のいかなる民族もそして言うまでもなく、イスラエルの内外音を問わず、ユダヤ民族は、特に国際法の上力の保護もなしに、自分が生き続けられるものと理性的に確信していられるものではあるまい。今まで前例がなかった犯罪の処理が成功だったか、失敗だったかは、この処理がどの程度まで国際刑法の制定のために妥当な前例となり得るかによってのみ判断されよう。
p.380 まさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くのものが倒錯しても、いずれサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであると言うことなのだ。我々の法制度と我々の道徳的判断基準から見れば、この正常性は、すべて残虐行為を一緒にしたよりも、我々をはるかに凌駕させる。なぜなら、それはニュルンベルク裁判で繰り返し繰り返し、被告やその弁護士が言ったように、事実上、人類の敵であるこの新しい形の犯罪者は、自分が悪いことをしていると知る、あるいは感じることをほとんど不可能とするような状況のもとで、その罪を犯していることを意味しているからだ。これについての証拠は、主要戦犯裁判に見られたものよりも、小嶋のケースの方がもっと説得的である。主要戦犯たちがいくら良心にやましいところはないと、誓っても、上からの命令の復習と言う弁解とともに、場合によっては復習しなかったと言う豪語も見られたのだから、彼らの違い等は無視しても良い。しかし、この日、主要戦犯たちが正直でなかった事は明らかだったとしても、彼らがやましい良心を持っていたことを現実に証明する唯一の根拠は、ナチが、そして特にアイヒマンの所属していた犯罪組織が、戦争の最後の数ヶ月の間証拠隠滅に大わらわだったと言う事実だけであった。これでは、むしろ薄弱な根拠でしかない。それは次のようなことを彼らが認識していたことの証明にしかならない。すなわち、大量虐殺の掟は、その新規さゆえにまだ他の国々に受け入れられていないと言うこと、あるいはなぜ自身の言い方によれば、人間以下の人間の支配、特にシオン賢者たちの支配から人間を解放する戦いに彼らが破れたと言うことなのである。要するに、一般人の言葉で言えば、それは敗北の辞任を証明しているだけなのだ。彼らが勝ったとすれば、彼らのうち1人でも良心の疚しさ(やましさ)に悩んだだろうか。
p.382 君は戦争中で民族に対して行われた犯罪が有史以来、最大の罪であることを認め、その中で君が演じた役割を認めた。しかし、君は、自分を消して卑しい時から恋したのではない、誰かを殺したいと言う気持ちもなかったし、ユダヤ人を憎んでもいなかった、けれども、こうするより他なかったし、自分に罪があるとは感じていないと言った。われわれは、それを信じる事は全く不可能ではないまでも困難であると思う。それほどたくさんではないが、この動機と良心の問題について、君の主張を否定する、疑問を残さの証拠もいくつかある。君はまた、最終的解決に置いて、君の演じた役割は、偶発的なものに過ぎず、ほとんどどんな人間でも君の側流やれた、それ故、潜在的には、ほとんどすべてのドイツ人が同罪であると言った。君がそこで言おうとした事は、すべての、もしくはほとんどすべての人間が有罪である場合には、有罪なものは1人もいないと言うことだった。これは事実ごく普通の結論だが、我々はこれを君に認めようと思わない。そして、我々がそれに反対する理由がわからなければ、ソドムとゴモラの物語を思い出してもらいたい。聖書にある。この隣同士の2つの街は、そこに住む人々が等しく、罪を犯したため、天からの日に焼き付くされたのだ。ついでに言うが、これは集団的な罪と言う。最近流行の観念とは何の関係もない。この観念に従えば、人々は自分の行ったのではなく、朝自分の名において行われたこと、自分が参加もせず、それから利益もえなかったことについて有罪である、もしくは罪を感じるとされるのであるが。換言すれば、法の前での有罪と無罪は、客観的な性質のものであって、たとえ八千万のドイツ人が君と同じことをしたとしても、その事は君にとって言い訳とならなかったろう。
