大久保和郎の一覧
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ユーザーレビュー
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第三部、第一部と読み進めてきて第二部が最後となるけれども、とんでもなく面白かった。帝国主義がもともと経済的な事情に由来すること、その特徴が膨張の運動それ自体にあること、それが国民国家の在り方とはそぐわないこと、人種思想の経緯、海外帝国主義と大陸帝国主義の違い、法を軽視する官僚制、人権という概念のもつ
...続きを読む問題など、どの議論をとってもほんとうに面白く、それぞれが全体主義への架け橋として描き出されるので、たしかにこれは第三部から読んでおいてよかったなあと思った。自然とか人工世界とか循環あたりの話は『人間の条件』を彷彿とさせる。カフカの官僚制の話もうれしい。あいだに寄り道していたせいもあって全部を読むのに三ヶ月ほどかかってしまったけれど、ほんとうに読んでよかった。
Posted by ブクログ
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ヤスパースの助言通り第三部から読んだ、全体主義の特徴として挙げられる首尾一貫した偽りの現実とかテロルの意義とかもすごく面白いのだけれど、そもそもそういったものに溺れてしまう大衆の弱さとか収容所に入れられたひとびとが存在しなかったことになってしまう残酷さとか、人間の孤独や存在の脆さが浮かびあがってくる
...続きを読むあたりで泣きそうになってしまう、アーレントの冷徹さの奥には限りない愛の眼差しがあると思う、あと大事なことは何度も言ってくれるのでわかりやすい。
Posted by ブクログ
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旧版を読んだのは5年前。全体主義やホロコーストについて、勉強を始めたばかりの頃。読んだときはかなりの衝撃を受けた。
その後、この本が出版された60年代前半以降の研究も読んで、この本の歴史的な資料としての重要性は下がって、アーレントの思想を知るための本ということにわたしの中ではなっていた。
新版に
...続きを読むなって、字も大きくなり、その後の通例にしたがって、固有名詞や用語の統一がなされ、読みやすくなったとのことで、読んでみた。
すると、アーレントの歴史事実に関する理解は、最近の研究とくらべて大きく異なるわけでもなさそうなことがわかった。この本のフォーカスは「アイヒマン裁判」であり、「全体主義」や「ホロコースト」全般ではないので、強調しているがポイントは違うというわけだ。
最初に読んだときには印象に残っていなかった「最終解決」以前に行われていたポーランドやウクライナなどでのジェノサイドについても書いてあるし、ソ連側の「カチンの森」でのジェノサイドについても記載されている。(この問題について60年代前半に言及しているにはわりと早い時期だと思われる)
と歴史的な記述としても、今読んでも、そこまで偏っているわけでもないと感心した。
さて、今これを読むと、シュタングネトの「エルサレム“以前”のアイヒマン」の議論との比較が気になるわけだが、あらためてアーレントを読み直してみて、シュタングネトが主張するほど、両者の議論には違いがない気がした。
シュタングネトはアルゼンチンでの「サッセン・インタビュー」におけるアイヒマンの発言を詳細に分析しており、その内容の説得力は高いのだが、この「サッセン・インタビュー」については、アーレントも言及している。その当時はその全貌がわからなかったわけだが、主要なポイントはおさえているように思える。
シュタングネトの基本的主張は、アーレントが「悪の陳腐さ」と言ったことへの反論なのだが、アーレントももともとアイヒマンが全体のなかでの小さな歯車でいわれたことをただやっただけのサラリーマンだったというような意味で、「悪の陳腐さ」といっているわけではない。ましてや、そのことによってアイヒマンの裁判の死刑判決に異をとなえているわけではない。
アーレントのいう「悪の陳腐さ」とは、「自分で考えないこと」、つまり当時の「慣用句」、「クリシェ」を状況に応じて使って反応しているだけであること。で、一見、それらしいことを言っているように聴こえるときもあるが、さまざまな主張を全体として組み合わせてみると、矛盾だらけ。でも、アイヒマンはそれに気づかない。ある時代、ある状況のなかでは、こういうふうにいうものだ、ということを繰り返しているだけなので、そのときはそれでよかったわけだから、あとでそのクリシェの一貫性を振り返るということをしないわけだ。