p.389 ヒトラー体制は、単にドイツ国民8000世界のユダヤ人にとってとってのみならず、ヨーロッパの中心で起こったこの大災厄を忘れておらず、したがってそれと、折り合いをつけることもできないでいる世界の全ての人々にとっても、克服されていない過去をなしていると言うことだった。のみならず、これはおそらくもっと良きにそむくことであろうが、今日直人々につきまとい主く、その心にのしかかって用などとは、私には夢にも思えなかった、現代的に複雑に屈折した一般的な道徳的問題が、突然公衆の関心の前面に現れたと言うことだった。
p.395 アイヒマンはいやー子でもマクベスでもなかった。しかも悪人になって見せようと言うリチャード3世の決心など、彼に無縁のものはなかったろう。自分の商品にはおそらく熱心だったと言うことのほかに、彼には何らの時もなかったのだ。そしてそのこの熱心さはそれ自体としては、決して犯罪的なものではなかった。もちろん、彼は自分がその後釜になるために上役を観察することなどを決してしなかったら。足ない表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさに、この想像力の欠如のために、彼は数ヶ月にわたって警察デジモンにあたる。ドイツユダヤ人と向き合って座り、自分の心の健を打ち明け、自分がSS中佐の階級までしか送信しなかった理由や、出世しなかったのは、自分のせいではないと言うことを、繰り返し繰り返し説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終弁論において、「なち政府の命じた、価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。全く施行していないこと。これは愚かさとは決して同じではない、それが彼があの時代の最大の犯罪者の1人になる素因だったのだ。このことが陳腐であり、それのみか滑稽であるとしても、また1階に努力してみても、アイヒマンから悪魔的なまたは鬼神に取り付かれたような底知れぬさを引き出す事は不可能だとしても、やはりこれは決してありふれたことではない。死に直面した人間が、しかも、絞首台の下で、これまでいつも葬式の際に聞いていた言葉のほか、何も考えられず、しかもその高貴な言葉に心を奪われて、自分の姿と言う現実をすっかり忘れてしまうなどと言う事は、なんとしてもそうざらにあることではない。
p.416 彼女は、彼女の理由からこの犯罪者に時計を要求するのだ。その理由とは、英語のcrime against humanityと言う言葉の曖昧さを彼女は彼が言っているが、これはドイツ語には人道に対する罪と人類に対する罪と言う2つの言葉があるからである。これを虐待とか人質射殺と言うような戦時の残虐行為ですら、人道に対する罪ではあるが、人類に対する罪ではない。しかし、ある人種、ある民族、ある人間集団の存在を全体として規定すること、その存在を否定する権利が自分にあると思う。嫌がること、これは人類に対する罪と言う全く新しい範疇の罪悪であり、このような犯罪者とあ、つぶさに天をいただくことができないと彼女は断定する。小嶋の行為のひとつひとつについていかに酌量の余地があろうとも、この行店で妥協の余地なく、彼に私を宣告しなければならないのである。ここに彼女の特徴的な思考法が見られる。(ついでに言えば、彼女の師カール・ヤスバースは死刑廃止は、当然とする含意のもとに、この犯罪は例外的なものだから、例外的に死刑を適用すべきだと主張している。)
p.434 アーレントによれば、小嶋は次のような人物である。学業成績はぱっとしなかったが、14億は強く、それなりに栄達を果たすが、課長止まりで、後の高級幹部などではない。他人の立場に立って考えるのが苦手で、紋切り型の表現でしか話すことができない。ほら吹きで、また気分の高揚は顕著な心理的特徴と言えるが、それでも精神病理学的には正常である。ユダヤ人像を抱くとか、反ユダヤ主義イデオロギーに沿ってもいない。ユダヤ人問題、専門家としての仕事ぶりからもわかるように、小竹の面では愚かではないが、自分のしている事について施行していない。犯罪歴はなく、「法を遵守する市民」を辞任する。総じて、夜に言われる極悪非道の「怪物」と言う封書は立っておらず、むしろ「どうか」と思わせる。要するに、アイヒマンは夏、体制下の他のドイツ人たちと特段違う所のない、ほぼ普通の人間なのである。しかし、この「普通」が「平凡」や「物」、ひいては「陳腐」と言う語への連想に、うっかり導かれると、途端に「アイヒマンは教育とは、無縁のただのつまらない男だとアーレントは言っている」と言う誤解の大旋風が起こることになる。
アイヒマン自身は、確かに、大量虐殺に直接的に関わっておらず、多くの人を殺そうと言う意図もなかった。常識に基づいて考えれば、そもそも殺人は違法な行為であるばかりでなく、人を殺すにあたっては、良心の疾しさを覚えないはずがない。ところが、ナチ体制では「殺すべし」と言うヒトラーの意思こそが法であり、「法を遵守する市民」であれば、それに従うの義務であり、それに反抗するところが、協力的なユダヤ人もいることで、本来生ずるはずの良心の葛藤も、あらかじめ大幅に縮減されていた。「汝殺すべからず」が「汝殺すべし」と逆転した。この道徳的に転倒された世界の中での行為について、「普通」に行為したアイヒマンは、果たしていかなる罪にということができるのか。なち大勢の問題とは別にそうした体制は無し。ドイツ対1階でも生じる、そうした全体主義的な体制の下にいる自分の行為を施行することのないーー「陳腐さ」はこの事と相関するーー個人の罪や責任はいかにして問われ得るのか。アーレントが遭遇したのは、この問題だったとひとまずは言えるだろう。 -
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理系大学受験のため、世界史は試験をパスする程度の知識しか学んでいなかったため、本書の前半は読むのに相当苦労した。出てくるカタカナの人物名・組織名を把握しきれず、相関関係なども分からなかった。それゆえほぼ流し読み状態であったが、当時のナチス政権が広範に渡ってユダヤ人の絶滅を、かなり熱心に行っていたという事は充分理解できた。
アイヒマンという人物は「ユダヤ人を絶滅させる熱意に満ちた極悪非道な人物」ではなかったようだ、という記述は本書で何回も出てくる。ナチスという政治団体で、上からの命令に従って動いた歯車に過ぎなかったのである。その事を言い訳にして、罪はあまり重くはないかのようにアイヒマン自身は思っていたらしい。
最終的に、アイヒマンは主として〈"人類"に対する罪〉で裁かれ、死刑が執行された。いわゆる戦争犯罪を真の意味で公平に裁く事の難しさも読み取れた。アイヒマン含めナチスが行ってきた事を擁護する気は一ミリたりともないが、その時点の法に照らし合わせた時に、彼らが行った罪は明確にはなかったのである。もしナチスを"人道"に対する罪で裁くとすれば、勝利側の連合国軍にも罪に問われる行為があったことは否定しづらいのではないか。しかし、ナチスはユダヤ人の殲滅という明確な思想を持ち、熱狂的に計画を実行していたのだから、"人類"に対する罪に問うのは適切であろう。
本書から受け取る印象として「悪の陳腐さ」というのは誠に的を射ていると思う。悪というものは正義の真反対などという明確なものではなく、複雑かつ曖昧であり、そこら中にありふれているのだでは、「悪」を犯さないためにはどうするべきか?…これは人類がこれからも永遠に考え続けなければならない問いである。はたして、正解は出てくるのであろうか。 -
Posted by ブクログ
国家は権威・忠誠を与える根源的な場(共同体)であり、個人はその外部においては無意味である。ジョヴァンニ・ジェンティーレGentile(1875-1944)
全体主義。階級社会が崩壊して、根無し草の大衆が生まれた。量が多く、政治的に無関心・中立、階級意識を持たない、組織化されておらずバラバラ。公的な領域で他者と連帯して活動をしないで、孤立している。全体主義はこれら大衆を上手く動員した。全体主義は自由な行為の空間を限りなく減らして孤立している大衆をさらに孤立させ、それっぽい観念・イデオロギーを強制させる。大衆は自分で考える力を無くしてしまう。全体主義体制は大衆によって支えられている▼全体主義の特徴。独裁的な指導者に率いられた単一政党支配、人々に公定イデオロギーを強制、思想・文化・経済を強制的に画一化、市民の自由を極度に制限、意見・利害の多様性(議会政治)を否定。例)ナチスドイツ・ソ連スターリン時代。ハンナ・アレントArendt『全体主義の諸起源』1951 (97)
全体主義の背景には伝統・権威の崩壊がある。教育は伝統・権威なしにはありえない。ハンナ・アレントArendt『過去と未来の間』1963
全体主義の特徴。単一イデオロギーによる支配。単一の独裁政党による支配。秘密警察と恐怖政治。権力によるマスコミ独占。武器の独占。経済を中央が統制。カール・フリードリヒFriedrich&ズビグネフ・ブレジンスキーBrzezinski『全体主義的独裁と専制』1956