シュタングネトによると、アイヒマンは、主体的に自分で考える人で(ナティスの考えを全て受け入れているわけではなく、自分の価値観に沿って取捨選択している)、確信犯的な反ユダヤ主義ということなのだが、アーレントがここで描いているアイヒマンの人物像とそこまでのギャップはない。
アーレントが「サッセン・インタビュー」の全貌を知ることがあったとしても、アーレントは、アイヒマンはその状況に応じて、その当時の「慣用句」や「決め台詞」を話しているだけ、と考えたんじゃないかなと思う。
あらためて、「エルサレムのアイヒマン」を読んでみて、思いのほか、いろいろな観点からの「バランスのよい」記述になっていることに驚いたわけだが、それと同時に、当時、これが大バッシングをうけた理由もよくわかる気がした。
アーレントも書いているように、ここに書かれている事実関係は、アーレント独自のものではなく、アイヒマンの裁判記録や当時でていた歴史書や報道など2次資料に基づくもの。つまり、事実関係における記述はアーレントが初めて言ったことではないのだ。
それでも、バッシングになったのは、書いてあること、というより、書き方の問題であったのだろうなと思う。あらためて、読んでみて、アーレントらしいちょっと上から目線の皮肉や毒舌がこの問題の当事者の怒りを買ったのは仕方のないことだと思う。
それが事実であったとしても、アイヒマンの裁判という文脈に関連させて、ホロコーストへのユダヤ人自身の協力という論点を実名入りで記載している(そして、それらはその人たちはおおむね「名士」である)わけだから、ユダヤ民族への「愛がない」ということになり、ほとんどのユダヤ人の友人を失うということになってしまったのも仕方がないことと思われる。
エピローグの最後にある有名なアーレントの「判決文」についても、そこにアーレントの主張が要約されているかというのも微妙な感じがした。もちろん、ここにはアーレント思想の中核概念である「複数性」の話しもでてくるし、改訂増補版の「追記」にあるバッシングに対する反論も意図して自身の考えをよりストレートにあらわした記述とも矛盾するものではない。
が、それでも、なにかこの「判決文」は、だれが話しているのかよくわからない、不気味なもやもや感がある。
そのもやもやはおそらくは、アルゼンチンに隠れていたアイヒマンをイスラエルのモサドがイスラエルに連行し、国際裁判ではなくイスラエルの法廷で裁判にかけるという経緯とも関係していると思われる。アーレントは、そこについては、あまり深追いしていないが、一種の「無国籍」状態になったところを超法規的に逮捕、国外連行するということのプロセスがナティスがユダヤ人に対して行ったこととパラレルになっているということは多くの人が気づくことであろう。
アーレントはその経緯は一旦脇において、そういうなかにあってもイスラエルの法廷がどこまで正義を実現することができたかを検証しようとしている。
だれがこの犯罪を裁くことができるのか、こうした「悪の陳腐さ」をどういう理由でさばくのが正義なのか?
この「判決文」は、アーレントの主張を表現したものであるとともに、読者が引き続きこうした問いについて「考える」ことを促しているのではないか?と思った。
この本は、裁判のレポートという性質から、アーレントの思想のなかでの位置づけが微妙なのだが、あらためて読んでみて、アーレントの中核的な政治思想が具体例と密接に絡まったなかで展開されおり、さらにその後のアーレントの思考の方向にも影響した重要な本だと思った。
また、アーレントに関心なくても、全体主義、そして私たちが今生きている時代を考えるのに、重要な視点を与えてくれる本であることも確認できた。
Posted by ブクログ
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特に思想もない平凡な人間が、想像力の欠如により、ただ保身に走り非道な行為をすることの衝撃。思考しないことの恐ろしさ。
Posted by ブクログ
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quote:
まったく思考していないこと、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。
Posted by ブクログ
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