全体主義の特徴。国家公認のイデオロギー。経済活動は国家に服従。経済活動は国家の活動であり、経済活動の誤りはイデオロギーによって判断される。単一の独裁政党による支配。マスコミ(強制と説得の手段)独占。レイモン・アロンAron『デモクラシーと全体主義』1968
民主主義体制でも全体主義体制でもない。権威主義体制。多数の個人や団体が自由に活動できない(民主主義体制ではない)。かといって自発的な団体が禁止・抑圧されているわけではない(全体主義体制ではない)。国家によって認可された個人・団体に限り、限られた範囲で政治参加が認められる(権威主義体制)▼思想の自由はない(民主主義体制ではない)。かといって単一イデオロギーの宣伝・教化が行われるわけではない(全体主義体制ではない)。伝統で結び付く感情的な思考や心情によって体制が維持されている▼自発的な政治参加は求められない(民主主義体制ではない)。かといって体制への広範で徹底した政治動員が行われるわけではない(全体主義体制ではない)。限られた政治動員と民衆の脱政治化(無関心)に依存した体制(権威主義体制)。例) スペインのフランコ政権(1939-1975)。開発独裁(韓国の朴正熙、フィリピンのマルコス、インドネシアのスハルト)。フアン・リンスLinz『全体主義体制と権威主義体制』1975 -
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エルサレムでのアイヒマンの裁判ー元ナチ親衛隊中佐でユダヤ人移住局長であったアイヒマンのユダヤ人強制移送を裁く裁判ーの取材報告。
著者は心理学者アーレント。アイヒマンと同い年でナチ政権発足後にアメリカに亡命した人物だ。
アイヒマンの犯した罪は、出世欲の強い人物の思考停止、想像力欠如が生んだとアーレントは指摘している。
たとえその背景に全体主義的統治、あるいは官僚制が人間を「行政装置の中の単なる歯車」に変える実態があったとしても、その罪は赦されるものではないとも書いている。
アイヒマンは裁判中、口元を不自然に歪めていたそうだ。恐らく神経症状ではないだろうか。
それで官僚制的日本企業に勤めていた頃に大嫌いだった上司を思い出した。その上司も出世欲が強く、上層部の指示に絶対服従し、自分の言葉を持たない人物で、目元が時折不自然に釣り上がる癖があった。
私自身が感じていたその上司や官僚制的日本企業に対する嫌悪感の正体を本書に見たように思う。
文章が読みにくいので星4つとしたが、日本の官僚制的組織で働く人に勧めたい本だ。
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Posted by ブクログ
ナチス親衛隊の中佐として、アウシュビッツを始めとする各収容所へのユダヤ人移送責任者として、ホロコーストの最高責任者とされたアドルフ・アイヒマンは、1961年に潜伏先にアルゼンチンでイスラエルの秘密部隊モサドにより捕らえられ、イスラエルでの裁判の結果死刑となる。
「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。覚悟はできています。」と語って絞首台に向かったアイヒマンとこの裁判について、20世紀を代表する政治思想家であるハンナ・アレントがニューヨーカー誌への連載という形でまとめた記録集が本書である。
本書の歴史的な意義は2つある。それは、ホロコーストという人類の歴史における最大の”悪”が、実はアドルフ・アイヒマンという極めて陳腐な人間によってもたらされたという点を明らかにした点である。イスラエルによる裁判で語られたアイヒマンの供述からは、彼が自らの昇進のことしか考えられない(しかし、だからといって社会を欺いたり、巨悪を働くようなずる賢さもない)小役人であるという姿が浮かび上がってくる。
もう一つは、1点目に関連して、いかにナチスという組織が官僚的なメカニズムで組成されており、システマティックにホロコーストがなされたか、ということを示した点である。本書の中でアイヒマンが語ったホロコーストの実態とは、
・欧州各地で収容所に送られるべきユダヤ人は誰で人数はどの程度か?
・割り当てる収容所をどこにするか?
・収容所へ移送する鉄道のラインとスケジュールは?
・収容所での虐殺の計画と空きキャパシティから、いつ新たなユダヤ人を送り込むべきか?
といった極めてオペレーショナルな問題への諸対応であった。さしずめ国際物流を営むオペレーターのような形で、アイヒマンは淡々とそうした問題を片付けていく。そこには自らが悪をなしているという実感はなく、単に官僚制的なシステムが人を動かしているようにも見える。
概念としては理解していた上記のようなポイントが、本書を読むことにより、リアルなものとして伝わってきて、様々なことを考えさせられるProvokingな一冊。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
ベトナム戦争、プラハの春、学生運動…1960年代後半から70年代初頭にかけて全世界的な広がりをみせた騒然たる動向を、著者は亡命の地・アメリカ合衆国でどのように考えていたか。
「国防総省秘密報告書」を手がかりに嘘と現実(リアリティ)とのあり方を論じた「政治における嘘」、暴力と権力との相違をテーマにした「暴力について」、さらに「市民的不服従」など、本書は、情況への鋭い発言のかたちをとりながら、われわれとわれわれを取りまく世界への根本的な問いを投げかけている。
「政治とは何か」をもっとも明快かつ具体的に論じた書ともいえよう。
[ 目次 ]
政治における嘘―国防総省秘密報告書についての省察
市民的不服従
暴力について
政治と革命についての考察―一つの註釈
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
エピローグをしめくくる言葉がすごすぎる。
「君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族とともにこの地球上に生きることを望まない――あたかも君と君の上司が、この世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように――政策を君が支持し実行したからこそ、何ぴとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君らとともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」(p384)
この先、形を変えた全体主義の時代がやってきた時のために、アーレントのこの言葉をかみしめたい。そして「子供の遊び場ではない」政治の中で、どう生きるか、強く覚悟しておきたい。 -
Posted by ブクログ
「ナチVS哲学」というセンセーショナルなひと言でまとめると非常に興味深く感じられるよね
もちろんひと言ではまとめられんのよ
はい、わいの大好きな哲学の先生、國分功一郎さんの著作にも度々登場する20世紀を代表する政治哲学者ハンナ・アーレントが、ホロコーストにおいてユダヤ人の絶滅収容所への移送の責任者だったアドルフ・アイヒマンのエルサレムで行われた裁判の記録と考察を記した『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』です
ナチと哲学、うーんまさに興味津々の組み合わせ、きっとユッキーも興味あると思われたので、まずは師たるわいが読んでみた
結論から言うと「おすすめ!」とは言い切れないかな〜
いや、良かったんだけど、文字多いわw
もうぎっしり詰まっていて、かなーりたいへんだった
でもって興味の中心であるアーレントの考察は全体の1割くらいなんで、これまた辛い
そして、ちゃんと時間をかけて読まないとダメだと思うので、もし読むならかなり時間的余裕のある時に”自己責任”でw
あと、ジャンルとしては「ホラー」でした
いやもうめちゃくちゃ怖いっすわ
あんまり冗談めかしてもいけないんだが、マジ怖い
アイヒマンがしたことってのは「とんでもないこと」なんだが、じゃあなぜそんなことしたのか?っていうと主目的は出世のためなんよ
怖いよね
でもって、「そういう法律だったから」「命令されたから」で、自分には責任ありませーん
みんなも自分と同じ立場だったらそうしたんじゃね?なのよ
アーレントはこれを「陳腐な悪」と表現してるのね
ちょっと分からないでもない
もっとちゃんとした深淵なる理由がほしいよね、たとえそれが狂ってるとしても
こいつ、何にも考えてねーだけじゃん!っていう
でも、アーレントはだからって別に許されねーわ!とも書いていて
もちろん、そりゃそう
そしてね
暴虐な行為に対して沈黙すること、考えないこと、何もしないこと、それもやはり罪なのよ -
Posted by ブクログ
誰もがアイヒマン状態になるのか?自分の出世を考え、自分はユダヤ人の専門家であることを誇りに思っていた。どこで間違った道に進んでいたのか?
単なる歯車ではなかったとアーレントは言う。上からの命令を無視してまでして実行する。
そして結果として六百万を越えるユダヤ人の死者が出る。色んな国からユダヤ人を鉄道に乗せ移送する、ただこれだけのことをして直接には手を下していない。
また、ユダヤ人の国民国家イスラエルでの裁判でもあった。アイヒマンが生贄となってユダヤ人が連帯感を持ったようにも思える。
本書の大半は報告書になっていて事実関係の羅列になっている。そして、あまり面白くない。最後のエピローグと追記で、考察を行っている。ここがなければ、評価はもっと下がっていただろう。